彼の日常について 7

 しばらくはひたすら真っ直ぐに行くだけだ。

 落胆した心を隠す為、前向きに物事を考える。その細い芯を容易く折ったのは電車の屋根に降りた1体の鬼だった。

 不意を突かれたその登場に呆然となって対応もできず、大きく開かれた口と牙によって視界は黒く染まる。

 いつもの場所に目覚めて、悪態をつく。油断してしまった自分に腹が立つ。

 武器を持ち、また進む。

 諦める、止まる、といった選択はしなかった。

 空の穴に待っている人がいる。そこに行けば、その人に会えば全てが報われるのだ。だから行くのだ。

 無謀だとわかっていた。何度も思い知らされてきた。

 ビル街を過ぎ、線路を辿り、何度も食われて殺される。意識が途切れれば一から逆戻り。着くまで寝ずに悠久とも言えるほどの距離を歩かなければならない。3日すぎようとも挫けそうになろうとも脚が重くなっても脚は止めない。

 ただ会いたいそれだけが男を突き動かしていた。

 空気を吸うだけででも刻苦してしまう頃、一本の大橋に差し掛かり、立ち止った。

 大橋は常に風が吹いているせいか多くの砂は飛ばされてコンクリートの素肌が露わになっている。大橋の下は川の跡があるだけで一滴の水もない。

 ここまで来るのは珍しかった。あの橋の向こうだ側に行ったことはない。今までにない前進だった。だからと言ってそこに希望は見出せない。天空の光はまだ遠く、悠々と居座っているからだ。

 耐える心はまだあった。しかし、身体は心よりも正直だった。次の一歩を踏み込もうとすると膝が深く畳まれ、遂に男は挫けた。視界がぼやけて呼吸が苦しい。

 駄目だ。ここまで来たのだ。また戻りたくない。行かなければならない。進まなければならない。体よ、意識よ、耐えてくれ。

 泥沼の底へ意識が沈もうとしていた。何もかもが不明瞭で遠のいていく。意識と無意識の境界線は消えかけて現実は夢へと塗り替えられようとしていた。

 唯一、鮮明に聞こえたのは悲鳴のような金切り声だった。これは、鬼の吠え声だった。振り返ると遠くから鬼が2体、走って来る。

 意識を泥沼から掬い上げ、疲弊した身体に鞭を打つ。危険が迫ると身体は本能で動いてくれた。

 再び立ち上がれたのは喜ばしいが餌を求める鬼には感謝できそうにない。駅の時のように撃退できればよいのだが、2体おり、正面からの撃退となれば対処はできない。その上、疲労が重なってまともに走れない。

 こんな重い脚では勝負にもならない。なのに、身体は、神経は、諦められずにいた。

 命を乞うように涙を流し、駄々をこねるように涎が垂れる。恐怖と必死さが折り重なった姿は愉快で滑稽だろう。この無様さに誰もが笑う。自分でさえ嘲笑できる。

 男と鬼の距離は忽ち縮まっていく。

 どれほど必死になっても乞うても虚しいだけだった。鬼の舌は血肉を求めて鉤爪は生皮を剥ぐ為にあった。狂気は地を蹴り、惨めな道化へと一心に迫る。

 痛いのは嫌だ。戻るのも嫌だ。ここまで来たのにせっかく来たのに。ここには一糸の光もない。

 背中に鉤爪があたる。小さな悲痛の声が漏れる。叫んでも泣いてもお天道様は知らぬ顔で鬼は嬉しそうに雄叫びを上げながら項に噛みつく。大きな顎と牙は簡単に首を切断して男の涙は血に変わる。残された意識と首は地面を転がって、回る視線も制御できないまま、偶然にも空の穴へと向けられた。

 出発時より少しだけ大きくなった空の穴。あそこで仏はつまらない茶番劇に手を叩いて笑っているのだろうか。

 仏たちは崇高だ。だから暇で仕方がないんだろう。空に穴を開けて下等で惨めな男の喜劇を観覧して手を叩くのだろう。

 あぁ、本当に惨めだ。自分で自分を笑えるくらいに惨めだ。それでも君は、まだ。

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