第5話・8月


 暦は八月、夏真っ盛りになった。社(やしろ)も幻(げん)ももうすっかり元気になったが、社の腕にはまだ包帯が巻かれている。

 ある日、玄関先にすっと伸びる緑の木が立っていて、幻は首を傾げた。

「これ何? 竹?」

「笹だよ。七夕の」

 答える社は、玄関先に座り込み色紙を折ったり切ったり貼ったりしている。その飾りには見覚えがあった。

「七夕は先月じゃなかった? 商店街でこれ見たよ」

「新暦だと七月なんだよ。主流は新暦だけど、神社では旧暦を使うから、うちでは毎年この日にしてる。新暦の七夕はだいたい天気が悪いしね……」

 キュウレキ、と幻は繰り返した。日本の文化はまだまだ解らない事が多い。

「盂蘭盆も、新暦だと先月なんだけど、旧暦だと今月でね。でもこっちは世間でも旧暦の方が主流なんだよね……不思議だねぇ」

 日本人の社から見ても、不思議に思えるらしい。

「ウラボン、は確か前に真稚(まわか)が言ってた……」

「亡くなった人が現世に里帰りする日だよ」

 ちょきん、とハサミで色紙を切りながら社が言う。

「亡くなってから初めての盂蘭盆を、新盆っていうんだ。少し前のあやかしごとの時の千万(ちよろず)さんは、新盆だね。息子さん喜ぶだろうなあ」

 その笑顔の横顔を、幻はじっと見据える。 今まで聞かずにいたことが、口をついて出た。

「ねえ社」

「ん?」

「社のダディやマミィも、盂蘭盆で帰ってくるの?」

 ぴた、とハサミが止まった。

「……あと、社のグランパにも一度も会ってない。真稚の事もそうだ。何故ここで暮らしているの?」

 ホームステイ先の家……高遠(たかとう)家は、祖父と孫で暮らしていると聞いた。『孫』が社だとして、何故祖父に一度も会わないのだろう。真稚は何故実家で暮らさないのか。家から追い出されたという話は本当なのか。そして、社の父母はどうしているのか。

 社は沈黙のあと、そっとハサミを置いた。

「俺や祖父ちゃんの事は、幻が聞きたいなら話すよ。でも真稚の事は俺が話すべき事とは思わない。本人に聞くか、せめて許可を取ってきて」

 その答えはもっともだ。幻はぐっと顎を引き、目を逸らす。

「いつだか言ったよね。俺が何者だとしても動じないようになってから、俺の正体を聞きたいって」

 社が腕の包帯をくるくると解き始めた。

 あやかしに噛みちぎられた腕。病院にかかってさえいない傷は、まだ治ってはいないだろう。治ったとしても、ひどい跡が残るのは避けられないような傷だった。

「……幻。覚悟ができたって思っていいのかな?」

 はらりと包帯を落とす。露になった腕には、傷痕などどこにもなかった。



 聞くだけで暑苦しい蝉の鳴き声に包まれながら、真稚はいつも通り桜の樹の上でうたた寝をしている。

(暑い……)

 葉陰のできる樹上は、街中のコンクリートの上よりは遥かに涼しいのだが、それでもやはり暑い。額にうっすらと浮いた汗を拭い、一度家へ冷たいものでも飲みに戻ろうかと思った時だった。

 ぶらん、と人の脚が落ちてきた。真稚は動じずに、それを掴んで引っ張る。脚を持っていたモノがずるりと引きずられて現れた。

「少しくらい驚いて下さってもいいのに」

 不満そうに唇を尖らせたのは、吉鈴(きつりん)だった。

「仰っていた通り、寺の本堂の床下にございました。右足、ですね」

「うん。吉鈴ありがとう。……私はあそこへは行きにくいから助かった」

「……寺の住職の、御子息の事ですか」

 真稚は黙ったまま頷く。吉鈴が小首を傾げて溜息をついた。

「私のような僵尸(キョンシー)から申し上げますと、いつまでもこだわるべき事柄ではないように思うのですが……」

「そうだな。人間は本当に面倒臭い」

「またそのような事を仰って……。社様がお嘆きになりますよ」

「いいんだ。あんなに心配させられたんだから、少しは思い知らせてやる」

 つん、と顎を上げて言うと、吉鈴がくすくすと笑った。

 脚を持ち帰った真稚と吉鈴が最初に見たのは、作りかけで放り出された七夕飾りだった。

 吉鈴が右足を神社の本殿の床下に隠している間に、真稚は靴を脱ぎ捨ててずんずんと廊下を進む。

(嫌な予感がする)

