天空屋
鳶
1話完結
色のない世界、生を終えた全てが無彩色に変わる世界。
広い世界の端にある、ひとつの島国。
そこであらゆる物を描き、彩ることこそが「絵師」の仕事である。
朝日が差し込む店内。ジリリリとけたたましく鳴り響く電話。受話器を取った弾みにばねの跳ねる音がした。
「はーい、こちら天空屋」
耳にあてた機械の隙間から、銭湯ときわの女店主の大きな声が漏れる。「また大浴場の絵頼めるかい?」
「もう消えちゃった? やっぱり駄目かぁ」
肩を落としてため息をついたものの、仕事は仕事。いつまでも落ち込んではいられない。側の木箱を手繰り寄せてさっそく筆の準備を始める。
おれに出来ることは、あくまで線を描くだけ。見合う色が付けられなければ、どんなに美しい絵でもいつかは消えてしまう。
「今日なら銭湯休みなんだけどねえ」
「わかった。今から行くよ」
受話器が再びジャリンと音を立てて沈んだ。道具を詰めた箱を持ち、出張の貼り紙をして店を飛び出す。その時に傾いた『天空屋』の青い看板を立て直して、満足気に頷く。
さぁ、今日も開店だ。
絵師『
天雲 白が先代の父親から受け継いだ老舗店である。
しかし名を馳せたのも昔の話。継ぎ手には最大の欠点があった。絵師は描師と色師を両立しなければならないが、白はほとんど色が創れない。ただの描師なのだ。
本物の絵師でなければ、作品の寿命はたかが知れている。この職が詐欺師のごとく蔑まれ、軽んじられる理由だ。
そして、絵師は死後にこそ語り継がれるものとなる。
作り手がこの世を去っても消えない絵、それだけが一流の証明なのであった。
「どもー天空屋でーす」
声を張りながら銭湯の扉を開けて中に入る。暖簾も片されていて、営業中のほかほかした湯気は感じられない。掃除もおおかた終わっているようで受付はすっきりしていた。
番台を見上げると、恰幅のいい女店主が腰を上げて男湯を指差す。
「あっちの富士山だ」
「時間は?」
「好きにやんな」
了承を得たところで脱衣場を抜け、男湯の冷たい床に足を踏み入れる。正面にあった富士山の絵は――
「うわぁ……見事にうっすら」
いつぞやに黒の筆だけで仕上げた富士山は、無残にもまんべんなく消えかけていた。これが黒しか創れない描師によくある現象だ。
「あんたの親父さんはそれはそれは立派な赤富士を描いたのにねえ」
「しょうがないじゃないか、感性が必要なんだから」
「開き直ることかい」
そんな小言を聞き流し、白は箱の引き出しから道具の用意を進めた。あらかじめ作っておいた色粉を水に溶かして、筆につける。試し書きの絵巻に黒い弧を描いた。よし、行ける。
「では」
絵具が生きていることを確認して、消えかけた富士山の上から筆を滑らせる。大胆かつ繊細な線で瞬く間に絵を修復していく。女店主から称賛の声が上がった。
「いつ見ても線だけは見惚れるほど綺麗だよ」
「褒めてるの、それ」
「線だけはね」
黒をもっと薄めて絵に乗せていく。本物の水墨画師はここ数十年現れておらず、白の絵も濃淡だけで到底色とは呼べない。そんなことはわかっていて、遠い記憶を辿った。
親父が描いた赤富士のように、もっと美しく、雄大さを、現実味を。
一刻に差し掛かろうというところで白は筆を置いた。大浴場の富士山が完成したのだ。
「前より上手くいったかも」
「成長したのは背だけかと思ってたよ」
「失礼しちゃうな」
幼少期からよくしてもらった女店主の背丈はずいぶん前に越えてしまった。ひとりきりに慣れた月日を虚しく感じながら、布で拭った筆を道具箱へ戻す。
「おいおいばばあ! やべーぞ」
「ばばあって呼ぶなって何度言やわかるんだい!!」
怒鳴り声が大浴場に木霊して、耳がびりびりと痛む。わたわたと落ち着かない動きでこちらに走ってきたのは氷屋ぼたんの寅吉だった。
