第6話・9月

 9月


 今日から九月、新学期だ。朝食の席で、社(やしろ)はからかい半分に幻(げん)に言った。

「幻、ちゃんと宿題終わった? 昨日徹夜で仕上げたなんてことないよね?」

 珍しくいたずらっぽい笑みを浮かべる社に、幻はパチクリと瞬いた。

「あの薄いワークブックのこと? あれなら最初の一週間で終わったよ~」

 おお、と社が感嘆の声をあげる。

「さすが公費留学生。心配無用だったね。読書感想文は何にしたの?」

 軽快に動いていた幻の箸が、ピタリと止まった。ぎぎぎ、と音のしそうなぎこちない動きで、社に顔を向ける。

「どくしょ……かんそうぶん……」

「まさかお前……」

「OMG……忘れてた!」

 どうしよう……と頭を抱えた幻に、のんびりした声がかかる。

「大丈夫じゃよ。心配しなさんな」

 顔をあげると、味噌汁を啜りながら社の祖父がこちらを見て微笑んでいる。

「今日は始業式だけで放課じゃ。宿題の提出は明日。寄り道せんで帰って来て、急いで本読んで急いで感想文書けば、間に合うぞ」

「詳しいんですね! 僕、日本語読むの遅いけど……間に合うかなあ」

「最終手段は、真稚(まわか)嬢ちゃんにそらんじてもらえばよかろ?」

 思わぬ言葉に、真稚が咳込んだ。

「私を巻き込むな!」



 急いで帰ってきて昼ご飯をかっこんだ幻は、社の祖父に呼ばれた。

「わしの部屋に本がたくさんあるでの、好きなモン持ってっていいぞ」

「わお、Thanx! 助かります!」

 後ろをとてとてついていき、社の祖父に続いて部屋へ入った途端、息を飲んだ。

「Great……! 図書館みたいだ」

 四畳半ほどの小部屋だが、壁を四面、全て背の高い本棚に囲まれた部屋は、圧巻だった。本棚と本、出入口の引き戸、天井から吊された裸電球、古びた椅子が一脚。この部屋にあるのはそれだけだ。

「あまり家に帰ってこんからの。寝るのは客間を使って、自室はこんな有様じゃ。えぇと……」

 社の祖父が書架に目を走らせている間に、幻も手近な棚に目を走らせる。和綴じの古書の隣に分厚い洋書が入っていたり、百科事典の三冊目と四冊目の間に文庫が数冊挟まっていたり。

「社のグランパ、これ、どういう並べ方なんです?」

 整頓されているようには到底見えなかった。しかし社の祖父は、待ってましたとばかりにニヤッと笑う。

「どういう並べ方だと思うね?」

「……って事は、適当に並べてるとは違うんですね?」

「勿論じゃ。しかし、君に分かるかの?」

 俄然、興味がわいた。

「でもまあ、先に読書感想文を書いた方がいいじゃろな」

「そうだった……」

 かくん、と肩を落とした幻を見て、社の祖父は声をあげて笑う。

「好きな時に入って構わんよ。そうそう、この辺りは日本文学の英訳本が入っとる棚じゃ。課題図書は、ここから選ぶのはどうかの?」

「え! ……わお、こんなにいっぱい! うん、これなら今日中に読んで、感想文書けそうです!」

 頑張れよ、と言い残して社の祖父が去った後、幻は英訳日本文学の棚を見つめる。課題図書を選ぶため、背表紙の文字を追っていった。なるべく読み易そうで、薄い本がいい。しかし棚に並んでいる英訳日本文学の本は古典が多く、どれも嫌に分厚かった。

(時間があれば、どれも読んでみたいのに……!)

 いくら母国語に訳されているとはいえ、今日中にこれだけ分厚い本を読破しさらに感想文を書くのは難しい。

 幻は頭を抱えてうーんと唸る。いっそのこと、社の祖父にお勧めの本まで紹介してもらえばよかった。

 不意に、ゾクッと背筋が震えた。何となくこの部屋に一人でいるのが怖くなって、早めに一冊選んで一旦外へ出ようと、背表紙を見もせずに手近にあった一冊を抜き出して、部屋を出た。

 部屋を出た、つもりだった。

「!?」

 引き戸をくぐったそこは、元の同じ書斎だった。

 幻はもう一度戸を開け、一歩踏み出す。やはり、四面を本棚に囲まれた部屋に出てきた。

「Jesus...」

 幻は呆然として、フラフラと椅子に倒れ込むように座った。

 この部屋を出ることが出来ない。あやかしごとにはいい加減慣れたと思っていたが、こういう手合いは初めてだ。

 今までは、こちら側へ迷い込んだあやかしの相手をしていた訳だが、今回はどうやらその逆。幻の方が、あちら側の世界へ迷い込んだらしい。

(とりあえず落ち着こう……心を乱しちゃいけない、付け入られる)

 深呼吸すると、古い本の香りで胸が一杯になった。ふと足元を見ると、本が一冊落ちている。読書感想文を書くために、さっき適当に抜き出した本だ。

 英訳日本文学を集めた棚から抜き出したはずが、その表題は「雨月物語」とある。日本語だ。社の祖父のいう「法則性」に則った並べ方で、洋書に混じっていたのだろう。幻は本を拾い上げ、適当にページを開く。