 居間の襖をすぱんと開けると、幻がビクッと肩を震わせてこちらを見た。今にも泣きそうな顔をしていた。

「真稚。おかえり」

 いつもの苦笑気味の笑顔でこちらを向いた社の腕には、包帯がなかった。真稚は青ざめた顔で問う。

「……話したのか、幻に」

 社は黙ったままコクリと頷いた。

 幻がゆらりと立ち上がる。フラフラした足取りで真稚の横を通り過ぎ、玄関へ向かう。

「どこに行くんだ、幻」

 真稚が思わず声をかけると、一瞬足を止めた。

「少し、一人にして」

 それだけ言って、外へ出ていってしまった。

追いかけようかとも思ったが、幻は一人にしてと言っていた。踏み出しかけた足の向きを変え、真稚は社に掴みかかった。

「……何故伝えた。まだ早いだろう!?」

「本人が、教えてほしいと言ったんだ。俺の正体を。今は少しショックかも知れないけど、すぐ立ち直るよ。そうでなきゃ困る」

 掴みあげられた襟元を放そうともせず、社は言う。

「でなきゃ、幻自身の正体を知った時、幻はどうなっちゃうんだよ?」



 トボトボと街への坂道を下りながら、幻は頭の中を整理しようとする。だが、どうにも思考がばらついてまとまらなかった。

 とにかく今は、神社から離れて頭を冷やしたい。

 街を突っ切るように歩き、線路を渡って駅の向こう側へ。繁華街を抜け、住宅街を歩き、たどり着いたのは中学校だった。

「鵺栖(ぬえす)中学校……」

 キン、と甲高い音がして、幻はそちらを見遣る。白球がこちらを目掛けて、唸りながら飛んできていた。


「……い、おい! 大丈夫か?!」

「俺、先生呼んでくる!」

 土のにおいが近い。目を開けると、数人の少年達に覗き込まれていて、ギョッと身を引いた。

「よかった、目が覚めた……」

「軟球がぶつかったんですよ。……ていうか、日本語分かります?」

 幻を囲む少年達は、皆野球のユニフォームを着ていた。

 どうやら幻は、頭に野球ボールの直撃を受け、脳震盪を起こして気絶していたらしい。木陰に移され、水やら濡れタオルやらを次々渡された。頭はたんこぶになっている。これはしばらく引かなそうだ。

「おい弘道(ひろみち)。お前があのボール打ったんだぞ。ちゃんと謝れよ」

 目の前に立った少年を見上げると、見覚えのある顔だった。あ、と呟き幻はタオルを取り落とす。

「お寺の息子サン……」

 幻が鵺栖神社にホームステイしている留学生だと知ると、野球少年達の顔色が変わった。

「弘道、お前送ってけ!」

「そんで鵺の兄さんに謝ってこい!」

 大丈夫だと固辞したが、野球少年達はどうしても弘道に幻を送らせて、社に謝罪したいらしかった。結局断りきれず、仕方なく今、二人でとぼとぼ歩いている。

「えーと、ヒロミチはBaseballやってたデスね!」

「…………」

「僕も大好きネ! レッドソックス最高デス」

「…………」

 何を言っても返事がない。全く会話が成立しない気まずさに加えて、神社が近付くにつれて気が重くなる。

「お寺」

 ぴたりと足を止めて呟いた幻を、弘道が怪訝な顔で振り向いた。

「お寺行きたいデス。泊めてください! 日本文化学ぶためネ!」

「は?!」

「お願いしマス! ……まだ気持ちの整理がついてない。まだあの家へは帰れないんだ……!」

 最後の方は日本語が下手なフリも忘れて、必死ですがった。弘道は驚いたような疑っているような、複雑な顔でまじまじと見返す。

「何かあったのか?」

「…………」

 こんどは幻がだんまりを決め込む番だった。

 弘道は溜息をついて、道を変えた。

「急な話だから、もてなしは期待しないでください」

 三白眼の少年は、どこまでも無愛想に幻を寺へ受け入れた。



「昔からうちの寺は、駆け込み寺でもある。何日でも泊まって行って構わない」

 弘道の父である寺の住職は、快く幻を受け入れてくれた。弘道の母は料理上手で、「ありあわせで悪いけど」と言いながらかなりのご馳走を出してくれた。社も料理は上手いが基本的に和食中心なので、久々に洋食を食べた気がする。

 風呂に入り、弘道の父の浴衣を寝巻代わりに借りた。居間に戻ると、弘道が客間に案内してくれた。既に布団が敷いてある。

「じゃあ、おやすみなさい」

 すぐに部屋を出ていこうとした弘道を、幻は腕を掴んで引き止めた。

「聞きたい事あるデス!」

「……なんすか」

 面倒臭そうな表情を隠しもせずに、弘道は短く刈られた頭をかく。しかし、幻の問いにぴたりと動きが止まった。

「七年前、何があったデスか?」

「…………」

「社や真稚も関係してるデスか? だから嫌いなったです?」

 弘道はぎゅっと唇を噛んで俯いていた。長い沈黙が流れて、幻が返事を諦めかけた頃、弘道が薄く唇を開き小さな溜息をついた。

「……七年前、鵺栖町で連続放火事件があった。被害に遭った中に、うちの寺も含まれてる」

「え」

「犯人は俺だ。俺はあやかしにとり憑かれてうちの寺に火をつけた」

 弘道は終始俯いたまま、ぽつぽつと昔語りをする。

「俺も視る者だし、寺の息子だ。小学生のチビでも、弱いあやかしを追い払うくらいの力はあった。それでも俺は憑かれた。……俺に憑いてたあやかしを祓ったのが、あの二人だ」