「公家だ……! 公家が来てる!」
「公家だって? ここらに何の用だい」
寅吉の言葉に揃って銭湯の窓から顔を出せば、道はすでに野次馬で溢れかえっている。かなり遠くに牛車らしきものが見えた。
「それがよぉ、絵師を探してるみたいなんだ」
「え、じゃあおれ?」
「あんた絵師じゃないだろう」
女店主は言うが、先代から店は絵師『天空屋』の看板のままだ。もういない親父の噂でも聞いてやって来たのだろう、と白は重い腰を上げた。
「お代はまた今度貰いに来るよ。店に戻らなきゃ」
「俺も行っていい!?」
「うーん、寅吉はうるさいから来ないで」
ウエエンとわざとらしい泣き真似をする寅吉を振り払って銭湯を出る。道は今までにない混み具合で、先に進むのも難しい。
やっとの思いで店の前にたどり着いて、出張中の貼り紙を剥がす――と同時に牛車から降りてきた女性は白の腕を引っ掴んだ。
「『天空屋の浅葱』さんですか!助けてください!もう頼れる人がいないのです!」
すごい剣幕で捲し立てるので、しばらく呆けてしまった。色とりどりの着物に綺麗な緒の下駄。身に纏っている女性は確かに公家で間違いないだろう。この世界で色つきの高価な物を持てるのは公家か天皇くらいだ。
「浅葱はおれの親父です」
「お父様は何処に!?」
「あー……五年前に病気で」
「そんな……」
白が事実を告げると余程の事情があるのか、女性は絶望の色を隠さず地面へ崩れ落ちた。
「よろしければ詳しいお話を伺いますよ」
近寄ってくる顔見知りばかりの野次馬をチッチッと睨み付けて牽制する。ここに来た以上、公家であろうが何だろうが大切なお客様だ。
「どうぞこちらへ」
ピシャン、と閉めきった扉に野次馬たちがつまらなそうに不満をこぼした。それを小窓から確認したあと席に着くよう促して、白も椅子に腰掛ける。
女性の動揺は収まり落ち着いた様子だったが、そこには拭えない影があるように見えた。
「今日は私の妹のことで、ここを訪ねたのです――」
公家として有名な一家、空木家。店を訪ねた女性は、長女の空木柚葉と名乗った。他にも弟と妹がいるらしいのだが、問題はその妹だ。生まれつき病にかかっているという。
「――色無し、ですね」
色無しの病。それは家系や環境に関わらず、どこかが無彩色の病気。統計的に長生きできないと言われるが、原因はいまだ解明されていない。
「今年で十五になりますが、病状は悪化の一途を辿り……」
「それで絵師を探している、と」
「はい。『天空屋の浅葱』という方が腕利きとの噂を聞きまして」
色無しの病は治すことのできる病だ。本物の絵師、または色師であればそこに色を乗せることで完治が望める。しかし高額な上に、それが本人に合うものでなければ色はすぐに落ちてしまい、また色を乗せての繰り返しになっていく。
「それで、あの、あなたは」
「あ、そうです。おれも生まれつき」
そう言って白は自らの髪をひと房掴んだ。根元から毛先まで色の抜けきったそれを、染めてくれる人はもういない。
「不調はないのですか?」
「不思議と何も」
「そうでしたか……今までこれだけの人を訪ねたのですが、誰もが匙を投げてしまいました」
柚葉さんから折られた紙を受け取って開くと、たくさん連なった名前が横線で消されている。最後に残ったひとつが天空屋の浅葱であった。
「色無しの部分は?」
患部は重要な指針になる。白髪や瞳、顔色然り、人は死に近付くと色が濁り、やがて失っていくからだ。
「肌――肌すべてです」
「……難しいですね」
範囲が広ければ広いほどその難易度は格段に上がる。絵師や色師にとっても命懸けの仕事だ。紙には白の知る限りほとんどの名前があり、有力な情報は渡せそうになかった。
