第3話 温故知新のアップデート

昔のゲームが好き、というか、昔から好きなゲームが今も変わらず好きだし遊んでて楽しいんだけれども

これを懐古とか愛好で済ませずに現状の批判や拒絶にしてしまう人が多いのは何故なのか

と考えるに、やっぱり複雑化していくから、なのかなあと

結局のところ、自分にとってそれを楽しいとか素敵だと思うための回路は、それに触れた時から徐々に形成されるわけで

だとすると、それがいつか処理速度の追い付かなくなる日と言うのを迎えて

そこでアップデートし続けられる人と、ここまでで一旦キリになる人が居るのも当然で

テレビゲームに限らず、例えば鉄道でもプロレスでもいい。映画でも音楽でも

どんどん細分化されて複雑になり、それらを組み合わせたり重ね合わせたりして楽しむようになってゆく。高度というか複雑というか言い方が難しいけれども


プロレスで言えば今どきの技や動きもいいけれども、やっぱり昔のプロレスがいいよ、っていう人はその頃に回路が作られたわけで

そうすると遡れば遡るほど技の数や動きも減ってくる。団体も選手も今ほど多くはないし発信された情報も少ない。こちら側から能動的にキャッチしに行かなければそこまで沢山のことをインプットしなくても良かったし、そんな発想も常識も無い時代だった

戦後まもなくから昭和の終わりごろにかけては、そんな感じだったと思う

それが今は大小無数の団体が存在して、みんな情報発信からグッズや試合の映像まで様々な売り物があって、技も名前も星の数ほどある。正直覚えるのなんか大変すぎる

子供の頃、ウルトラマンの怪獣とか日本全国の特急列車の名前とか憶えられたけど、いま同じことするの難しいじゃん。それと同じで

ゲームもプロレスも鉄道も、他の色んな趣味も、選択肢が広がりまくってるからこそ昔から好きな人ほど取っつきにくい部分もあって


そこでアップデートしないことが悪いとか、逆に言えば以前のものを切り捨てるのが正しいとか、そういう意味じゃなく

要するに自分がどのくらいの熱量で、どういう接し方で楽しめるか

が大事なんだと思う


ファミコンで充分、という人もいるし

ニンテンドースイッチで遊びたいという人もいる


ニンテンドースイッチからゲームに触れた人は、またこの先に色々な新製品、新タイトルが出てきてそれに触れて、またアップデートを繰り返していくんだと思うし


誰にでもいつか起こることで、どこかでキリになるもんなんだろう


現状批判や懐古主義のために温故知新という言葉を持ち出すのは誤りで

これは以前のバージョンからも学ぶものを探してアップデートに繋げるための言葉だと思う

古ければいいというわけでも、新しければいいというわけでもなくて

良いものはいつの時代も良い

時代にそぐわなくなったり、廃れていったりもするけれど

常によりよく在るためには良くも悪くも変化し続ける必要があって

そこには賛否両論も、取捨選択もつきもので


趣味においては気軽に一旦そこを離れて違うことも出来るし、それをまた今までの趣味に繋げて遊ぶことも出来るじゃん

プロレスが好きで鉄道ファンの私が、古い駅舎の写真を見て

「ここを力道山とかが通ったんだなあ」

と思うような感じで


何事も広く浅くまずは楽しめた方がきっと面白いよね

そこからハマったジャンルに深く踏み込んでいけばいいと思うし

ジャンルの現状や他人の在り方にとやかく言うよりは、ずっと健康的だし建設的だろう

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