「……それでどうして、社と真稚嫌いなるデス?」

 社と真稚に助けられたという事ではないのか。むしろ感謝してもいいくらいではないだろうか。

 弘道が顔を上げた。三白眼でぎろりと睨まれ、幻は思わず身を引く。

「俺が憑かれたのが、あいつらのせいだからだ。あいつらはあの日、あやかしを逃がした。それも、わざと」

「え?」

「泳がせて仲間と合流した所を叩くつもりだっただか何だか知らないけどな、俺は許さねえ」

 ぎり、と奥歯が軋む音がした。

「あの火事で妹が死んだ」

 幻が翠の目を見開く。

「俺が殺した」

「それはチガウですよ……」

「違わない。そしてあいつらが俺に殺させたんだ」

 弘道は今にも破裂しそうな程の怒りをまとっていたが、不意に目を閉じ、深呼吸する。怒りを鎮めてすっと立ち上がり、幻を見下ろす。

「……これでいいでしょう。じゃあ、今度こそおやすみなさい」

 幻が何と声をかけていいか戸惑っている間に、弘道は襖を閉めて出ていってしまった。



 幻が三和(みわ)家に滞在して、五日目になった。

「ヒロミチー! 差し入れ持って来たデスよー!」

 夏休みでも、部活のため毎日学校へ出かけて行く弘道に、おやつの時間を見計らって差し入れを持っていくのが、幻の日課になった。

「幻さん! 俺、英語の宿題分かんないとこあるんだ、教えて!」

「あーずっりい! 俺も俺も」

 野球少年達にも随分慕われるようになった。ちなみに、ボールが当たった場所は次の日に随分と腫れて、未だにたんこぶがひかない。

「俺、ちょっとランニング行ってくる」

 弘道は麦茶だけ飲んで、幻を避けるようにどこかへ行ってしまう。

「ったく、休憩も大事だっつーのに」

 キャプテンだという少年が、後ろ姿を見送って溜息をついた。幻は苦笑して、弘道と自分の分のアイスを手に立ち上がる。

「僕、ちょっと追いかけるネ。アイス溶けないように急ぎマス」

 言うが早いか幻は駆け出した。現役野球少年達が目を見張るほどの駿足だった。

「ヒロミチ!」

「うわ!」

 突然前をふさがれて、弘道は慌てて足を止める。

「聞きたい事ありマス」

 真剣な声音に、弘道の表情も引き締まった。

「ソーダ味とイチゴ味、どっち好きデス?」

「……どっちでもいいっす」

 川の土手の木陰に腰を下ろし、ぺり、とアイスの袋をあけながら幻は言った。

「もうすぐウラボンですね?」

 隣に座らされた弘道は「はぁ」と気のない返事をする。

「亡くなった人が戻って来る日と聞いたデス」

「まあ簡単に言うとそうっすね」

「妹サンも、戻って来る違いますか?」

 弘道はぎくりと身を強張らせた。それに気付かず、幻は続ける。

「亡くなった人に会えるなんて、この国の人羨ましいデス。視えない人でも、そういう行事を自然に行うのは興味深いネ」

 弘道はアイスを手に持ったまま、川面を虚ろな目で見ていた。

「……会えた事なんてないっすよ」

「え?」

「盆の時期でも、あいつに会えた事なんてありません」

 翠の瞳に浮かんだ戸惑いの色に、弘道は自嘲の笑みをこぼす。

「帰ってきたくないんじゃないすか。……自分を殺したヤツの所になんて」

 何も言えず、幻は黙り込んだ。溶けたアイスの雫が手を伝い、地面に落ちていく。

 ぱくぱくとやけ食いの様なスピードでアイスを食べた弘道は、しばらくキーンと鳴るこめかみを押さえ、すっくと立ち上がった。

「じゃあ俺戻るんで。差し入れのゴミとかは俺が片付けておくから、帰っていいっすよ」

 言外に「帰れ」と言われているのだと気付いた幻は、走り去る弘道を追いかけることができなかった。

 普段なら一も二もなく社に相談するのだが、迷った挙句『羽田(はねだ)葬祭』に赴いた。

「あー、確かに帰って来ん人もおるなあ」

 冷たいコーヒーを出しながら、観(かん)はそう言った。

「俺は詳しくは知らんけど……まだ成仏してへんから、来られへんのとちゃう?」

「つまり、まだこの世にいるって事?」

「せやったら普段からその辺におるはずやな……違うか。もう生まれ変わっとるとか……いや、先祖も戻って来よるもんな、それもないな」

 しばらく唸っていた観は、お手上げと言うように両手を上げて見せた。

「俺には分からへんわ。鵺の兄ちゃんは何て言うとるん?」

「聞いてない」

「何やて?」

 俯いたままの翠の瞳に、観は溜息をつき、まあええけど、と呟く。

「一人で何とかしようなんて思わんときや。俺とか荘(そう)さんもおるやん。何かするんやったら、誰かに声かけるんやで」

「うん、Thanks!」

「No sweat.……あんま言いたくないんやけど、弘道クンが言うてた事が、一番可能性高い気がすんねん」

「会いたくないって?」

 観が頷く。

「せやけど、ハズレとった方が嬉しいわ。うちも弟妹おるし、何や哀しい事にはなって欲しない」

「うん、僕ん家もそうだから、他人事とは思えないんだ。なんとか見つけて会わせてあげたいなあ……」

 そうしたら弘道が社と真稚に向ける敵意もほんの少し、和らぐんじゃないだろうか。

 ……そこまで考えてから、社のことを思い出してまた腹の底が重くなる。自然とこぼれた溜息に、観が困ったように眉を寄せていた。



「食卓が広い」

 ポツリと呟かれた真稚の言葉が、今の高遠家の全てを物語っていた。

 幻がいなくなってから、はや一週間。まだ半年といないのに、幻がどれだけこの家で存在感を発揮してきたかよく分かる。

 幻のいないこの家は、静かなものだった。一人分の食事が用意されないだけで、ダイニングのテーブルは広く、そもそも根本的におかずの品数が減っていた。

「ごめん」

