第2話・5月
「幻(げん)、お前ゴールデンウイークはアメリカに一旦帰ったりするのか?」
「ゴールデンウイーク?」
人の減りはじめた放課後の教室で、幻は小首を傾げながら宮本(みやもと)の言葉を復唱した。
「そっか、アメリカにはゴールデンウイークがないのか。……ちょっとこれ見てみ?」
宮本は黒板の横まで歩いていき、かけられたカレンダーを指した。
「4月末から5月の頭にかけて、連休があるんだよ。ここがゴールデンウイーク」
「へえ、そうなんデスか!」
幻はカレンダーをめくり、赤字で記された休日を見て頷く。
「みどりの日は緑化イベントやるデスか?」
「えっ、さあ……」
「憲法記念日には何か制定を祝うパーティとかあるデスね?」
「うーん……聞いた事ないな」
「……じゃあその日は何するデスか?」
「皆どっか旅行行ったり、遊んだりすんの」
「わお」
特に記念日とかは関係ないらしい。不思議だ。
「俺、家族でアメリカ旅行行くんだけどさ。もし近かったら向こうで会えないかなって」
「あー……ゴメンね。僕はゴールデンウイーク、アメリカ帰りマセン」
「そうなのか?」
「そうなのネ。交換留学、一時帰国は自費負担になりマス。僕余りお金ないネ。サマーバケーションは帰るかも分かりマセンけど」
「そっか。じゃあ休み中はずっと神社か」
「そうデスね」
少しずつ神社の手伝いも始めている幻は、最近は早く起きて境内の掃除などをしている。
ようやくホームステイっぽくなってきたといったところだ。
(普通、ホームステイ先でのお手伝いって、皿洗いとか庭掃除とかだよね……)
初めてのお手伝いが、桜の樹の除霊だったのだから、どれだけ特殊かよく分かる。
「『鵺の兄さん』に言って、たまには休みもらえよ」
「Thanks! Have a nice trip!」
「おー、ありがとな」
地元の人間は、社(やしろ)の事を『鵺の兄さん』と呼ぶ。鵺栖(ぬえす)神社の神職の若い方だからだろうか。因みに社の祖父は『鵺のじいさん』と呼ばれているようだが、幻は未だに顔を合わせていない。
「じゃ、連休明け学園でな!」
「サヨナラー」
次に会うのはだいぶ先だ。神社前で手を振って宮本と別れ、幻は裏参道の鳥居をくぐ……ろうとして足をとめた。くるりと踵をかえし山の上へと足を向けた。
花が咲いている時には、そちらに目を取られて気付かなかったが、桜の樹の立つこの場所は、鵺栖町を一望出来る絶景スポットだったのだ。
「学校終わったのか。お帰り」
樹上から突然降ってきた声に、幻は慌てず返事をする。
「ただいまー、真稚(まわか)。明日から、ゴールデンウイーク、らしいね」
慣れない単語を区切って言う幻をちらりと見やり、真稚はすぐに宙空に目を戻す。
「私には関係のない事だ」
「……そういえば真稚は学校に行かないの? 僕より年下……だよね」
色素の薄さと線の細さが相まって幼いようにも見え、厭世と達観が大人びて見せもするが、せいぜい14、5歳のはず。学校に行っていておかしくない、この国では義務教育中の年齢だ。
真稚は樹上から面倒臭そうな視線を投げ、薄く唇を開く。説明を待ったが、真稚はそのまま唇を閉じ、身軽に枝から飛び降りた。
「知りたければ、その辺のあやかしにでも聞いてみろ」
「えー。本人から聞きたいのに」
「『人間から聞きたい』の間違いだろ」
幻は笑みを引っ込めて、真稚をじっと見つめた。白い少女は赤い瞳を煌めかせて、幻を見返す。
「桜の樹の除霊だって、あやかしを想ってやったというより、祖母君の為にやったんだろう。お前はまだ、あやかしに対して何も思ってない」
「……その事と真稚の通学の事は何も関係ないじゃないか」
「私の通学の事よりも、あやかしごとの方が私には大事だ。私は……」
真稚の言葉の続きを、幻は信じられない気持ちで聞いた。
「私は、あやかしになりたいのだから」
「……You sure?」
幻がようやく絞り出した言葉を、真稚は理解できなかった。が、何を言いたいかは表情と声音でよく分かった。
「お前はその力で、人に疎まれた事はないのか?」
「……あるけど」
「人よりあやかしの方が私に優しかった。それだけの事だ」
「信じられないよ」
きっぱりとそう言った幻に、真稚は表情を動かさずにぱちりとひとつ瞬く。
「それなら、真稚と一緒にあやかしごとに当たってみるかい?」
急に割って入った声に、幻も真稚も驚いてビクッと身を振るわせた。
「社! いつからいたの!?」
くぬぎの木の陰から姿を現した社は、クスクス笑うだけで質問には答えない。
「先日の桜の件は幻ひとりに任せてしまったし、見本も見せずにいきなり本番で、悪かったかなあと思っていたんだ。真稚、例の荘(そう)君ちの件を頼むよ」
「えっ」
真稚が上擦った声をあげ、眉根をぎゅっと寄せた。
「待て社、考え直せ。私に町に下りろと言うのか」
「荘君なら知り合いだから行きやすいでしょ」
「よりによって、あのゲテモノ屋敷を行きやすいだと?」
