第3話・6月


「うう、今日も雨か」

 朝起きて、自室の窓から外を見るのは幻(げん)の日課だ。六月に入ってからここの所、ずっと雨が続いている。

「仕方ないだろ、梅雨なんだから」

 朝食の席でぼやくと、真稚(まわか)が素っ気なく答えた。

 幻の向かいで味噌汁をすすっている真稚の白銀の髪は、肩にかかるくらいの長さになっている。先月のあやかしとの一件でざんばらになった髪を切り揃えた後、ほんの少し伸びた。それでも、背中まであった元の長さに戻るまでには、まだ大分かかりそうだ。

 社(やしろ)が窓の外に意識を向けながら言う。

「今日は特にひどい雨だよ。台風が近付いてるらしいから、登校する時は気をつけてね」

「わお、タイフーンか……。分かった」

 今日は寄り道せずに、まっすぐ帰ってきた方がよさそうだ。宮本(みやもと)と遊ぶ約束をしていたが延期してもらおう、と幻はぼんやり思った。



 登校しただけで制服のスラックスはびしょ濡れになり、それが乾く前に、授業が中止になった。このままでは台風の直撃を受け、電車が止まって、電車利用の生徒が帰れなくなる可能性が出てきたからだ。

 濡れた靴を履き、傘をさして校門を出る。強風にあおられて斜めに降る強い雨に、傘が全く役にたたない。幻は諦めて傘を閉じ、いっそ濡れて帰る事にした。

 社に怒られるかもなあ、と思いながら神社への道を歩いていると、雨でけぶる視界に人影が見えた。この土砂降りの中を傘も持たずに、ガードレールに手をついて、じっと眼下の町並みを見つめている。

(今の僕が言うのも何だけど……変なの)

 訝るが、道は一本道だ。回避のしようもない。幻は多少警戒しながら、その人影の後ろを通り過ぎる為に歩を進める。

 近付くにつれ、人影が若い男であることが分かった。社と同じくらいの年齢だろう。根本が黒くなった金髪と、切れ長の目。黒いスーツ、黒いネクタイ。喪服を着て町並みを睨むその姿は、控えめに言ってもやはりおかしかった。

 幻が早足で、後ろを通り過ぎるその瞬間、男が振り向く。横目で窺っていた幻は、まともに目が合って動揺し、ぱっと目を逸らしてしまった。

「そんなに警戒せんといてよ」

 笑いまじりのその言葉は、幻の知っている日本語と少しイントネーションが違う。

「鵺の兄さんとこの居候やろ。ちょぉ話ええかな?」

「Er...I'm sorry,I can't understand you.」

 幻はいつもの片言すら使わず、日本語が分からないフリをしてみたが、失敗だった。男はふっと目を細めると、幻の頭にガツンと拳を落としたのだ。

「アホか! お前が日本語喋れることくらい知っとるわボケ!」

 すごい剣幕で怒鳴る声も、雨にかきけされてしまいそうだ。

「あー……とりあえず、神社行かんか。えらい雨やで、今更やけど」

 濡れた髪をけだるげにかきあげて、男は言う。

「俺は羽田(はねだ)観(かん)。この街のあやかしごとに当たっとるうちの一人や」



「うっわあ……どこで溺れてきたの……」

 玄関で全身からポタポタ雫を落とす二人を見て、社は呆れた声をあげた。ヒョコリと顔を出した真稚が、観を見てぴゃっと隠れた。

「真稚、タオル二枚持ってきて! ……羽田君、傘も持たずにどうしたの」

「傘さしたかて意味ないやん、こんな雨風。お、おーきにワカちゃん♪」

 真稚が遠くから投げてよこしたタオルを受けとって、観はヘラッと笑って手を振る。

「それより鵺のあんちゃん。また出よったで」

 その一言で、場の空気が変わったことに幻は気付いた。タオルで髪を拭きながら、口は挟まず様子を伺う。

 社が幻をチラリと見てから、説明を始めた。

「先月、俺が対処したあやかしごとの中に、羽田君に手伝ってもらった一件があってね」

 幻は先月、荘(そう)に言われた事を思い出した。社が毎日どれだけの件数のあやかしごとをさばいているか、知っているのかと。

「不十分だったってことかな……ちゃんと対処したつもりだったんだけど」

 社が首を傾げると、観が手を振った。

「ちゃうねん、こないだのはちゃんと祓えてんねん」

「へぇ?」

 目をしばたたかせる社に、観は腕組みをして続ける。

「現象は変わらんのやけどな。今回は個体としては別モンやと思うわ」

「……どこで何が起こったんだ」

 聞きたい事を、廊下の奥から真稚が代弁してくれた。幻はコクリと喉を鳴らし、答えを待って観を注視する。観は重々しく唇を開いた。

「初めはな、鵺栖(ぬえす)病院の霊安室で、腐らない死体が出よったとこからや」

 ――鵺栖病院の霊安室のエアコンが故障し、低温を保つはずの設定が真夏並みの高温になってしまったらしい。その上エアコンの故障に気づくのが遅れ、安置していた身寄りのない遺体がまるまる二日間、高温多湿の状態にさらされていた。通常ならば、腐敗が始まってしまっているはずだった。