 短く謝った社は、あからさまに凹んでいた。おかずの品数が減っているのは、社のモチベーション低下のためだ。

 真稚はこれみよがしに溜息をついてみせた。

「だから言ったんだ、まだ早いと」

「うん……そうだったみたいだね」

 もういけると思ったんだけどなあ、とぼやく社の声は、普段とは比べものにならないほど切なげだった。

「どうしてそう判断したんだ? やっぱり、寺での事か」

「……うん。幻は待子(まちこ)さんを……自分のお祖母さんを殺したあやかしの仲間に対して、会話をしようとしたんだ。きっともう大丈夫だと思った。思ったんだけど……」

 社は箸を持ったまま頭を抱える。まさか、こんなに長く戻って来ないとは思わなかった。

 三和の奥さんから電話があったので幻が三和の寺にいることは知っていたが、幻から直接連絡のないことが、社を凹ませていた。

「羽田君からも連絡が来たよ。弘道君の妹を探しているらしい」

「三和の妹? ……ああ、あの時の……」

 真稚が目を伏せて、箸をとめた。自分たちがしくじったせいで犠牲者を出してしまったあやかしごとだった。忘れるわけがない。

「分かった、桜に来るあやかし達には聞いてみる。吉鈴にも聞こう」

「俺も、『向こうの人たち』に聞いてみるよ」

 そのまま少し沈黙が流れて、真稚が不意にぽつりとつぶやいた。

「『あいつ』に、連れていかれたわけじゃないよな?」

「…………」

 ざわ、と音が聞こえるくらいに、社が纏う空気が一瞬変わる。真稚が箸を取り落とすと、すぐに元に戻った。

「どうだろうね。『あいつ』はこの町の人間は襲わないと……そう思っていたけど」

「…………」

「もう、分からないからね」



 八月が半分過ぎた。幻はまだ、三和の寺に居候している。

「あんたいつまでいるんすか」

 縁側でさやえんどうの筋を取っていた幻は、手を止め顔を上げた。素振りを中断しこちらをじっと見ている弘道は、睨んでいるような、心配しているような、複雑な目をしていた。

「もう帰った方がいいんじゃないすか。神社の人らも心配してるでしょうよ」

 さやえんどうの鮮やかな緑に目を落とし、幻はふっと自嘲的な笑みをこぼした。

「社も真稚も、心配してないと思うデスよ。呼びにも来ないし」

「……来れねえでしょうよ、そりゃあ。俺ん家だぞ」

 バツが悪そうな顔で素振りに戻る。社にも真稚にも敵意を隠さない弘道は、自分がいるから、あの二人がここへは来づらいだろうと言っているのだ。

「何があったか知らないっすけど、あんたら友達じゃないんすか」

「友達……」

 幻の瞳が弘道に向いた。その目を見て、弘道はゾッとし、思わずバットを取り落とす。

「そう思ってたんだけど、よく分からなくなったよ」

 幻の翠の目が、暗く濁って見える。その背中に、黒いもやが立ち上っていた。

 弘道はコクリと喉を鳴らし、バットを拾う。

「……ちょっと出かけて来るっす」

「もうすぐ夕飯デスよ?」

「……すぐ戻ります。たぶん」



 ぴんぽん、と玄関のチャイムが鳴ったのは、まだギリギリ日が残っている頃だった。

「はーい! 真稚、ちょっと出てくれよ」

 夕飯の支度真っ最中の社は、居間で長い髪を散らばらせてゴロゴロしていた真稚に頼む。真稚は嫌そうな顔をしながらも、黙って立ち上がった。

「……今晩は」

 ガラリと引き戸を開けると、外にいた少年が無愛想に挨拶する。真稚は思わず、そのまま戸を閉めた。

「ちょ、おいっ! 何で閉めるんだよ!?」

「……すまない、タチの悪いあやかしの変化かと」

 黄昏時の来客は、三和弘道だった。

「あれっ、弘道君? 珍しいお客さんだね」

「……用がなきゃ来ないっすよ」

 弘道はギッと強い視線で、エプロンで手を拭きながら出てきた社を睨み上げる。

「何で『あれ』を放っておくんすか」

 一瞬で社の表情が変わった。

「幻の事? 君の家なら安心だと思ってたんだけど」

「ふざけんな、こっちに押し付けんなよ。あんな厄介なもの、俺一人でどうにかしろって言うのか? 父さんも母さんも、視聴きできないんだぞ」

「普通に接してくれるだけでいいんだ。それに関しては、君のご両親はプロだよ。駆け込み寺のお二人だからね」

 ぐ、と言葉に詰まった弘道は、一度深く呼吸をした。

「今日、あいつの背中に『黒』がいた」

 真稚が赤い目をいっぱいに見開き、ぱくぱくと唇を開閉した。バッと髪を浮かせて社を振り返ると、社も青い顔で唇を噛み締めている。

「……いつから」

「分からない。俺はさっき気付いて、すぐここに走った」

 社は目を閉じ、細く息をつく。スッと開いた目の奥に、ちらちらと赤い炎が揺らめいた。

「分かった。すぐに向かう。……真稚」

 社はいつになく眉間に深いシワを刻み、真稚の肩に手を置く。

「弘道君と一緒に、先に幻の所へ行ってくれ」

「……分かった」

 普段なら人と行動することも街へ下りるのも嫌がる真稚だったが、今はそんなことを言っている場合ではない。正真正銘の、緊急事態だった。

「行くぞ、三和」

「……あ、ああ」

 出かける時のトレードマークになっている、髪と瞳を隠す帽子すら持たず、真稚はそのまま玄関を出た。そして、社を振り返る。

「社」

「ん?」

「まだ終わってない。悲観はするなよ」

 ぐ、と喉の奥で息を詰め、社はゆっくり頷いた。

「うん。ありがとう真稚」

 微かな、本当に微かな微笑みを浮かべて、真稚は身を翻し薄暗がりを駆けていった。

「……急がないと」

 社はエプロンを外し、迎え火の準備を始めた。



 寺の門前、階段の下に立った真稚は背筋に悪寒を覚えた。

(これは……ヤバい)

