一〇 戌亥寺・境内 壱

 揺れを感じて真藤紫織は眼を覚ました。隣を見るとブツブツ文句を言いながら母が寝ている。


  そうだ、昨日はお母さんとおねぇちゃん、それにせっちゃんも来てたんだ。


 また部屋が揺れる、祖父と叔父がけいだいで修業だかけんだか判らないモノをしているのだ。


 身体を起こして見回すと、茶の間には自分と母以外は誰も居ない。他のみんなは境内に行っているのだろう。喧嘩が終わるまでに行かないと叔父がうるさい、それに今日はもっとうるさい姉までいる。


  行きたくないなぁ……


 戌亥寺に来る少し前からの姉はどうも苦手だ。正直、一緒にいると息が詰まる。もともと真面目で良い子の朱理だが、友達が亡くなってから思い詰めたような顔をすることが多くなり、紫織まで陰々滅々としてしまう。


  でも、トワでいるときは楽しそうなんだよね。


 雑誌や動画で見る御堂永遠はいつも楽しそうな笑顔でまるで別人だ。二重人格というものか。いや、それを言うなら芝居すること自体が様々な人格になりきることだから、朱理はいくつもの人格を持っていることになるのではないか。少なくとも、そこにいるのは紫織の知っている姉ではない。


 彼女は人前に出るのが苦手だったはずだ。それを克服したくて合唱部に入部したのに、緊張すると言ってコンクールでは後ろの方に立たせてもらっていた。にも関わらずどうして人前に出るのが平気になったのか。


 どうやら一昨年の事件で身元を隠すため御堂永遠を名乗り、成行で舞台に立ったのが切っ掛けらしい。


  じぶんがキライだから、ダレかになりきりたいってことだよね。


 紫織はまだ変身願望という言葉を知らないが、それを持つことは自分から逃げることだと思っている。


 表で何かが地面にぶつかるような大きな音がして、再び部屋が揺れた。


「う~、うるさい……」


 この上なく機嫌の悪い呻き声を母が出した。このまま居ると八つ当たりされかねないので、渋々だが素早く布団から抜け出す。


 紫織はパジャマから拳法着に着替えた。朝の修行は拳法と座禅が中心でいつもこの格好で行っている。


 ぐしで髪を整えながら境内へ向かうと、薄暗い中、叔父が祖父に殴りかかっているのが見えた。悠輝と法眼がしているのは『修行』のはずだが、どう見ても超能力を交えた喧嘩だ。


 悠輝の拳が届いた瞬間、法眼の姿が消える。


「裂気斬!」


 叔父は自分の背後に向け験力のやいばを放つ。


 裂気斬が消滅し、そこに祖父の姿が現われた。


「裂気斬ッ!」


 今度は三つの験力の刃が放たれた。


 法眼は二つを消滅させたが、最後の一つが間に合わずギリギリでかわした。


「タァ!」


 わずかに法眼が体勢を崩したのを見逃さず、悠輝が蹴りを繰り出す。


「グッ」


 流石の祖父も避けきれず、脇腹に蹴りを食らい地面に転がった。


 とどめを刺そうとするかのように叔父が踵落かかとおとしを見舞う。


 しかし法眼はその足を掴むと、素速く立ち上がり悠輝を地面に叩き付けた。


「ガッ」


 鈍い音が響き、顔面を打ち付けられた悠輝は動かなくなった。


「少しはやるようになったが、まだまだ詰めが甘い」


 祖父は見下ろしながら余裕の笑みを浮かべる。


「う、うるせぇ……」


 叔父はゆっくりと顔を上げた。額が割れ、血で顔が真っ赤だ。


 かなりドン引きの状況だが、鬼多見家ではいつものことだ。たいてい、悠輝が流血するか骨折して終わる。この後、やくによらいしんごんを唱えて自分で手当てするのだが、普通の人間はそれだけでは足りない。応急手当ぐらいにはなるが骨折などを完治させることは不可能だ。それは験力がいくら強くても変わらない。