 しかし霊安室に横たわる遺体は、腐敗どころか肌の赤みさえ失われていなかった。

「どういう事だ? 生きてたのか?」

 真稚の言葉に観が首を振る。

「いや。死んどるのに綺麗過ぎるんや……血の気も引かんと肌ツヤも良くてな、蘇生したんかと慌てて調べても、確かに死んどるんやて」

「その時のあやかしは、死体に取り憑いて悪さをするやつだったけど……今回は? 何か起こった?」

 社が真剣な目で観に尋ねる。これが社の、仕事をする時の顔か。幻はそう思った。

観はまだ湿っている髪を撫で付けながら、肩をすくめる。

「いやな、あやかし関連は何も起こっとらんねん。問題は……人間のほうやな」

「?」

「五日前に、三十代の奥さんが亡うなったんや。その三歳の息子が、眠っとる様にしか見えんお母ちゃんの側から離れんねん」

 社が痛ましげに眉を寄せ、目を伏せる。

「……そうか。……でもそのままにはしておけないよね。無理にでも引き離して、葬式をあげるしか。……十八番でしょ、羽田君の」

「葬式が十八番?」

 思わず怪訝な声を出してしまった幻に、観はニヤリと笑う。

「俺んち葬儀屋やねん。羽田葬祭、覚えといてや」

 葬儀屋ならば、確かに葬儀はお手の物だろう。観は幻に笑いかけてから、社に目を戻した。

「せやけどな、旦那の方も疑い出しとんねん」

「何を?」

「ホンマにお母ちゃんは死んどるんか? って」

 社は呆れた顔で首を振る。

「子供ならまだしも、いい大人がそんな事を言い出すなんて」

「……悲しい気持ちに、子供も大人も関係ないやろ。疑いたなるんは分かるねん、ホンマに寝てるみたいやもん。……心臓も息も止まっとんのやけどな」

 目を伏せる観の前髪から、ポタリと雫が落ちた。

「ま、ええわ。一応報告だけはしたったからな。ほな俺は帰るわ。タオルおおきに」

 タオルを社に放り投げ、観は玄関の引き戸をあける。その途端、ものすごい雨と風が吹き込んできた。消防用ホースで放水でも喰らったかのようだった。

「ぶはぁっ! 何やのこれ、陸の上で溺れてまうわ!」

 思わず扉を閉めた観に、社はもう一度タオルを渡しながら言った。

「雨が弱まるまであがっていきなよ。泊まっていってもいいしね」

 陰から「げっ」という真稚の声がした。



 結局、風雨は夜になっても弱まることはなく、観は高遠(たかとう)家に泊まる事になった。

 風呂あがりで浴衣姿の観は、複雑な表情で夕飯を口に運んでいた。長身の観の体格に合う服は、社の祖父の浴衣しかなかった。

「何やすまんな、世話んなってしもて」

「気にしないで。いつも世話になってるのはこっちだし」

 社が幻に白飯のおかわりをよそりながら、首を振る。

「ワカちゃんもそんな膨れっ面せんといてや……」

 真稚は牙でも剥きそうな顔で、観をずっと睨んでいた。

 夜も更け、観は幻の部屋に布団を敷いて寝ることになった。

「悪いなぁ、相部屋させてもろて」

「ううん、いいですよー」

「せや、あのな。俺多分、寝てるとき寝言とか色々すごいと思うんやけど、堪忍してな」

「大丈夫ですよ。俺、結構眠り深いし!」

 なんとか二組敷き詰めた布団に入り、電気を消すと、すぐに観の寝息が聞こえた。

(寝付き早っ! ……疲れてたのかな)

 窓の外では、まだごうごうと風の暴れる音がしている。神経質な人なら寝られないくらいにはうるさい。だが幻も、どちらかと言えば寝付きはいい方だ。

そっと目を閉じ、眠りに落ちていく。そして眠りの底へたどりつこうとしたその直前。

「……でない……」

 すぐ耳元で小さな囁き声を聞いて、幻は布団の中でビクッと肩を震わせた。

 驚いて身を起こそうと幻は思ったが、身体は指一本動かせない。声も出せなければ目をあける事もできなかった。

(金縛り……って言うんだっけこういうの)

 話には聞いていたが、実際に体験するのは初めてだ。音で状況を感じるしかない。幻は布団の中で、全力で耳を澄ませた。

「死んでない……死んでない……」

 吐息のような小さな囁き声は、そう繰り返していた。それは間違いなく観の声だったが、ただの寝言にしては何か違和感を感じた。

「死んでない死んでない死んでない死んでない死んでない死んでない死んでない……」

 繰り返される言葉の意味が分からない。幻は金縛りで動かない身体に焦りを感じていた。

(観は大丈夫なのか!?)

 音しか聞こえない状況でも、観の様子は明らかにおかしいとわかる。なのに、起こしてもやれない。

(どうしたらいいの……、グランマ!)

