第10話・1月

  1月


「あけまして!」

「おめでとうー!!」

 社(やしろ)の祖父と観(かん)が元気に挨拶したが、幻(げん)と荘(そう)はキョトンとし、真稚(まわか)はいつも通りの仏頂面、社は苦笑を濃くしていた。

「……何やのこの子ら、ノリ悪いねんけど」

「真稚の嬢ちゃんはまあ、毎年こんなんじゃがな」

 不満そうな観に慌てて幻が弁解した。

「Sorry,アメリカは地域や宗教にもよるけどNew year's dayはクリスマスほど大々的にはお祝いしないんだ」

「俺んとこも、新暦の新年はさほど重要じゃねえわな。祝うのは旧暦正月、春節だ」

 呼んでもらっといて悪りぃけど、と荘は苦笑する。

「しっかし、よく新年会なんざする気になったな? 鵺の大哥はやっと起き上がれるようになったとこで、しかも神社は今一等忙しい時期じゃねえのかよ?」

 荘の言うことはもっともで、本来ならこんな、高遠(たかとう)家にあやかしごとの仲間を集めて宴会など出来る状況ではないはずだ。

 社の祖父はニヤリと笑い、ちちちっと指を振る。

「こういう時だからこそじゃ。昨年はお主らのお陰であやかしごとが捗った。その礼じゃ。大変な時こそ、感謝の気持ちを忘れちゃいかんのじゃよ」

「よく言うよ。じいちゃんは自分が呑みたかっただけでしょ」

 溜息混じりの社の言葉を、社の祖父は口笛を吹いて聞き流した。

 去年のクリスマスイヴ。あのあと社は丸三日間、布団から起き上がることもできなかった。命があっただけでも奇跡のような大怪我だったが、社にとっては治療も不要の、休めば治る程度の怪我らしい。それでも、せめてクリスマス本番は真稚とデートすればいいよ! という幻の密かな希望も叶うことはなかった。

 何とか年末までには起き上がれるようになったが、あやかしごとは勿論、神社の仕事もできない。そしてその状態は、年が明けた今も続いている。

 社の代わりを勤めるかのように走り回ったのは、幻と真稚だ。

 先月、家に寄り付かずにあやかしごとを片付け続けた社と同じペースでそれに当たる真稚。年末年始という、一年で最も忙しい時期の神社の仕事は幻が奔走した。

「お陰で松の内も無事過ぎた。神社の方は、あとはわしだけで何とかなる。幻坊、ご苦労じゃったの」

 そう言って社の祖父が幻のコップに飲み物を注いだ。

「荘さんも羽田(はねだ)君も、あやかしごとサポートありがとう。今年もよろしく頼むよ」

 二人に酌をするのは社だ。

 真稚はさっきから一言も喋らない。目の下のクマは、肌が白いのでとても目立つ。この会も最初は出ないと言い張ったが、社の「乾杯だけでもおいでよ」の一言で渋々席についたのだ。