 にも関わらず、叔父はそれで治っている。「鍛え方が違う」と言っているが、本人も験力による治療は万能でないことを認めており、あくまで叔父が異常なのだ。


  バケモノだよね……


 我が叔父ながら凄いと思う。また、そんな叔父を毎朝ボコボコに打ちのめしている祖父はもっと凄い。


「あ、紫織ちゃん、おはよう!」


 元気に刹那が声をかけてくれたので、挨拶を返した。


「せっちゃんは、まだねててもよかったのに」


 まだ、朝の四時前だ。


「そうしたいけど、この騒ぎじゃね……」


 刹那は苦笑気味にニヤッと笑った。


  あ~あ、せっちゃんが、おねぇちゃんだったらいいのに……


 紫織は、明るくてユーモアがある刹那が大好きだ。堅物で融通が利かない朱理よりも一緒にいて楽しい。


「おはよう。お母さん、まだ寝てた?」


 今度は明人が聞いてきた。布団の中でブツブツ文句を言っている事を伝えると、彼は溜息を吐いた。


「ハァ、じゃあ機嫌悪いなぁ。朝餉あさげ、どうしよう?」


 母は寝起きが悪い、しかもこの時間に叩き起こされると機嫌は最悪だ。朝食当番の明人は、下手な物を作ると何を言われるか判らない。紫織は背伸びをして、ポンポンと彼の肩を叩いた。


「ドンマイ」


「ドンマイじゃないでしょ、遅刻だよ」


「おはよう」も言わず、説教染みた口調で朱理が言った。


「別にいいでしょ? どうせジィジとおぢちゃんがケンカしてたんだから」


 二人の喧嘩が終わるまではどのみち修業どころではない。


「そういう問題じゃなくて……」


「もうッ、うるさいな!」


 小言を続けようとする朱理を紫織は遮った。


「おねぇちゃんにシンパイされなくても、アタシ、ちゃんとシュギョーしてるし!」


「寝坊しておいて、どこが『ちゃんと』なの?」


 まったく、いつもいつも細かいことを気にする。


「だからチコクじゃないよ! ちょうどいい時間だよッ。それにアタシのほうが強いのに、どうしておねぇちゃんにモンクを言われなきゃならないのッ?」


 紫織はツンとあごを上げた。


「たしかにあんたは、わたしより強い験力を持っている。でも、使い方をまるで理解していない」


 この言葉にはカチンと来た、紫織は雷はもちろん炎だって操れるのだ。


「ちゃんと知ってるよ! その力で、二回もおねぇちゃんを助けてあげたじゃないッ」


 紫織は一昨年、東京でピンチに陥った姉と刹那を助けるべく、祖父たちに協力した。そして三月に姉と叔父が化け物に襲われた時も祖父と共に助けたのだ。


「また『ちゃんと』って言ったね? たしかに、あんたはおじいさんに協力して、わたしを助けてくれた。それは本当に感謝してる。

 でも、おじいさんたちがいたから出来たんでしょ? 紫織一人の力じゃないよね、それでも『ちゃんと』って言えるの?

 それに、取憑かれたり洗脳されたりして、あんたも助けてもらってるじゃない」


 嫌な事を思い出させる。


「おねぇちゃんに、助けてもらってないモン。

 だいたい、エラそーなことを言ってるけど、おねぇちゃんはいつも逃げてバッカじゃない!」


 朱理の顔が珍しくけわしくなった。


「逃げて……ばかりじゃないよ」


 紫織は朱理の痛い所を衝いたと確信した。今まではいくら何でも姉を深く傷つけると思い言わずにいた。だが、もう我慢の限界だ。


「ウソ。じぶんがキライだから、ミドウトワになったんでしょ? 名前を変えて、別人になったつもりで、逃げてるんだよ」


 そうだ、姉は逃げている。友人の死や自分の置かれた状況から。でも、逃げてばかりだと罪悪感に駆られるので、時々本当の自分、真藤朱理に戻るのだ。


「紫織ちゃん、言い過ぎだよ」


「そうだよ、お姉ちゃんに謝って」


 刹那と明人が仲裁しようとする。


「構わないさ、どうせやるなら徹底的にやればいい」


 怪我の治療を終えた叔父が近づいて来た。顔はまだ血で汚れていて傷跡も残っているが額の出血自体は止まっている。他にも打ち身などがあるが、大して痛くない所は放って置くのだ。


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