第5話 どうせ

 彼女と屋上であったのはその日が最後だった。

 あれからすぐ期末試験が始まり、終われば夏休みだ。

 月曜二限にテストは無かったから──いないと思いつつも──その時間に屋上に行こうかとも考えたけれど、足は向かなかった。

 ただ、クーラーの効いた図書室で身の入らないテスト勉強を友人達としていた。

 付き合いの悪い僕にも付き合ってくれる付き合いのいい奴らだ。

 彼らも勉強に集中できていなかったのだろう。

 この大学の女生徒を狙って、道端で売春を持ちかけ、結局最後までヤッたあと眠らせて男はトンズラする事件の噂について話をしていた。

 正直、ホテルまで連れ込めるスキルが羨ましいという結論と、そんなことするクズにはなりたくないという批難に行き着き、話題が尽けば小声で質問してきた。

「例の女の子とはどうなったんだよ?」

「いい加減名前ぐらい教えろ」

「ヤッたの?ヤレそう?」

 他人の女性関係に首を突っ込みたがる奴らだ。下品なことこの上ないが、最初のやつが入学二週間で彼女が出来たときは、僕を含めたその他全員で胴上げしながら池に叩き込んだし、あまり人のことを言えたわけではない。ちなみにその三週間後に別れたときは全員で海に飛び込んだ。五月の海はまだまだ冷たかったが、カップヌードルがやけにうまかった。

 ちなみに最後の質問をしてきたやつは自他ともに認める童貞、もとい童帝である。顔が悪いわけではないと思うのだが、なにせ発言が気持ち悪くて嫌われる人間にはとことん嫌われる。SNSのプロフィール画面の一言は使ったオナホールの数だ。そりゃあ嫌われる。

 この中では一番地味な二人目の質問から答えていく

「僕も知らないよ。本当に、会って話をするだけだから」だいたい、付き合っている人がいるみたいだし。

「それでも流れで名前ぐらい知るだろ」

 その通りで、苦笑するしかない。

 名前を知る場面はいくらでもあったのに、お互い訊こうとすらしてこなかった。

「最近会っていないんだ。名前も知らないし、もちろん連絡先も」 

 そう言えば、久しく彼女の吸っていた煙草の香りも嗅いでいない。彼女の吸っていた煙草は女性に好まれる、甘いフレーバーと香りがついたもの。バイト先の居酒屋に喫煙者は多くやって来て、客数の十倍二十倍の吸殻を残していくが、そのほとんどが男性客によるものだ。女性の喫煙者は男性に比べるとドッと少ない。彼女と同じ銘柄のものを吸っているお客がいたとしても、その香りは他の紫煙らしい紫煙によってかき消されているのだろう。

 久しく嗅いでいないと、なんだか懐かしく感じる。

「知っているのは煙草の銘柄ぐらい。そう、あの細いやつ」

 細い指に挟むのは細い煙草。

 ピアノの鍵盤が似合いそうな白い指で、ギターをプレイしているらしい。

 ギターだけじゃない。ベース、ドラムス、その他自らの作った曲に必要だと思った楽器は全て。その理由は、自分ひとりでやれるから、その一点だけらしいが、いかんせん人間関係作りが下手くそなこともあるかもしれない。オナホールのやつじゃないが、彼女の言葉の端々には棘が見え隠れしていた。その棘は、僕にとっては心地よいものだったけれど、ほとんどの人がそう感じ取られるかと言われればそうじゃない。合う合わないがあって、合わない人のほうがほとんどだ。

