頂き

緑茶

頂き

 霧深い村の奥にそびえ立つ、峻厳なる霊峰の連なり、その頂には名も知られぬ神がただ独り住んでおり、どのような者の来訪もことごとく拒み続けていた。


 麓に住まう人々はその威光を知り、どのようにして祈りを捧げるべきか思案した。そこで神は一計を案じ、人々に対し、自らの相貌を霧の中に浮かばせて、

それを模した彫像のみを崇めることのみをよしとした。


 村には一人、極めて腕のいい石工がおり、彼のみが、神の似姿をそっくりそのまま作り上げることが出来るのだった。

 ゆえ、人々は神に祈る手段として彼の生み出す彫像を求めるようになり、石工は、村で一番威勢のある存在として尊敬の眼差しを注がれる存在となった。


 多くの人々が彼のもとに集まり、その腕前を褒めそやした。

 しかし、石工自身の心がそれで満たされぬことはなく、ただ慇懃な笑みを浮かべた人々の応対をするたび、擦り切れていった。


 彼らは、おれの作り出す結果を見ているだけだ。誰も、おれ自身の奥に、神を見ようとしないのだ。


 そのまま石工は一心に彫像を作り続け、ただその精神が、倦怠の海の中へ沈んでいくものと思われた。

 しかし、そのような日々に転機をもたらす出来事が、遂に起きたのである。


 ある時彼は、彼の栄誉をたたえてなかば強制的に、夜ごと開催された宴から、ひっそりと抜け出し、月明かりの照らす村外れの森に忍び込んだ。

 石工は疲れ切り、ひとりになりたい気分だった。

 足を引きずり、歩みを進めていくと、やがて、小さな泉が見えてくる。

 そこで彼は、大きく目を見開き、体が硬直した。


 泉ではひとり、薄い衣を纏った少女が、うっすらと目を閉じ、静かに、彼方に浮かぶ山々へ祈りを捧げていたのだ。

 月明かりに照らされたその髪は黄金色に輝いているようで、石工は、すっかり魅了されてしまった。

 彼はそのまま泉のふもとで動けないでいたが、やがて少女は目を開けて、彼の存在に気付いた。

 すると可憐な少女は驚きに目を丸くして、その後、恥じらいに赤面を浮かべた。よもや別の視線があるなどとは思いもしなかったのであろう。

 石工はばつの悪い思いをし、ただちにそこから立ち去ろうとした。

 だが、少女はそこで、はにかんだ笑みを、彼に向けた。

 再び、彼は立ち尽くしてしまった。


 その笑みは、夜の光に輪郭のみを覆われて浮かび上がる微笑こそは、ただただ純粋な美のみがあり、彼は圧倒的な思いに打ちのめされた。


 この少女は、おれを見て笑っている。あの宴の場にいる者共は、おれを見ているようで、見ていなかった。

 だが、この少女は違う。おれの存在そのものを、しっかりと、両の目で見ているのだ。


 石工は歩みを進め、濡れた衣を引きずり、泉から出ようとする彼女の手をとった。

 その柔らかな肌に触れた時にはもう、彼には、他の観念や想念が、全て見えなくなってしまっていた。

 だが、そんな彼の様子を見てもなお、少女は笑みを絶やさなかった。


 その日から石工は、毎晩のように泉に訪れるようになった。

 そこには必ず少女が居て、彼に、あの笑みを浮かべるのであった。石工は、少女の多くを知った。

 少女は農夫の娘という立場にあって無知蒙昧な存在であったが、同時に純真な精神を保っていた。

 それは神への信仰にせよ、日常の瑣末事にせよ、おなじだった。彼はそこに感心し、更に彼女に対する思慕を募らせていった。

 だが、少女は少女で、そのような様子を見せる石工に対し、拒絶の意を表明することはなかった。

 石工は、互いの心が通じているものと考え、歓喜した。

 二人はそれからも、月光の下で、逢瀬を重ねた。


 しかし、その時間が永劫続くものであるという石工の希望は、あっさりと打ち砕かれてしまった。

 ある時を境に、少女が、現れなくなったのである。


 不安に駆られた石工は、少女の父である農夫の家に押しかけ、娘の居場所を聞いた。

 父親はみすぼらしい衣服を着た、やせた、愚鈍な男であった。腕っぷしの強い男に問い詰められ、はじめは恐慌していたが、

やがてこちら側の語気が弱まると、震えながら、歯切れ悪く、こう言った。


 娘は、娘は、神への貢物として選ばれたのです。そして、あの、いただきの見えぬ霊峰の果てへと連れ去られたのです。


 激憤に駆られた石工は、家の中にある栄光の証拠――自ら築き上げた財のことごとくを破壊、三日三晩かけて神を呪った。

 彼の周囲にあった人々はその行動に心から驚き、蔑みとともに離れていった。