「勧められる人はもう……できる限り情報は集めてみますが」
「そうですか……いえ、ありがとうございました」
柚葉が戸を開くと、道に固まっていた野次馬が蜘蛛の子を散らすように道を空ける。牛車に乗る背中があまりに悲しそうで、大して脳みそも詰まっていない頭を掻きながら白は解決法を模索した。
空木青――空木家に生まれた唯一の男子であり、次期当主。
頭脳明晰、眉目秀麗。文句の付け所があるとすれば、いい歳でありながら嫁もとらず、勉学以外は広い庭をぼうっと眺める、少し変わったその性格だ。
そんな青は公家のなかでも浮いた存在だった。
「……そこで何をしている」
「アッ!? 人違いじゃよ!?」
浮いている、そんな自覚がある青も、目の前にいる男の異様さに頭を抱えた。
「誰がお前のような曲者と知り合いか」
家の周りをうろうろしていた男は、変装のつもりなのか瓶底眼鏡とおかしな髭をつけている。若い声のわりに真っ白な頭髪もかつらだろう。
その服装からして公家というわけでも、武家というわけでもない。ただの平民だ。
「空木の家に何の用だ」
「な、なにもないぞ!」
「不審が過ぎるんだが」
青が近付くと男は隣の木箱に躓いて背中から盛大に転がった。眼鏡とつけ髭が宙を浮き、あまりにも凄い音がしたため肝を冷したが、すぐに男――少年は飛び起きた。
「ウワーッ!大事な商売道具が!親父に絞められる!」
慌ててかき集めているその小物は小皿や包み紙、たくさんの筆だ。そうか、こいつは誰もが諦めた妹に会いに来たんだ、とすぐに気が付いた。
「おい、お前、絵師なんだろう」
足下に転がっていた筆を拾って差し出すと、受け取った少年は少し寂しそうに笑った。
「おれは天雲白。ただの描師だよ」
「俺は……いや、そんなことより教えてくれ、絵について」
銭湯ときわの大浴場より広い畳の部屋。人生の中で一番豪華であろう場所に通され、白は居心地なく正座のまま木箱を抱えた。
「こんなところの人がまた、どうして」
「絵なんかに興味を持つんだ、と?」
青は外の使いに人払いを言いつけ、障子をぴたりと閉じる。紺色の綺麗な仕立ての着物には、柚葉と同じ家紋が帯から下がっていた。
「色が創りたい」
「き、きみが?」
白は思わず身を乗り出す。聞き間違えかと耳を疑ったが、かち合ったその瞳は揺るがない。
「方法を知っているか」
「そりゃわかるけど、色師はとても体力を使うんだ! 普通の人は心が磨耗してしまうよ」
今からやるぞと言わんばかりの青に白がぎょっとする。自分がこそこそ偵察しようとしたのも忘れて声を荒げた。
描師が脳なら、色師は心。その身を削って作品を作り出すのである。どちらも素人が簡単に手を出していいものではない。
「桜を助けに来たんだろう」
「やっぱり……君がお兄さんなんだね」
空木家の変わり者だと噂されているのは白も知っていた。正攻法で会えるとは思っていなかったから、どうにか侵入するか、“変わり者” が協力者してくれたらという万に一つの可能性に賭けたのだ。まさか、こんな形で向き合うことになるとは思わなかったが。
「解決法がある」
寝言は寝て言え。そう反論しようにも青の目はあまりに真っ直ぐだ。 もうどうにでもなれとたかをくくって白は木箱を床に置いた。
「言っておくけど、君が倒れたりしたらおれはすぐ逃げるからね。さっさと逃げる。死んでも逃げる」
「やかましい。勝手にしろ」
真ん中の引き出しから小皿と両手いっぱいの筆、下の引き出しから瓢箪を取り出す。そこから少しの水を皿に注いだ。
「筆を選んで」
「どれでもいいのか」
「いい。君が惹かれるものを」
白が試し書きの紙を並べる数秒のうちに青は筆を選んでいた。迷いは全くない。無意識だろうが、多くある筆の中でその一本だけ柄に文字が彫られている。それに気付いて動きを止めてしまい、青がこちらを見た。