「じゃあなんだよ、このまま自然消滅か?」

「自然消滅って。付き合っているわけじゃないんだから」

 遠距離恋愛のカップルの別れ話みたいだな。

 消滅するような関係性も僕らには無い。

「それならどういう関係なんだよいったい」

 どう説明していいかわからない。

 言葉にすれば、ただ週に一回か二回、顔を合わせて煙草を吸いながら他愛もない会話をするだけの間柄。

 もっと深い関係性であると証明できる確かな出来事でもあれば、違う言葉を見つけるのだろうけど。

「あれだよ。いつも行くコンビニの店員さん。それぐらい」

「その女の子がお前と喋ってくれたのは親切心かサービス精神によるものなのか」

「え、あ、どうだろ」

「まあ、お前と話をしてくれるのなんてそんなとこだろうな」

 じゃあお前たちがこうやって俺とつるんでくれるのはなんでだよ。

 軽くツッコミ、でも、彼の言ったことが胸を反芻した。静かな図書室で、あの言葉だけが壁や本棚を反射しているようで居心地の悪さまで感じてしまう。

 彼女が僕と話をしてくれたのは、彼女のホスピタリティによるものなのか。氷山の一角に、奇跡的に咲いた向日葵のような笑顔も、ただ僕を喜ばせるためだけに見せてくれたもの?

 そう考えると、なんだかとてもうすら寒くなった。舞い上がっていた自分が恥ずかしい。

 舞い上がっていた?

 僕が?

 それこそ思い上がりか?

 何に?

 彼女が僕に気を遣っていてくれたことに?

 そんなことで僕は喜んでいたのか?

 彼女が見せた笑顔は、ただ僕を喜ばせるためのもの。

 信じたくない仮説だった。

 だけど、そうじゃないとも否定できなかった。

 情けないことに、僕は彼女を心の底から笑顔に出来ていた自信がなかった。

 結局、テスト中もこの仮説に脳機能の半分を奪われ、教授に見事なお辞儀を披露することになった。勘違いしていただきたくないのは、大学教授のほとんどは生徒に頭を下げられたからと言って単位を渡してくれるわけではないということだ。だいたいの教授は課題やレポート、出席日数、これら全てが完璧であってもテストの点数が未達成であれば容赦なく単位を認めてくれない。だから、大概の授業は落としたら落としっぱなし。諦めるしかない。今回、教授がお辞儀を披露する機会を与えてくださったのは一重に温情と言うしかない。たまたま駄目だった授業が、たまたま所属するゼミの担当教授で、たまたま娘孫が生まれて、たまたま気分が良かったので研究室に呼び出され、たまたまお辞儀が最善な手だと直感した僕が披露したにすぎない。いけると思ったからいった。しかし、その間にはいくつもの幸運が挟まっていたことをここに想起しておきたい。

 運が良かったから。次に彼女と再開するとき、それは運が良かったのか。結果で言えば良かったのだけれど、その状況は最悪だった。

 居酒屋のバイト終わり。その日は深夜一時に店を閉める曜日、奇しくも月曜日──日付が変わって火曜日──自転車での帰り道。

 その日は八月の頭、自転車で切れるはずの風は濡れたチラシのように顔へ張り付いて、息苦しさを憶えるまであった。

 一刻も早く帰りたかった。

 早く帰って、汗でベトベトになった衣服全て脱ぎ捨てて三十九度のシャワーでも浴びたかった。

 そのために選択したのは近道だ。

 大通りを途中で左折。イマイチ気乗りしないが、侵入するのはホテル街だ。ちょうど終電が無くなったこの時間、ホテルへと入っていくカップルは多い。いや、カップルはまだいい。二人の世界に夢中でこちらに意を示さないから。うっとうしいのは、風俗の客引きだ。彼らは僕が自転車に乗っていることもお構いなしに声をかけてくる。本当にうっとうしい。声をかけてくるならもっと財布が厚いときにしてくれ、行くから。

 誘惑を断ち切る覚悟をもって、ペダルを漕ぐ。

 息苦しい風の向こう側。振り切ったはずの視界に、赤い翅の蝶がいた。

 見間違いかと思った。こんなところにいるはずがないから。ここは夜の街だ。派手な髪色の女性なんていくらでもいるだろう。だけど、湿気過多な夏の空気に交じって、あの甘ったるい匂いが鼻をくすぐる。

