第4話・7月


 月が替わり、梅雨が明けた頃には一気に夏真っ盛りになった。

 鵺栖(ぬえす)町は、都会に比べると若干涼しい土地柄だ。農地や水田、そして森林や河川などの自然に恵まれている事も、体感温度を下げるのに一役買っている。だがそれでも初めての「日本の夏」は、幻(げん)には厳しいものだった。

「Oh...ジャパニーズサマーはHotすぎるネ……」

 帰り道。暑さにうだり、得意の片言すらもわざとらしくなってしまうくらいには、幻はバテていた。

 とうに衣更えを済ませ半袖になった夏の制服。幻はシャツの前を半分はだけ、スラックスも膝上までまくりあげていた。

「だらしねえなあ。しゃんとしろよ、しゃんと」

 そう言ったクラスメイトの宮本(みやもと)は、シャツの第一ボタン以外はしっかり閉めている。

「俺達は恵まれてるんだぞ。私立高校だから空調完備の校舎で勉強できる。駅の反対側の公立高校は、扇風機しかないってさ」

「You sure!? ウソでしょ? こんな暑さ、エアコン無しで乗り切れるわけないネ!」

 嘘じゃねえよ、と宮本は笑った。

「鵺の兄さん家も、エアコンくらいはあるんだろ?」

「え、ハイ……多分?」

 言われて気づいたが、高遠(たかとう)家でエアコンを目にした記憶がない。が、不快な暑さを感じた事がないので、きっとあるのだろう。



「え、エアコン? ないよ」

 見れば分かるじゃない、と笑顔で言ったのは社(やしろ)だ。

「え、でも……涼しいよ」

「昼間はここも、結構暑くなるよ。まあ山の上だし、街よりは涼しいね」

 そう言う社も、隣で黙々と夕飯を口に運ぶ真稚(まわか)も、涼しげな顔をしている。

(汗だくの二人とか、想像つかないや)

 ちりん、と耳慣れない硬質な鈴の音のような音が聞こえて、幻は窓際に目をやった。

「風鈴を出したんだ。音が涼しげでしょう。他にも色々、今日のうちに夏バージョンに模様替えしたんだよ」

 言われて視線を巡らせば、部屋の細々した部分が変わっていた。暖簾は厚手の生地から涼しげな水色のレースになり、敷かれていたラグは取り払われ、竹で編まれた敷物になっている。

「デザート食べるかい。和菓子屋さんが夏の水菓子安くしていたから、買っちゃったよ」

 社が出してきたのは『葛桜』という葛餅の中に餡を入れた和菓子だ。

 幻は昔祖母から聞いた言葉を思い出す。

『日本人は五感の全てで四季を楽しむ』

 確かにその通りだと、風鈴の音を聞きつつ冷たい和菓子を食べながら、幻は頷いた。暑い夏に五感で涼をとる。これがこの家の涼しさの秘密かもしれない。

「そうだねえ、学校でも涼しくなれる方法を教えてあげようか」

「えっ、何なに?」

 身を乗り出した幻に、社は少しいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。

「怪談だよ」

「かいだん?」

 昔から日本では、暑い時期に身の凍るような怖い話を聞いて語って、涼しくなろうという試みがあるらしい。夏になるとTVでも怪奇系の番組が増えたり、百物語や怪談の催し物も開催されるそうだ。