社に詰め寄り、襟首を掴んで揺さぶっている真稚を、幻はぽかんと見つめた。感情に乏しい真稚が、ここまで嫌悪を露にするのがもの珍しかった。
そうこうしているうちにゴールデンウイークが始まり、話していた通り、真稚と共に荘という人の家へ行くことになった。
だが、出発する時間になっても真稚が自室から出て来ない。ぴったり閉ざされた真稚の部屋の襖戸の前で、幻は待ちぼうけを食らっていた。
女性が支度に時間をかけるのは、母や妹で知っているが、それにしても遅い。
「真稚~……まだ? そろそろ出ないと、約束の時間に間に合わないよ? 開けるよー」
す、と襖戸に手をかけ開く。しかし、その6畳の和室の中に真稚の姿はなかった。
「えっ!?」
突き当たりの窓が開いていて、初夏の風がカーテンを揺らしている。呆然としていると廊下の方から真稚と社の声がして、幻は慌てて部屋から出る。
「あ、幻。駄目じゃないか逃がしちゃ」
真稚を肩に担いだ社が、すたすたと歩いてきた。
「社……放、せっ!」
真稚はじたばたと暴れているが、細腰をがっちり捕まえられているので意味をなさない。
「真稚。荘さんの家に行くのが嫌なの? それとも僕と行くのが嫌なの?」
幻の静かな問いに、まだ社の肩の上で暴れながら真稚が叫ぶ。
「……両方だ! 町に……人間のいる場所に行くのも、人間に会いに行くのも、人間と行動するのも嫌だ。嫌いだ!」
幻はピクリと片眉を跳ね上げた。
「それって、僕があやかしを嫌いなのと同じじゃない」
幻の言葉に、真稚がピタリと暴れるのをやめた。
「真稚、前に僕に言ったよね。もしグランマを殺したのが人間だったら、人間全部殺すのかって。真稚が一部の人間に何をされたか知らないけど、それで人間全部を嫌うの?」
「…………」
「僕も、きっかけはグランマの為だったけど、あやかしの事少しずつ知りたいとは思ってるんだ。僕には色々言っておいて、自分は人間を毛嫌いしたままなんて駄目だよね、真稚?」
正論過ぎてグウの音も出ない。
黙ったままの真稚を、社はそっと肩から下ろした。真稚は表情に乏しい顔に目一杯不機嫌を滲ませて、ボソリと呟く。
「……5分で支度する、から……待て」
フラフラと部屋に入り、ぱしんと襖を閉める。幻は社と顔を見合わせて、してやったりと親指を立てた。
きっかり5分後、真稚はすぱんと襖を開けた。
「……行くぞ」
ただ帽子をかぶっただけで、特に着替えや化粧をした様子もない。幻は首を傾げながらも真稚の後ろに従った。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
ひらひらと手を振る社をギロリと一瞥して、真稚は行ってきますも言わずに玄関を出ていく。
「真稚、相当怒ってるね。よかったの?」
「仕方ないよ。……幻、真稚をよろしくね」
真稚は、深くかぶった帽子で銀髪と赤い目を隠した。幻は隣を歩きながら、真稚の不安をひしひしと感じていた。
いつも不遜なまでにまっすぐ前を見ていた瞳が、俯きがちに落ち着きなくさまよう。普段は見とれるほどすっと伸びている背筋も、今は怯えるように丸まっていた。
「真稚……大丈夫?」
幻の問いかけにも、青い顔でコクンと頷くだけだ。
(さっきはああ言ったけど……流石に可哀相になってきたなあ)
早く用事を済ませて、神社へ帰らせてあげたい。
「荘さんの家での用事って、また除霊? 僕に出来る事があったら言って。手伝うよ」
「除霊……とは少し違う……けど、こないだの桜の件と似てると言えば似てる」
いつにも増して抑揚のない声に、幻はますます心配になった。
「今回はあやかしよりも、人間の方が厄介なんだ」
「え?」
「……着いた、ここだ」
真稚が、ある一軒家の前で足をとめた。
「わお……ここ、廃墟じゃなかったの……?」
幻が思わず呟いたのも無理はない。その家は、廃屋と見紛う程の古い木造建築で、壁一面びっしりと蔦が這っていた。窓硝子にはヒビが入り、トタン屋根は所々ひしゃげている。
それよりも目を引くのは、庭の奇妙さだ。……実際、それが庭なのかただの草むらなのかすら、幻には判断がつかなかった。
よくよく見れば、錆だらけの門扉には看板がかかっている。『漢方・風水 吉祥堂』とかかれた木の看板は、触ったら崩れてしまいそうな程古びていた。駅の桜の木にかかっている「鵺栖町へようこそ」の看板よりも古いように見える。
「この胡散臭い店を一人でやってるのが荘だ。本人もたいがい胡散臭い」
真稚が会う前から疲れた顔で、門扉に手をかける。門扉がぎいい、と音を立てるが早いか、草むらがガサガサッと鳴り、丈の高い草をかきわけ人が飛び出してきた。
「……何だ、客じゃないのかよ」
真稚の顔を見るなりそう言い捨てたのは、まだ若い男だった。若いというか、幼いと言ってもいい。少なくとも、この古い看板を掲げる店の店主とは思えない若さだ。
幻はその顔を見て驚いた。どこかで見たことのあるような顔立ちだとは思ったが、色合いの違いが気付くのを遅らせた。
(この人、僕に似てる……そっくりだ!)