「真稚嬢ちゃんもほれ、乾杯じゃぞ」

 社の祖父にコップを渡され、真稚は仏頂面のまま受け取る。

「ほんじゃ、新しい年に!」

『かんぱーい!』

 グラスを合わせて口をつけた瞬間、社がむせた。

「これ、お酒じゃないかじいちゃん!」

「おお、お神酒じゃ。いい酒じゃぞー」

「そうじゃなくて! 真稚、幻、飲むな……ってもう遅いか……」

 既に真稚は机に突っ伏していた。涼しい顔でグラスを干した幻が、首を傾げる。

「飲んじゃだめだったの?」

「幻は強そうだね……でもこの国では一応未成年の飲酒はダメだから。お神酒ってことでこの一杯でやめておいてね」

「I see. 真稚はどうしたの?」

「……真稚はお酒弱いんだよ。一口で酔っちゃうんだ」

 社が額を押さえて渋面で言った言葉に、一同の視線は真稚に集中した。

「何や意外やなぁ」

「むしろ大トラに見えっけどな」

「わしも知らんかった。……で? 酔うとどうなるんじゃ?」

 明らかに楽しんでいる口調に、社はギロリと祖父を睨む。しかし、社の言葉を待たずにその質問の答えは分かった。

「しゃ……小姐?!」

 荘が素っ頓狂な声をあげる。慌てて社が振り返ると、さっきまで突っ伏していた場所に真稚はいなかった。

 社の背中に重みがかかり、両肩ににゅっと腕が置かれた。おぶさるような格好で、真稚が社の背中にピタッとくっついていた。

「ねむい……社ぉ、ねむいー」

 真稚のいつになくふにゃふにゃした口調と表情が、何より雄弁に語った。真稚がどれだけアルコールに弱いのかを。

「甘えたなワカちゃんとか! 何や普段よりかわええやん!」

 目を輝かせた観が頭を撫でようと伸ばした手は、ペシンとたたき落とされた。

「触んなにんげん」

 ギロリと睨む赤い目に気圧されて、観は片頬をひきつらせて手を引っ込めた。

「あああもう真稚……ちゃんと一人で立って! じいちゃんお水!」

「お、おお」

 今にも崩れそうになる真稚を社が支える。社の祖父が差し出したコップを両手で受け取った真稚は、喉を鳴らしながら水を飲み干した。

 手の中からスルリと落ちたコップを荘がナイスキャッチし、安堵の溜息をついて卓に戻す。

「……もうねる、ねむいー」

 ぐずる子供のような台詞を繰り返しながら、真稚は社の首に腕を回す。

「はいはい、部屋に行こうねー」

 社の返事も完璧に子供に接するときのそれだ。

「ごめん、ちょっと真稚を部屋まで運んでくる……すぐ戻るから!」

 社は真稚を背中にぶら下げたまま、飲み会会場になっている客間をあとにした。

「何や意外な一面見てもうたわ……」

 はは、と乾いた笑みをこぼして、観がチビチビとコップ酒をなめる。ジュースに持ち替えた幻がいやにニコニコしているのを見て、荘が首を傾げた。

「阿幻、やけにご機嫌じゃねえか。どうしたよ?」

「うん、あの二人が仲いいと何か嬉しくて」

「……そうか。お前はいいやつだなぁ。流石俺と瓜二つなだけのことはある」

「それ関係ないネ……」

 社の祖父は、社と真稚が去った方を見ながら考えていた。

(今年のどんど焼きはどうするかのー……)

「『ドンドヤキ』は何ですか?」

「え?」

 余りにもタイムリーかつ突然の幻の質問に、口に出とったかのう、と内心首を傾げながら説明を始めた。

「神社の境内で火を焚いて、正月飾りやお守り、お札なぞを燃やすんじゃよ。正式には『左義長』っちゅうんじゃ」

「ああ、あれか!」

 荘がパッと表情を輝かせた。

「鵺の大哥が団子やら草がゆやら振る舞ってくれるんだよな。毎年楽しみにしてんだぜ……とは言うものの、今年は大哥が動けねえもんな。中止なさるんですか、老師?」

 目上の者には礼儀正しい荘の敬語に、社の祖父は首を振る。

「どんど焼きはやるぞい。じゃが、団子や七草粥は難しいのう……」

 幻はしばらく考え込むように俯いていたが、不意に顔を上げて言った。

「社のグランパ、それ、僕にも出来ないかな?」

「え?」

「荘が楽しみにしてるってことは、きっとこの町の人みんなが楽しみにしてるんでしょ。なかったらきっとガッカリする。作り方を社に聞けば、僕でも作れますよね? 団子と……ナナクサガユ!」