「怪談かあ……どういう感じで喋ればいいのかなぁ?」

「『語り』は真稚が得意だよ。番町皿屋敷とか十八番だよね」

 話を振られた真稚は、一瞬迷惑そうに眉をしかめたが、茶碗を置きながら歩み寄りの姿勢を見せた。

「古典じゃ高校生はウケないだろ……もっと現代風のやつがいいだろうな」

「え、実在の事件じゃなくてもいいの?」

「どっちでも。そもそも普通の人間は、実在の怪奇事件なんてそうそう遭遇しない。大体創作だ」

「まあ幻なら実在の事件も知ってるだろうから、それを大袈裟に脚色すればいいんじゃないかな」

 祖母を殺した魔物を追うため、世界中の怪奇事件を調べた幻は、ここ近年の怪奇事件なら人一倍知っていた。

「うん、じゃあ考えてみるよ……」

 思い出すだけで背筋の凍りそうな事件。そんなものは、いくらでもあった。



 七月も半ばを過ぎ、そろそろ夏休みになる頃、その企画はもちあがった。

「キモダメシ? それ何デスか?」

 幻は首を傾げながら、宮本の言った言葉を綺麗に復唱した。

「まあ要するに度胸試しだな。終業式の日の夜、寺の本堂に集まって皆で怪談話をしたあと、墓場を一人で歩くんだ。まあ皆でワイワイやるから、あんまり怖くはないけどな」

 この間、社から聞いた『怪談』で涼むイベントのようだ。しかしどちらかと言えば、『皆でワイワイ』の方に幻は目を輝かせた。

「わお、楽しそうデス! 僕も行ってもいいんデスか?」

「勿論! 終業式の日なら、まだアメリカには戻らないだろ? 参加するのは、クラスの奴ら中心に七、八人くらいだ。怪談のネタ、用意しとけよ♪」

帰宅して夜間の外出を社に告げると、社は食器を洗いながら、二つ返事で許可した。

「へえ、肝試し? いいねえ、行っておいでよ」

 幻にはその言葉が意外だった。もう少し難色を示されるかと思っていたからだ。

「遊び半分であやかしと関わるな、って言われるかと思ったよ」

「あやかしと関わるならとめるけど、肝試しで本物のあやかしにそうそう遇いはしないよ。しかも寺の境内なんでしょ?」

 そこまで言って、社は居間の真稚を窺った。

「……でも真稚なら言いそうだね。内緒にしておいた方がいいかも」



「……少年が振り向くとそこには、死んだはずのおじいさんが血まみれで立っていたのです!」

『きゃーーーーーーー!』

 女子達の、いささかわざとらしいくらいの悲鳴で、3つ目の怪談は終わった。寺の本堂は広いので、よく響く。

「で、その男の子はその後どうなったデスか?」

 幻が尋ねると、怪談の語り手は神妙な顔を作って低く呟く。

「行方不明なんだ。公園のブランコの下に、片方だけ靴が落ちていた以外は、目撃者も手がかりも何もないって話……まるで、何かに食べられたみたいに消えたんだよ……」

 何度目かの女子の悲鳴があがった。

「だだだ大丈夫か、幻? こっここ怖くねえか?」

「怖い話デシタね。でも大丈夫ヨー」

 むしろ宮本の方が大丈夫じゃなさそうだ。どうやら怖い話は苦手らしい。

「次、宮本の番だよ」

「喋れんのかー?」

 クラスメイトのからかいの混じった言葉から察するに、宮本の怖がりは有名のようだった。

「だだだ大丈夫だよ! お前ら、俺の話聞いて怖くなって逃げ出すなよな!?」

 そう言って突き付けた人差し指は、ちょっと震えていた。

「……これは俺の友達の話なんだけど」

 宮本の声は、まだ少し震えている。それがまた、恐さを演出していた。

だが宮本の話は何故か、幽霊との心温まるちょっと切ない友情物語で、唯一女子から悲鳴が上がらなかった話になった。

 悲鳴でなく感動の啜り泣きすら聞こえはじめた話の終盤、男子達に「で?」という顔を向けられてキョトンとした宮本の顔は、面白かった。

「おっかしいな……めっちゃ怖くねえ? 幽霊がずっと付き纏ってくるんだぜ、友達みたいに」

「悪い幽霊だったら怖いけどな」

「最後、一緒にあの世へ行ってくれ! とか言われて取り殺されるのかと思ったら、幽霊だけで普通に成仏しちゃうしな」

 宮本はしばらく、納得のいかない様子で首を傾げていたが、諦めの嘆息と共に幻を見やった。

「次はお前の番だぞ、幻」

「わお、もう僕デスか。ドキドキしますネ」

 幻は胸に手を当て、深呼吸する。話のネタはもう決まっていた。

「これは、僕がまだアメリカにいた頃にあった……じゃなくて、『聞いた』話デス」

 初っ端から失言しそうになって、幻は慌てて訂正する。何の為に流暢な日本語を隠して片言で喋り、あやかしが見えない振りをしているのか。

 目立たないように、目立たないように。

 実際に自分が体験した話でも、自分以外の誰かを主人公にして語らなくては。



 都会とは言い難いが田舎と言うほど田舎でもない町があった。そこに、幽霊を見ることが出来る少年が二人いた。少年たちは父母とではなく、おばあさんと一緒に住んでいた。

町外れの小さな家で家族と離れて暮らす三人は、町の人達から恐れられながらも、時に頼りにもされていた。

 幽霊が現れた時や不思議な事件が起こった時、町の人達はいつもその三人を頼った。とは言え、孫たちはまだまだ幼い子供だったので、出かけて行くのは専らおばあさんだが。

 その頃町では、子供の行方不明事件と放火事件が、立て続けに四件ずつ起こっていた。警察は最初、その二つを結び付けてはいなかったが、後にその考えを改める。現場調査の結果、放火被害に遭った場所からは例外なく、子供の死体が発見されたからだ。

 その死体は確かに行方不明になった子供の死体だったが、焼死体ではなく、四人とも、すでに白骨化した状態で見つかった。行方不明になっていた期間から考えて、あまりにも不自然だった。

「そして、ある蒸し暑い夏の夜の事デス。そう、ちょうど今夜みたいな」

 宮本が隣でブルッと震える。語り手である幻も、同じく身を震わせた。あの夜の事を思い出すと、いつも身がすくむ。

 放火の前に消えるのは、いつも子供だった。そして、その子供の死体を片付ける為であるかのように、放火が起こる。犯人は人ではないだろうと、町の人達の大半はそう思っていた。

 孫二人は、幼い頭で考えた。

『自分達が囮になって、悪い化け物を退治しよう』

 小さなエクソシスト達は、十字架とニンニク、聖水、聖書に鏡、とにかく魔物が嫌うとされるものをありったけ持ち出した。自分達が逆に襲われる事など、まるで考えていなかった。TVや映画で活躍するヒーローのように、正義は勝つものだと信じていた。

 二人は夜の森を歩いた。弟には、白い靄の塊が、木々の陰からじっと何体もこちらを見ているのが視えた。兄には、それらが会話するでもなくただ好き勝手に繰り返し繰り返し呟く声が聴こえた。