 ゴクリと生唾を飲み込み、震えそうになる足を踏ん張った。

 これほどの恐怖に襲われたのは久しぶりだ。真稚は振り返りたくなるのをこらえ、階段を上りはじめる。

 社の到着を待ちたかったが、この様子では悠長に待つ暇はなさそうだ。

「お前、家に着いたらすぐに両親連れて、ここから逃げろ」

「は?」

「何か理由つけてここから引き離せ。朝になるまで戻るな。いいな」

 一方的な命令に、弘道は眉尻を吊り上げて真稚を睨んだ。

「勝手な事言うな! ここは俺ん家だ、お前らが出てけよ」

 真稚は小さく嘆息して、出来ればやるけど、と呟いた。

「今回ばかりは自信がない。社が来るまでここに引き留めるだけで、私には多分精一杯だ」

 普段と様子の違う真稚の言葉に、弘道も事の重大さが分かってきたらしい。投げるような渋い声で、分かったよ、と言った。

「寺とか家とか壊したら、弁償してもらうからな」

「ああ、高遠に請求しろ。……私と社が生きていたらな」

 真稚は足を止めた。階段の一番上に、金髪を夕日に煌めかせた幻がいた。

 山の端に、今まさに太陽が沈んだ所だった。

「真稚……どうしてもっと早く迎えに来てくれなかったの?」

 幻の声には起伏がなく、真稚はその声を聴いただけでゾクッと寒気立った。

「遅かったよ。先に迎えに来てくれたんだ、この人が」

「……幻、良く視ろ。それは人じゃない、あやかしだ」

 夏だと言うのに、冷汗が止まらない。生唾を飲み込む音は、自分の物か、それとも弘道のものだったろうか。

「……真稚はよく言うじゃない、あやかしも人も一緒だって。あ、分かった」

 幻が喉の奥で笑う。

「真稚は人よりあやかしが好きだから、あやかしに迎えに来てもらえた僕が羨ましいんだね?」

 真稚は答えない。ただ幻から目を逸らさず、見据え続けた。

 こんな人を嘲るような笑い方をするやつじゃないのに、と奥歯を噛み締める。

「私があやかしになりたいのは、私が私のままでいるためだ。お前みたいに、『自分』を失ってなりたい訳じゃない」

「Hmm...? I can't understand you. よく分からないよ」

 肩を竦める幻に、真稚は力の篭った声をぶつけた。

「一人にしてくれと言ったのはお前だ。お前が『どうして迎えに来てくれなかった』と問うなら、私にも言い分がある」

 一旦言葉を切り、すう、と息を吸う。

「どうして帰って来てくれなかった、幻? 私達だってお前を待っていたのに」

 真稚の言葉に、幻は唇をつぐんだ。

「三和、行け。お前は普通に通れるはずだ」

「でも」

「いいから行け。両親連れて裏門から逃げろ。神社に向かえ」

 弘道はまだ何か言いたそうにしていたが、コクリと頷き、階段を駆け上がった。幻の真横を通り過ぎたが、幻は弘道をちらりと見遣っただけで、すぐに真稚に目を戻した。

「……いいか、幻。お前の後ろにいるのはあやかしだ。お前が社の正体にショックを受けた、その心の隙間に入り込まれたんだ」

 幻の背中には、いつも彼の祖母がいて見守っていた。だが今そこにいるのは真っ黒な塊。ぐじゅぐじゅと不気味にうごめくあやかしだった。

「気を強く持て。追い出すんだ。そのあやかしが在るべき場所はそこじゃない。もっと暗い場所だ」

 真稚が慎重に言葉を選びながら話している間、幻はずっとくつくつと喉の奥で笑っていた。

「じゃあ社君は?」

「え?」

「社君の在るべき場所は、本当に此の世界なの?」

 かくん、と首を傾げ、幻は暗い目をして尋ねた。

「グランマを殺したあやかしである社君が、どうしてまだこの世にいるの?」

 真稚が赤い瞳を見開いた。

(社……あのバカ!)