 意気込んだ声で力説した幻に、社の祖父はフワリと微笑んで、そうじゃなあと頷いた。

「確かに、社しか作れんもんでもないしの。よし、今年はわしらでなんとかやってみるか!」

「わしらって……」

「俺らも勘定に入っとんのやな……例の如く」

 荘と観が溜息をついたが、嫌そうな顔はしていない。むしろ、楽しそうですらある。

「そうと決まれば、材料を準備せんとな!」

「もうそんなに日がないでの。急がんと」

「はい! ……あの、ところで……」

「何じゃ?」

 問われて幻は、おずおずと尋ねた。

「ナナクサガユは何ですか?」

「知らんで言うとったんか……」

 三人が苦笑しながら七草粥について幻に教えてくれた。

 七種類の野草が入った粥のことで、正月の暴飲暴食で疲れた胃を休める効果があるそうだ。話を聞いて尚更、絶対に作らなきゃいけないと意気込んだ。



 真稚を部屋まで運んだ社は、手早く布団を敷いて真稚を寝かせた。白磁の肌を赤く染めて、真稚は朦朧とした目で社を見上げた。

「社……そこにいるか?」

「はいはい、ここにいるよ。真稚が眠るまでここにいるからね」

「ほんとにいるのか?」

 見上げる赤い瞳の焦点が合っていない事に気付いて、社は真稚の熱い頬に触れた。そのまま顔を近付ける。

 鼻先がぶつかる程の、赤い瞳に自分の顔が映りこんで見える至近距離まで近付いても、真稚は全く無反応だった。

 社が呆然とした声で呟く。

「真稚……両目とも、見えてないの?」

「……ああ」

 酒のせいか諦めか、やけに素直にそれを認めた真稚に、社は一瞬怒気を膨らませたが、すぐに我に帰った。

「……残っていた片目も交換した。やはり片目は残しておいて正解だったな」

「何でそんなバカな事をする前に、俺に相談してくれなかったの……!」

「とめられると分かっているのにか?」

 ぐ、と言葉に詰まった気配だけを察して、真稚は珍しくくすくすと笑い声をもらす。

「あのパーツには、片目を差し出すだけの価値があった」

「……まさか」

「うん」

 真稚が見えない瞳で社に笑いかける。

「頭が見つかったんだ、とうとう」



 真稚を運んだあと戻ってきた社は、心なしか具合が悪そうに見えた。

「おー、鵺の兄ちゃんおかえりぃ~! 今日はワカちゃんの部屋から戻って来ぉへんと思たわー……て、どないしたん?」

 わざと下卑た笑い声をあげて観がからかったが、やはり顔色の悪さに気付いて表情を改めた。

「白の小姐に何かあったのかよ?」

 荘が手酌で酒をコップにつぎながら言う。社は一瞬すうっと無表情になったが、すぐにいつもの微苦笑を浮かべた。

「うん、大分酔ってたみたいでね。でももう寝たみたいだから大丈夫だよ」

 荘は琥珀色の瞳を上目遣いにして一瞬社を見上げたが、コップに目を戻し一気にあおった。

「喜べ社。今年は社の代わりに、幻坊がどんど焼きの団子と七草粥を準備してくれる事になったぞい!」

 赤ら顔の社の祖父が、幻の首に腕を回して弾んだ声で言う。

 社は一瞬の間の後に、ありがとう助かるよ、と穏やかな口調で返した。

「準備するものとか、どこで仕入れるのかとか聞いてもいいかな? 早い方がいいと思うんだ」

 幻がメモ用紙とペンを手にして、やる気満々で目を輝かせている。社はニッコリ笑って頷いた。

「ほとんどの材料はすぐ手に入るよ。ただ、厄介な食材が一つだけあるんだ。芹っていう野草なんだけど」

「セリ?」

 首を傾げた幻に、観が携帯電話に画像を表示させ、見せてくれた。

「おー、Cressonに似てる」

「七草粥の材料の、春の七草の一つやで。川辺やたんぼの畦道なんかによう生えとる」

 社は観の説明に頷く。

「他の材料は全部、町の八百屋さんや乾物屋さんから買ってる。毎年の事だから、今年も届けてくれるはずだよ。ただ、芹だけは毎年俺が採って来てるんだ」

 社は幻のメモ用紙とペンを借り、ささっと簡単な地図を書いた。神社のある山の中腹から別れる小道をたどり、一本道を進んだ先の川のほとり。

「一本道だから、道に迷う事はないと思う。……けど、もし無理だと思ったら引き返して」

 社の真剣な口調に、幻はゴクリと喉を鳴らした。

「そ、そんなに険しい道なの?」

「……人によっては、険しかったり、誘惑が多かったりするね」

「???」

 ますます首を傾げた幻の手元のメモを覗き込み、荘が思いっきり眉をしかめた。

「おいおい……ウソだろ大哥? 冗談きついぜ。こんな所に毎年行ってるだぁ……?」

「荘、この場所知ってるの?」

 幻がパッと表情を明るくしたが、荘の表情は暗い。よく似た顔だから、尚更対照的だった。

「この地図の場所はこの世じゃねえ。この川は『三途の川』だ……!」

「へー、三途川っていう川なの?」

 事の重大さを分かっていない幻に尚も言い募ろうと荘が口を開いたが、社に先を越された。

「その川は、絶対に渡ったらいけないよ。戻ってこられなくなるから」

「OK! こっち岸で芹を摘んでくればいいんだね。頑張るよ!」

 仕事をもらってやる気満々な幻に、荘が痺れを切らしたように、ああもう! と叫んだ。

「危なっかしくていけねえ。俺もついてってやんよ」

「ほな俺も行こかな」

 しかめっ面の荘と、呑気に笑う観が、同行することになった。

 鵺栖神社のどんど焼きは十四日だ。前日は準備で忙しいだろうということで、十二日の放課後、芹摘みに向かう事になった。

「本当は昼間の明るいうちに済ませてえんだがな……」

「学校は休めないよ……俺、一応公費留学生だし」

「そんなん昼も夜も同じやて。川のほとりやで? あやかしがおらん訳がないわ」

「まあそりゃそうだけどよ」

 荘は酔いも醒めた様子で社をちらりと盗み見る。

(鵺の大哥……何が狙いだ?)

 芹など八百屋にいくらでも置いているのだ。毎年そうしているから、という理由だけで幻を向かわせるには、この場所は危険すぎる。

 社は荘の視線に気付いていないのか、気付かない振りをしているのか、微笑を崩すことはなかった。



「ただいまー!」

 十二日の放課後、急いで戻ってきた幻は、玄関に揃えて置かれた二足の靴を見て、慌てて居間へ走った。

 居間には社と荘、観が揃っていた。真稚はまた、あやかしごとで出動中らしい。

「遅えぞ阿幻」

「わお、Sorry! ……あれ、吉鈴は?」

 荘といつもセットのあやかし・吉鈴の姿が見えない。キョロキョロと辺りを見回していると、荘が腕組みをしたまま渋面を作った。

「吉鈴は留守番だ。あんな危険な場所に連れていけねえよ」

 ラブラブだね~、とからかおうかと思ったが、荘が思いの外真剣な顔をしていたので囃し損ねた。

「幻が準備出来たらすぐ行くでー。早よ着替えてき」

「OK!」

 身を翻し自室へ走っていった幻を見送ってから、荘と観は社へ向き直る。

「……ほな、もう『向こうさん』には連絡がいっとるんやな?」

「うん。川の辺で『それ』をこちらに渡してくれるよう頼んである。そこはスムーズにいくはずなんだ。……川まで無事にたどり着くことが、きっと一番の難関になる」

 社は改まって、二人に深々と頭を下げる。

「……幻をよろしく頼むよ。俺が本調子だったら二人にこんな面倒かけずに済んだんだけど」

「なぁに言ってんだ。いつもこっちが世話になってんだぜ」

「せやで。たまには頼ってくれ」

 顔をあげた社は、少し照れくさそうに笑っていた。



 社の書いた地図の通りに道を辿ると、小さな洞窟に着いた。

「ここ? 川なんてないよ?」

 キョロキョロと左右を見渡す幻に、観がニッコリ笑って懐中電灯を差し出した。

「まだ半分も来てへんで。ほな行こか」

「この中なの!?」

「その通り。狭いから頭上と、足元にも気ーつけろよ」

 手慣れた様子で懐中電灯を手にした二人を見て、幻は目を丸くした。

「……二人はこの先に行ったことがあるの? 何のために?」

 荘と観は黙って顔を見合わせ、自嘲めいた笑みを浮かべる。

「……若気の至りってやつかな」

「せやな。俺は川までは辿りつけへんかったけど」

 何となく、聞くべきでないと察した幻は、それ以上追及するのをやめた。

「じゃあ、こん中じゃ一番奥まで行ったことがある俺が、先頭歩いてやっか」

「ほな俺がしんがりやな。幻は真ん中歩いたったらええわ」

「うん、Thanx!」

 幻は懐中電灯のスイッチを入れ、荘に続いて洞窟に足を踏み入れた。

 洞窟の内と外の違いは歴然だった。去年の秋に、あやかしの世界に迷い込んだ時の事を思い出す。空気が全く違う。一瞬で別の大陸にでも飛んだかのような変わりようだ。

(そうじゃない。別の『世界』に飛んだんだ)

