第8話 Across The Metropolis

 そこは二階建ての喫茶店だった。恐らく、二階を居住スペースにしているタイプの。

 世界の終わりが日本に到達するまであと四時間半。

 行き違いになっていないといいけれど、と思い、扉を開ける。

 皐月と二人で入るとすぐにストーブの温もりとコーヒーの香りが包み込む。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの向こう側に老夫婦と写真で見た本谷の妻が立っていた。写真の裏に名前が書いてあった。本谷織香。

 客は誰もいない。

「パパっ⁉」

 と、階段を駆け下りてくる音が聞こえる。

 本谷の娘だ。名前は確か香菜。写真で見たよりも少し大きくなっている。

 僕たちが彼女の望んだ人物じゃないことに気が付くと、「ごめんなさい」と言って階段を登ろうとする。

 その背中に皐月が「待って」と声をかける。

 足を止めてくれる。同時に、場の空気も止まった。

 僕たちがただの客じゃないことを察している。

「本谷一さんに伝言を頼まれてきました……」

「帰ってください」

 本谷の妻が作業の手を再開して言った。

「でも、」

「知りません、そんな人は。私に夫はいませんから」

 手元に視線を落としたまま、本谷の妻はコーヒーカップを磨き続ける。

 はっきりとした口調だ。まるで、ずっと練習してきたかのような。嘘をついているはずなのに、白々しさがない。

 もし、僕たちじゃなくて、本谷自身がここに来ていたらどんな反応をしていたのか。今みたいに突っぱねていたのか。そうして、何度か押し問答をした末に、コーヒーでも飲みながら話をするのだろうか。

 実は待っていたんじゃないのか。娘ともそんな話をしていたんじゃないのか。父親が来るかどうか問われて、あなたは何て答えたんだ。

 期待させるようなことを言ったんじゃないのか。

 そうじゃなかったら、そこの香奈ちゃんが嬉しそうに降りてくるはずがない。待っていたのだ、ずっと。階段の上で。今か今かと。お店の邪魔をしないように、じっと耳を澄ませて。

 僕は短く息を吐く。

 考えすぎか……。これはもう僕の期待した想像でしかない。死んでいった本谷が少しでも浮かばれるように、と。憎らしい男だが、不思議と情を持ってしまう。

 コーヒーミルが豆を挽く音だけが響き、新鮮な香りが店内に満ちていく。

 こんなところで時間を潰している場合じゃない。

 さっさと手帳を渡して、最期を伝えてここを出よう。

「これ」と手帳をポケットから取り出そうとして「ねぇ」と声をかけられる。

 手すりを持ち、階段に立つ香奈ちゃんが近づいていくる。

「お父さんはどこにいるの?」

「それは、」

 どこかにいると信じて疑わない顔を前にして、天国だよとは言えなかった。

 天国なんてあるかどうかもわからない。この子にとって、父親は未だどこかにいるのだ。

「今日、お父さんが来るって、朝電話したの。お仕事が終わったらすぐ行くって」

「……」

 僕の勝手な妄想は外れていた。

 本谷は約束していた。

 しといてなお、職務を全うした。そして、永遠に守れなくなった。光に飲みこまれて、消えてしまう前に、天へと昇っていった。

 なんでだよ、と何回も思った。なんで、本谷は襲われている場面を無視しなかったんだ。

 その理由はもうわかった。

 約束、したからだ。

 この子に、仕事が終わったら会いに行くと。 

 彼の仕事は刑事だ。

 色々詳しいこともあるだろうけれど、助けを求めている人を助ける。これも仕事の一つ。

 彼はここへ向かう途中、新たな仕事に直面した。だから助けた。そして全うし、命を落とした。

「大丈夫よ。すぐ終わらしてくるって、そう言ってたから」

 皐月が香菜ちゃんに目を反らしながら告げた。彼女が嘘を吐くとき、ほとんど必ず目を反らす。わかりやすい癖だ。

 でも、そんなことを知らない香奈ちゃんは、ぶっきらぼうなお姉さんが振り絞った親切心で教えてくれたのだと思ったのだろう、小さくお礼を言いながら会釈をした。それを見た皐月はバツが悪いのか、店の出口付近まで戻っていく。

「でも、間に合うかどうかわからないからって。手帳を預かってきました」

 まだカウンターの向こうに居る奥さんに言いつつしゃがんで、ようやく取りだせた手帳を香奈ちゃんの小さな手に握らす。

 僕が本谷にされたように、次はこの子に繋ぐ。

 小さな手は本谷の手と違って柔らかく、温かかった。本谷はこの子とどれぐらいの間ふれあっていないのだろう。どうか、香奈ちゃんが忘れてしまわぬほどの期間であってほしい。