 幻は思わず、見えない祖母にすがった。

 瞼の向こうで、ぱっと白い光が見えた瞬間、幻の目が開く。目を開いて一番最初に目にはいったのは、見慣れてきた天井ではなく、幻を見下ろしている子供の姿だった。

 三歳くらいの小さな少年だろう。色も白く、輪郭がゆらゆらしている。その中にあっても黒々と目立つ大きな瞳。何も映さない硝子玉のような瞳。

息を呑んだ瞬間、ひゅっと喉が鳴った。

「うわあああああああああああああ!」

 悲鳴をあげた瞬間に、子供の姿は消えた。すぐに廊下を走る足音が聞こえてきて、社が飛び込んできた。

「大丈夫、幻? すごい悲鳴が聞こえたけど……」

「俺は平気。それより、観が……!」

「俺がどうかしたんか?」

「え」

 室内が明るくなる。電気をつけたのは観だ。何事もなかったように、眠そうな目をこすっている。

「あ、あれ……?」

 幻がキョトンとした顔で観を見つめていると、観がニヤリと笑った。

「どないしたん、幻。そんな『オバケでも見たような』顔しよって」

「!」

 観は、幻が視たものを知っている。そう確信した。

 表情を変えた幻を見て、観は社に見えない角度で唇に指をあて目配せした。幻は横目で社を窺う。社には言えない事なのか?

「えーと、じゃあ何もなかった……んだね?」

 社が小首を傾げながら尋ねると、観は幻に答えを促す。幻はコクリと頷いた。

 社が気にしつつも自室へ帰っていったのを見送ってから、幻は観に向き直る。

「……どういう事なの。あの子もあやかし? 君が連れて来たの?」

 外の風雨の音が、一際大きくなったように聞こえた。これだけ近くにいるのに、観の呼吸の音さえ聞こえない。

「まず、あの坊はあやかしと違う。昼間話した『腐らない遺体』の息子や」

「えっ」

「簡単な日本語思いつかんけど……思念体言うんや。分かるか? 思念体」

 幻は頷く。

「思いの強さが形をとって現れるもの……で合ってる?」

「Perfectや!」

 意外と発音のいい英語で褒められて、幻ははにかむ。

「せや、坊の周りに、アゲハ蝶が一頭飛んでたやろ?」

 幻は首を傾げる。アゲハ蝶など見ていない。

「いなかったと思うけど……」

「へっ? ……お前、視る者と違うん?」

「……その分類よく分からないけど、僕は『聴く』者らしいよ」

「せやったら何か聴いたか?」

 幻はもう一度首を傾げた。

「『死んでない、死んでない』っていう声しか聞いてない」

「……ほうか」

 観は困ったようにガシガシと髪をかきむしる。

「参ったなあ……アテにしとったんやけど。相部屋にしてもろた意味があらへんかったなあ」

「え?」

 幻の不思議そうな顔を冷めた目で一瞥してから、観は布団に潜り込む。

「何でもないで~」

「何でもない事ないでしょ!?ちゃんと説明してよ!」

 幻が布団をひっぺがしても、観は動かない。完璧に寝る体勢だ。幻はムッとして、観の耳元で囁いた。

「……社君に言っちゃうよ?」

 ピクッと観の肩が動く。

「何で社君に隠したいのか知らないけど、観が説明してくれないなら社君に説明してもらえばいいよね~」

 ニヤニヤ笑う幻に、観は痺れを切らして跳ね起きた。

「だああ! 分かった分かった! 説明したるから鵺のあんちゃんには話さんといてや!」

「OK!」

「その代わり、このあやかしごと手伝うてもらうで?」

「OK! ……ん?」

 うまくハメられた気もしたが、幻は気にするのをやめた。



 嵐が止んだ後もしとしとと小雨が降り続く中を、幻と観は傘をさして道を歩く。

「昔っから、死者が彼岸に留まるんは、何か未練があるからやと決まっとる」

「……つまり、その亡くなった女の人がこの世に未練があって、無理に留まってるって事?」

「俺はそう思っとる」

 ぱしゃん、と水溜まりを蹴散らして、観は前を見たまま歩き続ける。

「まああれやろな、息子ん事やろな。未練っちゅーたら」

 観の後を歩きながら、幻は首を傾げる。

「何でそう分かるの?」

「他にあらへんやろ」

 そう断言されてしまうと、幻は何も言えず口をつぐんだ。

(思い込みって危ない気がするけど……)

 そう考えてから、真稚あたりが『思い込みはお前だろ、このあやかし嫌いめ』とでも言いそうだと思って、自嘲の笑みをこぼした。

「ここや、俺ん家」

 ぱちん、と傘を閉じ、観は看板を見上げる。『羽田葬祭』と書かれた看板は、看板すらも喪に服しているような控え目な色合いだった。

「遺体は今は、うちで安置しとるんや。……まあ、毎日旦那と息子が会いに来よるけどな」

 幻も傘を畳み、水を切ろうとした時に、背後でぱしゃんと水音がした。振り返ると、黄色い雨合羽の子供と、メガネをかけた青年が立っていた。

「ああ、千万(ちよろず)さん。今日もいらしたんですか。こんにちは」

 観が笑顔で挨拶をするが、千万親子はぺこりと会釈をしただけだ。観が道を譲ると、二人は先に中へ入っていった。

 死んだ妻に、母に会うために。

「十になる娘もおるんやけど、お母ちゃんの死をちゃんと受け入れとるんはこの子だけやな」

 あの二人はまだダメや、と観は首を振る。

 遺体の安置場所へ行くのかと思ったら、通されたのは観の部屋だった。家具はベッドとローテーブル、ソファ、本棚の上にオーディオコンポ。すっきりしているが、片付いているというよりは物が少ない。荘のごちゃごちゃした部屋とは反対だ。