「文句があるのか」
「ない」
「次は」
「筆先を水に浸けて、皿の底からは少し浮かす」
「次は」
自分がとんと出来なかったことを軽々やってのけるのに腹は立ったが、変わり者の必死な姿をからかう気にもなれなかった。
きっと思い付きなどではなく、青はずっと考えてきたのだ。いつか自分が、彩るその日を。
「まずは好きな色、よく見るものでもいい。それを思い出して」
「……空だ」
「報告はいらないってば」
昔聞いた親父の言葉が一語一句違わず脳裏に響く。同じように空だと言ったあのときの白には、なにも創れなかった。
「息が浅い。整えなよ」
横で小さく息を吐くのが聞こえる。そしてまた、静かに空気を吸い込む。
「頭に浮かんでる色、それを流すんだ。指先を伝って、筆から皿へ――感覚を繋げる」
青が次に目を開くと、皿の水は底も見えないほどの清々しい色に姿を変えていた。
「嘘だろ……」
白の声は少し掠れた。今までにない高揚が胸を支配している。それほどまでに見事な空色だ。
「救えるか」
「え?」
「俺は、救えるだろうか」
白は感嘆の言葉を呑み込んで、自分の愚かさに目を見開いた。青が彩りたかったのはどんな有名な絵でも美しい品でもなく、少女の世界ただひとつだけだったのである。
「ああ、救えるよ、絶対に」
淀みないその色が、すべての証明だった。
「なんて、言ったけど……」
白と青が手を組んだ数分後、すでに解散の危機に見舞われていた。曲者が現れたという掛け声とともに青から聞かされたのはとんでもない新事実だった。
「まずい、父は絵師も描師も色師も大の嫌いだ」
「ぜんっぶだめじゃん!」
いまさら文句を言ってもあとの祭りである。
柚葉が一人きりで絵師を探していたのもそれが原因だったらしい。親は色とりどりの着物を纏っているわりに、それを創る者は人間とも思っていないのだとか。
「出直すか」
「それが安全そうだな……」
「これから警備は厳しくなるが」
「なんで言ったのさ! もう俺ここまで入れないからね!」
白は甚だ不思議であった。色師は総じて繊細な人間が多いのに、なんだこの扱いにくい男は。
「仕方ない。このまま決行しよう」
「は!? それ何て言うか知ってる!? 無謀ってぐえッ」
顔面を押さえられて蛙のような声が出る。と同時に大切な木箱は青が手に抱えていた。すぱーんと勢いよく開いた襖の向こうへ蹴飛ばされ、訳もわからぬまま青を振り向いた。
「曲者を見つけたぞ!」
「ウッソォ!!!!」
「死ぬなよ」
時間稼ぎをしろ、という意味だろうというのはわかる。白が捕まってさえいれば警備は集中するし、青は姿を眩ましても気に留められない。ただ、なんというか。
「お前が言うな!!」
囲まれて大人数の男たちに押し潰されるまで、あと十秒。
「薄汚い小僧め!盗みに入ったか」
使用人の男に棒でつつかれ、白は野良犬のようにそれに噛み付いた。
気でも違っているのかと冷ややかな目がこちらを見たので「このハゲー!」とでも叫ぼうか迷ったが、悔しいことに今は囮の身である。穏便に時間稼ぎをせねばなるまい。
「ワタシ ニホンゴ ワカリマセン」
「な、南蛮人だと!?」
「いや絶対嘘ですよ、白いの髪だけじゃないすか」
若い使用人が指摘するのをべろを出して眺める。漫才でもやってるのかというくらい暇潰しにはちょうどいい二人であった。
ろうそくの僅かな明かりが照らす部屋。捕まったころからどれだけ経ったのか、襖の隙間からは光が射し込んでいる。
ふと目をやっていた光の筋が広くなり、誰かが足を踏み入れた。朝方の冷えた空気が頬に当たる。
「いったい何があったんです……えっ?」