 章題は「菊花の約」。指を挟んだまま目次を確認すると、短編集のようなものらしい。

 幻は一つ溜息をつく。どうせ出られないのだから、社達が気付いてくれるのを、本を読んで待つことにした。

 ページをめくる手元が不意に陰った気がして、幻は顔を上げる。そこには、やつれた男がぼうっと立っていた。

「う、わ!」

 思わず幻は声をあげ、椅子を蹴倒して立ち上がった。本を胸に引き寄せ、どくどくとうるさく鳴る心臓を押さえる。

 瞬きもせずに男もじっと窺うが、男はただ立っているだけだった。あやかしだが無害なようなので、幻は警戒を半分解く。常に視界にその男を入れたまま、幻は「菊花の約」の章を読み進めた。

「菊花の約」は簡単にまとめると、義兄弟と交わした『菊の節句までに帰ってくる』という約束を守る為に、命を絶ち、魂だけで会いに戻った男の話だった。

 母と慎ましく暮らしていた学者の左門(さもん)は、ある日、病で寝込んだ行きずりの武士・宗右衛門(そうえもん)の看病をすることになる。意気投合し義兄弟の契りを交わした左門と宗右衛門だが、宗右衛門は一度故郷へ戻らねばならない。宗右衛門は、『菊の節句までに帰ってくる』という約束をして旅立った。

 そして菊の節句の九月九日、左門は朝から歓迎の準備をしていたが、夜になっても宗右衛門は現れない。諦めようとした時、ようやく姿を見せた宗右衛門は、生身ではなく幽霊だった。故郷で敵方に捕えられた宗右衛門は、牢の中で自死し、魂となって万里を翔けたのだ。

 そして左門は、宗右衛門の故郷へ赴き、宗右衛門を捕えた者を殺して行方をくらました。

「…………なかなかHeavyな物を選んじゃったな」

 うーん、と唸りながら軽く眉根を寄せ、幻は膝の上で「菊花の約」の章の最後のページを開いたまま、チラと視線を上げる。 目の前のあやかしは、やはり微動だにしない。

(左門の所へ魂だけで現れた宗右衛門って、こんな感じだったのかな)

 幻はそんな事を考え、本を閉じようとした。

 その時だ。ピクリとも動かなかったあやかしが、バッと腕を伸ばした。驚いて上体をのけ反らせた幻の膝の上の本を、あやかしが掌で押さえる。本を閉じるのを止めるように。

「まさかホントに……宗右衛門サン?」

 幻が恐る恐るその名を呟くと、あやかしがぼわりと輪郭を濃くしたように存在感を増した。さっきまでぼんやりと陰になって見えなかった双眸が、真っすぐにこちらを見て、頷いた。

 幻は椅子の上でずるずると力を抜く。

「物語の登場人物のあやかしなんて……初めてだよ」

「古典文学は、実際にあった事件や、古くからの言い伝えを元にしていたりするからね。あやかしも宿りやすいよ」

「え」

 声の方を振り向くと、社がパタンと引き戸を閉めたところだった。

「やあ幻。読書感想文は進んでる?」

「社! 助けに来てくれたんだね!」

喜ぶ幻に、社はいつもの苦笑で少し首を傾げる。

「いや、ちょっと違うかな。まあ手助けくらいはするけど……」

「え」

 嫌な予感がして、幻は笑みを引き攣らせる。社は笑顔で言い放った。

「幻、あやかしごとを頼むよ」

 社の話によると、このあやかしが人を引き込むのはこれが初めてではないらしい。社も真稚も、一度はここへ来たことがあると聞いて、幻は唇を尖らせた。

「じゃあ何故そのままにしておいたの。その時に何とかしてくれたら、僕は読書感想文に集中できたのにー」

「こういうのは時機とか適任があるんだよ。俺達はタイミングが悪かったり相性が悪かったんだ」

 社は悪びれもせず、しれっと答える。

「今回も、いい時機かどうかは分からない。だからまあ、やるだけやってみてよ幻」

「…………」

「でないと、ここから出られないよ」

「僕に選択肢はないんだね……」

 とほほ、と肩を落とした。

 社と幻が話している間も、あやかし宗右衛門は微動だにしない。こちらが話を聞くのを、ただじっと待っている。

 幻は覚悟を決めて、椅子に座り直した。社は引き戸の前に腰を下ろし胡座をかく。さっきまでの一人きりの状況よりは、だいぶ心強い。

「ええと、とりあえず。僕は幻・イグアスと言いマス。あなたは宗右衛門さん……ですね?」

 呼び掛けるにも名前がなければ不便だ。ほぼ確信していたが、念のため確認すると、あやかし宗右衛門は案の定こくりと頷いた。

「宗右衛門さんは何故ここで、一人でこうしているんですか? えっと……左門さんは?」

 ふるる、と無言で首を横に振ったあやかし宗右衛門を、幻は今さらながらまじまじと見つめる。

 憂いの表情とほつれた髪、青白い顔。顔立ちは悪くない。武士にしては線が細めで、切れ長の目にキリッとした少し太めの眉。

(勿体ないな)