 入口近くで幻がきょろきょろしていると、観は何故かベッドに直行した。

「え、寝るの? まだお昼だけど……」

 幻の慌てた声に、観はあっと声をあげた。

「せや、まだ説明しとらんかった。俺、鵺のあんちゃんやワカちゃんやお前みたいな、霊的なモンを直に視聴きする力はほとんどないねん」

「Really? 何か意外だな」

「そん代わり、夢で『視聴き』するんや。昨日の夜、お前にも見えたやろ? あの子の思念体。あれは側で寝とったお前と、俺の夢を共有したんや」

 観の見る夢は、近くで一緒に眠っている者が『視聴き』できる者なら、共有することができるらしい。過去だけでなく、未来が見える事もあるそうだ。

「せやけどやっぱり俺は視る者やないから、あやかしの姿はちゃんとは見えんで、代わりにアゲハ蝶が見えんねん」

「それでアゲハ蝶が見えたか、って聞いたのか……」

「蝶もあやかしも見えへんかったんやろ?」

「うん……ごめんなさい」

 しょぼんとした幻の頭を、観がベッドから手を伸ばしてぺちんと叩く。

「何謝っとるんや。別に悪い事ないで。見んで済むなら視えん方がええし、聞かんで済むなら聴こえん方がええやん、あんなもん」

 幻は目を丸くした。この街に来て初めて、自分に近い意見を聞いた気がする。

 社は『聴く』力を使う場所をあてがってくるし、荘はあやかしと暮らしているし、真稚はあやかしになりたいとすら言う。あやかしを忌避し、敵対する事の方が普通でないような気分になるのだ、この街は。

「俺かてたまには、夢も見んとぐっすり眠ってみたいっちゅーねん。……せやけど、俺にしかできん事があるんやったら、俺がやったらななぁ」

 そう言って薄手の布団にくるまった観は、目だけを出して幻に視線を向ける。

「ほな、寝よか」

「えっ」

 いくら寝付きがいいとはいえ、こんな昼間から眠れと言われてすぐに眠れるわけがない。それに、前回結局何も見なかった自分が、もう一度試した所で何か見えるとも思えなかった。

 幻は困ってブンブンと首を振る。

「僕は無理だよ。どうして社や真稚に頼まないの?」

「これはお前にしかできんからや」

「Why!?」

「何ででもや! ごちゃごちゃ言わんで早う寝んと、強制的に寝かすで?」

 布団から出した片手をパキパキと鳴らす観の笑顔に危険なものを感じて、幻は慌てて目を閉じた。

 しとしとと降り続く雨の音が、心地好く耳に留まる。眠れるはずがないと思っていたが、意外にもすぐに眠りの淵へと落ちていけた。

(……くすぐったい)

 さっきから何度も、頬の辺りをひらりひらりと何かがかすめるのだが、真っ暗闇で何も見えない。手に掴んでみようかとも一瞬思ったが、頬に触れる紗のような薄くもろい感触に、ためらってしまった。つかまえた途端にちぎれてしまいそうだ。

 もしかしたら、観の言っていた蝶だろうか。それに思い当たった時、暗闇の中に子供を見つけた。ぶん、ぶん、と虫捕り網を振り回す子供の姿は何故か、闇の中でもはっきりと視認できた。

 子供の持つ白い虫捕り網の中には、模様のない黒いアゲハ蝶が何頭かうごめいていた。網が白いので、蝶の姿を見ることができたのだ。

 観は、蝶=あやかしだと言っていた。ということは、蝶を捕まえるあの子供は、あやかしを捕まえていることになる。

(……何のために?)

 子供は、昨夜金縛りに遭いながら目にした思念体に間違いない。蝶を追う姿は、森で虫を探す子供のような笑顔ではなく、ただただ思い詰めたように真剣な顔。三歳の子供には似つかわしくない、鬼気迫る表情だ。

「死んでない……」

 小さな唇から漏れ出た言葉も、昨晩聞いた言葉と同じ。

「死んでない、死んでない、死んでない死んでない死んでない死んでない死んでない……おかあさんは、死んでなんかない……」

 叫ぶでもなく、呟くように繰り返しながら網を振り回すその姿に、幻はゾクリと背筋を震わせた。

(……早くあやかしを見つけなきゃ。あの子のマミーに取り付いてるあやかしを……)

 それが、あの子を救うことにもなるはずだ。

 痛々しい姿から目を逸らすように、幻は蝶を追う。暗闇の中から黒アゲハを見つけるのは難しかったが、虫捕り網の中の蝶を一度見たからか、さっきよりも目が利くようになっていた。

(この蝶って……ホントに全部あやかしなのかな)

 不意に、そんな疑問が脳裏を過ぎった。

 ここがどこかは知らないが、あの子がいるからこの世のどこかであることは確かだ。こんなに多くの蝶が……あやかしが集まる事などあるのだろうか。それに、蝶がみな同じ方向を目指して飛んでいくのも気になった。