あろうことか、そこに現れたのは柚葉であった。彼女は白が捕らわれている意味も、青が秘密裏に動いていることも知らないはずだ。
とにかく何も言わないでくれと白は必死に頭を振る。左右に揺れる脳みそでは『説明してくれたら解放される』と『ばれたらこの数時間が水の泡』がぐるぐると巡っていた。
「柚葉さま、この者に見覚えがあるんですか?」
「な、なにも、ありません」
柚葉が目を逸らして棒読みする。平和にここから抜け出すという最善の道は絶たれたのであった。
「お前もそろそろ正直に言えよ。帰してやるから、地に」
「死んでんじゃねーか!」
「普通に日本語喋ってんじゃねー!設定が甘いんだよ!」
監視役として白に付き合っている二人も疲れが見えている。扱いが雑になってきたし、もう朝だし、そろそろ戻ってくれないと命が危ないんじゃないだろうか。
ああ、腹が空いたなぁ。
眠る妹は死んでいるかのように静かだった。医者も絵師も匙を投げ、誰も寄り付かない離れの部屋に桜は閉じ込められている。
「桜、久しぶり」
頬に触れると温かくて、ずきりと心が痛んだ。せっかく春の花がたくさん咲いているというのに、近ごろは庭ですら姿を見かけていない。植えた本人が愛でることのない花たち。世話は柚葉か青の仕事になっていたが、それも今日で終わりにしよう。
「明日からお前が水をやってくれよ」
白に言われた言葉を反芻しながら筆を走らせる。先程は器の水を空色に変えてみせたものの、色を塗るというのはまた違う難しさだった。薄暗い部屋で試行錯誤を繰り返し、少しずつその肌は血色を取り戻していった。
限られた時間の中で全身というのは容易ではない。集中力が切れ、疲労でうつらうつらする度に青は自分の頬を叩いた。
白に言わなかったことがある。
青の世界には無彩色が存在しないということ。
それが病気なのかはわからないが、人が言うひとつの色は青の目には何十種類にも映った。毎日眺めて飽きないのかと問われた庭は毎日色を変え、毎晩もう眠らないのかと呆れられた夜空は毎晩美しい模様を見せてくれる。
いつしか家を守ることより、世界を歩いて回ることを夢に見るようになった。
青は絵師という仕事を知ったその時、彩ることだけが生きてきた意味とさえ思ったのだ。
「兄様……?」
青はうぐいすの鳴き声のする庭を眺めていた。梅の木から見え隠れする小さな羽が愛くるしい。
「おはよう、桜。今日のうぐいすは鳴くのが上手いな」
「本当だ、探しに行こうかな」
布団から起き上がる妹を止めようか迷って、口を閉じた。年相応の健康的な顔色が嬉々として青の隣に並ぶ。春の朝はまだ少し肌寒い。
「病み上がりにあまりはしゃぐなよ」
「もう大丈夫。兄様が助けてくれたんでしょう?」
やぶ医者とは違うもの、と笑った桜につられて青も笑った。やぶ以前に無免許もいいところだ。
「内緒だからな」
「嘘が下手ね。そんなこと言って、どうせ出て行っちゃうのよ」
桜は聡い子に育った。色無しの病が治らなくとも、泣き言すら言わずに息を引き取ったかもしれない。健気な妹と家に従わぬ兄の勘当、そこには天秤にかけるほどの価値があるだろうか。
「幸せになるんだよ」
つい出した言葉は引っ込められない。幸せになったその先を見られないのは、すこし惜しいと思ってしまった。
「わたし、知ってたの。兄様の幸せはここにはない」
桜は涙をぽろぽろと溢しながら笑顔を見せた。その頭を撫でて肩に羽織を掛け、俺は共犯者のもとへ向かう。
もう二度と歩かないだろう立派な床板を踏みしめて。
白はくたびれたその顔を見て、考えるまでもなくぽーんと言葉が飛び出た。
「おそーい!!」
「悪かったな」
