邂逅するまで 13
どこにも行かないと決意してハクの主張を無視する。これは根気勝負だ。ハクが諦めるかあたしの忍耐が絶えるかの勝負。負けるつもりはない。
長期戦を覚悟しているとハクがあっさりと襟を放す。今までの行動から推測するとハクはしつこい性格をしている。この潔さは不自然ね。
振り返ってみれば、ハクは牙を剥き出し、威嚇の体勢をしていた。牙が向いた先は屋根の上。
屋根の上を乱暴的な足取りで鳴らしている者がいた。屋根を踏むたびにトタン製の板は大きく揺れるものだから穴が空くのではないかと心配になる。古く錆びていたからなおさらだ。
足音はあたしの真上を通り、線路側へと着く。そして、途絶える。
その正体は推測しなくてもわかる。地獄には人以外にもあいつらいたんだった。
あたしは反対側の線路へと走った。ホームから降りるとその下に潜る。低く狭いホーム下の溝は隠れ家になるには不安定だった。
溝がつくった陰に沿って身体を横に置いても隅に寄せても鬼の手が届いてしまう。もし、逃げる姿を見られていたら?見つかったら?
あたしができるのは息を殺して脅威が去るのを待つだけ。
コンクリートの縁から鬼の足先が覗いてくる。荒い鼻息をたててあたしの匂いを辿る。居場所は知られていない。けれど、あたしは鬼の真下にいる。すぐに臭いのもとに気付いてしまう。
臭いの糸を辿る鬼はいよいよ線路へと降りた。黒く、細い脚が2本、目前に降りた。
心臓が強く脈打つ。呼吸は激しくなる。なるべく呼吸音が聞こえないように手で鼻口を抑える。
どこだどこだと鬼が隠れた子供を探している。
これがごっこ遊びならよかったのに。遊びに命を懸けるなんて、笑えないわ。
黒い脚が左へ右へと移動するもあたしの前からはいなくなったりはしなかった。獲物が近くにいる。鬼は確信していた。
実際にそれは正しい。あたしは諦めの境地に立っていた。そこにたつと自らを達観できる。
傷つくことも傷つけることも恐れなかった。なのに、あの牙であの鉤爪で引き裂かれる途方もない激痛に怯える。
それは当たり前の感情だった。
カッターで自分の手を切ったあたしが馬鹿みたい。あたしにも人並みの感情があったのね。
鼻の先端が溝の下を探る。さらに姿勢を下げて飢えた金色の目はあたしと合う。
いよいよだ。大丈夫、死にはしない、もう死んでいるんだから。平気よ。想像もつかないほどの痛みを耐えれば。
獲物を発見した鬼は涎塗れのその口であたしを食らおうとする。尖った上下の歯が何度も噛みあってガチガチと空気を食う。
この鬼は頭が足りないようね。溝の下に舌を伸ばしても短い鼻先と顎ではあたしには届かない。
涎の臭い、大きな牙、金属的な吠え声。間近で実感するそれらはパニックを呼んだ。パニックは理性も冷静も引き剥がして涙だけが残される。
牙では届かないとやっと学習した鬼は乱暴的な鉤爪であたしへと伸ばしてくる。鉤爪の切っ先が首筋に触れたかと思うとあたしから引っ張られるように離れていく。触れた爪先は首に掠り傷とつけて獲物を逃す。
溝と線路の間から鬼の脚と誰かの脚が交互に足踏みをして砂と踊る。血が弾け、生臭さが蔓延し、怒声と悲鳴が飛び交う。
この血は誰のもの?この悲鳴の持ち主は?
声も上げられず、血も流さないあたしはホームの溝の中で小さく惨めに震える。
しばらくして、舞っていた砂は落ち着きを取り戻し、再び静寂やってきた。
少しだけ迷ったあたしは溝から出ることにした。
小さな戦場の跡には横たわる鬼の残骸があった。そして、ホームに腰を下ろして息を整えていたのはあの黒い男だった。
男は疲れた顔で笑うと自分の首筋に手を当てる。それはあたしの首についた掠り傷を示していた。
「掠り傷よ」
男が持つバールの先端は錆びた茶色と新鮮な赤色とが混じり、肉片がこびりつく。
静寂が訪れた今も男の肩は大きく上下に揺れて呼吸はまとまらずにいた。それでも男の目は真っ直ぐに曇天から差した光柱へと向けられる。
それは海を眺めるように穏やかで思い人を馳せるような悔しさで、彼から滲んだ感情は表現のしようがなく、複雑だった。
「あそこに何かあるの」
「りゃ、くそ、く」
喋るのに慣れていないのかしら。違うわね。言葉を使っていなかったから喉が錆びたのかもしれない。一度、声を出すと錆びはとれていき、声量も先程よりは聞き取れるようになっていた。
それでも、こいつの言っていることは理解できない。さっき言ったのは約束、よね?何よそれ。
あたしもホームに寄りかかって世界を照らす光柱を眺めることにした。
近くにいたハクは男をまじまじと観察して、反応をみようと頭に触れたり、肩に触れたりするもすり抜けてしまう。地獄でもハクは透明でその姿は男にも見えていないようね。
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