 幻はごくりと生唾を飲み込んだ。

 闇の中、懐中電灯と仲間の気配だけを頼りに進んでいく。懐中電灯の明かりが届く範囲の外に、無数の何かがうごめく気配がして、幻は気分が悪くなった。闇そのものが、自分達を飲み込んでしまいそうで。

「阿幻、俯くんじゃねーぞ」

 ハッとして顔をあげる。そうして初めて、自分が顔を俯けていた事を知った。すぐ後ろで観が笑う声がした。

「ここはやつらのテリトリーやからな。一瞬でも気ぃ抜いたらあかんで」

「頭からバリバリ喰われたくなけりゃな」

 おどけた明るい口調ながら、二人の言葉の真剣な響きに、幻は改めて顔をあげ真っすぐ前を向いた。

 くすくす、くすくす。不意にどこかから含み笑いが聴こえて、幻は辺りを見回す。観が後ろから肩を叩き、首を振る。

「足止めたらあかん。俺と荘さんの声以外は聴かんとき」

「……わかった」

 頷いた途端、わっと虫の羽音のように雑音が耳に入ってきた。

『聴かんとき』『気ぃ抜くなよ』『あははは』『頭からバリバリ』『俯くんじゃねーぞ』『くすくす』『あかん』『テリトリーやからな』『ふふふふ』……。

「……うぅ」

 頭が割れそうに痛む。こめかみをおさえた拍子に手から懐中電灯が滑り落ち、壊れたのか電気が消えてしまった。

「阿幻?」

「幻、平気か」

 振り向いた荘と、落ちた懐中電灯を拾った観は、お互いの顔を確認して青ざめた。荘と観の間を歩いていたはずの幻が、一瞬にして消え失せていた。

「あいやー……」

「やらかしてしもた……」

 望みは薄いが、一応辺りを懐中電灯で照らしてみた。やはりいない。

「……どないします、荘さん」

「あー……とりあえず川目指すっきゃねえだろ。目的地はそこだし……」

 荘が暗闇に琥珀色の瞳を煌めかせて呟く。

「阿幻なら恐らく、川に引き寄せられるだろ。渡りきっちまう前に止めねえとな」



 ざぶ、と身体に水流を感じて、幻は意識を取り戻した。気付けば川の中、腰まで水に浸かっている。

 懐中電灯を落とした所から記憶がなかった。どうしてこんな所にいるのか、どうやってここまで来たのか、ここはどこなのか。全く解らないが、最後の一つだけは予想がついた。

(これが、三途の川なのか……?)

『その川は、絶対に渡ったらいけないよ。戻ってこられなくなるから』

 社の言葉が脳裏に蘇る。幻は青ざめて、岸に戻ろうとした。

 幸い岸は近い。だが問題は、どちらの岸も同じくらいの距離にあることだ。

(どっちが元の世界に戻れる岸なんだ……!?)

 川のど真ん中で意識を取り戻した幻には、自分がどちら側から来たのかが解らなかった。焦りながら、両方の岸を見比べる。

「うわわっ」

 川底の石を踏んで転びそうになったので、幻はとりあえず、間近に見えた中洲にあがってみる事にした。高い所から見れば、岸の様子がわかるかもしれない。

 中洲にあがってみると、不思議な事に身体は少しも濡れていなかった。確かに水流を感じるのに、この川を流れているのは水ではないらしい。

 幻は目を懲らして両岸を眺めてみた。しかし、両岸とも薄もやのようなものがかかっていて、様子まではわからない。がっかりして肩を落とすと、俯いた目線の先に緑の葉があった。

「あ……芹だ」

 当初の目的を思い出し、幻は小さく嘆息した。じたばたしても仕方ない。ここはひとまず、目的を果たす事にする。

 持参のビニール袋に、芹を摘み取っては入れていく。ぷつんと茎が切れる感触が面白くて、幻はひととき自分の置かれている状況を忘れ、芹摘みに没頭した。

 なので、近付く人影に気付くのが遅れた。

「三途の川の真ん中で芹摘んでるとか……変わった子だなあ……」

 呆れたような感心したような声がすぐ近くでして、幻はガバッと顔をあげた。

 突然現れた相手に『変わった子だなあ』と言われたものの、目の前の少年の方が余程変わっている。幻と似た浅黒い肌と翠の右目。ただし、もう片目は漆黒だ。ヘテロクロミアだけでも珍しいのに、彼の容姿にはもっと珍しい部分があった。とがった耳と牙、極めつけにしっぽが生えている。