 それ自体は怖くなかった。二人にとっては、日常的な風景だったからだ。

 先に気付いたのは、弟の方だった。びくりと震えて足を止めた弟の視線を追って、兄も気付いた。すぐ目の前の木の後ろから、白い手がにゅっと突き出し、手招きしていたのだ。

「××、□□」

「何だ、グランマか」

 自分達の名前を呼ばれて、兄は警戒をといてその手の元へ走った。その声は、彼らのおばあさんの声だったからだ。

 弟が兄を止めようと手を伸ばしたが、兄はその手をスルリとすり抜け駆けていった。

「グラン……マ?」

 木陰から覗いていた手が、ぼたりと音を立てて地面に落ちる。足元まで転がってきたその腕は、もぎとられたのか、付け根より先がなかった。代わりに木陰から伸びた手は、病的なまでに白く、ヌルリと光沢をもっていた。ようやく兄も気付く。今自分達が対峙している者の正体を。

 逃げようとした兄の腕を、白い手ががっしと掴む。木陰から三メートルは伸びた腕。その手は鳥肌が立つ程に冷たく、兄はヒュッと息を飲んだ。弟は腰が抜けて、動けずにいる。十字架もニンニクも聖書も、何の役にもたたなかった。

 つかまれた腕の先を、兄は恐る恐る目で追っていく。木陰に隠れていた本体は、胴や頭といった器官はなく、ただのっぺりとした餅のような白い塊だった。ぎょろりとこちらを見た目は、一つきりの眼球に黒目が無数に並んでいた。

「××!」

 弟の叫ぶ声が聞こえた。いつの間にか目を閉じていた事に気付いた。……いや、気絶していたのかもしれない。

 とにかく兄は目を開けた。そして、目を開けた事を後悔した。

「……何を見たの?」

 悲鳴をあげる事すら忘れた女子が、ひそめた声で尋ねた。幻は笑顔を消したまま答える。

「兄弟が見たのは、おばあさんの死体でした」

 誰かが息を飲む音が聞こえた。

「化け物にバラバラにされたおばあさんの体をひとまとめにし、化け物は森に火をつけた」

「おい……おい、幻!」

「何? 宮本」

「もうやめろ、女子が一人気絶した」

「えっ」

 我に帰って見回すと、女子が一人床に倒れていて、他の女子が必死に声をかけている。

「う、うわああゴメンなさい! Are you OK!?」

 幻が慌てて駆け寄ると、倒れていた女子はゆっくりと目を開けて、力無く微笑んだ。

「ちょっと幻君の話が怖すぎて……。ちょっと休めば大丈夫だから」

 私は大丈夫だから行ってきて、という女子の言葉に従って、肝試しは続行された。倒れた子の介抱のため、女子は全員待機になったので、幻は男子からちょっぴり恨みがましい目を向けられたが。

「何が悲しくて、ヤローだけで肝試し……」

「まぁまぁ。……それにしても幻には驚いたなー! あんなに怪談うまいなんてさ」

 当初の予定では、一人ずつ墓地に入り、一番奥まで行って戻って来るはずだったのだが、予定変更で全員で行って戻って来る事になった。『女子が待っているので、時間短縮のため』と男子達は言ったが、ほぼ全員、懐中電灯を持つ手が震えていた。

「怪談八つ聞いて、幻の話が一番怖かったな……なんつーか、実話みたいだった」

 的を射すぎている感想に、ぎく、と肩を揺らす。

「そうデスか? アリガトね!」

 あはは、と笑いながら礼を言ってごまかす。

 足元を円形に照らす懐中電灯は五つ。そのうち異常なほどに焦点が定まっていないのが、宮本の懐中電灯だ。

「宮本ー、お前大丈夫かよ」

「女子三人と一緒に残っててもよかったんだぜ?」

「ううう、うるせえ!」

 からかい半分心配半分の声に、宮本は震える声で怒鳴る。そのあと続いた言葉は、笑い声でほぼかき消された。

「あっちにいる方が怖いわ」

 たまたま宮本の隣で、その小声の呟きが耳に届いた幻は、小首を傾げて宮本を見たが、聞きただす前に他の声があがる。

「お、あれだ。一番奥の墓」

 町の史跡に数えられるこの墓は、この町がまだ小さな集落だった頃の有力者の墓であるという。それも少年達の手にかかれば、肝試しスポットになってしまう訳だが。

 墓の前には、白いろうそくが七本と、マッチの箱があらかじめ用意されている。ここまで到達した証に、ここでろうそくに火を付け、一人一本ずつ持ち帰るはずだった。着火源がレトロにマッチなのは、恐怖に手が震えて火を付けられない者が出る事を密かに期待したからだ。

「よし、ろうそく・マッチ回収OKっと……」

「全部あるか? この寺の坊さん、ゴミ落とすとうるさいんだよ」

 言われてろうそくの数を数えた男子は、ちゃんと七本ある、と言って頷く。そこに首を傾げたのは幻だ。

「一本足りなくないデスか? 参加者八人ネ?」

「いや、参加者は七人だよ。ラッキーセブンー、とか言いながら、ろうそくバラ売りで買ってきたから覚えてる」

 幹事役の男子が差し出したレシートは、確かにろうそくを七本買った事になっていた。

「あれ、でも……今本堂で待ってる女子って、三人じゃないデシタか?」

 沈黙がおりた。その沈黙が、答えだ。

 ざわ、と湿った風が吹いた。誰かがごくりと生唾を飲み込む音が聞こえた。

 増えたひとりは誰だ、何者だ。

 誰もが同じ疑問を浮かべていたその時、宮本がごく自然な声で言った。

「お前らなー、常識的に考えろよ。飛び入りで参加した奴がいるんだろ。知らない奴が女子の中にいたか? ここにいるか? 全員クラスメイトだろうが」

 それもそうだ、と男子は安堵の溜息をついた。

「ったく、しっかりしてくれよ。お前らが怖がってたら俺が怖がれないだろー」

「その理屈おかしくね?」

 宮本の言葉に、幻以外の全員が笑っていた。

 寺の本堂へ戻ると、倒れた女子は大分顔色がよくなっていた。 当然の事ながら、今夜はこのまま解散という流れになる。倒れた女子については、親を呼ぼうと提案したが、自分で歩いて帰れると首を振った。