(とりあえず、追ってみよう)

 頬にかすめる蝶の気配を追って、幻は暗闇を手探りで進む。黒アゲハが群れをなす方へ、一歩ずつゆっくりと。

 前に出していた手の先が、何か硬いものに触れた。恐る恐る手の平で触れると、ごつごつとした感触と温もりがある。覚えのある感触だ。

(これ……木の幹だ)

 相変わらずの暗闇で、視角で木の幹を捉えるのは無理だが、感触は間違いなかった。幻は思わず葉や枝を探して上を見たが、光のないここではやはり見えない。だが、予想だにしていなかったものを見て、幻は目を丸くした。

 白い髪と肌。赤い瞳は今は瞼が閉じて見えないが、暗闇の中ですうすうと眠る少女がいた。

「真稚!?」

 何故彼女がここにいるのか、幻は一瞬頭が混乱する。安らかに寝息をたてる真稚の髪が、さらりと一束流れた。

 はた、と思い当たる。もしかしてこの木は、神社の山の上の、桜の大樹ではないだろうか、と。

 そう考えると、納得できることがいくつかある。蝶はあやかしというより、桜に集まった亡くなった人の魂なのだろう。あの桜に死者の魂が集まる事は、四月に当たったあやかしごとで知っている。

 それに。

(よくあの木の上で寝てるもんね、真稚)

 暗闇の中でも日向にいるように見える、のどかな真稚の寝顔を見て、幻は少し元気になった。

 よし、と気合いを入れて、くるりと踵を返し元来た道を手探りで戻る。確かめたい事が、あとひとつあった。

 元の場所へ戻ると、あの子は虫捕り網を振り回すのをやめていた。網の中にはさっきよりたくさんの蝶が捕らえられている。その中から一頭一頭取り出しては、ぽいと捨てていた。

 幼い彼の手つきは無邪気に乱暴で、掴み出された蝶は傷付き飛べずに墜ちる。そして、暗闇にとけて見えなくなってしまう。

「ちがう、……これもちがう」

 黒アゲハを確かめながら、ブツブツと呟く声が聞こえた。羽がちぎれても、触角がもげようとも、全く気にならないようだ。 また一頭、動かなくなった蝶が暗闇に紛れて見えなくなる。

「ちがう……これもおかあさんじゃない」

 小さな呟き声だったが、確かに聞いた。その瞬間、幻の翠の目と子供の褐色の目がかちりと合った。



 がば、と跳び起きると、観の心配そうな目がこちらを覗き込んでいた。

「Good morning,sir...」

「Do you have a good rest? ……って寝ぼけとんなや」

 ごすっと脳天に手刀が入り、幻は頭を抱えて呻く。涙で滲む目で観を見上げると、心底ホッとしたように嘆息している。

「俺が起きてもお前が寝とったから、むっちゃ焦ったわ……揺すっても叩いても何しても起きんし」

「叩かないでよ……」

 そういえば頬が痛い。きっと鏡を見れば、赤くなっているのだろう。

「何があったんや? 起きる直前、お前叫び声あげとったで」

「あ、そうそう」

 夢の中、あの子と目が合ったあと。

 目が合ったということはこちらが見えているんだろうか、と幻が驚いていると、あの子は幻に向かって虫捕り網を振り下ろしたのだ。叫び声はきっとその時あげたのだろう。

 それを話すと、観は何かが抜け落ちたような無表情になり、そうなん、と呟いた。

「あ、それでね。夢の中で会って思ったんだけど、あの子も『視る者』?」

「あ、ああ。せやな! しかもあやかしを捕らえられるっちゅー事は、結構力の強い子やんなぁ。も少し大きなったら、一緒にあやかしごとに当たる仲間になるかも知れんな!」

 観はまくし立てるように言う。話題が戻るのを恐れているかのように。

「しかし、あやかしは見つからんかったかー」

 観はごろんとベッドに身を倒し、大きな溜息をつく。

「どないしよ、やっぱ鵺のあんちゃんとワカちゃんに頼んだ方がええんかなあ……けどなあ……」

 未だに二人を頼る事をよしとしない観に、幻は小首を傾げながらも、思ったことを伝える事にした。

「もしかしたら、なんだけど……」

「ん?」

「この一件、あやかしは絡んでいないのかもしれない」

がば、と観が身を起こした。まっすぐ見つめてくる幻の翠の目を、眇めた目で見る。

「何でそう思うんや」

「……腐らない遺体って、あの子のマミー以外には現れてないんだよね」

「……そうやけど?」

「あの人が亡くなってもう一週間は経つよね? 僕が今までに調べた魔物……あやかしの事件は、犠牲者はすぐに増えるものだった。一週間経つのに次の『腐らない遺体』が一体も出ていないのはおかしいよ」

