鵺栖町あやかし譚
いわし
第1話・4月
『綺麗な国だなあ』
この国に来てみて、最初に思ったことはそれだった。
アメリカからの直行便で空港に降り立ち、電車とバスを乗り継いで約5時間。その道中でどんどん景色が変わっていっても、やはり『綺麗な国』という印象は変わらない。
幻(げん)・イグアスは、アメリカからここ日本へやってきた留学生だ。地元のハイスクールと姉妹校になっている日本の私立高校が、交換留学を行っていると知って、真っ先に手を挙げた。
幻の祖母は日系だ。南米系の祖父と結婚してアメリカに移り住んだ。幻には下に妹と弟がいるが、3人に名をつけたのも祖母だ。
(グランマ。グランマの国は綺麗な所だねえ)
山は一面ライトグリーン、所々に淡いピンクが混じる。花が咲いているのだろうか。
『鵺栖~、鵺栖~』
窓の外を見ているうちに、目的の駅に着いた。 幻は慌てて立ち上がり、トランクを荷棚から降ろす。ドアが閉まってしまうかと急いで外へ出ると、車掌と目が合った。
そういえば、電車に乗るときに『鵺栖駅へはこの電車でいいのか』と車掌に尋ねたのだった。幻が降りるのを待っていてくれたらしい。
「ありがとう」
幻がお礼を言うと、車掌は微笑み、笛を吹いた。
ゆっくりと発車していった電車を見送ってから、幻は降りた駅を見渡す。
屋根のないホームと無人の小さな駅舎。『きっぷ』と書かれた木箱の中に切符を入れて、幻はトランクを転がして外に出る。途端に、視界全部を淡いピンク色に染められ、思わず目をすがめた。
「わお、サクラだ」
小さく呟いた幻の声は弾んでいた。駅舎のすぐ外には、大きな桜の木が花を咲かせていたのだ。木の幹には、『ようこそ鵺栖町へ』と書かれた古い看板が提げられている。
(歓迎されたみたいだ)
桜はまだ満開ではなく、六分咲きといったところ。満開になったらどれ程綺麗なのだろうと、幻はワクワクしながら桜を見上げた。
と、見事な枝振りの隙間に、何か白いものが見えた。
「?」
幻が目を凝らすと、その白いものがゆらりと動いて、目の前に落ちてきた。
「! ……!?」
目を白黒させる幻の目の前で、猫のように危なげなく着地しスッと立ち上がったのは、白い髪に赤い瞳の少女だった。
「わお……」
それはゾクリとするほど綺麗な光景だった。
桜の花びらを纏いながら、凛と立つその少女は、桜の木の女神のようだ。桜花よりも数段色の濃いその瞳がこちらを見ている。
幻は金縛りにあったように、声も出せずにいた。
綺麗な少女だった。恐らくアルビノなのだろう、目に痛い程真っ白な髪と肌、赤い瞳、整った顔立ち。
「きみが幻か」
少女の声が鼓膜を震わせた途端、幻の金縛りは解けた。
「あっ、ハイ! もしかしてホストファミリーの方ですか?」
少女はごく小さく頷く。長い髪が揺れなければ見落としてしまうくらいの小さな仕種だった。
「初めまして、幻・イグアスと言います。1年間お世話になります!」
幻は笑顔で自己紹介をし、右手を差し出したが、少女はやはり小さく頷いただけで、冒頭の一言以来何も喋らない。幻は自分の日本語はおかしかったろうかと内心冷や汗をかきながら、少女の次の行動を待った。
少女はしばらくじっと幻を……否、幻の少し後ろ辺りを見つめていた。後ろに何かあるのかと振り返ろうとした瞬間、少女が小さく微笑んだ。
「あなたのお祖母さまですか?」
「え?」
「おまえの後ろ」
パッと振り返るが、後ろには駅舎が佇むだけ。人っ子ひとりいない。
(後ろって何!?)
青い顔で冷や汗をかく幻を尻目に、少女はくるりと踵を返した。少し歩いた先で立ち止まってこちらを振り返る。
「ついてこいって事……ですか?」
少女は小さく頷き、歩き出す。その後を追いながら、幻はこの国に来て初めて、一抹の不安を覚えた。
不思議な少女は、傾斜のついた道を体重を感じさせない軽い足取りで歩いていく。坂道に慣れていない幻は、うっすら汗をかきながら、トランクを転がし後に続く。
「どこに……向かってるんですか?」
どんどん住宅地から離れていく気がして、幻は立ち止まった。後ろを振り返れば、住宅地は下に見える。随分と登ってきたものだ。少女はピタリと足を止めて、数秒間無言で幻を見つめ、そのまままた歩き出した。
(今更だけど……本当にこの子について来てよかったのかな?)