 靴を履き、次々に皆外へ出ていく。最後になった幻は、キョロキョロと本堂の中を見渡した。

「どーした? 忘れ物?」

 宮本が外から声をかけると、幻は笑って、ううん、と首を振った。

 みしみしと鳴る木製の階段の下には、女子が二人、男子が四人。

 ――自分を入れても、ひとり足りない。

 男子は、さっき墓場の真ん中で参加者は八人いたと確認し、背筋を凍らせたばかりだ。女子に至っては一緒にいたはずなのに、何故何も言わないのだろう。

 しかしここでまた自分が声を上げると、変に思われる可能性がある。皆が疑問に思っていないのなら、それに合わせるべきだ……今のところは。

 そう思った幻は、何も言わずに皆と別れた。

 帰り道が途中まで一緒の宮本と二人で、黙々と夜道を歩く。幻は考え事をしているのでだんまりだ。宮本も自分からは喋らなかった。しばらくして、唐突ともとれるタイミングで宮本が口を開いた。

「先に帰ったんだろ。気にすんなよ」

 宮本の言葉に顔を上げると、視線がかちあう。

「ひとり減った女子。その事考えてるだろ、ずっと」

「常識的に考えて、デスか?」

 墓場でそう言った宮本の言葉は、ごまかしだったと今ではハッキリ分かる。

『常識的に考えて』。そんなもの、この町でどれ程通用するというのか。

「宮本も、あやかしと関わりのある人だったデスか」

「……まあ、ちょっとだけはな。普段はほとんどわかんねえよ」

 がしがしと髪をかきむしりながら、宮本はバツが悪そうに唇を尖らせた。

「隠してたわけじゃねえけど、気悪くしたならすまん」

「それはNo problemデスけど」

 むしろ幻は、自分があやかしを視聴きできる人間だと、とっくに宮本にバレていた事の方が後ろめたい。宮本は『隠していなかった』らしいが、幻は意図的に『隠していた』からだ。