 そして見過ごせない事実。男といた。しかも若くない。三十代。四十代。それぐらい。

 急ブレーキ。

 騒がしいが、静かなホテル街に甲高い金切り音が響く。

 注目を浴びる。

 ホテルから出てくるカップル。なぜかセーラー服を来た二十代、三十代のお姉さん。客引きのチャラいお兄さん。そして、片手をポケットに突っ込んだ若くない、三十代、四十代の男。その横にいる、

「──っ」

 本当は名前を呼ぶつもりだった。けれど、呼ぶべき名前を知らなくて、喉から空気が漏れる。ようやく言えたのは汎用性の高い「おいっ」だけ。

「誰?知り合い?」と、横の男が──僕から顔を反らすように──彼女に問う。

「お前こそ誰だよ?」

「あなたには関係ないでしょ」

 それはその通りなんだけど、彼女が言うものだから男はますます僕のことを訝しんでいる。

「彼氏にしては年が離れ過ぎていないか?」

「いや、自分は」

 男が否定した。締まりの悪い顔で、言いにくそうに。事実はそのはずなのに、真実にしたく無さそうな。悪さを認めたがらない子どもみたいに。

 女のほうに訊こうと、視線を向ければ、

「なんでお前が泣きそうな顔をしているんだよ」

 彼女がこっちを向いたまま、俯きもせず、頬から流した涙を、熱を発するコンクリートの上に落とした。

 熱いコンクリートに熱い涙。

 蒸発して消えそうな嗚咽。

 大通りを走る車の走行音。

 ここでどうのこうの言えることがあるのだろうか。

 泣いている彼女を慰めるべきなのか。だとすればそこにいる男と呉越同舟の立場か。少し違うか。

 けどこのままじゃマズい何かが起こる気がする。

 いや、それはもうきっと起こっている。

 きっと今がマズい状況。

「だいたい、お前はなんなんだよ。なんでこの娘と一緒にいるんだよ!」

「私はこの娘とそう言う関係では……」

「そう言う関係ってどういう関係だよ!おい、お前、付き合ってる人がいるって!」

 つまりはこの男がその相手ってことだよな。感情の起伏が分かりにくいお前でも、嬉しそうに話をしてくれたのはそいつだよな。

「そうよ……」

 男もなんか言えよ、おい。肯定どころか否定すらしないのか。女は言ったぞ。

「あんたもなんか言えよっ!」

 ネクタイの結び目を掴んでは引っ張り、コンクリート塀に男の背中を叩きつける。

 鈍い音に隠れて、金属の跳ねる音。

 音ばかりだ今日は。

 聴覚が鋭敏になっている気がする。

 血液の流れる音も鼓膜へ直に響く。

 どこに流れる血の音なのかわからないが、金属音の所在はすぐにわかった。

 道路に落ちた異物。

 紫とピンクのネオン、さらには街灯に照らされながら、それはなんだか申し訳なさそうに輝いていた。

 プラチナの指輪。何の装飾も無い、男性が付けるに可も不可もないデザイン。だからこそ、よく見るデザイン。

 それが、男の衣服のどこからか出てきた。指につけていたとすれば、そうそう外れることもないはず。それに、恋人と出掛けるとき、むしろそう言うものは身に着けるだろう。外して持ち運ぶ必要があった?

 恋人に会うから、普段つけている指輪を外した。見せるわけにはいかないから。

「あんた、既婚者か……」

「…………」

 男は小さく首を縦に振った。

「だから、最初に関係を訊いたとき」

「……認めるわけにはいかなかったんだ……」

 複雑な事情でもあるかのように語り始めたが、聞けば実にシンプルでエゴスティックに満ちた内容だった。

 毎週月曜日、僕と一緒に煙草を吸っていた女とこの男は所謂不倫関係だった。聞けば、彼女は男に家庭があることに薄々感づいていたらしいが、それでも恋人ごっこに身を浸していた理由は後に判明する。

 男に家庭がある以上、失うものもそれだけ多くなる。学生カップルの浮気ではないのだ。ただ、喧嘩して、別れて、終わりというわけにもいかない。妻と子どもがいるこの男には二人分の人生を保証する義務と責任がある。