「なんで泣いてるの……?」

「え……?」

 いつの間にか流れ落ちている涙が、太ももを熱くしている。

「ご、ごめん……」

 裾で急いで拭いて、それでも止まりそうにないから目頭を押さえて立ち上がる。

「それじゃあ、もう行きます。お邪魔しました」

 コーヒーの香りと温もりを振り切って、冷たい風が吹きすさぶ外へ出る。

 もう海が近いのか、風の中に潮の匂いが混ざっている。

 エンジンをかけて、車内を暖める。

「どうしたの?」

「ごめん、ちょっと待って」

 目的地まであと少しなのに、なかなかギアをドライブに入れられない。

「嘘をついたんだよね、僕ら」

「でも、必要な嘘だった」

 本当にそうなのかな。

 僕らが真実を隠したせいで、あそこに居る人たちはコーヒーの香りに包まれながら訪れない幸福を待ち続けることになった。

 今はまだいい。この世の果てがやってくるまで四時間ある。でも、果てが差し迫ったとき、あの子たちは、約束だけして来なかった本谷を恨むかもしれない。

「本谷が伝えて欲しかったことは謝罪。そんなもの自分自身で伝えればいい。あなただってそう言ったでしょ?」

「もう、本谷はこの世にいない。伝える口が無いんだぞ」

「あと四時間もすれば皆そこへ行くわ」

「なんだよそれ!死んだら同じってことか⁉僕が言っているのは死ぬまでのことだ!」

 人は死ぬ。それは知っている。

 人は死んだら皆同じ。口言わぬ屍だ。

 何も感じないし、何も言わない。

 だから、死ぬまでが大事なんじゃないのか。

 死ぬまでの間ぐらいは幸せに生きるのは誰もが持っている絶対的の権利だ。

「僕らはあそこにいる人たちの幸せを奪った。今はいいかもしれない。けど、残り一時間になったとき。本谷に恨みを抱くかもしれない……」

 そのとき、僕らはなにをしたことになる。

「私たちは生きている人たちを負の感情に落とし、死者に泥を着せたことになるわね」

「なら、」

「訂正しに行く?永遠に会えないって、絶望を叩きつけに?」

「……」

「私たちにできるのは、ギリギリまで死者に花を持たせて、生者に希望を持ってもらうこと。それだけよ」

 皐月の言っていることを頭の中で何度も転がす。

 理解はできる。納得も、なんとか。

「もう私にできることは何もない」

「それは、僕も同じ……」

 行こうか、とギアに手をかけたとき、運転席側のドアが叩かれる。

 叩いたのは、

「香奈ちゃん……?」

 それに、その後ろには織香さんもいる。

「どうしたの?」

「あのね、ママが言いたいことがあるって」

 後ろに控えていた織香さんが口を開く。

「さっきはごめんなさい。意地になってしまって」

「いえ……」

「夫はどこにいるのかしら?」

「え?」

「待っていても遅くなりそうだし、迎えに行こうってこの子と話したの。あの人、いつも帰りが遅かったから。まあ、そのうちの半分が仕事で、もう半分は何をしていたのかしらね」

 このときの皐月はどんな顔をしていたのか。自然に見ることができたら見たかった。

 僕は本谷が眠った場所を教える。国道に出れば一本道。詳しい場所がわからなくても、異変に気づけばすぐにわかるはず。

「途中、一さんの車が事故しているかもしれないですけれど、気にしないで進んでください。そこにあの人はいませんから……」

「そう、ありがとう……」

 居場所を告げたら、織香さんのほうは今の本谷の状態に感づいたようだった。軽く目を伏せて、次に開けたとき瞳が潤んでいた。

「これ、飲んで。どこかへ行く途中なんでしょ?」

 タンブラーを二本渡してくる。

「ありがとうございます」

 受け取ると、織香さんは僕ではなく皐月の方を見た。

「ちゃんと、責任感ある男の人を見つけるのよ」

「……十分、間に合っています」

「そうみたいね。ずっとここで迷っていたんでしょ?」

 少し微笑んで、二人は店の駐車場に停まっていた車に乗り込んでいった。

 僕らは助手席に乗る香奈ちゃんに手を振り見送った。

「これでよかったのかな」

「あの人たちが望んだことなら。それに織香さんはもう気づいている」

「香奈ちゃんはどう思うのかな」

「それはもう家族の問題。受け止める覚悟と、娘に受け止めさせる覚悟ができたのなら、私たちが止める権利はない。それに、」

 それに。

「まだ本谷にも織香さんの指にも、指輪は付いたままだった」

「そっか……」  

 結局、僕らにできることは何もないってことか。

 でも、不思議と無力感はなかった。

 それよりも本谷とその家族の関係が完全に壊れていなかったことがわかって、嬉しかった。一度は壊れかけてしまった関係が元に戻ろうとしている。死ぬまでの間、あの三人は幸せを得ようとしている。悲しみを一度経験するかもしれないけれど、それと本谷の罪を認めて、折り重なっていてくれればいい。

「行こう」

 やっと、ギアを入れられた。僕たちは老夫婦二人を残した温かな喫茶店を後にする。

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