 それに、と言って幻は、少し間を置いてから切り出した。

「僕があやかしだったら、遺体を保存するなんて事はしない」

「…………」

「あやかしは人の負の心が好物だ。あの子とダディは大切な人を失って悲しんでいた。でも遺体が腐らないから、気を持ち直してる」

 現実から目を背けるという、あまり良い持ち直し方ではないが。

「僕があやかしなら、遺体はすぐに食べる。家族はマミーの葬式後に幻影でも使って苦しめるよ」

 ゆら、とベッドから立ち上がった観は、蒼い顔をしていた。表情も強張っていて、幻は少し怯えながら、笑顔で尋ねる。

「全部僕の予想だけど……どうかな? いい線いってない?」

「……せやな。その発想はあらへんかった。正直驚いたわ。せやけど」

 観は幻の両肩を掴み、叩きつけるように叫んだ。

「『僕があやかしだったら』なんて、二度と言いなや! 冗談でも例えでも、絶対にや!」

 眉間に皺を寄せ、目をつりあげたその顔は、怒っているというよりもむしろ泣きそうに見えた。幻は驚きに声が出せず、こくこくと何度も頷く。

「ご、ごめんなさい」

「……いや、こっちこそ脅かしてすまん。怒鳴るような事やなかったわ」

 観は眉間を指でほぐし、深呼吸した。よし、と掛け声をかけて顔を上げる。

「幻の考え聞いて、一個思い付いた事あんねん。出かけるで」

 眠っている間に、雨は止んだようだ。雲の切れ間から、時折日が差し込む。たたんだ傘を持って、二人は午前中に歩いた道を戻る形になった。

 目指すは鵺栖神社の山の上の桜の樹。夢の中で、あの子が虫捕り網を振り回していた場所だ。

 桜の樹の下には、黄色い雨合羽の子供がいた。雨上がりのぬかるむ地面を、ぴょんぴょこ走り回っている。

 そしてその手には、虫捕り網。今の幻にはくっきりと見える。網の中に、ぎっしり詰まった黒アゲハが。

「死んでない、死んでない、死んでなんかない」

 ぶつぶつと呟いている言葉も、鬼気迫る表情も、観の夢と同じだ。

「おねえちゃんないてるのに……おとうさんもないてるのに……どこにいるのおかあさん? これもちがう、これも……」

 小さな手が蝶を捕っては捨て、捕っては放る。しかしその蝶は、人なのだ。人の魂なのだ。

「とめなきゃ」

「……せやな。けど」

 どうやって、と尋ねようと観が隣を見た時には、幻はもうそこにいなかった。桜の下で蝶に囲まれて跳び回る、子供に向かって走り出していた。

「Hey,stop!」

 鋭く響いた声に、子供がびくりと震えて動きをとめた。幻はそこで足をとめ、子供に笑いかけようと口角を上げる。だが、どうしても苦笑にしかならなかった。いつも社が浮かべるような、切なげな笑みだった。

「……君のマミー――お母さんは、ここにはいないよ」

 子供は、キョトンとした顔でまっすぐ幻を見上げている。

「なんで? いるよ……」

「いないんだ。……君のお母さんはもう、帰ってこないんだ」

「帰ってくるー! おかあさん帰ってくるのー!」

 涙声でそう叫ぶ子供を、幻は抱きしめた。

「悲しいよね。つらいよね。でもお母さんはもっとつらいよ。君が手を離してあげないと、お母さんはどこへも行けない」

「行かないもん、おかあさんどこも行かない!」

「無理なんだ。お母さんは行かなきゃダメなんだ」

 祖母を亡くした時の悲しみが蘇る。未だに神の御許へゆけず、自分の後ろにいるのだという祖母。いつになったら、祖母に平安を与えられるのだろう。

 幻は抱きしめる腕に力を込めた。

「坊、このあんちゃんの言う通りやで」

 観が静かに、子供の頭に手を置いた。

「人は亡うなったら、行かなあかん場所があんねん。引き留めたらあかん。どんなに悲しくても、つらくても、お母ちゃんの事を思うんやったら、ちゃんと見送ったらな」

 慣れた手つきで優しく髪を撫でる仕種は、幻にとっては意外に思えた。

「それにな、きっとまた違う形で、お母ちゃんは坊の前に現れるんやで。生まれ変わり……難しい言葉やと『輪廻転生』言うんや」

 りんねてんせい、とたどたどしく復唱した子供は、虫捕り網を持った手をそっとおろす。

「それ、いつ? おかあさんいつ帰ってくるの?」

「あー……いつかやな。あっ五日とちゃうで」

 観のギャグに子供はニコリともせず、目に涙をためた。

「その子の母君は、八月には戻って来る」

 頭上から涼やかな声が降ってきた。

 見上げれば、露に煌めく枝の隙間に、白い姿。

「真稚!」

「ワカちゃん」

 幻と観はあからさまにホッとした顔を見せた。

 真稚は、子供に対してなら人嫌いが若干薄れるのか、思ったよりは柔らかな声で子供に語りかける。

「八月の盂蘭盆には、死者の魂も現世へ戻る。三月と九月の彼岸には、お前から会いに行けばいい。お前は『捕る』者か……。死者の魂に手を出さないなら、誰も何も文句は言わない」