「いなくなった女の子は、ホントに大丈夫ネ?」

「小田(おだ)か? 大丈夫だよ。そうそうあってたまるか、あやかしごとなんて」

 宮本がめんどくさそうに首を振る。

「でもまあ一応、明日になったら電話かけてみるわ。一応な」

「そういえば宮本は、小田さんと仲良しデシタ」

「幼なじみの腐れ縁だよ、ほっとけ。……あ、神社はそっちだよな」

「ハイ。それじゃ、気をつけて。オヤスミナサイませね」

「おう。夏休み中どっかで遊ぼうぜ。連絡するー」

 分かれ道で宮本と別れ、幻は宮本の背を見送った。



 宮本から電話があったのは、終業式と肝試しのあった日の2日後、夏休み二日目の朝の事だった。

「幻、今日神社に行っていいか」

 電話越しの宮本の声は硬い。幻は眉を寄せ、どうしたのかと尋ねた。

「小田が、あの日から帰ってない」

 言葉少なに告げられた事実が、返って宮本の心痛を表していた。

「……分かった。社達と待ってるよ」

 幻は電話を切ってすぐ、庭先にいるはずの社の元へ走った。

「……どうしてその時に、その子を探さなかった」

 痛いところをついたのは、社ではなく真稚だ。幻は答えられずに俯く。それを見た社が、庭先の家庭菜園から熟れたトマトを収穫しながら執り成した。

「まあまあ。幻だけがそれを責められるのは可哀相だよ。……それにしても、七人いて誰も探そうとしなかったのは、怖いね」

 おかしいね、ともよくないね、とも言わずに、怖いねと言った。幻は社に頷いてみせる。

 誰ひとり、あの場で小田を探そうとか、連絡を取ろうとすら思い付かなかった。何かの力が働いていたとしか思えない。

「僕、これとよく似た事件を知ってるよ」

 行方知れずの子供と、放火事件。あの時と一緒なら、まだ間に合う。放火事件が起こる前に、小田を見つける事ができれば、まだ間に合うはずだ。



「鵺の兄さん、お久しぶりです」

「元気そうだね、通(とおる)君」

 電話してすぐ家を出たのだろう、すぐに神社にやって来た宮本は、社に頭を下げた。旧知の様子に、幻は目を丸くする。

「知り合いだったデスか?」

「昔、あやかしごとで世話になったことがあってさ」

 宮本は落ち着かない様子でキョロキョロと目を泳がせている。

「今日はあの、白い子は……」

「真稚なら出かけてるよ」

 その答えにホッとしたらしい宮本と、それにムッとしたらしい社。

幻は二人の様子に小首を傾げたが、今は小田が心配だ。早々に話を切り出した。

「小田サンが、帰ってないというのは?」

「……ああ。小田ん家のおばさんが言うには、一昨日の夕方、肝試しに向かったきり帰ってないらしい」

「ただの家出の可能性は?」

 社はいつもと変わらず微笑んでいたが、言葉の端に若干の棘がある。宮本は一瞬怯んだが、すぐに首を横に振った。

「あいつ、明後日の出かける予定をすごく楽しみにしてたから、家出はちょっと考えられない」

 幻はその言い回しにぴんときた。

「……もしかして小田サン、宮本と出かける予定だったデスか?」

 宮本は一気に動揺して、パクパクと口を開閉する。

「何で分かったんだお前……! エスパーか!」

「まずは、当日の様子を教えてくれる?」

 宮本と幻は顔を見合わせ、一昨日の記憶をたどる。

「俺達が墓場に行く前はいたよな」

「ハイ。で僕の話で気を失ってしまった子の看病するのに、本堂に残ってたネ」

「最後に会ったのは女子のどっちかか」

「連絡取れる?」

「あ、ハイ」

 宮本が携帯電話を取り出し、電話をかけた。少しして繋がったらしい電話を社に渡す。

 社が電話越しにいくつか質問している間、宮本は社が置いていた冷たい麦茶を半分ほど飲んだ。

「電話の相手はどっちデス? 倒れた方の……?」

「じゃない方」

「ああ、渡辺サン……」

「そうそう」

 介抱役の女子は渡辺。だが幻は、倒れた方の女子の名がどうしても思い出せないでいた。宮本に聞くのも気が引ける。

『クラスメイトの名前をまだ覚えていないのか』と思われるのはちょっと嫌だ。

(それにしても、なんでど忘れしちゃったかなあ)

 幻は記憶力はいい方だ。その自負もある。転入してきて3ヶ月以上経つのに、毎日会うクラスメイトの名前を思い出せないなど、自信喪失モノだ。

 その時不意に宮本が、申し訳なさそうな声を出した。

「あのさぁ幻。倒れた方の女子って、何て名前だっけ……?」

「え?……宮本も思い出せないデスか?」

「も、ってことは……お前も?」

 二人は顔を見合わせ目を丸くする。社がその様子を見て頷いた。

「君達も気付いたみたいだね。電話でも確認した、間違いない」

 パチン、と二つ折の携帯電話を閉じて、断言した。

「倒れたその子があやかしだ」


 肝試しをした寺へ、急いで向かう事になった。戸締まりをし、すぐに出発するのかと思ったら、ぐるりと回って神社の敷地へ出た。

 蝉の鳴く声が、暑さを増しているように思う。神社の境内は木陰が多いが、日向には一分といられない暑さだ。それでも高台のここは街より涼しく、街へおりれば日向には十秒といられない。

 境内でも一番大きなイチョウの樹の根本から、上に向かって社が声を張り上げた。

「真稚! 出かけるよ!」

 返事はない。社の声が一段大きくなった。

「家は戸締まりしちゃったから、一緒に来なさい!」

 一瞬、境内中の蝉が一斉に鳴くのを止めた。宮本がビクッと肩を震わせて辺りを見渡す。しかし社は小さく嘆息しただけで、語気を和らげた。

「言い方を間違えた。君がいないと困るんだ。一緒に来て?」

 樹上から複雑そうな表情をした真稚が降りてくるまで、十秒とかからなかった。



「ああ……寺って三和(みわ)さんの所だったのか」

 幻と宮本の案内で寺の門前まで来た社の表情は、明るいとは言い難い。帽子を深く被った真稚が、フンと鼻を鳴らす。

「ここの和尚はあやかしが見えないばかりか、信じてすらいなかったな」

「そんな言い方しない。……まあそういう人はたくさんいるけど、息子の弘道(ひろみち)君には災難だったよね……」

 その口ぶりからすると、その息子の方はあやかしが見えるのだろう。幻が自分の境遇と重ね合わせて、軽く目を伏せた時だった。

「俺が何だって?」

 石段の上に、いつの間にか一人の少年が立っていた。

 中学三年生くらいだろうか。短く刈り上げた坊主頭と三白眼が、夏の日差しを照り返す。

「社家の高遠がうちの寺に何の用だ」

 見下ろす視線には敵意が篭っている。幻と宮本が気後れしている間にも、社はいつもの微笑を向ける。

「弘道君、久しぶり。ちょっと寺に入れてもらえるかな」

「ざけんな。さっさと帰れ」

 にべもない答えを吐き捨て、踵を返した背中に、真稚が声をかける。

「お前だけで追い払えるのか」

 ピタリと歩みが止まった。

「また寺を焼きたいのか?」

 真稚のその言葉は追い討ちだった。 盛大な舌打ちをして、弘道は真稚を睨みつける。

「うるせぇんだよ、化け物が!」

「!」

「なっ……」

「化け物って!」

 暴言に反応したのは三人で、当の本人はどこ吹く風だった。

「七年前の事を忘れたのか? その化け物に頼らないと、お前の寺はまた焼けるぞ」

 真稚は弘道の許可を待たずに石段を登りはじめた。弘道の隣を通り抜ける時も、弘道は何も言わずただじっと睨みつけるだけだ。

 社が追って石段を登り、幻と宮本も続く。石段の一番上で、社は弘道の前に立った。

「……本人が気にしてないから、さっきの暴言は聞き流すよ。でも、次はない」

 ざり、と弘道が一歩後ずさる。顔色が真っ青だ。幻達から社の表情は見えないが、みえなくてよかったのかもしれない。

 三人が寺の境内に入ったあとも、弘道はしばらくそこで立ち尽くしていた。

「……あんな事、言われ慣れてる。だからそんなに怒るなよ社」

「言われ慣れてるからって、言っていい事にはならない。真稚もあんな言葉に慣れるな」

 普段の柔和な微笑をかなぐり捨てて、怖い顔をしている社を見て、真稚はどこか嬉しそうだ。

「さて始めるか。敵は本堂にあり、だ」

 真稚は珍しく不敵な笑みさえ浮かべてみせた。

「……じゃあ真稚、頼む」

 反して、そう言った社の表情は悲痛なもので、真稚の方が苦笑してしまうほどだ。

「そんな顔するな。私は大丈夫だ」

「……うん。信じてるけど、気をつけて」

 小さく笑ってから、真稚は目を閉じた。

「?」

 何が始まるのか尋ねようとした瞬間、真稚が膝から崩れ落ちた。予想していたのか、危なげなく社が抱きとめる。ゆっくりと開かれた真稚の瞳は、普段の透き通る赤ではなく、どんよりと暗く昏く濁った漆黒だった。