 この人には、憂いの表情も陰鬱な空気も似合わない。笑えばきっと、ちょっと衆目を集めるくらいの闊達な笑顔になるのだろうに。

「宗右衛門さん。あなたの話を『聴かせて』下さい」

 幻の凛と響く声に、あやかし宗右衛門が顔をあげた。

「喋れないあやかしなのかな、とも思ったんですけど。宗右衛門さん、一度も口動かしてないでしょう? もしかしたら『まだ喋ってない』だけなのかなって」

 あやかし宗右衛門は眉根をぐっと寄せ、また首を振る。その悲痛な表情は、喋ることを拒否しているかのようだ。

 それでも幻は重ねて言った。

「僕は『聴く者』です。あなたの声を聴かせて下さい」

 あやかし宗右衛門はしばらく俯いていたが、ゆっくりと顔をあげた。

 喉に手をやり、ゆっくりと唇を開く。すう、と細く息を吸い込み幻の目を見つめた。

「聴こえる……か?」

 か細い声は、ずっと喋っていなかったから、というよりも、何かに大きな不安を感じているような声音だ。幻は安心させるように、笑顔で大きく頷いた。

「聴こえます。やっぱり喋れるじゃないですか」

「!」

 幻の返事にあやかし宗右衛門は目を大きく見開き、ああ、と安堵の声を漏らした。

「そうか、聴こえるか。聴こえるのか……」

 心なしか目を潤ませて喜ぶあやかし宗右衛門。そんな彼を見て幻は悟る。

(宗右衛門さんが不安だったのは、自分の声が届くかどうか、だったんだ)

 社を見遣ると、社も目を丸くして感嘆の表情を浮かべている。

「すごいね、幻。俺も彼は声を失くしたんだと思い込んでいたよ」

 どうやら社も、あやかし宗右衛門の声を聴いたのは初めてらしい。しかし喜んだのもつかの間、あやかし宗右衛門の表情はまた見る間に沈んでいく。

「君達には届いたのに……何故あの時、私の声は届かなかったのだろう」

「あの時……?」

 聞き返した幻に暗い目を向けて、あやかし宗右衛門は呟くように言う。

「重陽の節句の……約束の夜に。一番大切な相手に……弟に、私の声は届かなかった」

 そう言って、あやかし宗右衛門は幻の膝の上の「雨月物語」を指差した。

「え? ……だけど、宗右衛門さんは魂だけで左門さんの所へ戻って来たんじゃ……」

「戻った。が、私の姿は左門の瞳には映らなかった」

 え、と思わず読んだばかりの物語に目を落とす。

「雨月物語は、『物語』だからね。もちろん創作部分もあったろう。それか、他の時代に別の宗右衛門と左門がいたのかもしれないし」

 社が呟くように口を挟んだ。

「左門は私の帰りを待ち侘びていた。重陽の節句が過ぎてもずっと。その姿を私は、ずっと隣で見続けた。私はここにいると声を枯らして叫んでも、私の声は左門には届かなかった……」

 あやかし宗右衛門の沈んだ声が、天井の電球を明滅させた。幻は動揺せず、宗右衛門の声にただ耳を傾ける。

「馬鹿な左門。騙されたと私を憎んでくれたらよかったのに。あるいは私の事など忘れてくれたら。……敵討ちなど……する必要はなかったのに」

 ドキリとした。宗右衛門と左門が、祖母と自分の姿に重なる。

 祖母の敵討ちの為にこの国に来た幻には、大切な人の怨みを晴らそうとした左門の気持ちがよく分かる。そして、大切な人に手を汚してほしくない宗右衛門の気持ちも、今なら分かるのだ。

「左門さんは今、どこに?」

 あやかし宗右衛門は顔をあげ、力無く首を横に振る。

「宗右衛門さんは、いつまで左門さんと一緒にいたんですか?」

「……左門が私の仇を討ちとった瞬間まで」

「その後は、何故ついていかなかったんです?」

「……もうこれ以上、左門の生を狂わせたくはなかった」

 宗右衛門が故郷で捕らえられなければ、故郷へ戻らなければ、……いっそ左門と出会わなければ。左門は返り血にまみれることなどなく、母親と穏やかに暮らしていけたはずだったのに。

「学者だった左門に刀を握らせてしまったのは私だ。仇を討つ前のようには決して戻れずとも、それでもきっと以降は穏やかに暮らしていけると……暮らして欲しいと思った。私の事は忘れて」