日本は平和な国だと聞いていたし、相手が相手なのでそれほど警戒していなかったが、今や幻の不安は膨れ上がっていた。
しかもここから先はさらに登り坂で緑も深く、明らかに山の様相を成している。
「ねえ、君!」
幻が少し厳しめの声で少女を呼び止めると、少女はまた無言で振り返る。
「君は誰ですか?」
幻の疑いの眼差しに、少女が気付いていないはずはない。しかしそれでも少女は無言を貫き、黙って坂の上を指差した。
(門……じゃない、何だっけ? ……そうだ、鳥居だ)
どうやら少女の目的地は、神社のようだ。
またてくてくと歩き出す少女に、幻は嘆息してから続いた。神社には興味があるので、それを見たら一旦駅まで戻ろうと思った。
朱塗りの鳥居は意外と新しく、つい最近立てられたもののようだ。幻はきょろきょろしながら鳥居をくぐる。くぐってしまってから、「くぐり抜けていい物だったのか」と疑問がわいたが、もう遅い。
鳥居は新しいが、社殿そのものはとても古かった。しんとした境内に、春の暖かな陽射しが降り注ぐ。きらきらとした光景に神聖な何かを感じて、幻はしばらく立ち尽くした。
不意にざあっと風が吹き、境内の大イチョウが枝を揺らした。その音で我に帰った幻は、慌てて辺りを見回す。
(荷物はとられてない……けど、あの子は?)
あの白い少女は、まだ鳥居の向こうにいた。幻は疑念を含んだ視線を少女に向ける。
「何で来ないですか?」
「…………」
「……来れないですか?」
少女の赤い目と、幻の翠色の目がかち合った。
「君は人間と違いますね?」
少女は目を伏せ、やがて俯いた。幻はコクリと生唾を飲み下し、少女を睨む。
『魔物は去れ』
その口から出てきたのは流暢な異国語の呪文だった。
「う……!」
それを聞いた少女はびくりと震え、苦しそうに顔を歪めてスウッと消えた。消える直前、震える指先で何かを指していたのが見えたが、幻は特に心にはとめなかった。
幻は詰めていた息を吐き、額に浮いた冷や汗を拭った。
こんな綺麗な国にも、あんな魔物がいるなんて。あのままついて行っていたら、一体どうなっていたのだろう。悲劇的な結末しか思い浮かばず、幻はふるふると頭を振った。
正体を知ってから思えば、最初からおかしかった。待ち人を木の上で待つ人間などいるだろうか? 話す口調もまるで統一感がなく、複数の人間が順番に話しているかのようだった。
追い払えてよかった。とはいえ、すぐにこの神域を出るのは危険だ。しばらくここにいた方がいいかもしれない。そう思った幻は、社殿へと足を向けた。
(神社って教会みたいな物だったよな、確か。中で少し休ませてもらおう)
日本では屋内で靴を脱ぐというなけなしの日本の知識を呼び起こして、賽銭箱の横の階段を、靴を脱いで上った。ガラスもはまっていない木枠格子だけの扉を開けて、社殿の中へ入る。古いがよく磨かれた床板が、足を下ろす度に小さく軋んだ。
部屋の一番奥、小さな扉の前で幻は立ち止まった。
(これが神かな?)
日本式を知らない幻は、とりあえず十字を切っておいた。『主よ、お守り下さい』と祈りの言葉をヘブライ語で添えて。
「あれっ」
背後で聞こえた声に、幻はバッと振り返った。扉を開け放ち、逆光を背負った少年は、小さく首を傾げて言った。
「……もしかして、今日からうちにホームステイする幻・イグアス君?」
少年と青年の狭間にいる年頃の少年は、幻に笑いかける。
「駅まで迎えに行ってもらったんだけど……入れ違いになったみたいだね。俺は高(たか)遠(とう)社(やしろ)。君のホームステイを受け入れた、ホストファミリーの一人だよ」
「あ……ええと、ハジメマシテ! 幻・イグアスです。よろしくお願いします」
慌てて右手を差し出す幻に、社は驚いたように目を丸くした。
「日本語上手だね。よかったよ。俺も真稚(まわか)も英語とか喋れないから、どうしようかと思ってたんだ」
「日本語は祖母から教わりマシタ。祖母は日本人ネ」
「ああ……なるほど」
そう言って社は、握手しながら幻を……否、幻の後ろを見ていた。
「優しそうなお祖母さんだね」
「え?」
何でもないよと笑顔で言って、社は神社の裏の自宅の方へ案内してくれた。その途中で、幻は神社の社殿には勝手に入ってはいけないことを初めて知った。
「そうだったデスか! ごめんなさい」
「いや、大丈夫だよ。他の神社なら怒られるかもしれないけど、この鵺栖神社はうちが神主をやっているから」
「カンヌシ?」
「教会で言う神父さんみたいなものかな……」
つまり幻がホームステイする家は、聖職者の家ということか。
幻はワクワクと目を輝かせた。
高遠家は平屋建ての日本家屋で、幻はますます瞳を輝かせた。
「わお、ニッポンらしくて綺麗デス! かっこいいデス!」
「いやあ……古いだけだよ」
苦笑しながら玄関の引き戸を開ける社に続いて、幻は屋内へ入る。靴を脱いであがり框を上がると、神社の社殿より幾分新しい床板が、キュッと音を立てた。
「実は、申し訳ないんだけどね……祖父ちゃんが君のホームステイの事を言ってきたのが一昨日で、部屋の準備がまだ全部できていないんだ」
「ノープロブレムです、どこでも寝れマス!」