 この二つを表面化させないために、全て夜の街に置いておかなくてはならない。そう判断して、とっさの判断で認めない選択肢を取った。誰が見ても二人の歩く姿は、すぐに関係性について感づくのに。実に愚かだ。

「でも、僕はあなたが結婚しているなんて知りませんでした。だいたい、初対面の相手なんだから。バレたところで……」

 何ができるのだろうか。

「君が彼氏だったらきっと私に怒り、また彼女にも同じように、いやそれ以上に怒るだろう。そうすれば、君は私たちに与える制裁を考えるはずだ。大学生なのだから、それぐらいしてもおかしくない」

「制裁って」

 弁護士をたてて、慰謝料とか分捕るとか?そこまで行動力持っている学生などそうそういないだろ。

「弁護士に頼む金なんて、僕持っていませんよ」

「そんなことしなくても……。──君と私は会ったことがある。憶えているだろうか?」

「……?いや、申し訳ないですけど……」

「君が働いている居酒屋にはよく行かせてもらっているし、それに、恐らく家も近い……。妻と子どもと歩いているとき、何度か見たことあると思う」

 人違いなんじゃないか。僕には目の前で情けなく膝を組み、淀んだ表情の男を知らない。見たこともない。いや、淀んでいるのは今、このときだけか。そうじゃなくとも記憶を探っても思い当たらないが。

 だいたい、毎日何人何十人の客相手に酒やら料理やらを運んでいると思っているんだ。特徴的な注文や言動でもしない限り、一人一人の顔なんて覚えてられない。それだけ、この男は無個性だ。

「だから、もしこのことがバレたら、妻や職場にも知られるんじゃないかと……」

 家族を悲しませたくない心遣いは正しいが、だったらこんなことするなよ。

「言いませんよ。言いませんけど、わかっています?こいつは、あなたに認められなかったんですよ?それで、こいつは……」

 泣いたんだ。

 感情を表に出さない彼女は、この男についてのときは表情が豊かになる。今までに一回だけ、その時があった。今日、会うのだと。向こうは社会人で仕事をしているから、なかなか会えないけれど……、と。だからこそ、楽しみなのだと。僕は怖気ついて、深追いした内容を訊くことができなかったけれど。

 そして、今日が二回目。この男に、自分たちが恋人関係であることを認められなくて、涙の表情を映し出した。

 薄い氷が割れたように、ぐしゃぐしゃにしながら、それでも手で覆ったりなど隠そうともしないで。

「すまないことをしたと思ってる……。でも、私には何もできることはない……。この関係も、今日で終わりにするつもりでいた……」

 男は落ちていた指輪を手に取り、左手の薬指に嵌めた。

「言っていたよ。認められたいって。彼女は認められていることに飢えている。私もそうだ、だからこそちょうどいい関係だった。それももう終わりだがね」

 そう言って、男は立ち上がり、財布から三万円を取りだして、拒否する僕に無理やり握らせてきた。

 口止め料のつもりか。それよりも、こいつにもっと言うことがあるんじゃないのか?不倫相手だったとしても、少なくともこいつは本気だったんだ。そのままで終わりなのか。

 立ち去ろうとする男の肩に掴み、振り向かせて、一発殴るつもりで拳を振るった。

 空ぶって──正確には振り切る前に──視界が一転して、今度は僕の背中がコンクリートに叩きつけられていた。

 肺が一瞬空気を失い、せき込む。

 何をされた?見えるのはホテル街の割れ目とその先にある夜空。星一つない、暗いだけの空。そうか、投げられたのか、僕。背負い投げとか一本背負いとか。柔道の技をかけられたのだろう。

「だ、大丈夫?」

 夜空を隠すように、彼女が僕の顔を覗く。

 涙の痕はそのままだが、表情は薄氷に戻っている。

「大丈夫。それよりも話がしたい。僕の家でいいかな。近いんだ」

 はっきりと答えるタイプの彼女だが、このときは小さく何度か頷いただけだった。

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