 あやかしなのだろうが、危険性は感じなかった。幻は一瞬募った警戒心を解く。

 ぴこっ、としっぽを振って、少年が笑う。これは、狐のしっぽなのだろうか。

「ヤシロに頼まれてここへ来たんだ。君はゲン? それともカン? ソウ?」

 幻は驚きの目を向けた。社の知り合いなのか、と尋ねようとしたが、ついさっき観に言われたばかりの言葉が脳裏をよぎる。観と荘以外の声は聴くな、と。観はそう言ったのだった。

 黙ったままの幻に小さく首を傾げて、少年は困った顔をした。

「あれ……違う? あっもしかして日本語解らない? ……ナギかカレイドを連れて来ればよかったかなあ。えーっと……あーそうだ!」

 少年は小脇に抱えていた包みを開いた。

「ヤシロには、ここに来た子にこれを渡せって頼まれたんだ。心当たりある?」

 風呂敷の中から現れた丸いものに、幻は目をむく。少年が持っていたのは、髑髏……ヒトの頭蓋骨だった。

幻は飛び付くように、少年の持っていた頭蓋骨を受け取った。

 社が幻に渡せと言付けた頭蓋骨ならば、間違いない。祖母の頭蓋骨以外、考えられなかった。

「よかった、間違いないね?」

 少年は牙を覗かせてニッコリと笑い、それじゃあ、と手を振った。

「あ、あの!」

 観に言われた事はまだ頭にあったが、少年が悪いあやかしとも思えずに幻は声をかけていた。

「あなたは誰なんです? 社の知り合いですか」

「……俺はあの世の墓守りだよ。ヤシロには数年前に色々世話になったんだ。向こうへ戻ったら、よろしく伝えてね」

 大事そうに髑髏を抱いた幻を見て、ふわりと笑む。

「もうなくしちゃだめだよ。君の大事な一部なんだから」

 え、と小さく声が出たが、既に少年は背を向けて歩きだしていた。三途の川の水面を、沈みもせずに歩いていく。

 途中で一度だけ振り返って、大きく手を振ってくれた。幻は手を振り返しながら、呆然としていた。

(僕の一部って、どういうことだろう)

 確かにこれは幻と血の繋がった祖母の頭蓋骨だし、ずっと探していたものではある。だが『幻の一部』という表現は違うだろう。それなのに不思議に納得できるような変にしっくりくるような、矛盾した感情を抱えて、幻は首を傾げた。

 彼があの世の住人ならば、彼が向かった逆の岸へ向かえば、元の世界へ戻れるはず。幻はしっかりと髑髏を抱いて、もう一度川へ入った。

 ざぶざぶと身体で水を掻き分け進むと、岸辺から声が聴こえた。観と荘かと思い、返事をしようとしたその時、川の中で足を取られた。

「!?」

 透明度の高い水の中で、自分の足を掴んでいる手がしっかり視える。指の長い紫紺色の手。その砂のようにざらついた感触に、幻はぞっとした。

 手の先には何もない。ヒドラのように何股にも分かれた腕が、全て幻に向かってくる。左足首も掴まれた。右肩、左肩、腕、手の指、耳、胴、首、髪……体中に纏わり付くあやかしの『手』。その細長い指先が翠の目に伸びた時、幻は水中で悲鳴をあげた。

 その時、水中にざぶっと突っ込まれた腕が、あやかしの『手』を振り払って幻の腕を掴んだ。

「せえのっ!」

 ざばあん、と一本釣りのような勢いで、幻の身体は水中から引き揚げられた。きらきらと光る水しぶきの向こうに見えたのは、バラバラ剥がれ落ちるあやかしの『手』と、そして。

「社!」

 自分を引き揚げてくれたのは、ここにはいないはずの社だった。にこ、と笑った顔に、幻も安心して表情を緩めた。

 次の瞬間、社の口が耳まで裂けた。鮫のように尖った凶悪な牙が覗く。社ではない。これもあやかしだ。

社の姿を借りたあやかしは、大きく口をあけ、幻の喉笛に噛み付いた。血を吸おうとかそんな生易しいものじゃない。噛みちぎろうとしている。

 不思議と痛みはなかった。ただ、幻は目を見開いてわなないていた。

 以前にも、こんな事がなかったか。無数の手に、四肢をばらばらにされかけ。首を噛みちぎられそうになり。

(……違う。『されそうになった』んじゃない……『された』んだ)

 四肢をばらばらにされた記憶があった。首を噛みちぎられた記憶があった。

 自分が死んだ時の記憶が、フラッシュバックした。

「何してる!」

 あやかしの顎が何者かによって後ろから掴まれ、幻は解放された。引きはがされたあやかしはそのまま後ろにぶん投げられて、水しぶきをあげて水中に消える。息をきらせてそこにいたのは、さっきの少年だった。

「渡し忘れたモノがあったから戻って来てみれば……。気をつけないとダメじゃないか!」

 しっぽを逆立てて怒る少年の目の前で、幻は安堵のあまりふっと意識を失った。

「え、ちょっと!?」

 少年の慌てた声が、遠くに聴こえていた。



(眩しい……)