「一応部屋の中の物は納戸に移して、掃除はしてある。布団も用意してあるから……ベッドじゃなくて平気?」
「布団好きです! 大丈夫ネ」
案内されたのは居間の隣の、庭に面した窓のある部屋で、その窓からも淡いピンクの花が見えて、幻は目を輝かせて窓に駆け寄った。
「わお、綺麗な桜デスねえ……!」
丈の低い生垣で囲われた高遠家の庭には、大きくはないが枝振りのいい桜の木が、花を咲かせていた。
「庭に桜の木があるなんてステキです!」
「駅の桜には負けるけどね」
社のその一言で、忘れかけていた先程の一件を思い出し、幻は、はたっと笑顔を凍らせた。
「……どうかした?」
社がその顔色を見て首を傾げた。
幻はむりやり口の端を持ち上げて「ノープロブレムね!」と言った。社は感情の読みにくい顔で「そう?」と軽く首を傾げた。
そうだ、変なことを言ってはいけない。特にこの国は、普通であることが何よりも重要視される場所だ。このおかしな体質の事に気づかれてはいけない。
(気づかれずに……守るんだ)
幻は桜を見ながら、心の中でそう誓う。
桜を見て和んでいる表情とは言い難いその横顔を見て、社はこりこりと頬をかいた。
「ところで、幻君」
「幻でいいデスよ」
「そう? じゃあ僕も敬語じゃなくていいからね。えーと幻、君の髪すごく綺麗だね」
幻の髪はアメリカでも珍しいくらいの綺麗な金髪だった。 金の髪と翠の瞳。これで肌さえ白ければ天使とでも呼ばれたんだろうにね、と妹などはからかい混じりに言う。しかし、祖父譲りの黒い肌も、幻は誇りに思っていた。
「うちには銀色のがいるから、並んだら壮観だろうね」
「銀色の? ……さっき言ってた『マワカ』という子?」
「そうそう」
社はまた居間へ戻りながら、苦笑しつつ言う。
「少し変わった子だけど、悪い子じゃないから。というか……真稚に迎え頼んだんだけど……すれ違ったにしても遅いなあ」
幻はさっきの白髪赤目の魔物を思い出して、顔色を変えた。
「な……何だか申し訳ナイので、探しに行ってくるネ!」
幻はそう言って、パタパタと玄関へ向かった。靴を履きながらコクリと生唾を飲み込む。もしかしたらあの魔物は、自分を諦めた代わりにその真稚の所へいったのではないか?
(急がなきゃ)
靴紐を結んで顔を上げると、引き戸の前に社がいた。いつ横をすり抜けたのか、全く気づかなかった。
「俺も行くよ。幻は真稚の顔を知らないでしょ」
そうだった。そんなことも言われなければ気づかないほど、幻は焦っていたのだ。
駅までは、来た道を戻るのだと思っていた幻は、境内を逆方向へ歩きだした社に慌てて声をかけた。
「駅はこっちと違うデスか?」
「そっちの裏参道からも行けるけど……遠回りだよ。ああ、幻がこれから通う博(はく)深(しん)学園は、そっちから行くのが近いけど」
今更ながら、あの魔物は幻をどこへ連れていこうとしていたのだろう、と不思議に思った。
「じゃあこっちから行くデスか」
「あ、うん……んー……ちょっと待って」
先に進んでいたはずの社は立ち止まり、回り道のはずの裏参道の鳥居を振り返ってじっと見つめた。
「うん、やっぱりこっちから行こうか」
「え?」
「それで、駅へ行く前に少し寄り道しよう」
「ええ?」
鳥居をくぐって、駅へ向かおうとした幻を呼び止めた社の声は余りにも呑気で、幻の焦りがますます募った。
「だけど……早く探した方が……」
「大丈夫だよ。真稚も小さな子供じゃないし、土地勘もある。それとも……」
社はふわりと微笑みながら、しかし目だけは笑っていないように見えた。
「何か心配事でも?」
幻はぐっと息を詰めて、あの魔物の事を打ち明けようかと一瞬迷う。しかし結局は黙り込んで、社についていく事にした。
どちらにせよ、真稚という子の外見を知らない幻には、そうするしか選択肢はない。社はニッコリ笑って頷き、じゃあ行こうか、と正反対の方向へ歩きだした。
「幻に見せたい物があるんだ。せっかくだから駅に行く前に見てもらって、比べてみてほしいな」
「見せたい物……デスか?」
「うん。とっても『綺麗』な桜の木だよ」
何故か社の言葉からは『綺麗』という単語がやけに浮いて聞こえた。
鵺栖神社の裏参道の鳥居から、駅と反対方向へ山を登って十数分。両側から木の枝が垂れ下がる、薄暗い切通の道を抜けると、そこには確かに桜の木があった。くぬぎやならの木に混じって一本だけ、満開に咲き誇っていた。
その桜は、駅の桜よりも大きく、古い木に見えた。
「どう? 『綺麗』でしょう」
桜の下でふわりと笑う社に、幻は戸惑いながら頷いた。
(綺麗……には綺麗なんだけど……何だろう……)
「怖いくらいに『綺麗』でしょう」
その言い回しに、ゾクリとした。
怖いくらいに『綺麗』。英語にはない表現だった。そして確かに、その桜を形容するのにそれ程相応しい言葉は他にないと思えた。
桜の花というのは、百合や水仙のように香りの強い花ではない。実際、その桜も香りが強いわけではないのだ。
だが幻は、むせ返りそうな程の何かを感じて、一歩後ずさった。桜の木から離れたかったのか、社から離れたかったのか、他の何かなのかは、自身にもよくわからない。