 そんな風に伝えたのか。真稚は頭を抱えたくなった。

 痛む頭を押さえるようにこめかみに手を添え、長い溜息をつく。

「社の正体については、若干の誤解があるな。正確に言えば、確かにあいつは待子さんを殺したあやかしではあるが、待子さんを殺したのはあいつじゃない」

 幻がぱちくりと数度瞬きをした。真稚は幻の背中でうごめく黒い塊の動きが鈍くなったのを見て、更に続けた。

「ややこしくて説明が面倒なんだが……話は二年前だ。この町であやかしとの大きな戦いがあった。そこで私は、大怪我をしたんだ。それこそ、絶対助からない程の」

 その時の傷がこれだ、と真稚はシャツをめくって見せた。

 腹部の真ん中よりやや右側に、大きな傷痕があった。皮膚が盛り上がりてらてらと光っている。一生残る傷だと一目でわかった。

「この傷は胸からももまである。私は多分その時死ぬはずだったんだろう。……でも死ななかった。社が助けてくれたからだ」

 あの時の事を思い出して、真稚は一瞬息がつまった。ぎゅっと目を閉じ、開ける。

「その時、社はあやかしになった。私のせいでだ」

 暗い穴のようになっていた幻の瞳に、翠の光がちらついた。それに追いやられるように、背後の黒い塊は端から崩れていく。

「なあ幻。お前まで私のせいであやかしになってしまったら、私はこれからどうやって、どんな顔をしてのうのうと暮らしていけばいいんだ」

 涙がじわっと目に溜まる。それがこぼれる前にぐいっと拳で拭って、真稚は幻に叫ぶように言った。

「幻、お願いだから戻ってきてくれ」

 ぱち、と幻が瞬いた。

 その一瞬で幻の瞳から闇が消えた。

「あれ、真稚? 僕を迎えに来てくれたの?」

 その問いは数分前と同じものだったが、その声音が全く違っていた。

 真稚は安心したように階段にへたりこみ、笑いながら幻に言った。

「そうだよ! 心配させやがって、このバカ」

 幻は記憶が曖昧になっているらしく、小首を傾げながら階段を下りてきた。真稚のへたりこんでいる段のすぐ上まで下りてきて、つと足を止める。

 真稚が顔を上げると、遥か下、階段の一番下の段で、青白い炎が揺れていた。

「ああ、社だ。『見つけた』んだな」

「?」

 説明を求めて見下ろしてくる翠の瞳に、真稚は炎を『視る』よう促した。

「あの炎が、ここの息子のためにお前が探していたものだ」

 幻が階段下の炎に目をこらす。

 社の手元でゆらゆら揺れる炎は、蝋燭の灯などではなく、魂の灯だった。更に目をこらせば、その炎は少女の姿を形どっていく。

 社の隣に現れた少女は、少し面影があった。

「口元が似てるね。その子が弘道君の妹さん?」

「そうだよ。彼岸で迷子になっていたらしい。向こうの知り合いに探してもらったんだ」

 向こうの知り合いとやらが若干気にはなったが、それよりも早く弘道と会わせてあげたかった。やはり、弘道は避けられてなどいなかったのだ。

「弘道君を呼んで来るよ」

「いや待て。私がその子を連れて三和の所へ行く。だからお前らはもう少しちゃんと話をしろ」

『えっ』

 社と幻の声が重なった。真稚は腰に手を当て、眉を吊り上げる。

「そもそも社、お前がもっと上手く伝えていれば、こんな事にはならなかったんだ」

「うっ」

「幻も幻だ、社がそんな事をすると思うのか。こいつがこういう言葉足らずな奴だというのは知ってるだろう。もっと詳しく正確な話を聞き出す努力をしろ」

「ううっ」

 揃って首を竦める二人に、真稚は毅然と言い放つ。

「幸い夏だし風邪も引かないだろ。今日は熱中症を心配するほどの暑さでもないし……という訳で、最低二時間は帰ってきても家にいれないからな」

『えええっ!』

 二人の焦った声をきっぱり無視し、真稚は少女のあやかしと手を繋いで、弘道が避難している神社へ行ってしまった。

 真稚が去った後も、社と幻はしばらく黙ったままだった。お互いに気まずい沈黙を破りたいと思ってはいるのだが、何を話していいかわからずにいる。

「えーと、そのっ!」

 幻がようやく声をあげたのは、空に下弦の月が昇った頃だった。

「社はグランマを殺したあやかしだけど、社がグランマを殺したわけじゃない……ってどういうこと?」

「……それは、真稚がそう言ったの?」

 コクリと頷いた幻を見て、社は目元を押さえて天を仰いだ。

「そんな的確な表現があったなんて……! これじゃ確かに、俺は言葉が足りないと責められても仕方ないな」

「じゃあやっぱり本当なんだ。社はグランマを殺してはいないんだね?」

 社はゆっくりと視線を幻に戻し、うん、と呟く。しかしその表情は、すっきりしたものとは到底言い難い。

「少し長くなるけど……俺があやかしになった時の話をするのが、一番良さそうだ。幸い時間はあるしね……」

 軽く苦笑してから、社は記憶をたどるように遠い目をした。

 幻は石段に腰掛け、耳を傾ける。今度は誤解や早とちりのないように、しっかり聞かなければ。

「……二年前、この鵺栖町であやかしとの大きな戦いがあったんだ。増えすぎたあやかしを一気に彼岸へ送るための戦いが」

「七年前じゃないの?」

「……七年前の話はただの俺たちの失策だった。三和さん達には本当に申し訳ないことをしたと思ってる……。でも俺は結局、その失敗から何も学んでなかったんだろうな」

 手摺りにもたれて、社は目線を落とした。

「二年前のその戦いで、真稚は傷を負って死にかけた。いや……多分、一度死んだ」

 その時の事を思い出してか、表情は強張っている。

「だけど俺は、真稚を呼び戻した。……少し前に、母親が死んだ事を受け入れられなかった子がいたよね。あの子と同じだ。ただ俺は、あの子よりも強い力を持っていた」

「……生き返らせたの? そんなことができるの!?」

「例え出来ても、本当はしてはいけない事だ。俺はそれを、一時の憤激に流されて、やってしまった」

 幻は日本語に少し違和感を覚えた。

 社が使った「憤激」という言葉。それは激しく込み上げる怒りの感情の事だったはず。哀しみや愛しさで、というならば納得できるが、怒りで大切な人を生き返らせる、というのは、どこかかみあわないように思う。

 怒りはむしろ、攻撃へ向かう感情だ。祖母を殺された幻が、仇を追い求めたように。

(後でもう一度調べ直そう)