髪と瞳の色が違うだけで、余りにもよく似ている。相手も同じ事を思ったようで、幻を見て目を丸くした。
「あいやぁ……お前誰だ?」
「幻・イグアス言いマス。こんなに似てる人、初めて会ったネ……驚いたヨ」
幻の言葉に、荘は一瞬怪訝な顔をした。
幻は中に通されてまたびっくりした。廃墟と見紛う古い家だが、中に通されると全然様子が違ったのだ。応接間の沈み込むようなソファに座りながら、幻は辺りをキョロキョロ見回す。
質の良さそうなペルシャ絨毯、天井には小ぶりのシャンデリア。飴色のアンティークキャビネットの上の白磁器は、割ったら目が飛び出るような額を請求されそうだ。
「こないだオール電化にしたら、キッチンが使いづれぇわ。茶入れるのにこんなに時間かかっちまった……待たせたな」
テーブルの上に置かれたのは中国茶器。小さな茶碗に茶が注がれるのを尻目に、幻は隣でずっと固まったままの真稚を見遣った。真稚は室内でも深く帽子をかぶったまま、ずっと黙っている。
二人の前に茶碗を置き、自分の分を啜った荘が、上目で真稚を見ながら尋ねた。
「今日はまた、毛色の違うのを連れてきたじゃねえの、白の小姐。幻・イグアスつったか……故郷はどこだ、ブラジル?」
「アメリカです。でも、グランパがブラジル出身ね」
「そうか、俺ぁ台湾だ。荘吉祥(きっしょう)だ、よろしくな。……ところで……」
荘は落ち着かない様子でチラチラと幻を窺っている。
「台湾に親戚とか……いねえよな?」
「僕、色んな血が混じってるデス……けど台湾は入ってる聞いたことないネ」
幻はまた少し怪訝な顔を見せてから、ボスッとソファの背もたれに身を預けた。
「……そっか、それにしちゃ似てるよなァ。俺が髪脱色してカラコン入れりゃ、幻そのものじゃねえの? なあ小姐」
話をふられた真稚は、幻と荘とを何度か見比べて、首を傾げた。
「……どこが似てるんだ?」
「はァ!?おいおい小姐、そのキレーな目は飾りかよ?」
「こんなに似てるデスのにー! まさに『爪二つ』ネ」
「爪じゃなくて瓜な、ウリ」
笑いながらツッコミを入れる荘。
真稚の酷い嫌がりようを見て、どんな人なのだろうと思っていた幻は、正直少し拍子抜けしていた。
「ダディがフレンチとカナディアンのハーフで、マミーがブラジリアンとジャパニーズのハーフですのだヨ」
「すげえなそれ! さすが人種のサラダボールだなアメリカ。じゃあ日本語はその姥姥に習ったのか?」
「ハイ! まだあまり上手ないデスけど」
「いやいやそりゃ謙遜だろうよ!」
荘はカラカラ笑いながら言う。
「その、日本語が得意じゃねえフリ、すげえうめぇよ」
「……What?」
「その片言、わざとだろ?」
……思わず笑顔が引き攣った。 凍りついた頬を、冷や汗が伝う。
「幻、荘の前では隠し事は無理だ。こいつの前ではプライバシーはない」
「何だよ小姐、人聞き悪りぃな。『識っ』ちまうもんは仕方ねえだろ」
「しる……?」
幻が呆然と呟くと、荘はニッと笑って中国茶を注ぎ足した。
「俺ぁ視えるわけでも聴こえる訳でもねえんだが、そこに居るのは認識できんだ。だから『識る』者ってな」
「居る……っていうのは」
「決まってんだろ? あやかしだよ」
幻はバッと真稚を見る。
「真稚……この町にはあやかしの存在を知っている人が、一体何人いるの!?」
真稚は帽子の下で目をしばたたく。
「何人って……数えた事はないが」
「那个(えーと)、人口の2/3ってとこだな。少なくとも4千人は下らねえはずだぞ」
余りの数に、幻は開いた口が塞がらない。荘はその顔を、心底愉快そうに見つめた。
「お前はどうやら『聴く』もんらしいな」
「どうして……」
社も真稚も荘も、どうしてこんなに早く分かってしまうのか。
「どうして、って……生きてる人間もあやかしも『魂魄』って意味じゃ同じだからな」
幻は一瞬、心臓が止まったような錯覚を覚えた。
あやかしも人間も同じ。そんな事、考えたこともなかった。
「……おい、大丈夫かよ?」
顔の前でヒラヒラと手を振られて、幻はハッと我に帰った。
「お前の後ろの姥姥、心配してっぞ。あんまりご先祖に心配かけるもんじゃねえよ」
「あ……荘さんも、グランマが分かるのか……」
「は? 何、お前聴こえねえの?」
荘がパチクリと瞬くと、真稚が不機嫌そうな声を出した。
「荘、世間話はそろそろやめにして、本題に入ろう。こんな調子じゃ日が暮れる」