「幻は日本語が上手だけど、日本の文学は好き?」
社は感情の読み取りにくい微笑みを浮かべたまま、幻に尋ねた。
「梶井基次郎という作家の作品にね、『桜の樹の下には』という短編があるんだ」
「読んだことないデス……」
「そう。機会があったら読んでみるといいよ」
ざあ、と風に吹かれた花吹雪の中で、社の表情は隠れ、ただ声だけが届いた。
「この桜が、怖いほど『綺麗』な理由が分かるから」
どういうことなのか問おうとした時、社の頭上の桜の枝が一際大きく揺れた。
花びらと、幾つかは花ごとパラパラと、散った桜が社の周りに落ちてくる。幻が目をこらすと、枝の隙間から白い物が見え、ゆらりと動いた。
ほんの少し前に、同じような光景を見ていた幻は、スッと青ざめる。
「ヤシロ! 逃げっ……!」
「おっとっと、よいしょっ」
ガサガサッと派手な音を立てて落ちて来たものを、社は両手で受け止める。
それは白い髪に赤い瞳の少女だった。……数刻前に会い、追い払ったばかりの。幻は慌てて社に向かって叫んだ。
「ヤシロ、何してるの!?危ないよ、早く逃げるネ!」
「えっ?」
少女を抱き留めたままキョトンとする社の首元に、少女の腕が絡み付く。社は少女と顔を見合わせ呼びかけた。
「真稚、幻に会ってたの? 何かしたの?」
「……私は会っていないし、何もしていない」
「……えっ?」
二人が普通に会話しているのを聞いて、今度は幻がキョトンとする番だった。
「幻、この子が真稚だよ。阿部(あべ)真稚」
そう言って紹介された少女は、やはりどう見ても先程の魔物の少女にしか見えない。
強張った顔で固まっている幻……正確にはその背後を、真稚は黙ったまま赤い目でじっと見つめていた。
「社、おろして」
「ああ。はいはい」
真稚は裸足だった。地面に足を着いた真稚は、さくさくと野草を踏みながら幻に近付いていく。桜の香りをまとい、白……否、銀色の髪に花びらをつけたまま、一歩一歩ゆっくりと。
「Hold up(止まれ)!」
幻が右手を突き出して叫んだ。ピタリと真稚が足を止める。
冷汗が幻の頬を伝い、顎から滴った。真稚は無表情で真っ直ぐに赤い瞳を向ける。桜の木の下では、社がそれを見守っている。
『お前は何だ? 何が目的だ! この町が魔物だらけなのはお前のせいか!?』
英語でまくし立てる幻に、真稚は小さく溜息をついてから唇を開く。
「英語は解らないが、お前が言いたいことはだいたい分かった」
銀色の睫毛を伏せて、真稚は足元から枯れ枝を拾う。その枝で、自分の左腕をざっくりと傷付けた。
白すぎるほど白い腕に長くついた傷から、ぷっつり赤い滴が浮きだし、みるみる流れていく。
「私は人間だ。傷付けば赤い血が流れる。これで納得か?」
眉一つ動かさず赤い血を見せつける真稚に、幻は青ざめた。
「まあ……人間だからといって魔物でないという証明にはならないが」
「What?」
「人間の方が、『あやかし』よりずっと魔物に似ている。私は……あやかしに生まれていればよかった」
「何言ってんの真稚。幻が困ってるだろ」
ぺち、と軽く真稚の頭を叩いて、社が厳しい声音で言った。
「……あと俺も怒るよ。またこんな事して」
真稚から取り上げた木の枝をポイと放り捨てて、腕の傷を悲しそうな目で見る。社の咎めるような目線から、真稚はバツが悪そうに目を逸らした。
「幻、とりあえず戻ろう。真稚は見つかったし、手当てもしたい。……もしまだ真稚の事を疑ってるんだったら、俺が保証するよ。この子は君が思ってるような、『あやかし』の類じゃないから」
「アヤカシ? 聞いたことナイ……それは何?」
まだ幾分警戒しているのか硬い声の幻に、社は歩きながら説明した。
「人ではない何か……妖怪やら幽霊やら精霊やら神霊やら……そういったモノを『あやかし』と呼ぶんだ。英語だと……ゴーストとか色々かな?」
「ゴースト……?」
幻は展開についていけず、パクパクと口を開閉する。
「じゃあ、さっき神社の前でパッと消えたのも……?」
「あやかしだね。真稚はそんな魔法みたいなことできないよ。そうか、幻……」
先を歩く社は振り返らず、明るい声で言った。
「君も『視える』人なんだね」
ピタリ、と幻が足を止めた。
(しまった……)
こんなにも早く、バレてしまった。
幻は小さな頃、不思議なモノを視る子供だった。とは言え、今になって考えると『視る』よりも『聴く』方が得意だったように思う。姿は視えなくても、声はよく聴こえた。社達が言うところの『あやかし』達の声が。
不意に何かに怯えて泣き出したり、何もない場所へ話し掛けたりする幻には、家族も困惑していた。しかし祖母だけは、穏やかに微笑んで幻の頭を撫でながら言ったものだ。
『幻は少しだけ、人より耳がいいのね。それはとてもいい事なのよ。誰かが困っていたり悲しんでいたら、聴いてあげてね』
その祖母は、3年前に魔物に襲われて死んだ。死体は残らなかったので、今でも公には行方不明扱いだ。幻と、同じく『視える』者である幻の弟だけが、祖母が既にこの世にいない事を知っている。
この町に留学したのは、祖母を襲った魔物を探すためだった。弟と共に魔物の足どりを追っているうち、この町で気配が途絶えたことを知ったのだ。