堂々とこちらへ歩いてくるのは青だ。目の隈はみっともないが、しっかり抱えた木箱と吹っ切れたような顔つきは囮作戦が上手くいった証だろう。柱に縛られた捕虜の縄を解くのを見て、そばにいた監視が声を上げる。
「青様!」
「こいつは描師だ。俺が家に招いた」
あっけらかんと口にするものだから、監視と白は三人揃って固まり目を点にした。まさかとは思うが、ひとつも誤魔化さず素直に白状する気なのか。
そこへ廊下を走る音が聞こえて、大柄の男が半ば叫ぶように割り入った。
「青!なんということをしてくれた!」
青を呼び捨てにしていることから、おそらく空木家の当主だろう。怒りの沸点をゆうに越えた真っ赤な顔が捲し立てる。
「お前はこれがどれだけ無様な存在かまだわからんのか!絵やら色やら、実態の知れぬものばかりを語りおって、いかさま師め!」
「あのさぁ……」
白が当主の言い様にむかっとして口を開くと、青に木箱を押し付けられた。瓢箪の水をほとんど使いきったのか、ここへ来たときよりもだいぶ軽い。
「絵も色も、触れられるものだ。知ろうとする者にとっては」
柚葉が静かに床へ崩れ落ちる。空木の家は“知らない者”の集まりだ。青はそこから外れると、暗にそう言った。
「空木家の跡継ぎともあろう男が……」
言葉も出ないと言った風の当主。青は深くため息をついて柚葉を指差した。
「家くらい柚葉でも継げるだろう。気の強いこれと上手くやれる男がいればだが」
「青?」
「いや、違う。今のは言葉のあやだ、その、あれだ、高嶺の華すぎてだな」
優しげな印象から一変、鬼の形相を浮かべるその姿。心臓が凍えたのか、さすがの青も弁解を入れる。何が何でも柚葉さんを視界に入れまいとする様子に白はニヤニヤと笑ってしまった。
「俺のほう向いて言わないで、柚葉さん見 なよ」
「柚葉さんはあまりに素敵な女性で見つめられないほどだ。と、この男も言っている」
「言ってないよ。必死な顔すんな」
「そこは言いなさいよ!」
「くだらない事を言っている場合か!」
「くだらないとはどういうことですか!」
青に柚葉に当主の飛び交う罵詈雑言。野良犬の喧嘩みたく騒ぎ立てていると、不意に正面の襖が勢いよく開く。大きな音に全員がそちらを向いた。
「か、母さま……」
青と取っ組み合いをするかといった姿勢の柚葉が身なりを整える。当主の男さえ無言で居住まいを正した。
見た目は柚葉より青に似ている。切れ長の瞳ときりっとした眉。冷たい視線がゆっくりと部屋を見渡す。
「……出ていきなさいな。お前のような人間、空木家にはもとからいなかった」
「はい」
青はそれ以上何も言わなかった。監視役の引き留める声も無視して、白を箱ごと引っ張る。
「いたたたたたた、いいの!? こんなあっさり」
絵師を忌み嫌う親に反抗したことでの勘当はわからんでもないが、二十年近く暮らした家だ。桜ちゃんを助けたことも話さず、はいそうですかと出ていいものか。
「母が――千草さまが出ていけと言った。空木家の総意だ」
てっきり当主は父親かと思っていたが、実権を握るのは母だったらしい。しかし不思議だったのは「父は絵師も描師も色師も大の嫌い」と青が言ったこと。その発言でてっきり母親はいないものと勘違いしていた。
「でもあのお母さん、君も僕も嫌いじゃないでしょ」
「別れはいつか来る。それが、今日だったというだけで」
遠い昔の記憶。空木家にやっと恵まれた男子の青は、それはそれは持て囃された。正当な跡継ぎにごまをすり、誰もが恩を売ろうと屯する。
しかし頑固な千草は子育てを周りに一切任せず、ほとんどの時間を柚葉や青に費やしていた。
「お母さま、あれは何色?」
「白というのよ」
「これは?」
「これも白ね」
「違う色だよ」
雲と菓子の敷き紙を交互に指差す青を、母は優しく諭す。
「いいえ、これは白というの」
「違う色なのに?」