「そう言うなよ、白の小姐。こんなボロ家に訪ねて来るヤツぁ、お前らくらいなもんなんだからよー」
ケラケラと笑う荘に、真稚は忌忌しげな舌打ちを漏らす。
「よく言う。吉祥堂に客足が途絶えたことなんかあるか?」
「おかげさまで、儲けさせてもらってんぜー」
真稚はふるふると肩を震わせていたかと思うと、ガバッと立ち上がった。
「もういい、お前と話しても埒があかない。吉(きつ)鈴(りん)! 吉鈴どこだ!」
そう言いながら部屋を飛び出した真稚を、追うか迷った一瞬で、幻は荘に手を捕まれた。ぞくりとするほど冷たい手だった。
「追わなくていい。吉鈴ってのは俺の連れだ。小姐にとっちゃアイツのが話しやすいだろうから、ほっといてやれよ。な、片言の阿幻」
「…………」
「で、やっていけそうかよ?」
ニコ、と笑って手を離した荘の問いに、幻は首を傾げた。
「……何を」
「決まってんだろ、『あやかしごと』だよ」
「アヤカシゴト? それ何のシゴトですか? よく解らないネ」
「その片言をやめろや。都合の悪い質問を全部それで片付けるつもりか? 不愉快だ」
視線にピリッとした冷気を感じて、幻は不機嫌を隠さずに、浮かしていた腰をボスンとソファーに沈める。
「やっていくも何も。僕は1年しかここにいないんだし、そうそう魔物……あやかしの事件に遭遇するものじゃないでしょ」
荘は長く溜息をついた。
「お前、鵺の大哥の家にいるんだよな?」
『白の小姐』が真稚なら、『鵺の大哥』は社の事だろう。幻は頷く。
「鵺の大哥が毎日、どれだけのあやかしごとを捌いてるか、ちっとも見てねぇんだな」
「え?」
「聞いてるだろうが、この町は世界の鬼門だ。故郷のアメリカの街と同じに考えてっと、そのうち痛い目見るぞ」
大哥に迷惑かけんなよ、と釘をさされ、幻はムッとしたが、実際、社があやかしの事件を扱っている所を見たことがないので何も言い返せない。
(『見本を見せてくれる』はずの真稚も、どこかに行っちゃうしさ……)
幻がふて腐れて、冷めたお茶をズズッと啜ったその時、ものすごい悲鳴が聴こえた。
「!?」
幻は驚いて茶碗を倒してしまった。
目の前の荘は「何してんだお前」などと言いながら、布巾でテーブルを拭いている。聴こえなかったというのだろうか、あんなに大きな悲鳴が。
(ということはもしかして……)
幻には聴こえて荘には聴こえない悲鳴。あやかしの声、なのだろうか。
幻はがたんと席を立ち、驚く荘を尻目に悲鳴の聴こえた方へ走った。廊下を走り、裏口から靴も履かずに外へ飛び出す。草むらと化した庭の、丈の高い草をかきわけ進んだ。
「おい、これ薬草なんだぞ!?あんま荒らすなよ、な……」
追いついた荘が、幻に抗議しようとして途中で声を飲む。幻も目前の光景から、見開いた目を逸らせなかった。
最初は、蜂か何かが無数に集まった塊に見えた。黒い粒がザワザワとざわめき、木の枝にぶら下がるように群れている。
だが、よく見るとその群れには目があった。黒の中に光る無数の赤。それぞれがギョロギョロと辺りを窺うように蠢いている。
そして、その群れには口もあった。その口は今まさに、食事をしている所だった。
「あやかしがあやかしを食べてる……のか?」
黒い塊に喰われているのは、少女の姿のあやかしだった。
驚きが薄れると、幻は目の前の光景に急速に興味をなくしていった。それは、故郷の町で人に忌避されないために培った技だった。
それが人に危害を加えるものならば、人知れず退ける。そうでないならば、目を逸らし顔を俯け見ないフリをする。
今襲われているのは人ではなくあやかしだ。救う必要はない。人の姿であっても、あやかしはあやかし。祖母の仇と同じものだ。
「吉鈴!」
すぐ隣で荘の叫び声がして、幻はハッと顔をあげた。その拍子に、目があってしまった。腰から下が既に黒い塊に取り込まれた、少女の姿のあやかしと。
聴こえたのは最初の悲鳴だけで、今はもう何も聴こえない。だが、何と言っているのかは聴こえずとも分かった。手を伸ばし、涙の粒を散らしながら『助けて』と叫んでいる。だがその声は、助けを求める声も手も視線も全て無視しようとしていた幻には届かない。
「吉鈴! くそっ……おいお前、なにボーッと突っ立ってんだ!?早く助けてやってくれよ! あれは俺の連れなんだ!」
自分の肩を掴んで揺さぶる荘を、幻はぼんやり見つめていた。
助ける必要なんてない。いつものように見ないフリをしていればやり過ごせる。
(本当に、そうか?)