しかし、すぐに飛んでいくには日本は遠すぎた。家族に心配をかけないためにも、渡日はハイスクール卒業後にと思っていたが、思いがけず留学の機会を得た。幻は祖母の敵討ちと、この町を魔物から守るつもりで来日したのだ。誰にも知られずに、独りで魔物と戦う為に。
「君が何を考えているかは、大体分かるよ」
社の言葉に、幻はビクッと肩を震わせる。
「だけどやめておきなよ。お祖母さん、悲しんでいるよ」
「えっ?」
神社まで戻ってきた社は、鳥居をくぐって足をとめ、振り返った。隣を歩いていた真稚も一緒に振り返り、二対の瞳が幻を射る。否、その褐色と緋色の二対は、やはり幻の背後を見ていた。
「聴こえないの? 後ろでずっと、幻に話しかけているのに」
「……!?」
社は悲しげに顔を曇らせ、目を逸らした。
「いや……ごめん。聴こえない方が、視えない方がいいって考え方もあるよね。こういう力って、理解されない事の方が多いだろうし」
再び歩き出す社のあとを、少し遅れて真稚が続く。
「二人も……『視える』人達デスよね?」
幻は鳥居の向こうへ声をかけた。コクリと生唾を飲み込み、意を決して問う。
「グランマを殺した魔物の事……知りマセンか」
「……知ってどうするの」
振り返らずにそう返した社の声は、少し冷えている。
「その問いを口にするのを躊躇ったのは、俺達が幻の言うその魔物と、何か関係があるんじゃないかと疑っているから?」
「!」
幻は思わず息を飲む。見透かされた、と思った。
幻が何も言えずにいると、真稚が傷付いた腕でペシッと社の頭を叩いた。
「社、意地が悪い」
「真稚……」
「信じてもらえないからといって拗ねるな。社はまだ、信じてもらう努力をしていない」
真稚の遠慮のない言い方にもその内容にも、幻は驚いて目を丸くした。社が否定しないという事は、真稚の言葉は的を射ていたのだろう。
「……だって、『視える』仲間なのに疑われて寂しいじゃないか」
叩かれた頭をさすりながらポツリと呟いたその声は、確かに拗ねた声音で。
社の耳が微かに朱く染まっているのを見て、幻は駆け出していた。幻は鳥居をくぐり、後ろから社に飛びついた。
「ゴメンね、ヤシロ!」
「おわわわ」
そのまま倒れそうになりながらも何とか踏ん張り、社は苦笑した。
「いや、謝るのは俺だよ。ロクに説明もせずに信じてもらおうなんて、甘えてた。『視える』『聴こえる』相手でも……やっぱり『伝え』なくちゃいけなかったね」
幻のハグをほどき、社は幻に正面から向き合ってニッコリ笑った。
「ようこそ日本へ、鵺栖町へ、鵺栖神社へ。色々伝えたい事はあるけど、まず一つ。俺は幻を歓迎するよ」
「この町は、世界の鬼門なんだ」
居間から庭の桜を見ながら、社は語った。
「鵺栖町は、世界中から『あやかし』の集う町。理由は幾つかあるけど……どうしようもない事なんだ。昔から……それこそ何百年何千年も昔から、そういう場所なんだ、ここは」
社の目は桜を見つめていた。彼が語る、何百年何千年前の桜を見るように、どこか遠い目で。
「勿論危険も多い。だけど、集まるあやかし全てが危険な存在という訳でもないんだよ」
「そうは思いマセンけど……。アレは恐ろしい存在。退治する方が安全デス。『アヤカシ』は悪でしょう。違うですか?」
至極真面目な顔でそう言った幻に、社は困ったように笑う。
「うーん……どっちかなあ。否定はしないけど、肯定もしづらいな」
その曖昧な態度がとても日本的で、幻は半分感心し、半分呆れた。真稚が欠伸を噛み殺し、つまらなそうに呟く。
「あやかしは……善にも悪にも馴染まない。無意味な問答だ」
「無意味なんかじゃ……」
反論しかけた幻を赤い瞳が捕える。幻は息を飲んだ。
あの桜を、社は『怖いくらい綺麗』と言った。この瞳にも同じ事が言えると思う。怖いくらい綺麗な緋色の瞳。目を逸らしたくなるような……、逆にいつまでも見ていたくなるような。
「綺麗だなあ……」
「は?」
真稚が素っ頓狂な声を出した。
「真稚の瞳はとても綺麗デスね」
「…………」
素直過ぎる賛辞に、真稚は殊更ゆっくりと目を閉じた。血管の透ける白い瞼が緋色の瞳を覆い隠す。
「お前が『綺麗』と言ったこの目を、えぐり出したくてたまらない人間だっている」
「え?」
幻が戸惑っていると、真稚は勢いよく社を振り返り、叩き付けるような声で言った。
「社、私は反対だ。こいつにやらせるべきじゃない。だってこいつは……」
「真稚。もう決まった事だから」
穏やかに真稚の言葉を遮った社は、真稚の方を見ていなかった。わけも分からず首を傾げる幻に、社は苦笑を向けた。
「ちゃんと説明するよ。……幻はここへ、自分の意志で来たと思っているだろうけど、ごめんね。実は少し違うんだ」
(今、社の瞳が……?)
幻を見る褐色の瞳の奥で、ちりっと何かが揺らめいた気がした。
「俺が呼んだんだ、幻を」
「……What?」
短い沈黙の後、ようやくそれだけを口にした幻が落ち着くのを待つそぶりもなく、社は続ける。
「幻の事は、待子(まちこ)さんから聞いていた。耳のいい子だって」
(マチコって……グランマ!?)