首をかしげたのを見て、母はすまなさそうに目を伏せた。幼い青は優しく抱き締めてくれるその腕の中が好きだった。
「そうね、青にはそう見えるかもしれない。けれど今は言ってはだめ。なぜかわかる?」
「お家にいられなくなるから?」
「ええ。母さんの姉さまも、そうして出て行ってしまったの」
けれど素敵なことよ、と母は青緑の澄んだ瞳を子に向ける。柚葉は黒にしか見えないと言っていた、青にしか見えない母の色。
「いつかあなたが一人で生きていけるようになったら、たくさんの色を見て来なさい」
その瞳を綺麗な青緑だと言った青に、母が泣いた日がある。俺がこんな色を見てしまうせいで、普通の子供じゃないせいだと思っていた。それは違ったのだ。
きっと母の姉も、同じ事を言って家を去ったのだろう。
「それが青と母さまのお別れの日になってしまうことを、どうか忘れないでいてね」
「おはよう!初仕事だよ!」
硬い敷布団で寝不足の青を叩き起こしたのは、やかましい少年の声だった。馴染みのない使用人の声だと思ったが、よく考えてみればこの場に馴染んでいないのは自分の方である。
「初仕事?」
のっそり起き上がる途中で、白が閉じ忘れた横の引き出しに額をぶつけた。居候の身で贅沢を言うつもりはないが、このちゃらんぽらんは今までどうやって一人きりで生きてきたのだろう。苛つきごと引き出しを戻せば、次に頭上から瓢箪が降ってきて慌てて避けた。
「銭湯の赤富士に色を付けてほしいんだ」
「銭湯……」
「そ。お坊ちゃんだから知らないよねぇ」
お前はお坊ちゃんでもないくせに片付けすらまともにできんのか。能天気な白に突っ込む気力もなく、青は渡された作務衣に袖を通す。天雲浅葱と刺繍の入ったそれは少しだけ箪笥の匂いがした。
「どもー!新生ッ天空屋です!」
数日ぶりに銭湯へ響いた白の声。電話口で銭湯は休みかと聞かれ肯定すると、わかった!と言って一方的に電話を切った張本人だ。
「あんたねぇ、ちょっとくらい説明ってもんがあるだろ」
店主は暖簾を脇に片していつも通り出迎えるが、白の隣には見覚えのない青年がいた。視線はそわそわと落ち着きなく辺りを見回して眉を潜める。
「今日はなんと、新人色師の相棒が参りました!」
「いって!叩くな」
ワハハと豪快に笑う白に気押された青年は素っ気なく、青です、と名乗った。
「白に弱みでも握られたのかい?」
「ひどー!!」
見るからに育ちのよさそうな子だ。白の隣に並ぶには身長から性格まで、少し、かなり……あまりにも差が大きい。
「いや、俺から頼んだんです。仕事が欲しいって」
青と言った青年は姿勢を正して店主を見た。白よりよほど仕事ができそうだなんて、浅葱は笑うだろうか。
「おいで。時間は気にしないよ」
「ありがとうございます」
大浴場に二人を通すと、青は冷たさに驚いたのかひっと声を上げた。またそれを白が笑うので、揚げ足取りのいたちごっこである。
店主があれだよ、と指差した先の壁を見て、青は目を丸くした。
「お前、本当に描師なんだな……」
「アハハ! 白、貫禄が足りないね!」
「くっそ~」
赤富士、もとい墨富士を前にして青は素直に驚いていたが、悔しさを隠そうともしない白は道具箱を漁ってひとつの筆を差し出す。
「これはあげる。あとの道具はなんでも使って」
「時間は?」
「夕飯まで!」
それだけ言うと白はそそくさと大浴場を出ていった。本当にすべて任せてしまうのか、見守る気配すらなく脱衣場の長椅子に寝転がる。
「いいのかい、新人だろう」
「あいつ、天才だよ。おれたちには見えない世界が見えてるんだ」
新人には荷が重い絵のはずだが、白には全く懸念が感じられなかった。
見える世界が違うとは、また規格の大きな話だ。いつぞやに突如として現れた鬼才の色師が頭を過る。