 顔に当たる日の光に、幻はゆっくりと瞼を持ち上げた。金色の髪が目の前に見えて、数秒経ってから自分が観におぶわれていることに気付いた。

「目ぇ醒めたか、阿幻」

 横を歩く荘が、安堵の表情を浮かべて言う。観がえっと叫んで立ち止まり、肩越しに幻の様子を見ようと首をひねった。

 三人は既に洞窟を出て、神社への道を辿っていた。幻の顔を照らしていたのは西日だ。日の傾きからすると、あの洞窟にいたのは、ほんの数十分程度ということになる。

 観の背中からおりた幻は、キョロキョロとあたりを見回した。気付いた荘が両手に持った荷物を軽く掲げて見せた。

「荷ならあるぜ。ほらよ」

 芹の入ったビニール袋、丸い風呂敷包み。それらを受け取りながら、幻はぼんやり思った。

(夢じゃなかったんだ)

 洞窟の中で起こった事が、全て夢のようだ。だがこの荷物と、首に巻かれた布が、実際にあったことなのだと告げる。

「幻がいなくなってもうて、それでもひとまず川目指したんや。そしたら幻が誰かに首絞められとって、めっさビビったわぁ」

「まあ、実際は手当てしてくれてたんだけどな」

 観と荘が苦笑しながら顛末を説明してくれた。

 首の傷を手当てしてくれたのは、狐面の男だと言う。

「え? 狐のしっぽの人じゃなくて?」

「おー、しっぽもついとったで」

「あの世の住人だから、俺ら生きてる人間には顔を見られねえように、面をしてたんだとさ」

 僕には普通に顔を見せていたのになぜだろう、と幻は首を傾げる。

「芹も髑髏も川ん中から拾ってくれはって。ええ人やったわ」

「洞窟出るまでのお守りにっつって、これくれたしな」

 荘が掲げた小さな巾着袋は、神社で売っているお守袋と少し似ていた。もっと丸く膨らんでいたが。

「終わったら鵺の大哥に渡してくれってよ。あの狐、鵺の大哥の知り合いなのか」

「あの世にも知り合いがおるとか、ホンマ変わった人やな。今更やけど」

「何せ人間じゃねえしな」

 そう、社は人間ではない。だが、そう言う二人の口調は忌避するような色は全くなく、親しみがこもっていた。母国アメリカで幻が受けていたような、恐怖と忌憚の目など向けはしない。

「今日は付き合ってくれてThanx! 僕、頑張ってどんど焼きのゴチソウ作るよ。二人とも明後日はぜひ来てね」

 二人は顔を見合わせ、両側からガッシと幻の肩を抱いた。

「何言うてんの、明日も手伝うて」

「味見は任せろ」

 幻はぱちくりと瞬き、声をあげて笑った。



「お帰り、みんな」

 玄関の引き戸を開けると、社がそこに座っていた。

「どうしたの、こんな所で。これから出かけるの?」

「何言ってるの、待ってたんだよ。心配してたんだからね」

 いつもの苦笑を浮かべて、社は小さく首を振った。

「よかったよ。三人とも無事で」

「Thanx! あ、これ芹だよ! ……あと、社の知り合いから、ちゃんと受け取ったよ」

 持っていた荷物を一つずつ下ろす。

 芹の入ったビニール袋。髑髏を包んだ風呂敷包み。そしてその横に、荘が小さな巾着を置く。

「これは?」

 社の不思議そうな顔に、荘は瞬く。

「え、これも言伝してたもんじゃなかったのか? 帰り道のあやかし除けにって貸してくれてよ。使い終わったら鵺の大哥に渡せって言ってたぜ?」

 社は首を傾げながら巾着袋をあけ、中を覗いた。

「!」

 社が目を驚きに見開いて、ついでスウッと細めた。巾着の口を元に戻し、ふう、と嘆息する。

「エイマさんにはお礼をしないとな……」

「あの兄ちゃん、エイマ君って言うん? 連絡取れるんやったら、俺からも礼言っておいてほしいわ」

「ああ、あやかしにしちゃ中々の好漢だったな」

「分かった。伝えておくよ」

 ふふ、と苦笑して、社は頷いた。

「そうだ、幻。裏に他の材料が届いてるから、この納品書と照らし合わせて過不足ないか確認してくれる?」

「OK!」

 納品書を手に幻が行ってしまうと、社は観と荘に向き直った。

「……幻は、思い出したのかい?」

 観が口を結んで黙り込み、荘は溜息をつく。

「狐が言うには、断片を思い出した程度じゃねえか、って話だ。まあ実際阿幻の性格じゃあ、気付いてんのにあのポーカーフェイスは無理だろ」

「せやけど、こっからはきっと早いで。記憶なんてモンは、芋づる式に蘇ってきよる」

 社はそっと、目の前に置かれた風呂敷包みに手を伸ばした。

 するりと結び目を解き、包みをあける。中から出て来た髑髏を撫で、目を伏せた。

「なあ鵺の兄ちゃん。そろそろ潮時なんと違うかな」

 おずおずといった風に、観は言葉を重ねる。

「見送ったった方が、アイツの為でもあるんやないかな……?」

 肯定も否定もしない社の代わりに、荘が口をひらいた。

「殯の大哥の言うことも一理あんな。洞窟ん中で阿幻を見失った時、もう二度と会えねえかもしれんって覚悟したぜ、俺ぁ」

 苦しそうな表情で、ぽつりと言う。

「阿幻が本能で暗闇を進めば、あっちにひかれるに決まってんだ、そうだろ? ……俺が吉鈴を連れて行かなかったのも、あいつを手放す気はまだねえからだ。あやかしのあいつを三途の川なんぞに連れて行ったら、ものの数歩で向こう岸に行っちまうだろうよ」

