彼女の日常について 8
逃避という2文字が浮かぶ。牙が喉に届く前に走れと脳が叫ぶ。
「こんにちは鬼さん。古典の時間あたしを呼んだのはあなた?」
敢えて、本能に逆らった。冷静に沈着に対応しよう。大丈夫、牙も鉤爪も敵意のある動きをしていない。
白い鬼が腰を下ろして目線を下げる。あたしとの対話を望んでいるような、そんな姿勢だった。
「この夢を見せているのはあなた?」
なんでもいいから聞いてみる。相手が対話を望むなら異形なその鬼にも話をみてみよう。どうせ夢の中だから、何をしても許される。
「何で白いの?」
白いそいつはどの質問にも首を傾げるだけで返答がない。犬と会話をしているみたいね。
「つまんない夢。早く覚めてほしいわ」
それを聞くと鬼は何か慌てるように首を横に振ると、鋭い爪を一本立てて、とある方向を差す。
なんとなく、示された方向を向いてみると何もない。蓮と水平線があるだけね。
その方向に行けって言うの?
白い鬼の顔色を窺ってみても、鬼の表情なんてわかる筈がない。
従ってみよう。
あたしは気まぐれに歩き始める。
やっぱり、この夢はおかしい。肌寒さ、足から伝わる水の感触、歩くたびに響く水音。全てにおいてリアルだった。夢だからリアルだと思ってしまうのかしら。
夢か現実かの区別がわからなくなったとき、1つの扉があたしたちを待ち構えていた。白い鬼は中へ入るよう促す。
どこかの青狸がだしそうなこの扉。一枚のドアが水上にたっているだけで中へ入ろうにもどこにも繋がってないじゃない。中にも入りようがない。
それでも白い鬼は期待の眼でこちらを見つめる。
これは夢よ。なんでもありなんだわ。もし、悪夢になりそうだったら覚めればいいだけ。
古びた金属のドアノブを握る。年季の入った金具は独特な音をたててドアは開いた。
そこにあるのは4畳ほどのひと部屋。古く忘れ去られた生活感があった。窓の外は夕焼けの風景を切り取って、室内を赤く染める。木製の机、戸棚とタンス、古い灯油ストーブが片隅にある。家具にも部屋の角にも溜まった埃や蜘蛛の古巣やらが充満して、時間の経過を物語る。
最も生活感を演出させていたのは人だった。机と向かい合っていてあたしに背を向けている。薄暗くて、子細な部分までは認識できない。細く項垂れたその様は年老いた男性だとわかった。
「コウベニ」
男性が呟く。弱々しい声をしていたせいでうまく聞き取れなかった。少し間を置いたあと、今度ははっきりとした声で話す。
「久しぶりだね。やっと来てくれた」
なにそれ。老人の知り合いなんていないわよ。
「あたしはあんたを知らない」
そう言い放っても男性は弱々しく笑って、そして咳き込む。
「歳はとりたくないな」
「誰なの?」
「君が目覚める前にタンスの引き戸を」
話が通じていないようね。聞こえていないのかしら。
もしかしたら、話しかけられたとあたしが勘違いしたのかも。今のあたしは透明人間でこれは老人の独り言なのかも。
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