彼の日常について 8
閉じられた瞳を呼んだのは春の声だった。
陽だまりは優しく、小鳥たちは楽しそうに囁き合う。とても長い夢でも見ていたのだろうか。太陽の光を久々に浴びた気がする。
心地よく寝てしまったのは春の縁側のせいだけではなかった。彼女の膝の上で愛しさと優しさで包まれていたからだ。
赤い着物に花丸文が印象的で、濡烏色の長い髪が美しく、春のように笑う人だった。
ごめん、長く寝てしまった。
そういうと彼女は首を振り、言葉を返す。
あれ、おかしいな。夢から覚めたはずなのに視界がぼやける。彼女の顔も声も容姿も思い出せない。こんなに想いが積もっているのに。
不意に陽だまりが遠くなる。彼女が太陽と共に遠ざかる。
待ってくれ行かないでくれ。俺は。
忘れてしまった名を叫んで男は目覚めた。
いつもの場所で目覚めた。春もない。太陽もない。小鳥もいない。君もいない。男はまだ悪夢の中にいた。
永遠に目覚めることのない夢の中でも、何度も殺されても諦めずに涙を流すのは、君に会いたい。ただそれだけだった。
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