 穏やかに暮らしていくのに、自分のようなあやかしが側をうろうろしていてはよくない。そう考えた宗右衛門は、左門の側を離れたのだ。

 しかしそこで、社が首を振り、言った。

「宗右衛門さん、それは間違いだ」

「何?」

「あなたは左門さんの側を離れるべきじゃなかった」

 幻がこくりと喉を鳴らす。社は淡々とした口調で告げた。

「……彼が行方不明になったのは多分、宗右衛門さんを捜しに行ったからだ。恐らく、宗右衛門さんと同じ……魂だけの姿で」

 ぐ、とあやかし宗右衛門が悲痛な顔をした。つまりそれは、宗右衛門の仇を取ったあとすぐ、左門も命を絶ったということだ。

「もしも側にいれば、左門さんが命を絶った瞬間にあなたの姿が見えるようになっていたはずだ」

 宗右衛門が唇をわななかせて俯いた。その様子を幻が憐憫の目で見つめる。

「社、それは酷だよ。大切な人が命を絶つ瞬間を見ていろだなんて」

「…………」

「止められもせずにただ見てるだけしか出来ないなんて、まるで拷問だ。僕ならきっと心が『負けて』しまうよ」

 まだ記憶に新しい、堕ちかけた幻の暗い目を思い出して、社は目を伏せた。

「……それもそうだ。宗右衛門さんすみません、今の言葉訂正します」

 のろのろと顔を上げた宗右衛門に、社は苦笑まじりの笑顔を向ける。

「あなたが悪いあやかしになっていたら、左門さんとは二度と会えない所でした。そうならなくてよかった」

 幻はニッコリ笑い、すっくと立ち上がる。

「よし! じゃあ左門さんを捜すぞ! 大丈夫、きっと見つかるよ」

「……幻、心当たりでもあるの?」

 やけに確信のこもった幻の言葉に、社は小声で問う。

「ううん。でも、お互いが会いたいと思っているんだから、会えないはずないよ。きっと!」



「それで、安請け合いしてきた訳か。……阿呆か」

 真稚に呆れた声で言い放たれ、ぐ、と幻は悲痛な顔をした。

 左門を捜す為、一度あの部屋から解放された幻は今、真稚から説教を受けていた。

「あやかしと軽々しく『約束』なんか交わすな! あやかしに馴れてきたのは私としては……その」

「嬉しい?」

 社がにやっと笑って口を挟むと、真稚は一気に頬に朱をのぼらせた。

「ひ、否定はしないが! 幻、お前はもっと用心しろ!」

 照れ隠しも混ざってか怒声に近い声で幻に畳み掛けた真稚。

 社の祖父がククッと喉の奥で笑った。

「真稚嬢ちゃん、何だか変わったのう。社と二人じゃと、声荒げたりはせんからの。楽しそうでええ事じゃ」

「どうせ俺はつまらない男ですよ」

「拗ねとるのか、社! 何じゃお前も少し変わったのう!」

 ガシガシと乱暴に頭を撫でる祖父の手から逃げ、社はこほんと咳ばらいする。

「じいちゃんにも協力してもらうよ?」

「無論じゃ」

 しっかりと頷いた社の祖父は、真面目な顔で三人を見渡した。

「明日の朝までにその本の来歴を調べておく。じゃから……」

 真剣な顔が、にやっと笑み崩れる。真稚をからかった社と、よく似た表情だ。

「お前さんも、読書感想文頑張れよ」

 幻は顔から血の気が引くのを自覚した。……すっかり、忘れていた。



「Morning...おはよーございまふ……」

 朝、いつもより十分ほど遅れて起きてきた幻は、目の下に見事なクマを作っていた。

「うわ。ひどい顔だな」

 真稚が汁椀越しに見て顔をしかめる。

 幻は倒れ込むように椅子に座って、うう、と唸った。

「結局ほとんど徹夜だよ……何とか完成はしたけど」

「お疲れさま。だけど早く食べないと遅刻だよ!」

 ととん、と目の前に白飯と味噌汁、あじの開きと漬物が置かれた。

 幻はすぐに箸を手にして、かっこむように猛然と食べはじめる。その横に、すっと一枚のメモ用紙が置かれた。

「あとこれはじいちゃんから。俺も心当たりを捜してみる」

「ありがとう。今日は午前中で授業終わるし、そのままちょっと捜しに行ってくるね。……ごちそうさま!」

 バタバタと食器を流しに片付け、慌ただしく登校していった幻を見送り、真稚が小さく溜息をつく。

「間に合うのか? 今日を入れても、重陽の節句まであと七日しかないじゃないか」

「うん……何とかなるといいんだけど」

「そんな悠長でいいのか?」

「なるようにしかならないじゃない。……それに不思議と」

 社はいつもの苦笑気味の笑顔ではなく、自信ありげな笑みを浮かべて言う。

「幻なら、何とか出来ちゃいそうな気がするんだよね」



「捜し物? 俺も手伝ってやろうか?」

「ダイジョブね! ギリギリになっても見つからなかったら、お願いするかもー」

 宮本の申し出を丁重に断り、幻は街へと向かった。やってきたのは吉祥堂。荘(そう)の家だ。

 荒れ放題に見える薬草の庭に、丈高い草の隙間からヒョコリと顔が覗く。髪と瞳が色違いの自分によく似た顔が、幻を見ておー、と声をあげた。

「阿幻じゃねーの。……何かとり憑かれてんな」

 顔を見ただけで言い当てた荘に、幻は苦笑を返した。

「本に憑いたあやかし?」

 中国茶を煎れながら荘が聞き返す。幻は胡麻団子をひとつ口に放り込み、頷いた。

「今朝、社のグランパからってメモをもらったんだけど、白紙だったんだ。間違えたのかな?」

「ふぅん? ……まだ持ってるのか、その紙」

「え? うん、カバンの中にあるけど」

「ああ、やっぱりな。それはそのまま持っとけ」

 ニヤニヤと笑う荘に首を傾げつつ頷くと、幻はひとつ溜息をこぼした。

「本の中では、宗右衛門はゴーストになって弟と会えて、めでたしめでたしなのに」