 社の腕を振り払って跳びすさり、距離をとった真稚は、口角を限界まで上げて笑った。

(違う……真稚じゃない)

「鵺の兄さん、あれ……」

 宮本も、異常に気付いたらしい。社が頷く。

「今真稚に憑いているのが、小田さんを隠したあやかしだよ」

 真稚……否、あやかしは、深く被った帽子の奥でくつくつと笑う。

「見つかった……ふふ。仕方ない」

 どさ、と背後で音がした。幻と宮本が振り返ると、さっきまでなにもなかった空間に、小田が横たわっていた。

「通君、小田さんを安全な所へ。そうだな、弘道君の所に。急いで」

 宮本は頷き、幻の助けを借りて小田を背負った。

「幻、お前は? 逃げないのか」

 宮本の問いに、幻は頷く。

「ハイ。……あのあやかしには、聞きたい事ありマス。宮本は早く行って」

 後ろ髪をひかれながらも宮本が去ると、社は幻に憐れんだような目を向けた。

「幻……あのあやかしは、君の探してるあやかしとは違うよ」

「……でも、もしかしたら仲間かもしれない」

 幻の翠の目は、頑なな光を放っている。社は溜息をついた。

「聞きたい事がある、か。じゃあ聞いてきたら」

「いいの?」

「あやかしと会話しようと思うなんて、むしろ進歩でしょ。少し前なら問答無用で殲滅だったじゃない?」

 幻は苦笑して、黒い目の真稚と向き合った。

「……お前、何だ」

「幻・イグアス。聞きたい事がある。僕のグランマを殺したあやかしを知らないか」

 あやかしはしばらく沈黙した。その間も口許は笑ったままで、正直不気味だ。

「知っていたらどうする」

「会わせてほしい」

「何のために?」

 何のために。

 少し前なら、社の言う通り、消滅させるためだと答えただろう。だけど、今は。

「グランマの遺骸を取り戻したい」

 倒すためではない。

 もちろん、許す事は出来ない。今も背中越しに見守ってくれている(はずの)祖母に、笑ってもらうために、幻は選んだ。

 社の満足げな微笑が、視界の端にうつった。

「…………」

 笑ったまま、あやかしはくくっと首を回す。瞬きをしない漆黒の瞳が、北東を見た。

「この町の鬼門」

「え?」

「そこにいた。なかま」

 北東。その方角を見つめて、幻は一瞬気を抜いた。

「あの女の代わり、お前でいい。お前がいい」

 ハッとして目を戻すと、真稚が――あやかしが跳躍した所だった。向かった先は、本堂の入口。そこには宮本が立っていた。

「宮本!」

 幻の叫びなど何の役にもたたなかった。

だが、あやかしの手が宮本へ届く事はなかった。真稚を床へ組み伏せている、少女の姿の別のあやかし。宮本の背後から進み出たのは、幻とよく似た顔立ちの青年。

「おー、あっぶねえ……好、吉鈴(きつりん)」

「荘(そう)!? ……と、吉鈴さん!」

 風水・漢方の吉祥堂の主人、荘吉祥(きっしょう)とその連れのあやかし、吉鈴。

「丁度漢方薬届けに来てたんだよ。すっげぇタイミングよかったな。俺が来てなかったらお前死んでたぞ」

 そう言って宮本の肩を叩く荘。宮本は青ざめながら真稚を見下ろしていた。

「助かったよ、荘さん。吉鈴もありがとう。もう離していいよ」

「鵺の大哥、珍しいな。あんたがこんな片手落ちな事するなんざ」

「あやかしは俺を狙うはずだったんだけどね。読みが外れた」

 苦笑する社に、荘は声をあげて笑った。

「それはねぇだろ! 鵺の大哥を襲うような根性あるあやかしなんざ、いるなら会ってみてえもんだぜ」

「ここにいるぞ」

 一瞬、宮本の呟きの意味が解らなかった幻は、怪訝な顔で宮本を振り返った。その口許が、限界まで口角を上げた笑みを形作っているのを見て、目を見張る。

「社!」

 幻が発した警告の声と、宮本の跳躍はほぼ同時だった。咄嗟に前に出して身を庇った社の右上腕が、すれ違いざまに噛みちぎられた。

「……っ」

 押さえた指の隙間から、ぼたぼたっと血が落ちる。それを見た瞬間、幻の視界がぐらりと揺れた。

「大哥! 阿幻! あーもう……! 吉鈴、小姐はもういい、今度はあっちの孺子だ!」

 吉祥の焦った声が聞こえる。宮本の狂ったような笑顔と床に散った赤い血痕だけが、歪んだ視界の中でハッキリ見えた。

 社をもう一度襲う為か、宮本は――否、宮本に取り憑いたあやかしはきゅっと床を鳴らして身を反転させる。同時に幻は床を蹴った。

 鈍い音と共に、幻の拳が宮本の胴に入った。宮本はそのまま吹っ飛び、壁にぶち当たって止まる。尚も追い縋ろうとした幻の腕を取り、制止したのは社だった。

「もうやめて。外身は通君だから……死んでしまうよ」

 掴まれた腕がぬるりと滑る。血まみれの手で幻を制止する社の瞳の奥に、またちらちらと赤い光が揺れていた。