「桔梗の筆をやったのもそれでか」
柄に模様が彫られた筆は、白の亡き母であり色師の桔梗が使っていたものだ。息子の彼が頑として触れようとしなかった唯一の筆。
「青の作る色、母さんが喜ぶと思う」
本格的に寝入るつもりらしく、白は腰に巻いていた手拭いを顔に被せる。垣間見えた口は楽しそうに弧を描いていた。
「終わった」
げっそりした青がフラフラしながら出てきたのは日が傾くころだった。苦笑いした店主が注いだ茶を一気に飲み干して、息も絶え絶えに大浴場を指差す。
「わかったわかった。見るから」
白はくああ、とあくびを噛み殺して脱衣場のガラス戸を開いた。ひんやりしたタイルの床、正面の――味気ない、富士山――
「お、おい、なんで泣いてんだ」
「なんでだよ、親父の赤富士よりすごいや」
数年見ることがなかった赤富士は今、見事に姿を現した。生命が息づくような赤と、薄くかかった雲。その先には澄みきった空がどこまでも広がっているようだ。
止まらない涙が次々とタイルに落ちる。感動して泣いたのなんて初めてで、止め方がわからなかった。
「もし、お前の父より素晴らしい絵になったのなら、それは俺だけの力じゃない」
青が白の顔面に手拭いを押し付ける。自分も少し泣きそうだとは絶対にばれたくなかった。
「お前と俺で、天雲浅葱を越えたんだ」
親父が死んだ日のことを思い出した。
生まれつき色なしだった髪は母と父が染めていてくれたから、おれの頭はその日のうちに真っ白になった。次に親父が描いたものが、赤富士が消えていった。ひとつひとつ、親父がいた証が消えていくようで、ひどく苦しくて。
そして、看板だけが残った店を継ごうと決めた。
「これ、多くないか」
青は店主に渡された封筒を覗いて言う。相場はわからないが、持って厚みを感じるような仕事をしたとは思わなかった。
「銭湯ときわからの就職祝いだよ」
「お前が散財するから俺が貯めろってことか」
「ばかにすんなよ!」
やっと意味がわかった、と手をたたく青に白は噛み付く。これでも五年はひとりで生きてきたのである。舐めんでもらいたい。
「まて。色師がいないなら、天空屋の看板はどうなってる?」
店の前に着いた青が不審そうに指を指した。どこから見たってただの色つき看板だが、青は気になるのか背伸びしてみたり斜めから眺めたりとぐるぐる観察している。
「看板だけは綺麗なまま残ってるんだ。親父が描いて、母さんが塗ったから」
二人が合作で生み出したものはほとんどない。看板と、あとは息子の白くらいであった。
「合作だと一流の絵師なんだよね、笑っちゃう。もしかしておれの髪色も元から白って決めてたんじゃないかな」
白はケラケラと笑う。だいたい名前が白であるあたり、両親が面白がっていたに違いない。
青はしばらく看板とにらめっこして、次は白の白髪に目をやった。
「お前の母親、髪は濃い青……いや、紫か」
「あー、珍しい色だったらしいよ。なんで?」
「いや、聞いてみただけだ」
「え、なに、気になる!」
白が歯痒そうに青を問いただすが、青は言わんの一点張り。看板に秘密があるのかと見てみても白の目にはただの水色の板にしか映らない。
「教えてよ!」
「案外お前と俺は近いんだろうな」
「何の話ー!?」
青はひとりで小さく笑って、白が騒いで傾いた看板を綺麗に掛け直す。
それは青の目にだけ、夏の快晴の青空のようにも、透き通った宝石のような青緑にも見える。
そして白が色無しの病だと言うその髪は、今まで見たこともない鮮やかな桔梗色に彩られていた。
天空屋 鳶 @tohma_twin
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