「……ま、現実てのぁ、んなもんだなあ。本みてえにうまくいく事のが少ねえよ」

 達観した荘の台詞に、幻は顔をあげる。そのままじぃ~っと荘を見つめた。

そんなに変わらない年齢だと思っていたけれど、荘はいったい何歳なのだろうか。社も観(かん)も、荘のことを「さん」付けで呼んでいるのだ。

「あんだよ……間違った事ぁ言ってねーだろ……」

 居心地の悪さに荘がもぞもぞしていると、吉鈴(きつりん)がくすりと笑う。

「幻様、同じあやかしとしてお礼を申し上げます。きっとそのあやかしを、義弟と会わせてやって下さいませ」

「うん。それで二人にお願いがあるんだけど」

 顔を見合わせた荘と吉鈴に、幻はニッコリと笑った。

「易占?」

 荘がぱちくりと瞬いて復唱した。

「うん。だってここは、くすりと占いのお店なんでしょ?」

 確かに、吉祥堂は「漢方・占卜」を看板に掲げている……が。

「確かに商売しちゃいるがよ、知り合いに占い頼まれたのは初めてだぞ」

「身内はダメ? 当たらないの?」

 素直すぎる疑問にムッとした顔をして、荘は立ち上がる。

「ちょっと待ってろ。すぐ準備する」

 じゃっ、と音を立て、荘は筮竹を広げた。風水盤とこの町の地図を見比べて、ふうん、と唸る。

「わお……何かすごいよ荘、占い師みたいだ」

「みたいじゃねーよ、占い師なんだよ! ちっと黙ってろお前は」

 筮竹と地図を、何度も見比べる荘の頬を、冷汗が一滴流れた。吉鈴が心配そうな顔で見守る。

 どれ程そうしていたか、観念したように荘が舌打ちした。

「駄目だ、どんだけ考えても結果は変わらねえ」

「え、分からなかったの?」

 幻の邪気のない声に疲れた顔で首を振る。

「いや分かったけど、いい結果じゃねーな」

 首を傾げる幻の目の前で、荘は鵺栖町の地図のある一点を人差し指でとん、と示した。顔を寄せて見ると、一際広い敷地に『阿部猛(あべたける)』と書かれていた。

「幽鬼の宿るもう一冊の『雨月物語』は、ここにある。……白の小姐の実家だ」



 占いの結果を聞いて、幻は複雑な思いを抱えて帰宅した。

「お帰りー。夕飯もう少し待ってね」

 社が台所でテキパキと働いている。幻はキョロキョロと辺りを見渡した。

「社のグランパと真稚は?」

「二人ともまだ帰ってないよ。用事?」

「ううん、むしろいない内に、社だけに話したい事があったんだ」

 社が料理の手をとめて、真剣な顔で振り向いた。

「何か分かったの?」

 コクリと頷いた幻は、荘の占いの事を告げる。

 社は真稚の父の名前が出た瞬間だけ眉を微かに跳ね上げたが、最後まで静かに聞いた。そして報告が終わった途端、深い溜息をついて片手で顔を覆った。

「……面倒な事になったね。よりによってそこか……」

「一応真稚のダディとは一度顔を合わせてるし、僕一人で行こうと思ってるんだけど。ただ、真稚には伝えるべきなのか迷って……」

 真稚とその父との、異常とも言えるあの親子らしからぬやり取りを、幻は忘れられない。

 五月頃の事件を思い出し、目を伏せた幻に、社が首を振る。

「真稚には伝えなくていいよ。何なら俺がついていくしね」

「うん、わかった。でも僕一人でいいよ、ありがとう」

 また料理に戻った社は、呟くように言った。

「見つかるといいね、左門さん」

「……うん」



 社に電話番号を聞いて、幻は阿部家に電話をかけた。真稚が帰ってくる前に終わらせてしまいたい。

「はい、阿部でございます」

 コール音はたった一回で途切れ、若い女性の声がした。幻はすぅ、と息を吸って、自分の名を告げ、真稚の父――猛は在宅か尋ねた。

「どのようなご用件でしょうか?」

 食い下がる女性に若干気圧されながら、幻はたどたどしく言い募る。

「ええと……以前会った時、困った事があれば相談に乗る、言ってくれマシタ。雨月物語という古い文献について相談ありマス。代わってもらえるデスか?」

 電話口の女性は一瞬沈黙し、少々お待ち下さい、と言った。

 保留音が鳴る中、幻は安堵の溜息をつくが、すぐに表情を引き締める。真稚の父との対話はうまく進むだろうか。

 保留音が停止され、幻はびっと背筋を伸ばす。しかし、受話器から聞こえてきたのは先程の女性の声だった。

「旦那様から伝言を承りました。明日の放課後に、こちらまで出向いてほしいとの事です」

「え」

「ご都合がお悪いようでしたら、別の日でも構いませんが?」

「あ、いえ、大丈夫デス! では明日伺いマス」

 電話を切った幻は、今度こそ深く安堵の溜息をつく。何故電話に出てもらえなかったのか、怪訝に思いながら。



 次の日の放課後。

 社に書いてもらった阿部家への地図のメモを片手に、幻は立ち尽くしていた。眼前には重厚な門。敷地を囲う塀は、ちょっと果てが見えない。

(ものすごいお屋敷じゃないか……)

 ごくりと喉が鳴った。真稚ってお嬢様だったんだなあ、と変に感心する。

 門の柱には「阿部」の表札。間違いない。残暑の中を鳴き続ける蝉の声を聞きながら、幻はインターホンを鳴らした。

「はい」

 ががっ、と一瞬雑音が入り、女性の声がした。昨日の電話と同じ声だ。

「昨日電話でお招きいただいた、幻・イグアスです」

「どうぞお入り下さい」

 そう言ってインターホンが沈黙したのと同時に、門が自動でごごっと開きはじめる。幻は目を丸くして、門をくぐった。

 門を入ってすぐ、想像以上に広い庭があり、若干目を細めて眺めるくらいの距離に屋敷はあった。瓦屋根平屋建ての日本家屋は、曇り出した空を背景に、近寄り難い雰囲気を醸し出している。幻はぐっと足に力をこめ、早足で屋敷へ向かった。