「……おかあさん……帰ってくるの?」

「一年に三度は会える。それ以上は我慢しろ。それが嫌なら、お前も『あやかし』になるか?」

「ちょっと……真稚!?」

 何を言い出すのかと、幻はギョッとする。真稚はそれをすっぱり無視し、赤い目で子供を射抜いたまま続けた。

「ただし、父君と姉君には、二度と会えないと思え。そして母君も君を褒めてはくれないだろう。どうする?」

 子供は泣きそうに顔を歪めて、それでも涙は落とさずに雨合羽の袖で拭った。そして、ふるふると首を横に振る。

「おとうさんとおねえちゃんに会えないのやだ。おかあさんに怒られるのもやだ」

「なら素直に母君を見送って、再来月に帰ってくるのを待つといい」

 こく、とふくれっ面で頷いた子供を見て、幻と観は、ほっと安堵の溜息をついた。

「一応来てみたけど……必要なかったみたいだね」

 突然背後から聞こえた声に驚き振り向くと、社が温かな目でこちらを見ていた。

「話はまとまった?」

 ここまでの展開を全て読んでいたかのような口調で、社は尋ねる。一抹の悔しさと、やはり敵わないなあという一種の諦めを浮かべて、幻は苦笑と共に頷いてみせた。

 子供は網の中に残っていた蝶を全て放した。黒いアゲハ蝶はいっせいに桜の木を目指し、幹に葉に枝にすう、と溶け込んで消えていく。そんな中、ピピピ、と場違いな電子音が鳴り響いた。

