二五 新宿 壱

 朱理との通話を終えた悠輝は、刹那と座敷童子と共にブレーブの事務所を飛び出した。いつの間にか辺りは夕闇に包まれている。その闇からにじみ出るようにして、一人の男が行く手を遮った。


「どこへ行く?」


 男の言葉に悠輝は鼻を鳴らした。


「失せろ、雑魚に用はない」


 その男、佐伯海は冷たい笑みを浮かべた。


「口だけは達者だな」


「無口だって言われるけどな」


 海の左の蟀谷こめかみに貼られた血の滲んだ絆創膏ばんそうこうに視線を向ける、戌亥寺で彼が付けた傷だ。


「本当に口の減らない奴だ」


 流石に苛立いらだちが声ににじむ。


「別に減らす理由は無い」


 不敵な笑みを悠輝は浮かべる。


「それが命取りだ。連行しろという命令だが、貴様にそんな手間を掛ける必要はないな」


 海の身体から法力が湧き上がる。


「御堂、座敷童子と先に行け」


 海に視線を向けたまま、隣に立つ刹那に言う。


「ちょっとッ、なに言って……」


「朱理を独りにしておけない。コイツが連れてきた手下がいるはずだ」


 悠輝の言いたいことが伝わったのか、刹那の顔が青ざめる。


「でも、師匠が……」


「求道会が約束を守ると思うか? 自分たちの利益のために、人を平気で殺す連中だぞ。

 それに、なまじ強い異能を持っている奴は勘違いしがちだ」


 悠輝の身体からも験力が湧き上がる。


「だから頼む」


 刹那は頷くと座敷童子と一緒に駆け出した。海の隣を走り抜けるが、彼は手出しをせず悠輝を睨み付けたままだった。


「うまく逃がしたつもりか? それとも本気で、あんな異能力ちからの弱い女と下等な式神が私の部下に対抗できると思っているのか?」


 刹那が過ぎ去ってから海が口を開いた。


「おまえには解らないだろうが、御堂たちも朱理も強い」


 まったく厄介な連中に眼を付けられてしまった。しかし、アークソサエティや智羅教以上に求道会とは因縁がある。遅かれ早かれ衝突するはめになっただろう。


  まぁ、今さら考えても仕方ないか。


「オン・イダテイタ・モコテイタ・ソワカ!」


 先に動いたのは海だ。韋駄天真言を唱えた途端、彼の姿が悠輝の視界からから消えた。


  なにッ?


 次の瞬間、アスファルトに顔面を打ち付けた。韋駄天の能力で敏捷性びんしょうせいを驚異的に上げた海が、文字通り目にも留まらぬ速さで足払いをしたのだ。


「ぐッ」


 その衝撃に一瞬気が遠退き、今朝、法眼にやられた傷口が開く。


「ナマサマンダバ・サラナン・トラダリセイ・マカロシヤナキャナセサルバダタアギャタネン・クロソワカ!」


 海は金剛力士の阿形あぎょう真言を唱えた。仁王の怪力で悠輝の足首を掴み振り上げると何度も地面に叩き付け、最後にブレーブの入ったビルに彼を投げ付ける。


 入口の自働ドアのガラスを砕き、悠輝の身体はビルの中に転がった。


「やはり口だけのようだな。遙香の邪魔がなければ郡山で始末していた」


「ああ、同感だ……」


 悠輝はユラリと立ち上がり、身体に付いたガラスの破片を払う。


「姉貴が余計な事をしたせいで、テメエをぶちのめし損ねた」


 これ程の騒ぎを起こしても誰も来ない。いくら人通りが少ない場所とは言えここは新宿だ、人払いのしゆを海は使っている。


  それは好都合だ。


 早紀に迷惑や心配をかけずに済む。


「まだ立ち上がれるとは、呆れた頑丈がんじょうさだな」


 流石さすがの海も悠輝の強靱さに驚いている。


「戌亥寺の石畳に比べればアスファルトなんてクッションだ。一番ダメージがあったのは法眼に今朝割られた額だな。

 でも、褒めてやるよ、傷口がまた開いた。おれがしゆふさいだのを開けたんだから大したもんだ」


 血だらけの顔で不敵に微笑む。


「強がりもそれまでだ。

 ナマサマンダバ・サラナン・ケイアビモキャ・マカハラセンダキャナヤキンジラヤ・サマセ・サマセ・マナサンマラ・ソワカ!」


 今度は金剛力士の吽形うんぎょう真言を唱えながら突き進んできた。「阿」は始まりを表し「吽」は終わりを意味する。つまりとどめを刺すつもりだ。


「オン・アニチヤ・マリシエイ・ソワカ!」


 悠輝は両手で印を結び、摩利支天隠形呪の真言を唱える。印が眩い光を放ち、海が眼を閉じると滑り込むようにして海とすれ違う。その瞬間、隠し持っていた釘を彼の膝裏に突き立てた。