 玄関先に、エプロンをつけた地味な印象の女性が立っている。この屋敷の使用人なのだろう。

「お待ちしておりました」

 ぺこりと会釈して掌で屋敷へあがるよう示されたので、幻も会釈を返し、屋敷へ足を踏み入れた。

 通された応接間は、ふかふかすぎるソファと毛足のながいラグ。何となく緊張しながら、幻はソファに肩身の狭い思いで座っている。

「お待たせいたしました」

 やっと会えるのかとパッと顔をあげると、そこにいたのはやはり先程の使用人らしき女性だ。

「旦那様がお会いになります。ついていらして下さい」

「ここが応接間と違うデスか?」

「別の部屋でお待ちです」

 仕方なく立ち上がると、使用人は滑るような足取りで亡霊のように先を立ち歩き出す。

 長い廊下を何度も曲がり、もう幻には道がわからなくなった。 庭に面した窓もない。外に出ようと思っても、無理だろう。

「どこまで行くデス?」

「地下室がございます。そこへお通しするよう仰せつかりました」

 幻はここにきて、少し警戒心がわいた。一度ちらっと顔を合わせただけの自分を自宅に呼び、顔を見せずに屋敷内を引き回したあと、地下室へ来いと?

(何か……おかしい)

 地下室へ下りる扉は、重厚な金属製の扉だった。使用人が鍵を開けて扉を開く。

「私の案内はここまでです。ここより先はお一人でお願いします」

「…………」

 躊躇っていると背中をつきとばされた。

「!」

 驚き振り向くと、ごごん、と扉が閉まった所だ。扉の内側に、ドアノブはなかった。



「幻坊は遅いのう」

 夕飯の支度をしている時に、急に背後から話し掛けられて、社は驚いて菜箸を取り落とした。半目で後ろを振り向くと案の定、祖父がニヤッと笑って立っている。

「……阿部総代の家に行ってる」

 社はあの屋敷の事を『真稚の家』とは呼ばない。あの家を、真稚の帰る場所とは認めていないからだ。

「ほぅ。左門を見つけたんか」

 顎をさすりながらそう言った祖父を、社は驚いた顔で見つめた。

「じいちゃん……知ってたの?」

 祖父は答えない。ただニヤニヤと笑っている。

 社は、数日前に幻に手渡したメモのことを思い出した。今思えばあの紙には、何かの術がかかっていた気がする。

 ちっ、と盛大な舌打ちをして、社は脱ぎ捨てるようにエプロンを外した。

「出かけて来る。夕飯はじいちゃんが作って」

 苛立ちに任せて足音高く玄関へ向かうと、ちょうど外から戻った真稚と鉢合わせた。社は一瞬怯んだが、すぐにいつもの微笑を取り戻す。

「ちょっと幻を迎えに行ってくるよ」

「どこに?」

「……駅前の図書館だよ」

 咄嗟に出てきた嘘に、真稚は赤い目でじいっと社の目を見つめる。

「……今日は休館日なのにか」

 ぎく、と肩が揺れた。真稚が目を伏せて溜息をつく。

「嘘だよ。休館日がいつかなんて知らない」

 カマをかけられた。まんまと引っ掛かった社は、バツが悪そうに視線を逸らした。

「で、本当はどこに行くんだ?」



 地下室は、明かりもないのに不思議と薄明るい。その理由に、幻はすぐに気付いた。

 部屋の中に、古い本が開いたまま置かれている。その横に佇む白い人影。ぼんやりと燐光をまとうその人は、明らかに『ヒト』ではない。

 色白で、柔和そうな下がり眉のその男は、緩慢とした動作で幻に視線を向けた。その暗い瞳に、幻は一歩後ずさった。

「……お前では、ない……」

 呟きのようなごくごく小さな声が、幻の背筋を凍らせる。地の底から響くような声だ。

(でも……)

 何故か幻にはその声が、恐ろしいというよりも哀しく聴こえて仕方なかった。怖いには怖いのだが、その声が何かを訴えているような気がして、幻はぐっと唇を噛み締める。

 彼の名前は、見当がついていた。

「左門さん……ですね?」

 ぴくりとあやかしの肩が揺れる。全身からちりちりと立ち上っている黒い霧のような何かと、その隙間から木漏れ日のようにもれる燐光が、せめぎあうように揺れた。

「行きましょう。宗右衛門さんが待っています」

「…………!」

 暗く虚ろな瞳に、一点の光が入った気がした。が、すぐにその瞳は伏せられてしまう。

「私は行けぬ」

「Why? どうして!?」

「私は堕ちた。今更兄上に合わせる顔などない……」

「でも、待ってたんでしょう?」

 あやかし左門は顔をあげた。翠の瞳が真っ直ぐに左門の目を射る。

「僕が入ってきた時、『お前ではない』って言ったでしょう。誰がよかったんですか? 宗右衛門さんでしょう? 宗右衛門さんを待ってるんでしょう!?」

 幻が腕を掴むと、あやかし左門は驚いてその手を見つめた。

「私に触れられるのか」

「え?」

「この家の者は、私には触れられない。声も聴こえぬ」

 真稚もそうだったんだろうか、とふと疑問に思った。だが、実家にこんな部屋が存在することなど、知らないほうが幸せだろう。

(こんな……何かを閉じ込める為だけに作ったような部屋……)