思いがけず祖母の名を聞いて、幻は目を丸くした。
「Wait,wait! どういう事デスか? 社は……グランマと知り合いなんデスか!?」
ちゃぶ台に身を乗り出す幻に、社はコクリと頷いた。
「幻のお祖母さん……待子さんは、俺の祖父ちゃんの同級生でね。この町の出身なんだよ」
「!」
「うちの祖父ちゃんも待子さんも、俺達と同じ『視える』者だった。待子さんは大人になる頃には、はっきりとは視えなくなったようだけど。……あやかしの集まるこの町で『視える』者であるという事がどういう意味かは、大体分かるよね?」
幻は祖母の姿を思い出し、肩を竦めた。祖母も『視える』者だったなんて、全然知らなかった。
「グランマが、この町で魔物退治をしていたという事デスか?」
社は小さく笑って首を振る。
「違うよ。退治はしていない」
「じゃあ何を……」
「それを、幻にやってほしいんだ」
「だから何を!?」
「この町のあやかしを、在るべき場所へ。在るべき姿へ。幻にはその役割を担ってほしいんだ」
真稚が苦虫を噛み潰したような顔でボソリと呟た。
「……断っていい。お前はそのまま勉強だけしていろ」
「真稚」
やんわりした声で諭す社を、真稚はギロリと睨む。
「社、こいつはあやかしと関わらせない方がいい。きっとどちらも不幸になる」
社は、ふう、と苦笑混じりの溜息をついた。
「……分かったよ。それじゃあテストをしよう」
『テスト?』
幻と真稚の声が重なった。社はようやく、庭から目を戻す。またちらちらと褐色の瞳の中で何かが揺れて見えて、幻は目をしばたたく。
「あの桜だ」
社がそう言った途端、真稚がピクリと肩を揺らした。
「幻、あの桜を散らせてみせて。期限は……そうだな、今月中にということで」
「桜……さっきの山の上の?」
「そうそう」
「……あの桜、もう散り初めてたデスよ?」
今月中どころか、今週中にはほとんど散ってしまいそうな勢いだった。
「すぐ分かるよ。あの桜は、他の桜とは違うから」
「霊的な何かがあるという事?」
幻の質問に、社は微笑むだけで答えなかった。しかし否定もしないので、そういう事なのだろう。
「因みに、もしできなかった場合は留学は中止。幻はアメリカに帰ってもらうから」
「……ええっ!?」
一瞬何を言われたか分からず、幻は時間差で驚きの声を上げた。
「ど、どうしてデスか!?」
「それくらいすれば幻も頑張らざるを得ないでしょ?」
ニッコリ。
社の有無を言わせない笑顔に、幻はひきつった笑いを返し、消え入るような声で呟いた。
「Yes,sir...」
『Yes』と答えはしたものの、それから数日間、幻は何もしなかった。あの桜を見に行く事すらしなかった。
「幻ー! 帰りに隣街のカラオケ行かねー?」
「カラオケ! アメリカにはあまりなかったので、行ってみたいデス」
「マジか。じゃあ決まりな! 楽しいぜー」
登校初日にできた友達は、毎日のように幻を色んな場所へ遊びに連れていってくれた。学園へ行って友人達と勉強し、日本の文化を学び、めいっぱい遊んで神社へ帰ると、社が夕飯を作って待っている。だいたい神社の周辺をぶらぶらしている真稚を呼んで、夕飯の始まりだ。食卓で幻が学園で今日あった事などを喋れば、社が笑いながら聞き、真稚も興味が薄そうではあるが耳を傾けた。
そんな日々をすごすうち、早くも2週間が過ぎ去った。幻は友達の宮本(みやもと)と一緒に、駅の反対側にあるアイスクリーム屋へ向かっていた。
「……桜も全部散りマシタね」
「そうだな。今年は結構もった方だけどな~」
花びらもがくもすっかり落とし、まだ緑に色付く前の若い葉を繁らせている、駅前の大きな桜。
幻は不意にあの山の上の桜を思い出した。もう散っただろう。そのはずだ。
(駅の桜が満開になる前に、もう散りはじめてたんだから……)
「Oh,my god...」
神社へ戻る前に、山の上の桜を見に行った幻は、思わず呟いた。駅の桜も社の家の庭桜も、すっかり散ってしまったというのに、この桜は今だに満開に咲き誇っていたのだ。
『あの桜は、他の桜とは違うから』
社の言葉が脳裏に蘇る。
「ようやく来たか」
「!」
上から聞き慣れた……というほど会話していないが、聞き間違えようもない声が降ってきた。
「真稚」
「あと1週間しかないな」
ニコリともせずに、真稚は樹上から幻を見下ろしている。
「……まさかまだこんなに咲いてるなんて」
「社が言っていただろ、散らせてみせろと。勝手に散るならそんな事は言わない」
全くその通りではあるのだが。
「学園で人間の友達も出来たろうが……同じようにあやかしとも付き合っていけないなら、このままアメリカに帰れ」
「…………」
幻は唇を噛んで俯いた。
「グランマの仇を討とうと思って来た場所で、その仲間と仲良くしろと?」
「そうだ」
躊躇も同情もなく即答した真稚を見上げる。
「もしお前の祖母君を殺したのが人間だったら、お前は人間全部を殺すのか?」
桜色の海の中から、真稚の赤い瞳がこちらを見ていた。
「……お前は私の瞳を綺麗だと言ったけど」