 観が喪服のポケットからケータイを取り出し、少し離れてから通話ボタンを押した。

「何や慎(しん)、そない慌てて……え? 何やて?」

 観は驚きに目を丸くし、何度か相槌や質問を挟んでから、短い通話を終える。

「家におる弟からやった。……千万さんの遺体、傷んできはったらしいわ」

「遺体の腐敗をとめていたのは、あの子だったんだね」

 社の目線の先には、黄色い雨合羽を着て、蝶の行く先をじっと見上げる子供の姿。

「人の心は時折、あやかしよりも不思議で、あやかしよりも深いからなあ」

 しみじみ呟く社の隣で、幻は首を傾げた。幻はあやかしを憎いと思った事はあるが、不思議だとか、深いと思った事はなかった。

 雨の止み間は短かった。神社に寄っていたのだという父親と連れだって、子供はまた雨合羽のフードをかぶり、坂を下って街へ戻っていった。

「ほな、俺も雨が強うならんうちに帰るわ。数日のうちに葬式あげたらなな」

 ぱん、と傘を広げた観に、真稚は樹上から声をかける。

「お前、幻に変なクセつけてないだろうな」

「クセ?」

 自分の名があがって驚いた幻が首を傾げると、観は首を振る。

「今はまだ、黒アゲハが見えとるかもしれんけど、すぐ元通りんなるで」

「え、見えなくなっちゃうの? ちょっと残念だな……」

 幻は慌てて辺りを見回す。小雨の中、黒アゲハが桜の木の周りをヒラヒラと舞う光景は、四月に感じた『怖いくらい綺麗』という感情に似たものを起こさせる。

「……僕、自分が『聴く』者だとは聞いたけど、普段特に視聴きしないんだよね。視える時は視えるし、聴こえる時は聴こえるんだけど」

 いつからいたのか、幻の肩で一頭の蝶が羽を休めている。ビロードのような黒いツヤツヤとした羽がとても美しくなめらかそうに見えて、幻は手を触れてみたくなった。

「触らないほうがいいよ」

 幻の腕を掴んでピシャリとそう言った社の表情は、普段より鋭いものだった。

「『引っ張られて』しまうかもしれないから」

「ひっぱられ……?」

 社の真剣な表情に、幻はキョトンとした顔で一瞬黙り、次の瞬間吹き出した。

「あはは、今蝶々と綱引きしてる映像思い浮かべちゃった」

「それは大人気ない勝負やなあ」

 観も声をあげて笑う。もう一度幻が肩に目を戻すと、蝶は消えていた。辺りにももう一頭もいない。いや、いなくなったのではなく、見えなくなったのだろう。

 もしかしたら、今肩にいた一頭は、祖母だったのかもしれない。幻はそっと自分の肩に触れた。



 観が帰路につき、社と真稚、幻も戻る事にした。雨はまた少しずつ強くなってきているようだ。

「真稚、さっきは助かったよ~、Thanx! 僕だけじゃきっとあの子を説得できなかった」

「頼まれたからな……あの子の母君に」

「えっ。……知り合いだったの?」

「生前は知らなかった」

 先を行く社が、肩越しに苦笑を向けた。

「真稚はあやかしには優しいからね」

「あの子のマミーはあやかしなの!?」

「この世にいるべきでないのに、この世にとどまっているモノを俺達は総じて『あやかし』と呼んでいるからね」

「だから、さっきまではあやかしだった。でも今はもうあやかしじゃない」

「ということは、あの子のマミーは無事に神様の御許へ行けたんだね?」

「神様の許かどうかは分からないけど、あるべき場所へ還れたよ」

 幻は安心感と共に神社の裏鳥居をくぐる。その途端、ふっと身体から力が抜け、意識が遠のいた。

「あれ、なんで……」

 地面に倒れる前に、社がその身を受け止める。

「疲れたんだね。部屋まで運んであげるから、寝てもいいよ」

 自分で歩いて行けるよ、と答えようとしたが、声も出なかった。幻はそのまま、ことりと眠りの中へ落ちてしまった。

「……だいぶ揺れてるみたいだな」

 真稚が幻の顔を覗き込み、微かに眉を寄せる。

「ああ。境内に入っただけで意識を失うなんて……まあ、今回は仕方ないかな。羽田君の力と同調しすぎたんだ」

 社は幻を抱きあげ、部屋まで運んで布団に寝かせてから、クスッと笑い声を漏らした。それを耳聡く聞き付けた真稚が、怪訝そうに尋ねる。

「何だよ、何がおかしい」

「先月も、真稚の事をこんな風に部屋まで運んだなって思って」

 小さく笑いながら、社が冗談混じりの声音で呟く。

「このまま行くと、来月は俺が倒れる番かな?」

「有り得ないだろ、それは」

 即答で否定した真稚に、社は苦笑して頷いた。

「……そうだね。有り得ないね」



『はい、羽田葬祭でございます』

 電話口に出たのは、観より少し幼い声だった。

「鵺栖神社の高遠です。観君はいますか?」

『兄は今、仕事中で……あ、ちょお待ったって下さい』

 受話器の向こうで、小声でやりとりしたあと、話者が替わった。

『丁度休憩や、ええタイミングやな。どないしたん』

 休憩ならば、長く話し込むのも悪い。社は手っ取り早く本題に入ることにした。

「頼みがあるんだ。火葬してほしい遺体がある」

 しばらくの沈黙のあと、受話器を外したのだろう、観の硬い声が『慎、ちょお席外してくれ』と遠くで聞こえた。

『……わかっとると思うけど、許可書なしにそれやるんは犯罪やで。死体損壊』

「うん、分かってる。それを承知で頼んでる」

 また、しばしの沈黙が流れる。十数秒の後、受話器の向こうから、長く大きな溜息が聞こえた。

『幻がらみか?』

「そうだよ」

『……それやったら、俺には断れへんわ。今回、アイツには借りを作ってしもたからな』

 社はホッと息をつき、胸を撫で下ろす。

「ありがとう、助かるよ。今回も、幻にあやかしと接点をもたせるために、一緒にあやかしごとに当たってくれたんでしょう。俺に相談してくれてもよかったのに」

『……それ以上仕事増やしてどないすんの? 他人に回せることは回したったらええねん。ワーカーホリックもたいがいにせんと、あんちゃんかてぶっ倒れてまうで』

「はは、気を付けるよ」

『せやけど、一つだけ聞いてええか? 引き受けるんは引き受けるけど、……それはホンマに、幻の為になる事なんやろうな?』

 その質問に社は一瞬黙って、もちろんだよ、と答えた。

 電話の相手にその表情が伝わることはなかった。



「これが今回回収できた分の、待子さんの遺体だよ」

 幻の目の前に置かれた黒い円筒状の容器。アメリカ出身の幻にとっては、骨壷は初めて見るものだった。日本人であっても、見慣れている人はそういないだろうが。

「損傷も激しかったし、今までに取り返した腕と指も合わせて、お骨にしてもらった。事後報告になってしまって悪いけど……」

「あ、ううん! それは別に構わないんだ! ありがとう。だけど……」

 幻は恐る恐るといった手つきで骨壷に触れた。

「これ、本当にグランマの遺体……なんだよね?」

 真稚がちらりと社を横目で窺う。社はいつもの柔和な笑みを浮かべて、もちろんだよ、と頷いた。

「これから暑くなるし……遺体を遺体のまま保存するのも難しいからね」

「今回みたいな腐らない遺体なんて、やっぱり不自然だもんね」

 苦笑した幻に、社は頷く。

「羽田君に頼んで、見つかり次第お骨にしてもらえるようにしたから。これから遺体を取り戻せたら、その都度焼き場で焼いてもらおう」

「分かった。きっと全部集めて、アメリカに連れて帰るんだ。そうすればダディ達も納得して、グランマの葬式が出せる……」

 幻の祖母が死んだと知っているのは、家族の中でも幻と弟だけなのだ。

「そうだね。早く全部取り返さないとね」

 真稚は社のいつもの笑顔に、心の中で溜息をついた。

「じゃあ僕、学校行ってくる」

「行ってらっしゃい。傘忘れないでね」

 幻を送り出したあと、洗濯をしようと踵を返しかけた所に、真稚がどすんと背中に抱きついてきた。いや、抱きついたというよりは体当たりに近い。

「どうしたの、真稚」

「……社、変な事考えてないだろうな」

「変な事って……どういう方面で?」

 真稚は言葉を探しているのかしばらく黙り、大分経った頃にポツリと呟く。

「全部終わったら消えてしまおうとか、失敗したら消してしまおうとか、……ないよな?」

 社は一瞬間をおいて、肩越しに苦笑を見せる。

「ないよ。怖いこと考えるなあ真稚は」

「……ないならいい。けど」

 ぎゅう、と腕に力を込めて、真稚は表情を隠すように顔を押し付けた。

「どこか行ってしまうつもりなら、私を置いていくなよ」

「……はいはい」

 社は真稚の腕をポンポンと叩き、約束するよ、と言い聞かせた。

「けど今は、失敗したら、なんて事は考えていないよ」

 真稚が顔を上げると、社の褐色の瞳の中で、ユラユラと赤が揺らめいた。

「何としても、救わなくちゃ」

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