 想像するだけで、ぞく、と背筋が冷える。

 その時紡がれたあやかし左門の言葉に、幻はバッと振り向いた。

「あの白い娘も、私が見えてはいたようだが、声までは聴こえなかった。ましてや触れるなど」

「白い娘……真稚のこと!?」

「そういうのか、あの娘は」

 あやかし左門は、過去を振り返るように遠い目をした。

「あの娘は気丈だった。父御の手でこの部屋に押し込められても、希望を捨てなかった。すぐに堕ちてしまった私とは大違いだ」

 ヒュッと幻の喉の奥で空気が漏れる音がした。

 真稚が自分の父を恐れる訳も、社が真稚の父を毛嫌いする訳も、全てが分かった。

「あの娘も待っていた。そしてあの娘にはちゃんと待ち人が迎えに来たのだ」

 そして私には来ない、とあやかし左門が悲しげに呟く。

「生前……私は待てなかった。兄上を信じていつまででも待っていたら、兄上は迎えに来てくれたかもしれぬ。

 待ちきれずに自分で追いかけたら、もう兄上はこの世にいなかった。仇を取ってあとを追えば、褒めて頂けるかと思ったが、命を絶っても兄上の許へは行けなかった」

 幻は激しく首を振る。

「……違うんだ、宗右衛門さんは来ていたんだよ! 左門さんの側に」

「え?」

「だけど貴方には見えなかった。聴こえなかった。そして宗右衛門さんを追って、どんどん心を暗闇に堕としていってしまった。今のままじゃきっと、貴方は宗右衛門さんには会えない」

 あやかし左門の暗い目に灯った一点の光すら、一瞬揺らぐ。それを逃すまいとするように、幻はがしっとあやかし左門のを手を握る。

「だから暗闇に負けないで! 弾き飛ばすんだ、貴方にはそれが出来るはずだ!」

「何故そう思う……」

「何故じゃない、そう信じれば出来る! 暗闇とは心の勝負なんです。こないだ戦った僕なら分かる」

 幻は、社の祖父の蔵書である、あやかし宗右衛門が憑いている『雨月物語』を持ち歩いていなかったことを後悔した。もし持ってきていれば、この場で二人を会わせてあげられたのに。

(しかも閉じ込められるとかさあ……! 取りに帰る事もできないなんて!)

 自分の身の危険よりも、今は菊花の二人の方が気になっていた。物語では魂で千里を駆け出会えたはずなのに、現実では同じ町内の距離すら縮められない二人。

(……待てよ?)

 幻は、はた、と気付いた。魂なら千里を駆けられるのだ。檻にも壁にも扉にも妨げられる事なく。

 バッと顔をあげ、あやかし左門をまじまじ見つめる。彼がここを動かないのは、絶望という暗闇に心を囚われてしまっているからだ。この地下室は、幻を捕らえはするが、あやかし左門を捕らえるものではない。

「左門さん、お願いがあります。宗右衛門さんの所へ行ってください」

 あやかし左門は、未だ一点しか光の灯らない目を緩慢に幻に向けた。その瞳は見開かれ、次いで視線が落ち着かなげに泳ぐ。

 神社の境内には入れないだろう。しかし、あそこには真稚がいる。降霊者「代わる者」である、真稚が。

 ――幻の翠色の瞳の奥で、ゆらりと炎のような何かが揺れた。

「町の北東の方角に、神社があります」

 あやかし左門はまだ『行く』とも言っていないが、幻は構わず話しはじめた。

「境内は神域だから入れないと思いますが、裏参道の鳥居を通り過ぎて、丘の頂上の桜の木を目指して下さい。きっと真稚……さっき左門さんが言っていた、白い女の子がいるはずです」

「…………」

 あやかし左門は戸惑いを隠せず、虚ろな目をきょろきょろと動かす。

「しかしこんなに遅れてしまって、一体どんな顔をして兄上に会えばよいのか……」

「左門さんは怒っていいんだよ」

「え」

「『いつまで待たせる気だ!』って怒鳴って、宗右衛門さんを殴ったって構わないくらいだ」

 それでもきっと、あやかし宗右衛門は笑うだろう。左門に逢いたいが為に、幻を自分の領域へ引っ張りこんだ。そしてそれは社の言う通り、『いい相性、いいタイミング』だったのだろう。

 昔の社も真稚も、二人を逢わせることは出来なかった。『今だから』『幻だから』できること。

 あやかしになってまでお互いを待っている宗右衛門と左門に、再会を。

「宗右衛門さんと会ってからでいいので、ここに誰かを呼んできて下さい。僕がここから脱出できるかどうかは、左門さんにかかってるんですよ」

 おどけてみせると、あやかし左門がくすりと笑う。その瞳には、ともしびの如く光が灯っていた。

 あやかし左門が、すう、と消えてしまうと、地下室はいよいよ真っ暗になった。幻はとりあえず冷たい床に腰をおろす。

(No problem, 左門さんは神社へ行った。少し待てばいいだけだ)