やり過ごせるのだろうか。やり過ごしていいのだろうか。
住人の半分以上があやかしを視聴きするこの町ではもしかして、いや、もしかしなくてもあやかしを隣人のように考え、交友しているのではないのか。
『人間よりもあやかしの方が私に優しい』と言った真稚。
『助けてやってくれよ!』と叫んだ荘。
彼らの前であやかしを見ないフリでやり過ごす事は、彼らの想いを見ないフリで無視するのと同じ事だろう。
「あああああ、もう!」
幻はがしがしと金の髪をかきむしる。
ゴチャゴチャ考えるのはやめよう。自分は祖母の笑顔がもう一度見たいのだ。
(そのためにはこの町で、あやかしとうまく折り合いつけてやってかなきゃならない!)
要はあの黒い塊を追い払えばいいのだろう。それなら多分、今の揺れる心のままでも実行できる。
そう思いなおした幻は、深く息を吸うと、あやかしに向かって走り出した。
「やってやろうじゃないか!」
とん、と地面を蹴って跳ぶと、黒いあやかしに拳を叩き込んだ。
砂袋を殴ったような確かな手応えと、耳障りなノイズ音のような黒いあやかしの悲鳴。幻は、黒いあやかしが口を開いたすきに、あやかしの少女の手を掴み引いた。
「ちょ、ええええ!?」
荘が驚いて声をあげた。
「あやかしを素手で殴るやつとか、初めて見たぞ!?」
「いいから、それより奴がまた来る前に逃げて! それと真稚を探して来て!」
幻は少女のあやかしを荘の腕に渡しながら、余裕のない口調で叫んだ。
今は動きが鈍っているが、黒い塊は霧散せずに、ぶら下がっていた木の根元でまだ蠢めいている。赤い目がぎょろぎょろ動き、幻の姿を捉えた。
黒い粒がざわざわと広がっていく。逃げ場を残さず、覆いかぶさるようにこちらへ迫ってくる。これだけ大きくなってしまうと、殴ることもできない。幻は喰われる事も覚悟して、ギュッと目を閉じた。
その時。
津波のように押し寄せてきていたあやかしが、ピタリと動きをとめた。
「…………?」
幻が恐る恐る目をあけて最初に見たのは、さらりと揺れる白銀の髪だ。
「真稚!」
幻とあやかしの間に凛と立つ白い少女は、肩越しに振り返って幻に笑みを向けた。
「幻、大丈夫?」
幻が目を見張る。その柔らかな口調と、優しい眼差し。……これはもしかして。
「……グランマ、なの?」
幻の問いに真稚は答えず、ただ小さく笑って、あやかしに向き直った。
「さて。『封じ』は久しぶりだけれど、覚えてるかしらね……。よく見ておきなさい、幻」
そう言い置いて、真稚は動きをとめたあやかしに向かって、無造作にすたすたと歩み寄った。そして、指先で優しく触れてから、寄り添うように黒い塊に身を預けたのだ。
「あなたのいるべき場所はここではないわ。自分でも分かっているのでしょう」
諭すように穏やかに語りかける真稚の姿は美しく、一種神々しくさえ見えた。
幻は、聖母マリアのようだと一瞬だけ思い、すぐに頭を振って否定する。あやかしに寄り添う聖母など、たちの悪い冗談にしかならない。
そんな事を考えている間に、黒い塊に変化が起きていた。波がひくようにしゅるしゅると小さくなっていき、最後は真稚が差し出した両手の中に収まってしまった。幻が目を丸くしていると、荘がしみじみと呟く。
「さすが、白の小姐。いつ見てもお見事だぜ。な、吉鈴」
荘の腕の中で少女のあやかしが頷く。
「あれは本当に真稚なの?」
幻の呆然とした呟きに、荘は首を傾げた。
「小姐だろ。まあ……小姐だけじゃねえけど。小姐は『代わる』者だからな。要するに降霊術遣いだ」
その答えは幻の想定内だ。だが、続く言葉は想定の範囲外だった。
「日本じゃ『キツネ憑き』とか言って、結構嫌がられるんだよな。しかもあの容姿だろ? 家から追い出されて神社に預けられたっつう話だけど」
