第6話 朝日が目に沁みた
近いんだ、と言いつつ自転車を押して歩いていたらなんだかんだ二十分ほどかかってしまった。
僕が住むのは学生向けのワンルームアパートだが、道中にはファミリー向けのマンションや一軒家がそこそこにある。
このどこかにあの男がいるのか。彼女に名前を聞けば、本谷一というらしい。もう二度と会うことの無い人だ。覚えたところで無駄になるだけだが、彼女にとってはそうもいかないだろう。たぶん、一生忘れることのできない男の名前。
話がしたくて家に誘ったけれど、結局堪えきれずポツリポツリと落ちる水滴のように話し始めた。先ほどの男の名前や、出会った経緯も。
「私のライブに来てくれた人なの」
彼女はソロとしてこの辺のライブハウスに出演している。
半年ほど前、偶然客としてやって来た本谷が一目惚れし、話かけられ、何度か会ううちに……。ということらしい。
もちろん、彼女がソロでライブハウスを一杯にすることはできないから、何組かのアーティストが出演するサーキットイベントの日だったらしい。その中から、見つけられた彼女は、
「認められたの。──いや、認められた気がしただけかも」
当時、なんとかチケットのノルマをなんとか捌ける程度だった彼女の音楽を、初めて音楽をやっていない人から褒めてくれたのがあいつだったらしい。
「音楽やっている人が他人の音楽を褒めるのはよくあること。もちろん、そんな人ばっかりではないけれど、やっぱり同じ趣味や志があったりすると自分には無いものを羨ましくなってしまう」
慣れ合いと思われても仕方ないけれどね、と付け足した。
「それから、彼は──本谷はいちいち私のことを褒めてくれた。あれがいい。これがいいって。私もそれが嬉しくなっちゃって、舞い上がっちゃって……。音楽も、少し変わっちゃったしね」
最近それを感じ始めてきて、自分自身でもよくわからなくなってきのだ、と。自分を表現するための音楽が変わり始めて、本当の自分がわからなくなりはじめて……。今の自分は本谷に合わせただけの、ハリボテのような人間なのではないか、と。
そこまで言って、彼女は大きく息を吐いた。
ヘッドライトが僕らを前から照らす。
「それはそれで自分じゃないの」
これが僕の精いっぱいだった。
誰かの好みに合わせただけだとしても、そうしたいと思って自ら行ったのなら、それは自分自身だ。行ったことが気に食わなくて、否定したとしてもそれはただの責任転嫁でしかない。意志を持って手をつけたのは自分なのだから。
「それが誰かの好みのためだとしても、自分がやりたいと思ったことなら悪いものではないと思う。少なくとも否定するべきものじゃない」
「でも、あなたは私の髪色を似合ってないって言った」
話の流れを無理やり切り替えるような応答だった。
うわ、だいぶ根に持っているなこれ……。
どうしようか……。
「それが、僕と本谷って人との差?」
未来を変えることはできる。同時に過去は変えられない。この発言は取り消せない。混ぜっ返して無かったことにすることも無理。彼女は憶えていた。
認めるしかない。彼女の行いを否定したことを。赤く染めた髪を、僕は似合っていないと言った。
何気なく言った言葉だ。他意はなかった。
だけど、言ってしまったときから彼女とは交わらなかった。
離れて。離れたまま今ここで肩を並べている。三十センチの距離が妙によそよそしい。
「差、とか気にしてもしょうがない。
一生追いつけないモノなんていくらでもある。
才能がそれの代名詞。
努力を才能でどうこうしようとしても、追いつけない。
でも、違うことなら勝てるようになるかもしれない。
同じ尺度で戦わなければ勝てるかもしれない」
落ちる水滴のようだった彼女の言葉も、いつの間にか捻った蛇口から流れる水流の勢いだった。
「同じ尺度?」
「うん。例えば、とても絵が上手い才能がある人がいたとする。
──けど、その絵が上手いって何?
──デザインが上手いの?
──デッサンが整っているの?
──背景に物語を詰め込めているの?
──このどれもが違う尺度。
──どれかが他より出来ていなくても、一点出来ていれば、勝ちになる。
──才能ある人は色んなことができるかもしれない。
──でも、凡人は、凡人なら一点で勝負すれば。
──総合力を伸ばそうとすれば、追いつかない。なら、一つなら?
──得意なこと一つぐらいなら、戦えるようになるかもしれない」
それが、彼女のやり方……?
なんだか今の口調は、自分の事を語ると言うよりも、なんだか……。
「ちなみに私は才能ある人間だから、総合的に誰にも負けない」
「ならなんだったんだよ今の話」
「あなたのための話よ。本谷との差はいくらでもある。けど、あなたにしか無いモノもきっとあるはず。それを伸ばして」
「……」
ん、なんだか立場が逆転していないか。
歩き出したときは僕が彼女を励ます方だったのに、今はなんだか僕が励まされている。
胸を張れと。そう言われているような。醸しているのは期待の眼差しのような。
もしくは、腕を取れと言わんばかりに、誘いの手を伸ばしてきているような。
「僕は君のために何ができるのかな」
「さぁ、そんなこと私に訊く?」
でも、と、続けて。
「あなたは否定と肯定を同時に言ってくれる。ダメなものはダメ。けど、良いところは良いとも」
「そんなこと言った記憶ないんだけれど」
「髪のこと。似合ってないけれど、私らしいって。
似合ってないのに〝らしい〟なんて矛盾したことあなたぐらいしか言わない」
「いや、それは……」
似合っていないことは本心だった。と言うか、僕の好みが黒アゲハの翅みたいに、黒の中に艶が白く輝いている髪色だったのだ。
だけれど、髪を赤く染める、周囲から浮いてしまうことも厭わない、その行為も彼女らしいと思ったことは本心だった。
やがて、アパートが見えてきて、自転車を停めて玄関の前へ。
鍵を回し、扉を開けて淀んだ空気を浴びたタイミングで、
「ねぇ、アパートに着いたらする話って?」
今ここでその話を持ちだす?
せっかくなら腰据えてしたかったな。
「ごめん、話したいことなんて何もなかったんだ」
「は?それなのに家まで付いてこさせたの?どういう神経しているのよ。何もないんだったら帰るから」
さっきまで妻子持ちと付き合っていたやつが言うセリフか。絶対こんなこと言えないけれど。それも、彼女が求めたものならば、それでよいのだ。
だって、僕が今から言おうとしていたこと。──伝えたかったことは、彼女があの男と恋をしているときに抱いた感情だから。
もしかしたら、恋をしていなかった彼女に僕は特別な思いを抱けなかったかもしれない。
「まあ、いいか」
玄関をくぐるころには新しい関係になっていてもいいかもしれない。
一歩を踏み出す。タイミングとしては十分だ。
どんな靴を履いていたって、足跡は僕のもの。
裸足になったら、二歩目三歩目を踏もう。
「────」
返事は無言だった。
ただ、靴を脱いで、彼女が僕の家に入っていく。
次に言う言葉はシャワーの使用方法の質問。
タオルを巻いた姿で出てきてドライヤーを使い始めれば、──家主である──僕にシャワーを促して。
僕が出るころには電気は消えていて。
「────」
そこからは自然な形で求めあって。
始めて唇を合わせようとしたとき、
「ねぇ、葵──、名前で呼んで」
このときになって僕はようやく彼女の名前を知った。
この一日で、色々な感情の彼女──皐月──を見たけれど、月明かりに照らされたこの表情が一番特別で、もう他の誰にも見せたくないと思った。
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