 彼は遂に狂ったのだ。溢れんばかりの栄光を手にしておきながら、あのような卑しい娘に心を砕くとは、堕ちたものだ。

 石工の栄華のみを見ていた人々は、消えていった。

 だが、彼はまるで意に介さなかった。

 髪を乱し、怒りに落ち窪んだ目をするようになり、遂に一つの行動に出た。

 あの凍てつくばかりのそびえ立つ山への、登攀を始めたのだ。


 あまりに畏れ多い行動に、わずかばかり残っていた知人たちは非難したが、彼にはもう聞こえていなかった。

 腕が引きつれ、指先が裂けるのも厭わず、己の腕と、僅かな道具のみで、登攀を行った。


 神のしもべは凍る大気となって彼を苛み、鋭い棘となって彼を罵り、諦めの境地に落とし込むため彼を誘惑した。

 だが、彼は屈しなかった。神の似姿を彫り続けたことにより、彼には恩寵とも言うべき活力が手に入っていたのである。


 果てのないほどの時間が経過し、ついに彼は、天上へとたどり着いた。


 そこは雲ひとつない灰色の大気に満ちた平面の荒野であり、取るに足りぬ人の子が踏み入れてはならぬ地であることが瞬間で理解できた。

 彼は怯え、足がすくんだが、奇妙なことに、これらの何処かに彼女が居ることが分かった。

 荒野を彷徨い、震える体を意思の力で支えながら、彼女を探した。


 その捜索が始まっていかほどの時間が経過したのであろうか。彼は遂に、彼女を見つけ出した。

 彼女は荒野の果てに佇み、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに、あの懐かしい染み渡るような笑顔となった。

 彼は喜び、彼女に駆け寄り、その芳しい髪を撫でようとしたが、疑念が頭をかすめ、立ち止まらせた。


 このような場所にまで来た自分を、あのような笑顔で迎え入れるものか。むしろ、彼女であるならば、ここまでの愚を犯した私を嘆き悲しむはずではないのか。

 違和感がぐらりと首をもたげたが、それでも彼女は、人形のように固まった笑みでそこにいた。


 これはおかしい、一体どういうことだ。彼は大気に、その場に、天の全てに問いかけようとした。

 その時、全身を包み込み、その芯を震わせるがごとく、荘重で重々しい声が、彼の中に響いた。

 それはまぎれもなく、神の声であった。


「愚かなことをしたものだ、人の子よ」

 

 その声は娘にも聞こえたらしく、彼女はブルリと体を震わせたあと、糸が切れたように気を失った。

 だが、不可思議な力によりそっと大気に包まれるように、目をつぶってその場に佇んだ。

 狼狽する彼に、声は続けた。


「お前は大きな勘違いをしていたのだ。娘がお前に笑顔を向けていたのは、お前という存在に愛を抱いたからではない。娘の心は、はじめからわしのもとに捧げられていた。娘にはわしらへ身を捧げること、ただそれだけの意識しかなかった。だが、その純粋な信仰心こそが、他のすべての物事に対する慈しみの眼差しとなり、地上に敷衍したのだ。しかし、お前はそれを、わしに捧げられしものを、お前そのものに対する供物であると思い込んだ。そして、このような蛮行に至らしめたのだ」


 石工は絶望し、取り返しのつかないことをしてしまったことを深く嘆いた。そして、娘が永劫手に入らぬことを悟った。


「お前は自らがなぜわしの姿を象る生業を始めたのかを忘れ、偽りのものどもに埋もれたことで、全てを透徹に見通す力を失ったのだ。今、お前はその報いを受ける。お前が常々苦しく思っていたことが、そのままお前にかえってゆくのだ。恥を知れ、人の子よ」


 石工は半狂乱となって、大気に満ちている神に対し腕をふるい、嘆きながら向かっていった。ひとえにそれは、その先に眠る娘を取り返さんがための行動であった。だが、神はそれを許さなかった。


 まもなく神は石工から、彫像による加護を奪い去り、足元から大地を奪い取り、その身を墜落させた。

 彼はそのまま、満ち満ちる濃厚な霧の中に呑み込まれて、永劫見えなくなった。


 石工が天より堕ちた後も、山の神を象った彫像は人々に崇拝され続けた。



 そして、その後も、供物として若い女が捧げられることが続いたが、結局、野に在る人々の間で、実際の神の姿を見た者は、遂に現れなかったのである。

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頂き 緑茶 @wangd1

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