社と兄妹ではないだろうとは思っていたが、ちゃんと聞いた事がなかった。
「そんな事情があったのか……」
「俺も吉鈴からの又聞きだから、よく知らんけどな」
俺とはあんまり話してくれねえし、と荘は苦笑する。
「おい、何か入れ物はないか? 密閉できるやつ」
戻ってきた真稚は、既に幻の祖母ではなく真稚だった。手の中に蝶を捕まえたように、両手を合わせている。
「神社に連れて帰る。社が彼岸に送ってくれるはずだ」
あの手の中に、少女のあやかし――吉鈴を襲ったあやかしがいるのだ。幻は、荘と吉鈴を見遣る。
「台所にタッパーがある。それでいいだろ」
荘は何事もなかったように、吉鈴を連れて家の中へと戻る。幻は驚き、慌てて追った。
「荘はそれでいいの? あれが憎くないの?」
「……憎かったら何だっつうんだ?」
「……自分の手で消滅させたいとか、思わないの?」
荘と吉鈴が顔を見合わせた。
「思わないでもねえけど」
荘は吉鈴の頭を撫でながら優しい目をした。
「吉鈴が無事だったから、とりあえずそれでいいわ」
目を丸くした幻に、いたずらっぽく笑ってみせる。
「それに、あいつらがこれから行く所を思えば、それである程度気は晴れるわな」
あのあやかしを、社はどこへ送るのだろうか。どちらにせよ素晴らしい場所ではないのだろう。
「昔は……似たような事考えたりもしたけどな」
「え?」
「俺がこの国に来た理由は、お前と同じだよ。阿幻」
「敵討ちってこと? ……成功したの?」
「いや、無理だった」
表情だけ見れば、仇を討てたかのような清々しい顔なのに、荘は首を横に振った。
「お前も多分無理だぜ。早く諦めて帰るか、この国に留まる別の理由を考えた方がいい」
「どうして?」
「この国にはこの町があって、この町には鵺の大哥がいるからだ」
「意味が解らない……」
眉間に皺を寄せた幻を見て、荘は笑った。幻と同じ顔立ちだが、浮かべる表情は違う。どこか悟ったような顔をしている。
「自分が本当にしたいことが何なのか、もっかいよく考えろよ。お前が見てえのは仇の苦痛に歪む顔か、それとも大切な人の笑う顔なのかをな」
黒いあやかしを入れたタッパーを手に、神社への道をテクテクと歩きながら、幻は荘の言葉の意味を考えていた。
「……僕、アメリカに帰った方がいいのかなあ」
「今更思い当たったのか」
「うっ」
真稚の言葉に、幻は首をすくめた。
「私は最初に言ったぞ、勉強だけしてろと」
厳しい口調にくじけそうになるが、幻はふるふると首をふって表情を引き締める。
「いやっ、でも僕帰らないからね! 留学期間は始まったばっかりだし、グランマの遺体を集めて……一緒に帰るんだ」
「……そうだな」
無理だと言われるかと思ったが、意外とすんなり流されたので、幻は拍子抜けして少し後ろを歩く真稚を振り返る。真稚は目深にかぶった帽子の下の目を、哀しそうに細めていた。
「……どうしたの? 哀しそうな顔して」
「別に……そんな顔してるつもりはない」
ぷい、とそっぽを向いてしまった真稚の横顔を見て、幻は首を傾げる。すると、不意に真稚が足をとめた。
「真稚? どうかした?」
目を見開いて硬直している真稚の視線を追うと、40代後半くらいの、着物姿の男性が立っていた。
「わお、キモノ! カッコイイなあ」
幻が口笛を吹いたのと、男性がこちらに気付いたのがほぼ同時だった。
着物の男は、こちらを見るなり思い切り顔をしかめる。『苦虫を噛み潰したような顔』とはこういうことか、と幻は思った。しかし、男が眉間に深い皺を刻んだまま、こちらへつかつかと歩いてくるのを見て驚いた。
(えっ、あの人何であんなに怒ってるんだ?)
