彼女の日常について 10
あたしは裁縫3点セットをテーブルに置いてシャワーを浴びに行く。手早く済ませて部屋着に着替える。勉強する前に歯磨きを済ましておこうと洗面台と向き合う。そこであたしの手はとまった。
洗面台のコップの隣。そこに裁縫3点セットがあった。
狐につかまされる。今の心情を表現するならこれがぴったりだった。
これはリビングのテーブルに置いた。あれから一切触れていない。洗面台にあるはずがない。
ハサミと糸に不信感を持ちながら、洗面台に放置する。
多分、ここに置いたのをあたしが忘れただけ。生きていないんだから勝手に動くなんてありえない。
歯磨きを終えて、自室の勉強机と向き合う。鞄からノートと教材、筆記用具をだして椅子に座った所で机の上にハサミと糸があることに気付く。
触れてすらない。今度は確信を持てる。10分ほど前の出来事よ。2度も忘れるはずがない。
不審を募りつつもハサミ、糸、針を持つ。変わったところはない。あるとすればハサミがプラスチック製というところかしら。刃には研がれた跡がなく、模様のない白さは柔らかい安全な玩具のようだった。なのに、感触は鉄の冷たい温度を持っていた。
もしかしたら、単なる玩具かも。
そう思い至ったあたしはノートを開いて白紙のページに刃をたてる。
握るタイプのハサミは何度か使ったことがある。あたしの裁縫箱にはこの形のハサミが入っている。それなりに使いこなせる。
初めて握る白いハサミ。なのに、あたしの手に馴染んで、使い古されたかのようにしっくり手中に収まった。
奇妙な感覚を覚えつつハサミを下から上へと横断する。今までにないほどの切り心地。するりと刃は紙を滑ってあっという間に2枚に両断してしまう。
見た目とは違ってよく切れるみたいね。紙は簡単に切れた。別のものはどうかしから。
試してみたくなってノートを閉じる。そして、一冊ごと右から左へと横断する。
何十にも重ねた紙の束はあっさりと切断してしまった。驚くべきなのは、ハサミを握った手はほんの少しの握力しか使わなかったこと。紙一枚ならまだしも束ねたノートまではうまくいかない。
もう一つ、試してみようとお気に入りのペンを取り出す。まさかこれは無理でしょ、と冗談のつもりでいた。
刃をペンの中央に当ててハサミを握る。
パキンッと小さな音をたて、2つに分かれたペン。綺麗で丸い切断面から黒いインキが垂れてノートの上に一滴二滴とノートの上に雫が落ちる。
切れ味がいい、では済まされない。ただのハサミじゃない。なら、この糸も?
次に針と糸を手に取る。
ハサミと同様の真っ白なそれらはその色以外は普通の針と糸。針から垂れた糸を伸ばしてみる。針穴に通された糸なら、片方を引っ張れば片方が縮む。
単純な物理法則なのに、白い糸と白い針はそれを笑って覆す。片側の糸はどこまでも伸びて、もう片側の糸は縮まらない。奇妙な風景を眺めていると一つのイメージが浮かんだ。
あたしはそのイメージに従って、2本にされたペンを持って切断面を合わせる。2つの境界線をなぞるように針と糸で縫う。
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