 そう自分に言い聞かせずにいられない程度には、不安が募る。 ここに閉じ込められたまま、誰にも見つけてもらえなかったら。そう思うと勝手に指先が震えた。

 真稚の父の思惑が全く分からない。自分を閉じ込めて、何をしようというのか。

 ふう、と細く息を吐き、頭を振って思考を止める。考えても仕方ない。今は助けが来ることを信じて待つしかない。

(左門さんもこんな気持ちだったのかな)

 宗右衛門が戻って来ると信じて、待つしかなかった左門。待つ間、一体何度『来ないかもしれない』という考えがよぎっただろう。そして、この部屋にいたという幼い真稚は。

 その時、扉がギイと鳴いた。

まだ早過ぎる。幻は期待を顔に出さないように気をつけながら、のろのろと振り返った。

「How are you? 真稚のダディ」

 真稚の父が、以前会った時と変わらぬ和服姿で立っていた。

「やあ、いらっしゃいイグアス君。むさ苦しい所ですまないね。少しだけ辛抱してほしい」

「……僕を閉じ込めて、何がしたいデスか?」

「もちろん、あの化け物をおびき寄せるのだよ」

「化け物?」

 どの化け物? と幻は首を傾げた。

 一瞬よぎったのは、社の事だった。半分人で半分あやかし、とでもいうべき存在の社は、人によっては「化け物」と呼ばれてしまうかもしれない。だが、友達を化け物呼ばわりされて黙っていられるはずもない。

 幻は翠の目に敵意を浮かべて、真稚の父を睨みあげた。

「そういえば、君はあれと親しいようだね。初めて会った時も一緒に歩いていた」

「え?」

「社君に何か頼まれたのかもしれないが、無理しなくともいいのだよ? 気味が悪いだろう。私など、あれが『阿部』の名を持っていると思うと虫酸が走るほどだ」

 ここまで聞いてやっと、真稚の事を言っているのだと気付いた。

「Shut up!」

 幻の怒鳴り声が、地下室にわんわんと反響する。真稚の父が口をつぐんだ。

「真稚はいい子だよ、何が不満デス?」

 怒りをあらわにする幻を冷ややかな目で見下ろし、真稚の父は溜息をつく。

「君もすでに毒されたあとか。残念だよ」

 幻は目の前の男と会話をする気力を失った。何を言っても通じない。会話にならない。あやかしである宗右衛門や左門の方が、余程まともな神経をしているとさえ思えた。

『人間よりもあやかしの方が私に優しい』。そう言った真稚の言葉が脳裏に蘇った。

『あれ』が来るまで大人しくしていてくれ、と言い残し、真稚の父はまた扉を閉めて行ってしまった。結局一度も、真稚の名を呼ばなかった。

 暗闇の中で溜息はいやに大きく響いた。幻は反攻しなかった。あやかし左門を、社たちを信じて待つと決めたからだ。真稚の父が何故あんなにも、真稚の事を忌避するのか解らない以上、自分が下手に抗って余計に事態をこじらせたら目もあてられない。

 外はもう夕方のようだ。虫の声が聞こえだした。地下室なので虫の声が頭上から聞こえるのが、ちょっと面白い。

 幻はいつしかウトウトと舟を漕いでいた。

「幻、幻起きて」

 ハッと目を覚まして飛び起きると、ガツンと何かにぶつかった。

「~~っっ」

 目の前に社がいて、額を押さえて呻いている。どうやら頭突きをお見舞いしてしまったらしい。

「わお、ごめん社!」

「だ、大丈夫。それより遅くなってごめんね」

 社の笑顔が涙で滲んで見えづらかった。ぐす、と鼻を鳴らすと、社は困ったように首を傾げる。

「やっぱり俺が一緒についていけばよかったね」

「ううん! 来てくれてよかった。左門さんは宗右衛門さんに会えたんだね?」

「うん。ちょうど今日は九日。タイミングも何もかもバッチリだ」

「そういえば社……どうやってここに来たの?」

 暗闇の中で社の表情がみえる不思議さにようやく気付いた。

 あやかし左門と同じように、社の体はうすぼんやりと燐光を発していた。

「宗右衛門と同じ方法で」

「え? 死んじゃったの!?」

 幻の慌てた声に社は吹き出し、違う違うと手を振った。

「魂だけとばして来たんだ。幻を見つけたって連絡したから、もうすぐ生身の助けもくるはずだよ」

「……真稚じゃないよね?」

 恐る恐る尋ねると、ほんの一瞬、ピリッとするくらいの怒りを感じた。

「真稚は留守番だよ」

 そう言った時には、社はいつもの微苦笑を浮かべていたが。

 そうこうしている内に重たい鉄扉が、ぎぎ、と開き、ヒョコリと顔が覗いた。社の祖父だ。

「おー、おったおった。無事かの?」

「平気デス!」

「そりゃよかった。お前さんに何かあったら、待子さんに申し訳が立たんからの」

 よく言う、と社が呟いたが、声が小さくて幻には聞こえなかった。

 暗い地下室を出ると、真稚の父が蒼い顔をして立っていた。

「少し灸をすえてやった。もうお前さんを傷付けるようなマネはせんじゃろ」

 真稚の父の視線は、かっかっ、と笑う社の祖父だけでなく、幻に向けたものにすら怯えが滲む。

 幻は複雑な思いを抱きながら、ぺこりと会釈をして阿部家を後にした。

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