幻はどうしていいか分からず、おどおどする。幻達の目の前で立ち止まったしかめっ面の男性が、真稚を睨んで重々しく口を開いた。
「何故お前がこんな所にいる?」
幻は真稚を振り返る。唇を噛み締め、じっと俯く真稚は、よく見ればカタカタと震えていた。
「真稚、知り合い?」
幻が小声で尋ねても、真稚は何も答えなかった。男は真稚から幻に目をうつし、短く聞いた。
「君は?」
「ハイ、幻・イグアス言います! 博(はく)深(しん)学園に留学してるデス」
幻がすっかりクセになっている片言で言うと、男は表情を和らげた。
「そうか、君が鵺栖神社にホームステイしているイグアス君か。私はそれの父親だ」
「真稚のダディ!?」
「神社の氏子総代を務めている。何か不自由があれば遠慮なく言ってくれ。力になろう」
そう言った真稚の父の笑顔は頼もしげで、幻はすぐに警戒を解いた。何故真稚がこんなに怯えているのかが分からなかった。
「それでは、また」
こちらに歩み寄ってきた時とは打って変わった笑顔で、真稚の父は幻と握手を交わす。そして去る前に、真稚を見下ろした。
真稚は俯いたままだったが、視線を感じ取ったのかビクッと肩を振るわせる。
「お前、この街をあまり出歩くんじゃない。みっともないだろうが」
「え?」
幻は自分の目と耳を疑った。
真稚の父は笑顔で会釈し、着物の裾を翻して去っていく。途端、隣に立っていた真稚が膝から崩れ落ちた。
「うわっ、何どうしたの? 大丈夫!?」
慌てた幻が肩に手を置くと、真稚はその手をすかさず振り払った。持っていたタッパーが、道に転がった。
「ぁ……」
真稚は真っ青な顔でカタカタ震え、口を開閉するが声が出てこない。その赤い瞳から、今にも涙が溢れそうだった。
尋常でないその姿に、幻は動揺した。いつもふてぶてしいほど我が道を貫いている真稚の、痛ましいまでの憔悴ぶり。それなのに、縋ってももらえない。振り払われた手が宙を泳ぐ。
どうしたらいいのか分からずに、幻はただ立ち尽くした。……転がったタッパーの蓋が開いてしまった事にも気付かずに。
「分かった……待ってて! 今、社を呼んでくるから!」
――そう言って走り去った事を、幻は後悔することになる。
幻が社と一緒に駆けてきた時にはもう、真稚はそこにいなかった。
「……あれ? 何でいないんだろ」
幻はあちこちキョロキョロと探しながら、真稚の名を呼んだ。社は道に転がっていたタッパーとその蓋を拾い上げ、眉根を寄せた。
「……幻、もう一度状況を聞かせてくれる? 荘の所の吉鈴が、あやかしに食べられそうになったんだよね?」
幻はひとつ頷き、言葉を継いだ。
「うん。でもそれは真稚が……というか真稚に『代わった』グランマが助けてくれて。それでそのあやかしを社に渡そうと思って……って、ああああ!」
幻はようやく、自分の持っていたはずのタッパーが社の手の中にあるのに気付いた。
「……まさか真稚、このあやかしに……」
「うーん……否定はできないけど……でもまだ早いよ」
「あ、もしかして家に戻ったのかなあ?」
「家?」
「さっき、真稚のダディがここを通ったんだよ」
社の手からタッパーが滑り落ち、コンコンと転がった。驚きの表情から、次に社が浮かべたのは、やはり『苦虫を噛み潰したような顔』だった。今日はこの表情によく行き会う。
「……阿部総代か……まずいな」
しかし、真稚やその父はまだしも、社のこんな表情は見たことがなかった。
「……荘から聞いた? 真稚が神社にいる訳を」
しゅんとして頷く幻に、社は苦笑した。
「真稚の家は、江戸時代から続く呉服屋でね。古い家系は時に、信じられないほど古い因習にとらわれる」
「…………」
「翻弄される新しい時代の者達は、代替わりをじっと待つしかないのかもしれないけど……それも悲しいことだね」
前の世代が消える事を願っていなければならないなんて、と社が小さく呟く。
「よし、戻ろうか。幻」
「え!?」
社が元来た道を引き返すのを見て、幻は慌てて腕を掴み引き止めた。
「ちょっと待ってよ! 真稚を探さなきゃ」
「俺に心当たりがある。あの桜だよ、幻」
先月、散った花びらの降り積もる中、祖母の右手を見つけた場所。今は若葉が青々と生い茂る、あの桜の大樹。
「あやかしに囚われたとしても、捕らえたとしても、真稚はあそこへ戻ってくるよ。真稚の気に入りの場所だから」
社は幻と目を合わせた。
褐色の瞳の中に、ちらちらと揺れる灯。幻は以前にも見たこの炎が気になっている。……だが今は、真稚を見つける方が先だ。
確かに、真稚はよくあの樹に登ったり、根元でうたた寝していたりする。それは幻もよく知っていた。
「……分かった、行こう」
コクリと頷き、幻と社は桜を目指して走り出した。
神社を過ぎ、山の上の桜に息を切らせてたどり着いた幻は、真稚の姿を必死に探した。
根元にも、枝の上にも、真稚はいなかった。幻は絶望にくずおれそうになる。
(じゃあ……あのあやかしは?)