 幻はそう決めて社の話に意識を戻した。社は自分の手の平を見つめながら、呟くように話す。

「俺の力は『代わる者』の真稚と少し似ててね。真稚のように自分の身体をあやかしに貸すんじゃなく、自分の意識を保ったまま力だけ『借りる者』だったんだけど。……今思えばあの時の俺は、すでにあやかしのようなものだったんだと思う」

 社の声は深く沈み、夏の蒸し暑い夜の闇に澱むように残った。

「俺はきっとあの時、人間に失望したんだ。真稚一人助けられない自分にも、……真稚の父親、阿部(あべ)総代にも」

「真稚のダディ?」

「……阿部総代は、真稚の遺体に酷い言葉を浴びせた。信じられないような言葉を。……口に出したくもないから、詳しくは聞かないで」

 幻は頷く。

 穏和な社にそこまで言わせるような言葉には興味がないでもなかったが、それが真稚に向けられたものだとしたら、やはり聞きたくはない。

「そして俺は、より大きな力を使うために周囲のあやかしを取り込んだ。真稚のように身体を貸すとかじゃなく、あやかしと同化したんだ。つまり俺は」

 社はいったん言葉を切り、声を潜めた。懺悔をするような声だった。

「俺は、人間をやめてしまった」

 幻は、何も言えなかった。ただ空を見上げる社の横顔をじっと見つめる。その褐色の瞳の奥にチラチラと揺れる炎が、社の中のあやかしなのか、それとも社の中の人間の部分だろうか。

「そして今に至る、と。……まあ正直言って、あやかしになる前と後で変わった事って、あんまりないんだよね」

 幻はようやく、社の言葉の意味が分かった。

 つまり、幻の仇のあやかしは、今は社と同化しているのだ。そしてそれは、真稚を助けるためにしたことだった。今いる三和の寺で戦ったあやかしが、鵺栖神社に仲間がいると言った意味も理解できた。

「社。ひとつ、聞いていい?」

「いくらでも」

「まだ人間に失望してる?」

 社は、空から視線を外し、石段に座っている幻を見下ろした。幻は翠の目でまっすぐに社を見ている。

 社はいつもの苦笑混じりの微笑を浮かべ、静かに首を横に振った。

「時々、どうしようもなく嫌になることもあるけど……同じくらいどうしようもなく、愛おしいんだよなあ」

 社は照れたように頭をかいて、訳の分からない事言ってごめんね、と呟く。幻は笑って返した。

「ううん、分かる気がするよ」

「……そうか」

 二人は顔を見合わせて笑う。

 社は自分で『人間をやめた』と言ったけれど、幻の中では、社はやはり人間だった。希望と絶望とを矛盾なく併せ持ち、自分の無力さに落ち込んだり、人を好いたり嫌ったりする、人間だ。

「そろそろ、帰ろうか」

「うん」

 幻は今、ごくごく自然に、鵺栖神社に――高遠家に帰ろうと思えた。


 神社への道の途中で、三和一家に行き会った。弘道の父が、社と連れ立って歩いている幻を見て、目元を緩ませた。

「帰るのかい」

「……はい。お世話になりマシタ!」

 ぺこりと頭をさげると、弘道の両親は揃って笑顔を向けてくれた。

「またいつでも来るといい」

「社君も、よかったらご飯食べにいらっしゃいね。真稚ちゃんも連れて」

「ありがとうございます。後日改めて、お礼に伺います。……祖父と一緒に」

 社の言葉に幻は平静を装ったが、内心叫びだしたいくらい驚いた。

(社のグランパ、ちゃんといたんだ!)

 弘道は、両親の後ろを、小さな少女と並んで歩いていた。両親の目には映らない妹と、手を繋いでいた。

「何だよ、何か文句あるんすか」

 照れ臭そうに頬を染めて、それでも手を離さない弘道に、幻はニッコリ笑いかける。

「よかったネ、ヒロミチ。大事なものが見つかって」

 弘道は毒気を抜かれたようにパチクリ瞬き、次いで同じように笑みを広げた。両親は小さく首を傾げていたが、一家四人、みんな笑っている。あやかし、『視える』者、『視えない』者、それぞれが手を取り合って笑顔で家へ帰っていく。