 我に返った幻は、ズズッと壁にそってくずおれた宮本を見て、小さく悲鳴をあげた。

「ああ、宮本……!」

「……大丈夫だよ、命に別状はない。それより離れて。『出て』くる」

 開いたままの宮本の口から、黒い霧が立ち上る。羽虫が集まったような黒い塊は、未だに社を狙っているようだった。

 わぁん、と耳障りな音を立てて社を飲み込む。

「退け」

 その声は囁くような小さな声だった。が、一番離れていた荘の耳にも届いた。

 その声は重く、音自体が意志を持っているかのように頭の中に響く。幻はまた、視界が揺れるのを感じた。

「俺に憑こうなど、身の程知らずもいい所だ」

 低い呟きに怯えるように、黒い塊がざぁっと社から離れる。社はカッと目を見開き、叫んだ。

「散れ!」

 その声で、黒い塊は霧散した。呆気なく、跡形もなく。

 同時に、幻の視界がぐるんとまわり、ゴトンと鈍い音がした。幻はそれが自分が倒れた音だと理解するまでに少し時間がかかった。

「阿幻、しっかりしろ」

 荘に肩を揺すられてようやく、自分に起きた異変に気付いた。

「大哥、やり過ぎだ! 吉鈴まで姿を保てなくなったぞ!?」

「ごめん、ちょっと……抑えが効かなく、て」

 社は青い顔でそう言うと、ふらりとよろめきそのまま倒れた。



 幻が目を覚ましたのは、高遠家の自分の部屋だった。

 見慣れた天井をボーッと見つめていると、視界の端に真稚の顔がひょこりと現れ、一瞬目を丸くしてから走っていった。

「おい! 幻が起きた!」

 そんな声を聞きながら、幻は身を起こす。何があったのか順に思い出していって、記憶を失う直前の事を思い出し、完全に覚醒した。

「社と宮本!」

 上掛けをはねのけ、部屋を飛び出そうとしたところで、黒目がちのあやかしの少女とぶつかりそうになる。吉鈴だ。

 ぱくぱくと口を開閉し、何か喋っているようだが、幻にはまだ聴こえない。ごめんね、聴こえないんだ、と言おうとしたその時。

「……大丈夫ですか?」

 聞いたことのない声が聴こえた。鈴を振るようなかわいらしい少女の声。

 幻はきょろきょろと辺りを一通り伺ってから、吉鈴に目を戻した。吉鈴は心配そうな顔で繰り返す。

「幻様、大丈夫ですか?」

 幻は目を丸くし、声をなくしたようにぱくぱくと口を開閉した。とたとたとやってきた真稚と荘が、その光景を見て首を傾げる。

「どうした、幻」

「まだ具合悪りいのか?」

「違うよ!」

 幻はフルフルと首を振り、吉鈴の手を取った。

「吉鈴の声が『聴』こえたんだ!」

 吉鈴の手を取って喜んでいる幻を見て、真稚は一瞬だけ微かに複雑そうな顔をした。幻はそれを見てはいなかったが。

「へーい、そりゃよかったねーっとぉ」

 手刀で幻と吉鈴の繋いだ手をぶった切り、荘は吉鈴をすっぽり腕に抱きながら、幻にジト目を向けた。

「吉鈴がいくら可愛いからって阿幻にはやんねーからな。コイツは俺のだ」

「へっ!? 別に盗ろうだなんて思ってないよ!」

 慌てて手を振る幻が、はたと動きを止める。

「社と宮本は?」

 真稚と荘が黙り、吉鈴が俯いた。幻はその反応に胸騒ぎを覚えて、拳を握った。

「二人は無事なの? 会わせて」

「宮本とかいうヤツは、あの後すぐに目を覚ましたから……小田とやらと一緒に家に帰した」

 少しホッとして息をついたが、まだ胸騒ぎは消えない。

「……社は?」

「まだ起きてない」

 真稚の簡潔な答えは、普段からは考えられないほど覇気のない声だった。荘が吉鈴の頭を撫でながら、言いにくそうに続ける。

「コイツはこう見えて、力のあるあやかしだ。その吉鈴ですらこの姿に戻れるまでに、三日かかった。大哥は、力加減を間違えたんだ。らしくもねえ」

「ちょっと待って、三日? 今日何日? 僕、どれだけ寝てたの!?」

 真稚が壁のカレンダーにとんと細い指を置いた。

 七月二十九日。寺に行った日から、六日が過ぎていた。



 社は、病院に入院しているわけでも、点滴が繋がれているわけでもなく、ただただ眠っているだけだという。

 幻は、初めて社の部屋に入った。小さな桐箪笥が一つと、座卓と座椅子、布団が一組。それ以外には何もない部屋だった。まるで旅館の部屋だ。

 その真ん中で、部屋の主は静かに眠っている。

「怪我してた、よね? それは平気なの?」

 あの時、あやかしに負わされた腕の怪我は重傷に見えた。社の腕には包帯が巻いてあるが、病院で手当てをしなくても大丈夫なのだろうか。

「無問題! そこは安心しろよ、俺が自家製膏薬で手当てしたからよ」

 そう言って胸を張る荘を、幻は半目で見つめる。

「……何だか心配」

「こらてめえ」

 軽口にニコリともせず、真稚は社の寝顔を見つめている。吉鈴がその肩にそっと手を添えた。