真稚を殺し、あるいは喰った後で、あのあやかしがここに来ていたら。ついさっき希望に縋るように見上げた桜を、今度は憎しみに満ちた目で睨み上げた。
「幻。落ち着いて」
ぽん、と幻の肩に社の手が置かれた。
「そんな心じゃ、悪いあやかしに付け入れられる。負の感情は彼らの好物だから」
「そんなの、今は関係ないでしょ?」
「ある。……なぜ真稚が、格下のはずのあやかしに不覚をとったのか分からない?」
幻はあの時の真稚の様子を思い出してハッとする。青ざめた顔、震える肩。きっとあの時の真稚は、負の感情でいっぱいだったのだろう。
「どうしたらよかった……?」
幻はくしゃりと顔を歪めた。
「僕はいつも間違う……グランマも助けられない、真稚も助けられない」
「間違わない人なんていないよ」
社はいつもの、苦笑気味の笑顔で言う。
「失う事もある。それでも、間違ったと気付いたなら、やり直す機会はきっと来るから」
「でも真稚はもう……!」
悲痛な声は、途中で喉に詰まって出てこなかった。
「おい、誰が『もう』だ」
不機嫌そうなかすれ声が、上から聞こえた。
社と幻がばね仕掛けのように顔を跳ね上げる。真稚の姿は見えない。
「ま……真稚!?いるの? 生きてるの!?」
幻の叫ぶような呼びかけに、返事はない。
「……もしかして」
社は呟くと、桜の幹に手をかける。とん、と軽く地面を蹴っただけに見えた。だが社の体はそれだけで、風に舞い上がった羽根のように樹上に跳ぶ。
「!?」
幻は驚きに口と目を丸く開け、ただポカンと上を見上げ続けた。
「……やっぱり」
社は樹のてっぺんで、痛ましげな溜息をつく。
真稚はボロボロの姿で、そこに引っ掛かっていた。白銀の髪はひきちぎられたようにざんばらになり、白い肌のあちこちに傷が開いていた。まだ出血が止まっていない傷もある。
真稚は動かない体で無理して表情だけを繕い、社に笑ってみせる。
「社……怒ってる、か?」
「ちょっとね。どうしてこんなになる前に、俺を呼ばないかなあ」
「幻が……変に思う、だろ」
「もう遅いよ。俺今、ここまで飛んできたから」
苦しそうな息の下から、真稚は舌打ちを漏らす。
「ばか……」
「それは俺の台詞だよ。真稚はもう少し、優先順位の付け方を考えてくれ」
口調こそ厳しいが、社の目は真稚を案じる優しいものだった。
「あと……これを幻に」
真稚が差し出した帽子の中を覗くと、中には人の指が入っていた。
「荘の家にいたあやかしが持ってた……幻が探してるやつだろう」
「これを取り戻す為に無茶したのか」
「今渡すと……幻が気にしそうだから、後で頼む」
真稚は力無く笑う。
「総代に会ったって?」
社の問いに真稚はピクリと眉を動かす。
「そんな精神状態で、あやかしとやり合うなんて……自殺行為だ。二度としないで」
「…………」
「いいね!?」
社の剣幕に、黙っていた真稚も渋々頷いた。
真稚を抱えた社が樹の下に降りてきたのを見て、幻は泣きながら歓声をあげ、とびついた。
「ちょっ……離れろ、痛い……」
真稚のうめき声を聞いて、慌てて身を離す。
「あのあやかしとやり合って、痛み分けしたんだって。傷は多いけど、命に別状はないよ」
社を見つめながら、幻はそうなんだ、と硬い声で返した。
ここにきて幻は、社の正体を疑い始めている。
(軽く地面を蹴っただけで、5、6mも垂直跳躍する人間っているか……?)
そんな幻の思いを知ってか知らずか、社はいつも通りの柔和な笑みを向ける。
「早く連れて帰って休ませよう。ね、幻」
「……うん。そうだね」
社の正体も気になるが、今は真稚が心配だ。幻はとりあえず、疑念はおいておくことにした。
真稚を自室に寝かせ、部屋から出て戸を閉めると、幻がじっと立っていた。
「……お待たせ。聞きたい事があるんだよね、分かってる」
社は苦笑すると、居間を示した。
しかし幻は、少し間を置いて首を振る。
「……ううん、まだいい」
「え?」
幻は言葉を探しながら、ゆっくりと話した。
「僕はまだ社達みたいに、あやかしの事を隣人のようには思えない。これからも思えるかどうかは分からない……けど、努力はするつもり」
「待子(まちこ)さんのために?」
「……それももちろんあるけど」
しっかりと前を見据える翠の瞳が、社をまっすぐとらえる。しかし、言葉は不明瞭だった。
「Well...何て言ったらいいんだろう、言葉が出てこないや」
次第に視線もうろつきはじめる。幻はしばらく唸っていたが、一つ嘆息して両手をあげた。
「ダメだ、お手上げ。……でもとにかく、社がどう答えても動揺しないですむくらい成長したら、改めて聞きたいんだ」
社はふっと目を細め、頷いた。
「分かった。その時は、聞かれた事全部、正直に話すと誓うよ」
「ありがとう」
もし。
もしも社が人間でなかったとしても、幻は社を憎みたくはないのだろう。
(そう感じてくれてると、思っていてもいいのかな?)
社は自室へ去る幻の後ろ姿を見ながら、そうひとりごちた。
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