二五 新宿 弐
眼の前に誰かの顔がある、よく知っている女性の顔だ。
悠輝……
女性が名前を呼んだ。
姉貴……?
違う、遙香によく似ているが別人だ。
これは……お袋……
悠輝はようやく思い出した、これは幼い頃の記憶だ。恐らく母の
世界が変わる。誰かに手を引かれ、夕陽に染まる田んぼの
子守歌を歌ってくれた母、おんぶをしてくれた母、そしてご飯を作ってくれている母など、封印していた記憶が次々に眼の前に現われる。
そして遂に、あの夜の廊下が現われた。これが何かは判る。御子神の幻術により、初めて思い出した母の記憶だ。悠輝は台所へ行き、血溜まりに横たわる静香と、血まみれの遙香を見た。
お前から母を奪ったのは遙香だ……
頭の中に
感謝する、忘れていたお袋のことを思い出せた。
悠輝は皮肉で海の声に応えた。
今まで遙香と法眼に、記憶の封印を解いてくれと頼んだことはない。自分で取り戻すつもりだったが、それほど真剣に取り組んではいなかった。昔のことより
海が
お前は遙香を怨んでいる……
怨んでなどいるものか、
怨んでいる……
海は繰り返した。再び何かが心の底で蠢く。
何だ、これは?
海が何かしているのだろうか。
悠輝、おいで……
今度は遙香の声が頭の中に響く。
遙香に抱きしめられている。これは静香が亡くなって間もない時のことだろう。悠輝はこの時期の記憶が抜け落ちている。その事にすら数年前まで気付いていなかった。母が死んだ場面を目撃し、その衝撃から記憶を自ら封印していたのだ。そのため静香は自分を産んで間もなく死んだと思っていた。
それは法眼にも都合が良かった。彼は遙香の心を守るために彼女の記憶を封じた。悠輝と違い遙香は父により母のことを忘れさせられたのだ。そして法眼は静香の写真など、物理的な記録を消した。
今、視ているのは抜け落ちた記憶の一部だ。遙香は母の代わりとなり、悠輝の面倒を見てくれた。当時の法眼は本業と副業で家を空けることが多く、何かというと直ぐに殴った。そんな父の暴力から守ってくれたのも遙香だ。
お前は自らの記憶を封じ、母を殺した相手になついていた……
先程よりも大きく何かが蠢く、明らかに海の言葉に反応している。
あいつの精神操作か……
間違いない、悠輝を支配するために海が遙香との記憶を利用しようとしているのだ。
遙香との記憶が次々と蘇る。それは封印した記憶ではない、悠輝の心に刻み込まれている姉との思い出だ。修学旅行に出かける姉に一緒に行くとごねて困らせたこと、食事の買い出しに行って欲しかったお菓子を法眼に内緒で買ってもらったこと、夜寂しくなり遙香の布団に潜り込んだこと。
実は遙香が母親代わりをしてくれたのは五年に満たない期間だ。しかし、それ以上長い時間を悠輝は過ごしたように感じていた。本来ならそれは懐かしく暖かい日々の記憶だ。それなのに悠輝の中にどす黒い感情が湧き上がる。
抗うことはない、それがお前の本心だ……
本心ではない、理性では判っていてもそれ以上に強い感情に支配されそうになる。その感情は怨みと憎しみだ。
怨め、憎め、怒れ……遙香はお前を捨てた……
遙香が悠輝を置いて出ていった日の記憶が現われる。あの日、悠輝は泣いていた。姉に置いていかないでと泣いて
怒りがドス黒く、心を染めていく。
眼の前に英明と並ぶ遙香が現われた。悠輝が中学生の頃、遙香が郡山に戻ってきたのだ。法眼には会いたくないと悠輝だけを呼出し、英明を紹介した。姉は悠輝に言った、恋人で結婚するつもりだと。
怨みや憎しみではち切れそうになるのを、悠輝はかろうじて
どうしてお前だけが我慢し続ける……
幸せそうな遙香と英明の姿が次々に現われる。
淋しさ、疎外感、孤独が、怨みや憎しみ、そして怒りを増大させる。
自分を解放しろ、悠輝……
赤ん坊を抱いた遙香が現われた、幸せそうに英明と微笑んでいる。朱理が生まれ、初めて会いに行ったときの記憶だ。
遙香は新しい家族を得て、お前は完全に捨てられた……
赤ん坊の朱理を見つめながら、悠輝の心は闇に飲み込まれていく。その奥にあるのは忘れていた想いだ。
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