「そうだね。……元々、渡りかけていた所を荘さんが連れ戻したんだった」

「……………………」

 黙り込んだ荘の横で、観が眉をしかめて視線をさ迷わせた。

「幻も、吉鈴ちゃんほどやないにしても、向こうにひかれるはずや。これ以上無理に引き留めるんは……」

「それでも、俺は諦めない」

 社の声は重く、その決意の強さを色濃く滲ませていた。

「幻には現世に留まってほしい。これは半分はこの世界の為で、もう半分は……」

「阿幻の為ってか?」

 鋭く見下ろす荘の琥珀色の瞳を、社はちらちらと灯の揺れる褐色の瞳でまっすぐ見返した。

「いいや。もう半分は、俺のわがままだ」

 荘が目を見張り、プッと吹き出した。

「面白え。俺ぁ、あんたのそういう所が好きだよ」

 ひとしきり笑った後、荘はスウッと表情を消した。

「目隠しさせたままであの世とこの世の境を綱渡りさせて、その上『阿幻の為だ』なんて言いやがるようだったら……俺ぁあんたとやり合ってでも、阿幻を向こうへやるつもりだった」

 社はその視線を真顔で受け止めてから、いつものように苦笑した。

「俺が何か間違っても荘さんや羽田君が止めてくれるって、期待しちゃってるんだ、俺は」

 黙ったままの二人に、社は真剣な声で言う。

「ごめんね、二人とも。もう少しだけ、このまま続けさせて」

 荘も観も、ただ頷きを返した。



「荘さん、明日はどうやって行かはります?」

「歩っていくさ。天気も良さそうだしな」

 神社からの帰り道、星の輝く夜道を観と荘は歩いていた。

 スクーターを押して歩いている観は、ずっと何か考えているようで口数が少ない。荘はそれを時折横目で見ながら苦笑する。

「幻が心配か? 鵺の大哥がああ言ってんだ、任せようぜ。どっちにしろ、俺らには何もできるこたぁねえんだ」

「せやけど……」

「信じとけ。殯の大哥も鵺の大哥に救われたクチだろ?」

 ぐ、と言葉に詰まる気配がして、苦笑混じりの溜息が漏れた。

「そーでしたわ。そもそも俺は、鵺の兄ちゃんに反論できるよな立場と違いましたわ」

 聞きようによっては拗ねたような言葉だが、卑屈な響きはない。そこにあるのは純粋な信頼だ。

「どう転ぶか分からんけど、鵺の大哥ならきっと、ええ方を採りはる」

「ああ。何せ大哥のここぞって時の判断力と運の強さは、筋金入りだからな」

 すとんと腑に落ちたらしく、すっきりした顔で星を見上げる観。つられて荘も空を仰ぐ。

 占術全般を嗜む荘は、当然星読みもする。満天の星空に解釈を求めてしまうのは職業病のようなものだ。それでも今は、運命を読むためでなく、ただ純粋に星の光を愛でたかった。



