彼の日常について 1

 男が目覚めるのはいつも同じ場所だった。

 見る夢も同じだが、覚めてしまうと忘れてしまう。ただ、小春の日差しに包まれる優しい夢だったのは確かだ。優しい夢、目覚めれば地獄。


 彼の目覚めがいつも最悪なのは地面で寝ていたせいでもあった。

 渡り廊下の床は冷たく固い。起き上がると圧迫された左肩や腰が軋むような痛みを訴える。


 真っ先にするのは周囲の警戒だ。起きたら目前に鬼がいる、というのは前々回であった。

 冷たい床で寝起きするのも周囲への警戒もすっかり慣れてしまった。

 月も太陽も時計もない世界では時間の計りようがなく、気が狂いそうな年月をこの地獄で過ごした。


 廊下に響く静寂は鬼がいないと示していた。安全だと判断した男はとある場所へと向かう。それも警戒の次にやっていることだ。

 そこは物置部屋にあたる場所だが、男にとって部屋の名前や用途を知る必要はない。重要なのは武器なのだ。

 物置部屋のいつもの場所にバールを見つける。ここにある道具で武器として適しているのはバールだけだった。


 お馴染みのバールを手に取って一階の窓から外へとでる。

 そこは背の高いビルが密集するビル街でその中央には一本の幅広い車道がある。何十本も建つビルの群集だが、そのほとんどは崩れて欠けており、ビルそのものが瓦礫の山になっていた。栄華が咲いたのは遥か昔で今は枯れ跡しか残っていない。


 娯楽も文化も砂に埋もれて人類さえ存在しない。男が立つ地獄はそういう世界だった。血の沼も千の針山もない。刀の時代で生きてきた男にとってそこは異界そのものと同じだ。


 それなのに、ここが地獄だと理解できていた。いつから理解していたか。生きていた頃のは曖昧で死因でさえ思い出せない。生前にある記憶と言えば、子ども時代の蔑む大人の目。それもまたぼやけていて、うまく思い出せない。男に残る記憶はどれもこれもぼやけたものばかりだった。だというのに、死人という自覚があった。


 しかし、それは大した問題ではない。生も死も変わらない人生だったのだ。小さな虫と同等の命。現世も死後も地獄だと、それが生前からの考え方だった。死んだ時も無感情のまま死んでしまったのだろう。なら、忘れてしまっても仕方がない。


 それよりも男には一つの目的があった。

 これも不思議な話だが、男には向かうべき場所があった。それは曇天を丸く割いた大穴。あれを言葉で表現するなら「空の穴」が適切だ。天から降る太陽に似つかない強い白光は仏が降臨しそうだ。


 生前の頃、どこかの馬鹿が言っていた。地獄の天辺には極楽があり、そこから仏が地獄を眺めていると。あれがその穴ならば、仏様も大層な趣味を持っているようだ。空の穴から苦しむ人を観察して微笑む。さすが、仏様。ご立派である。

 曇天の天辺に仏がいるかいないかは知らないが、そこに男の待ち人がいる。それは確信を持って言える。


 空の穴はビル街を越えたさらに向こうにある。

 大きな目印があるのに長年を費やしても辿り着いたことがない。何度も迷い、止まり、挫けてしまう。目標にするにはあまりにも障害が多い。それでも行かなければならない。

 男はバールを握って決意すると脚を進ませる。

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