真稚はその瞳を隠すように目を伏せる。
「私があやかしだったら、お前はきっとそんな事を言ってはくれなかった」
『当たり前だよ』と言おうとして、幻は口をつぐんだ。真稚の淋しげな薄笑みを見て、言えなくなってしまったのだ。
「社はやけにお前にこだわるが、私はお前にやらせるべきじゃないと思う。自分の祖母君の声すら聴こうとしないお前が、あやかしの声を聴けるとも思えない」
「え?」
そういえば今まで追及していなかったが、社と真稚は祖母が見えているような言動を繰り返していた。祖母が亡くなってから、幻は一度もその姿を見たことがない。
「本当に……いるの?」
「ずっといる。悲しそうな顔をして」
「……そうだよね。魔物に殺されて悲しくないわけがない」
幻がそう言うと、真稚は心底呆れたような顔で幻を見下ろした。
「違う。そんな理由じゃない。祖母君が悲しい顔をしているのはお前とお前の弟のせいだ」
「は?」
「お前達が、復讐にとりつかれて祖母君の言葉を忘れているからだ」
真稚の言葉が真実かどうかなど分からない。だが、祖母の霊が悲しんでいるのが自分のせいだと言われて、幻はショックだった。つまり、自分でも思い当たる節がないでもなかったのだ。
「……グランマと話せる?」
幻の真剣な目を見て、真稚は樹上で軽く瞬いた。
「お前の言葉なら、祖母君はずっと聴いてる。祖母君の言葉は私が伝えてやる」
幻は頷き、すう、と夕闇の空気を吸い込んだ。むせかえりそうな桜の香りも一緒に。
「グランマ、僕らは間違ってた? 何をしたら、グランマは笑ってくれるの?」
真稚が驚いたように目を見張った。何か言いたげに唇を開きかけて、思い直したようにとじる。自分の言いたい言葉よりも、祖母の言葉を優先したのだろう。
幻の少し後ろをじっと見つめ、小さく頷く。真稚の唇が動くのを、幻は緊張の面持ちで待った。
「幻」
真稚の声が、これほど柔らかく自分の名を呼ぶのを幻は初めて聞いた。……というか、普段は「お前」呼ばわりな気がする。
樹上から見下ろす赤い瞳も、この上なく優しい色をしている。祖母の瞳は褐色だった。だがあれは祖母の瞳だ。まだ覚えている。
「……グランマ?」
「幻。私の願いは、昔から変わっていないのよ。小さなあなたに告げた時からずっと」
赤い瞳が涙に滲み、つと雫がこぼれた。
「どうか憶い出してちょうだい。そして耳を澄ませてほしいの……あなたの周りに溢れる、声にならない声に……」
樹上で静かに泣く白い少女が、真稚なのかそれとも自分の祖母なのか、幻には分からなくなった。瞬きもせずに雫を落としつづける赤い瞳に吸い寄せられるように、桜の木に一歩近付いた所で、その瞳が瞼に隠れた。
「……と、お前の祖母君は言っている」
無愛想な真稚の口調に、幻はハッと我に帰った。ず、と鼻を鳴らし、真稚は乱暴に服の袖で目元を拭った。
「祖母君が昔言ってた事……憶い出せたか?」
幻は肩を竦める。憶い出すも何も、忘れてなどいない。
『幻は人より少しだけ耳がいいのね。誰かが困っていたり悲しんでいたら、聴いてあげてね』
家族にも恐れられた自分を受け入れてくれた祖母の言葉だ。
(いや……やっぱり憶えていたつもりで忘れていたのかもしれない)
人の声なら幻でなくとも聴ける。幻にしか聴こえない声を聴けと、祖母はそう言ったはずだ。でも自分は、復讐の為に耳を塞いでしまっていた。
「グランマは、復讐なんか望んでなかったんだね」
「……少なくとも、孫に復讐してほしいなんて望むわけない」
真稚はまだ潤んでいる瞳を空に向けた。星が一つ輝いている。
「お前達はバカだ」
「そうだね。バカだった」
幻は翠の目に星を映して笑った。
「……名誉挽回、まだ間に合うと思う?」
「社! あの本を貸して!」
帰宅して早々、『ただいま』を言うより先にそんな言葉と共に詰め寄ってきた幻に、社は目を白黒させた。
「あの本って何だ」
幻と一緒に帰ってきた真稚が、社と幻の二人に問う。首を傾げる社に、幻が身振り手振りも激しく説明する。
「ほら、僕がここに来た日に、社が桜の前で言ってた……あの桜が怖いほど綺麗な理由が分かるっていう本!」
「ああ、『桜の樹の下には』」
社がポンと手を叩き、笑う。
「あの桜と、向き合う気になったんだ?」
「……うん」
幻の、少し躊躇いつつも力強い首肯に、社はますます笑みを深くする。
「あの本はどこにしまったんだっけか……探すのに時間がかかりそうだよ」
「ええっ、困るよ!」
月末までもう時間がないというのに。
社は真稚に悪戯っぽい笑みを向けた。
「真稚、読んであげてよ」
「…………」
真稚は複雑そうな顔を社と幻に順番に向けて、小さく溜息をついてから唇をひらいた。
「『桜の樹の下には屍体が埋まっている!』」
「!?」
突然朗々と響いた真稚の声に、幻はびっくりして肩を跳ね上げた。
「『これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか』……」
「真稚……全部覚えてるの?」