「盂蘭盆っていいね、社」

「……そうだね」

 四つの後ろ姿を見送りながら、幻と社も笑顔で呟いていた。



 神社へ戻ると、真稚が細くあけた玄関の戸の隙間から、じっと二人を見つめた。晴れ晴れとした二人の表情を見て、すぐに戸を開ける。

「……話せたみたいだな。おかえり」

「ただいま」

「I'm home!」

 幻は家に入るや、玄関口に置いてあるキュウリとナスに気が付いた。

「そういえば、七夕は? これがその飾り?」

「七夕はもう終わったよ。笹飾りは片付けた」

「えー! 見そびれた!」

「お前が帰ってこないのが悪い」

 真稚にビシッと断言されて、グウの音もでない。

「このキュウリとナスは盂蘭盆のものだよ。キュウリは馬、ナスは牛を象っているんだ」

 言われて見れば、割り箸で脚も作ってある。そのフォルムは馬と牛に……見えないこともない。

「彼岸から戻る時は馬に乗って一刻も早く。彼岸へ戻る時は牛に乗って少しでも留まってほしい、という事らしいよ」

「わお、なるほど」

 幻はしばらくじっとその野菜たちを見つめていたが、不意に顔を上げた。

「これ、僕も作っていいかな。ナスの牛」

「いいけど……牛だけでいいの? 誰の?」

「グランマの」

 幻の言葉に、社と真稚が揃って幻を振り返った。

「そろそろ、休ませてあげたいんだ。身体はまだ集め途中だけど、魂だけでも」



 盆の送り火の日になった。

 裏参道の鳥居の前、山の頂の桜へと続く道。社はここで、送り火の準備をした。幻はドキドキしながら、社が火をたくのを見つめていた。

 小皿の上で火をたき、しばらく待つ。すると、さわさわと人の話し声がさざめきのように聴こえてきた。

 社が黙ったまま、参道の下を指差す。参道を登ってくるのは、たくさんの人々……否、この世に里帰りしていた亡者、あやかしだった。

 あやかしには、透けて見えるものや足の消えたもの、輪郭が揺らいでいるものもいれば、ハッキリと存在感を持った生者と見紛うものまで、さまざまだ。彼らは皆、鳥居を通り過ぎる時に社に会釈し、そのまま山頂を目指す。

 小さな少女が、社達の前に立ち止まる。弘道の妹だった。

 少女はピッと人差し指を伸ばして、街の方角、ちょうど駅の方を指し、満足げな笑顔で手を振って、人の波に戻った。

 何千人……何万人いただろうか。数え切れない程のあやかしを見送り、最後に一人、一際ゆっくりとした足取りで歩いてきた人物がいた。ちょっと太めの体形で、浅黒い肌と縮れた茶髪の、南米系の男性だった。

 幻は目を丸くし、思わず声を出していた。

「グランパ……!」

 幻の祖父は白い歯をむきだしてニカッと笑う。記憶にある通りの笑顔のままだった。

 社がそっと幻の背をひとなでした。すると、ふっと温もりが消えたような感覚があった。まるでずっと誰かがその背に触れていて、それが今離れたような。

 気付くと、祖父の隣にもう一つ人影が増えていた。その並んだ姿は見慣れている。写真の中で、二人はいつもこんな風に並んで笑っていた。

「グランマ……」

 ずっと幻の背後で、幻を護ってくれていたという祖母。見送ると決めたのは幻だったが、離れるまで気付かなかった温もりが、恋しくないといえば嘘になる。

 でも。

「グランマ、今までありがとう。向こうでグランパと仲良くね」

 幻は笑顔で二人に手を振った。二人は一瞬顔を見合わせ、手を繋いで幻に頷いてみせた。その時、確かに声が聴こえた。

『大変だろうが、くじけるんじゃないぞ』

『頑張ってね、幻』

 幻は目を見開いた。

 今のは二人の声だった。真稚が幻の祖母を憑かせた時、言葉は祖母のものでも、声は真稚の声だった。何年振りかに聞いた二人の声に、涙が滲んだが、決して雫を落とさないようにこらえた。

 桜の方へ並んで歩いていく二人の背中を、幻は見えなくなるまで見送った。

 幻が二人を見送って振り返ると、社と真稚も一緒にそこに居てくれていた。

「大丈夫か。体調とか、変わった様子はないか?」

 真稚が眉間にシワを寄せ、幻の様子を見ながら尋ねる。

「待子さんの守護は大きかった。それが外れた以上、これから大変だぞ」

「覚悟の上だよ。そろそろ僕も祖母離れしなきゃね」

 肩を竦めておどけてみせる。

「ところで、弘道のシスターが指差してたのは何なのかな? 街の方角だったと思うけど」

 幻が明かりのきらめく街を見下ろしながら言った。ここに来た日、真稚の姿をしたあやかしが桜の木を指さし誘っていたことを思い出す。

「あー、あれはね……ええと、教えてくれたんだよ。もうすぐ帰ってくるって」

 社が言いにくそうに言葉を濁す。どうやら弘道の妹が伝えたかった事を、社は知っているようだ。

「ああ。いつも電車と徒歩で帰ってくるもんな。外車の自家用車を、運転手付きで持っていてもおかしくないのに」

 真稚が微かに口角を上げ、愉快そうに言う。真稚も知っているのか。

「えー、知らないのは僕だけ? 誰が帰ってくるの?」

 幻が不満そうに声を上げたのと、神社の拝殿で鈴ががらんがらんと鳴らされたのがほぼ同時だった。

「こんな時間に参拝?」

 幻が首を傾げると、社が片手で顔を覆い、溜息をついた。

「帰ってきたみたい。……まあ家に戻って何より先に、神様に挨拶っていうのは見習うけど」

 すたすたと歩いていく社と、それを愉快そうに追いかける真稚。幻もわけが分からないながらそれに続く。

 拝殿の前で拍手を打ったのは、どうやら老人のようだった。

 とはいえ、腰や背が曲がった様子はなく、髪が白くなかったら中年男性くらいには見えただろう。ただ、その出で立ちはだいぶ変わっていた。

 極彩色のアロハシャツに、モンゴルの帽子。インドあたりでよく見るゆったりしたズボンに、足元はオランダの木靴を履いている。自由の国アメリカからの留学生でも、このフリーダムさにはちょっと目を見張った。

 最後に深く一礼をした老人が、くるりとこちらを向く。

「おお、社。今帰ったぞい」

「お帰り、じいちゃん」

 呆れたような社の呼びかけに、幻は驚いて社を見遣った。社は溜息をつき、苦笑を浮かべて手の平で老人を示す。

「これ、うちのじいちゃん」

「これとはなんじゃ、御祖父様に向かって! おお、真稚嬢ちゃんも元気そうじゃの。それから……」

 社の祖父の目が幻に向く。

「君が待子さんの孫か。よう来たの」

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