「グァッ」


 海の呻き声を後ろに聞きながら悠輝は通りに飛びだした。これ以上ブレーブに迷惑をかけられない。


「貴様ァ!」


 脚を引きずりながら海が悠輝を追いかけてきた。その手には血だらけの釘が握りめられている。


「ノウボウ・タリツ・ボリツ・ハラボリツ……」


 海が印を結び真言を唱え始めると、心臓を鷲掴わしづかみにされるような感覚が悠輝を襲った。


  大元帥明王呪か……


 強力な呪殺の真言だ。悠輝は釘を一掴ひとつかみ取り出した。


「スパイクマシンガン!」


 釘が海に向かって弾丸のごとく放たれる。


「クッ」


 海は唱えるのを止め、念動力で釘を弾き返す。


 彼の反応を予測していた悠輝は、既に間合を詰めていた。


「っラァ!」


 弾き返された釘をくぐり、相手の胸倉むなぐらを掴むと、悠輝は傷口が開いたひたいを海の額に叩き付けた。ゴヅッと鈍い音が響き、海はよろめいた。


 悠輝は頭が割れそうな痛みと視界を奪う己の血を無視し、海に足払いを仕掛ける。彼が倒れると馬乗りになり、ここぞとばかりに殴り続ける。だが、両腕で攻撃を防いでいる海の法力が急激に高まる。


「破!」


 海がれつぱくの気合いで叫ぶと、悠輝の身体は数メートル上空へ跳ね飛ばされた。体勢を整え着地しようとするが、身体に力が入らず無様にアスファルトに激突した。


「いい気になるな!」


 海が立ち上がり悠輝を見下ろす。


「そんな醜い戦い方で、私をたおせるものかッ」


 悠輝も立ち上がろうとするが、やはり身体に力が入らない。海は悠輝に法力を直接打つけたのだ。物理的な念動と違って痛みはなくても厄介な症状が出てくる。悠輝は意識を集中して験力に触れようとした。遮断されているわけでもないのに、験力を感じにくくなっている。それでも必死に験力を手繰り寄せ、力の入らない四肢に巡らせた。


「スポーツじゃねーんだ、戦い方に醜いも美しいもあるか。そう言っている時点で甘ちゃんなんだよ。

 おまえは負けたことがあるか? 自分より強い相手と戦って手も足も出ず、無力感を味わったことがあるのか?」


 よろよろと立ち上がりながら立ち上がる。


「私は貴様のような出来損ないとは違う!」


 悠輝はニヤリとした。


「せいぜい仏眼と試合でもして負けたくらいか、そんな奴がおれに勝てるわけがない」


「黙れ!」


 今度は念動を放ち、悠輝をからめ捕る。


「裂気斬!」


 絡み付く海の念動力を、圧縮した験力の刃で切断して逃れる。


「小賢しい!」


 いらたしげに言うと海は新たな印を結ぶ。


「オン・アラハシャ・ノウ!」


 悠輝は頭の中に海の法力が侵入してくるのを感じ、防壁をめぐらす。


  もんじゆじゆか……


 どうやら海は悠輝を無き者にするという方針を変えたらしい。精神を破壊し廃人にするか、それとも意のままに操れる傀儡くぐつにするのか、恐らく後者だろう。


「貴様は空と同じだ。大した異能力ちからもないのに、何かとしゃしゃり出てくる。

 オン・アラハシャ・ノウ」


 防壁を打ち砕こうと法力が増す。


「寺では……何も言わなかったが……内心、仕切った姉に……しつしてたってわけか……

 出来の……悪い……弟を持って……空も……大変だな……」


 精神攻撃をこらえながら言い返す。


「本当にいらたしい奴だ。だが、これで終わりだ。

 オン・アラハシャ・ノウ!」


 更に法力が増す。

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