目を丸くして尋ねた幻に、真稚は面倒臭そうに「ああ」と呟いた。
「最初の一文がそっくり答えだよ。分かりやすいでしょ」
社がニコニコしながら幻に言うと、幻は表情を変えた。
『桜の樹の下には屍体が埋まっている!』
真稚の声を思い出して、ゾクリと背筋を震わせる。
「……本当なの?」
「まあ正確にはあの桜の真下に埋まっているわけじゃないけど……この町近辺の死者の魂は、何故かあの桜に集まるんだ」
「…………」
幻は少し考えこんだ後、パッと顔をあげた。
「社、僕ちょっと出かけてくる!」
「うん、行ってらっしゃい。頑張って。帰ったらご飯にするからね」
「ありがとう。行ってきます!」
靴を脱ぐ間もなく玄関から飛び出していった幻を見送ってから、真稚がボソリと呟く。
「ヒントをやってたなんて聞いてない」
真稚にじろりと睨まれても、社は笑みを崩さなかった。
「まあ、この町の住人以外に『あやかしごと』を頼むのは初めてだからね。そういう真稚も、待子さん『降ろして』あげたんでしょ?」
「……うるさい。社がもう手を貸していると知っていたらやらなかったのに」
「うん、ありがとね」
社に頭を撫でられて、真稚はふくれた。
山の上まで走った幻は、息を切らせて満開の桜を見上げた。
(今思えば、真稚の姿をしたあのあやかしは、僕をこの桜の前に案内したかったんだろうな)
つまり、救いを求めていたのだ。幻なら声を聴いてくれると思って、声をかけた。
幻は桜の幹に手を置いて、静かに語りかける。こちらから話しかけるのは、初めてだった。
「……僕の声が聞こえますか?」
応えるように花びらが頭上からはらりと落ちる。見上げても誰の姿も視えないが、そこに確かな気配を感じて、幻は続けた。
「遅くなってごめんなさい。どうか安らかに眠って下さい……Amen」
ざあ、と強い風が吹いたように感じた。
花びらが一斉に散り、満開だった桜の樹が、ものの数秒で葉桜になった。
「…………」
まだ少し呆然としながら樹へ近寄ろうとした幻は、何かに躓いた。足元を見下ろして、ギクリとする。
樹の根元、土の中から覗いていたのは、血の気のない人の手だった。
「っ!」
悲鳴をあげようとした口を、後ろから塞がれた。耳元で静かな声が囁く。
「幻、落ち着いてよく視て。君のお祖母さん……待子さんの手だよ」
後ろにいたのは社と、スコップを持った真稚だった。
「……さあ、掘り起こして葬ってあげよう」
幻はしばらくその手を見つめていたが、やがて頷いた。
桜の下には、祖母の右腕だけが埋まっていた。ほとんどの部分が地表に現れていたので、掘る必要はあまりなかった。
「あやかしに襲われて、向こうの世界に引きずり込まれそうになった待子さんは、なんとか抗って自分ごとこの町に連れてきた」
すっかり遅くなった夕飯時、社は静かに切り出した。
「……この町なら俺や、あやかしに対抗する術を持っている人がたくさんいるから。でも……あやかしは祓えたけど、待子さんの身体は四散した」
「…………」
幻は白飯の最後の一口を口に押し込み、空になった茶碗を乱暴に置いた。
「あの桜の下にグランマの身体があるって知ってたんでしょ? どうして今まで黙ってたの」
「……待子さんに頼まれたんだよ。幻達に見つけてほしいから、って」
「は?」
「幻と幻の弟は、待子さんがあやかしに襲われた所を目撃したんだってね。その時に、自分の力の一部が2人に移った可能性がある、と」
……思い当たる節はあった。幻が前にも増してあやかしの気配を感じるようになり、あまつさえ一言で退治できるようにさえなったのは、祖母が死んでからだ。
「その力の使い方を教えてやって欲しい、と頼まれた。俺はこの町を離れる訳にはいかないから、幻に来てもらうしかなかったんだ」
「それで、僕にあの桜の事をやらせたの」
「そうだよ」
幻は深い溜息をついて、ジロリと恨めしげに社を見た。
「どうして最初から全部話してくれなかったの? それを聞いていれば、もっと早くあの桜を散らせて、グランマを掘り出してあげられたのに」
「……口で伝えるのは簡単なようで難しい。もし伝えていたとして、幻はあやかしのために祈れた?」
ぐっ、と幻は身を竦める。それを言われると痛い。
「俺も待子さんも、幻に退魔師になって欲しいわけじゃないんだ。彼らの事を思い、彼らの声を聴けないならば意味がない」
「それに」
今まで黙々と食事に徹していた真稚が声をあげた。
「全部話さなかったのはお互い様だろう」
「……何が?」
「お前は言わなかった。あやかしが視える事も聴ける事も日本語を不自由なく操れる事も」
ぎく、と肩を震わせた幻に、社は笑って席を立つ。食器を流しのたらいにつけて、幻達に背を向けたまま言葉を続けた。
「……まあそれでもいいよ。交換留学期間は1年間でしょう。その間はよろしく」
「1年が過ぎたら、よろしくしてくれないみたいな言い方だね」
唇を尖らせて言った幻の言葉に、社はただ笑うだけで答えなかった。
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