「確認終わったよ! ちゃんと全部あったー」

「ああ、ありがとう」

 幻が居間に戻ると、社は礼を言って立ち上がろうとした。その拍子に体がぐらついたのを、幻が慌てて支える。

「社、そろそろ休んだ方がいいよ」

「うん、そうだね。でも話さなきゃいけないことがあるんだ」

 いつもの苦笑をうかべ、社はこたつの上に置いてある風呂敷包みを幻に渡した。その包みをじっと見つめ、幻は心を決めたように顔をあげる。

「僕も話したい事があるんだ。先に言ってもいい?」

「いいよ。何かな」

「僕、一度アメリカに帰ろうと思うんだ」

 ぴく、と社の眉が動いた。

「前からぼんやり決めていたんだ。グランマの頭蓋骨が見つかったら、一旦全部持ち帰って、グランパと同じ墓に埋葬してあげようって」

 風呂敷包みの結び目を解くと、はらりと包みがひらき、頭蓋骨があらわになる。

「公費留学は一年間……三月までだから、一週間くらいでまた戻ってくるつもりだけど……来月の頭には発とうと思う」

 色々協力してくれてありがとう、と幻は手を差し出した。

握手のつもりだった。しかし社は、その手を握り返してはこない。ただ沈痛な表情で、じっと幻を見据えていた。

「そうか……分かった。必要な物があったら遠慮なく言ってね。お土産とか」

 社が、にこ、と笑って幻の手を握り返してくれたので、幻はホッとした。

「うん、Thanx! 鵺栖町の名物とかあったら買って帰りたいな。……ところで、社の方は何だったの? 話って」

「……今日はもう遅いし、どんど焼きが済んでからにするよ。ちょっと込み入った話になりそうなんだ」

 タイミングから考えて、どんど焼きについての話だと思っていた幻は、目を丸くしながら頷いた。

「明日は忙しくなるよ。今日は疲れただろうし、早めに休むといいよ」

「うん、そうする。……そういえば真稚は? またあやかしごと?」

 真稚の名前に社の肩がピクリと動く。幻はそれに気付かない。

「今日のあやかしごとはじいちゃんが行ってる。真稚はもう寝てるよ」

「早いね! やっぱり疲れてるんだなぁ。連日あやかしごとで働きっぱなしだったもんね……」

 相槌を打とうとした社は、幻の翠の瞳とまともに視線をかちあわせて、言葉を飲んだ。

 幻の瞳の中に、蒼い光が炎のようにちらちらと揺れている。社をまっすぐ見据えたままで幻がゆっくり唇をひらいた。

「真稚は今、両目が見えなくなってるのに。……ねえ、社」

 真稚は、目の事を幻には伝えないと言っていた。失った理由を、正直に説明する訳にはいかないからだ。

 社は平静を装い、声が上ずらないように慎重に声を発した。

「……どうして知ってるの?」

「てことは、本当に見えないんだ。両目とも」

 カマをかけられたと知って、社の眉根が寄る。幻は慌てて胸の前で手を振った。

「ごめん、素直に聞いても教えてくれなそうだったから……。真稚が教えてくれたんだよ。ほら、新年会で酔ったとき」

「あの時は俺もいたけど、そんなこと言ってなかったよ?」

 社は会話を続けながら、慎重に幻の様子を探った。あやかしに支配されているわけではなさそうだ。

「え? 言ってたよ、何度も言ってた。『暗い』『見えない』って。『社はいるよな?』って何度も社の声のする方を確認してたよ」

 それを聞いて確信した。

 幻が何の気無しに聴いた真稚の声は、肉声ではなく、心の声だ。幻の力は、本人も自覚しないうちに確実に強くなっている。

 社はごくりと生唾を飲み下した。

 今。伝えるなら今ではないのか?

 全てを打ち明けて、思い出させて、頼み事をするべきタイミングは、今ではないのか。

(いや……だめだ)

 社は力無くうなだれた。

『彼』が何のために記憶を封印したのか、そして何故幻は自分の力で記憶を取り戻せずにいるのか。それが判らないかぎりは、危険な事はできない。

 ずっと俯いているのを怒っていると勘違いしたのか、幻がオロオロしている。社はくすっと小さく笑って、なんでもないよと首を振った。

「知っているなら、寝る前に俺と一緒に真稚の所へ行くかい?」

「えっ?」

 社はあの世からのもうひとつの荷、小さな巾着袋を掲げて見せた。

「幻が会った狐面の人がね、いいものを貸してくれたんだよ」



「真稚、入るよ」

 す、と引き戸を開けて部屋へ入ると、真稚は真っ暗な部屋で布団の上に座っていた。社が電気をつけても、真稚は眩しさに目を細める事もなかった。

 目が見えなくて着づらいのか、寝巻の浴衣が若干はだけている。白い肌に赤い傷跡が見えて幻は何となく目を逸らした。

「社か。……ということは幻が戻ったんだな。無事なのか?」

 社のすぐ隣に立つ幻は、真稚は本当に全く目が見えないのだと実感する。

「うん。それにね、エイマさんがいいものを貸してくれたよ」

「いいもの?」

「あやかしにとられた真稚の目の、代わりになるものだよ」

 えっ、と声を出したのは真稚だけでなく、幻も同じだった。その声を聞き逃す真稚ではない。

「幻? 幻もそこにいるのか!?」

 部屋に入ってから何となく存在を主張しそびれていた幻は、もう隠れようもないことを悟り、バツの悪い気持ちでおずおずと「Good evening...」と呟いた。

「社!」

 真稚の怒気をはらんだ叱責の声に、社は軽く首を竦める。

「だって真稚、幻は気付いていたんだよ」

「何だと? そんなはずは……」

「真稚の声が『聴こえた』んだって」

『聴こえた』という単語に宿る意味に気付き、真稚は幻を探すように視線を宙にさ迷わせた。

「……幻の『聴く』力は、そんなに強くなっていたのか」

「僕は自覚なかったんだけど……真稚、本当に口に出してなかったの?」

 今思えば、確かにあの日はらしくないほど真稚は饒舌だった。幻が聴いた声の半分以上は、心の声だったのだろう。

 真稚は小さく嘆息して、頭を振る。

「解った、バレてるならもういい。それで社、目の代わりっていうのは?」

「そうだ、どういうことなの?」

 真稚と幻に詰め寄られた社は、巾着袋を開け、中身を掌の上に出した。

 幻は思わず少し身を引いてしまった。社の掌の上にころんと転がり出たのは、眼球だったのだ。

「これ……本物の目玉なの?」

「目玉? 誰の目だ」

「真稚のだよ」

 真稚は見えない目を大きく見開く。

「え、でも真稚は……目玉はあるよ?」

「うん。この目玉はあやかしを視聴きしない者には『視え』ないものだよ」

 それを聞いて、幻も真稚と同じく目を見張った。

「ちょっと待て、どうやって取り戻した? 私の目は……」

 真稚が少し言いよどんだ理由が自分であることに気付いて、幻は尋ねた。

「どうして見えなくなったの?」

「…………」

「教えて、真稚」

 真稚はしばらく黙っていたが、やがて嘆息した。

「髑髏は受け取ったか?」

「え? う、うん」

「それを持っていたのはあやかしだった。そのあやかしは私の目を気に入っていたから、物々交換したんだ」

「…………!」

「目を失ったから髑髏を取りに行けなくてな。向こうの知り合いに頼んだ」

 幻は衝撃のあまり声が出せなかった。自分の為に真稚は両目を差し出したというのか。

「先に言っとくが、礼なんていらないからな」

 真稚に先手を打たれて、ますます何も言えなくなる。

 黙ったままの幻の目の前で、社が真稚の目に目玉をそっと当てる。目玉は吸い込まれるように消え、ぱちぱちと瞬いた真稚は片目で幻を捕らえた。

「何て顔してるんだ」

 そう言って、真稚は微かに苦笑して見せた。

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