「真稚様。社様はきっとすぐに目を覚ましますよ」

「……うん。ありがとう吉鈴」

 すん、と鼻を鳴らした真稚の赤い目は、少し潤んでいた。

「それにしても、すごい力だったな! あやかしでない俺達ですら、昏倒しかけたもんな」

 それで自分も、眩暈を起こしたりしたのか。幻は納得した。

「力が回復すりゃ目ぇ覚ます。気長に待てって。なっ、小姐」

「お前に言われなくても分かってる」

「吉鈴の時と態度違いすぎねぇか……?」

 ジロリと睨まれた荘は、ガクリと肩を落とした。



 風鈴の音が鳴り、蝉時雨が降り注ぐ。だが、その音は前ほど輝いては聞こえない。

 肝試しなんて行かなきゃよかった。もう何度、そうやって自分を責めただろう。

 幻は縁側で、日がなボンヤリと過ごしていた。荘と吉鈴が、毎日通ってきて家事をしたり社の様子を見たりしてくれている。

 真稚は一言も幻を責めなかった。むしろ、真稚も自身を責めていた。自分に憑いたあやかしを逃がさなければ、宮本に移る事もなかった、と。

生気のない声で吉鈴にそう言っていたのを、幻は物陰から聞いた。勿論、吉鈴は否定していたし、幻も物陰から出ていってそれは違うと言いたいくらいだった。

(あやかしを憎むよりも、誰かを喜ばせる事をしようって決めたばかりなのに)

 もしこのまま社が目覚めなかったら。

「僕はまた、あやかしを仇と憎んじゃいそうだよ……」

『……それは困るなあ』

「でしょ? だから早く起きてよ社」

『そうだね、まだ少し足りないけど……。真稚も大分凹んでいて可哀相だし、そろそろ起きようかな』

「そうだよ……って、え!?」

 幻が振り向いても、そこには誰もいない。

 誰と会話していたんだ、自分は。そう自身に問うが、答えは既に分かっていた。少し苦笑気味のあの声音。聞き間違える事はない。幻は転びそうになりながら、社の部屋へ走った。

 部屋の前で真稚と鉢合わせた。

「真稚」

「ああ」

 それだけで事情は通じた。襖戸をそっとあける。

 開け放たれた窓から風が抜けた。その窓辺に、社は立っていた。

「おはよう、二人共。心配かけてごめんね」

 にこ、と笑うその表情は、いつもと同じ苦笑気味の微笑。

「寝坊しすぎだ、バカ」

 真稚がホッとした顔で、部屋へ入っていく。

 ああ、ようやく夏の音が輝きはじめた。

 幻は窓の外から聞こえる蝉時雨に耳を傾け、そう思った。



「あやかしの声が聴こえるようになった?」

 居間に場所を移し、あれからの話をする。

 幻の話を聞いた時が、一番驚いた顔をしていた。

「そうか……。じゃあ待子さんとも話したの?」

 そう聞かれて初めて、まだ話していないことに気付いた。首を横に振ると、社は笑って頷く。

「まだムラがあるみたいだね。そのうち聴こえるかもしれないよ」

「そーだな。耳澄ましとけよ」

 荘が笑いながらバシバシと背中を叩く。

「しっかしどんどんこの町に染まってくな、阿幻は」

「?」

「あやかしに馴れてきたよなって事」

 確かにそうかもしれない。祖母の仇のあやかしを探しに来た町で、あやかしと馴れ合う事になるとは、思ってもみなかった。

 だけど悪い気分じゃない。幻は微笑で答えに代えた。

 宮本が訪ねて来たのは、七月最後の日だった。

 幻が連絡すると、今から行くと言って本当にすぐにすっ飛んできた。

「二人が目ぇ覚めてホントによかったよ……!」

 目を潤ませながら笑う宮本に、社が苦笑しながら宮本の手土産のメロンを切って持ってきた。

「心配かけてごめんね。手土産ありがとう」

「いえ。兄さん、腕の怪我は大丈夫なんすか」

「うん、すぐ治るよ」

 宮本は、社の腕に傷を負わせたのがあやかしに憑かれた自分だという事を覚えていなかった。そして、誰もそれを伝えようとはしない。伝える必要もない。

「小田さんも大丈夫なの?」

「結構衰弱してたけど、もうピンピンしてますよ。桃買ってきてだのマンガ持ってきてだの、毎日うるさくて」

「毎日見舞い行ってるデスか」

 幻のからかい口調に、宮本はツルンとメロンを落っことす。

「俺、真稚にメロン渡してくるから。ごゆっくり」

 社が小鉢を手に、外へ出ていく。またあの桜の樹の所だろう。社を見送ってから、幻は宮本に向き直る。

「宮本、頼んでたモノあったですか」

「ああ、持ってきた。でも何に使うんだ? 鵺栖町の地図なんて」

 幻は曖昧に笑って、受けとった地図帳を開く。こないだの寺の位置を確認し、そこから北東へ指を滑らせた。

「……え」

 幻は身を強張らせた。

 そこには鳥居の地図記号と、『鵺栖神社』の文字が印刷されていた。

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