第4話 世界が屋上で見渡せたら

 梅雨が明け、夏の日差しと気温が顔を出し始めたころ。

 僕は憶えたての煙草を持って講義を抜けだすサボりを憶えた。

 煙草の味なんて自販機で買った缶コーヒーで消し流すのに、それでもやめられず屋上に昇っては時間を潰す。

 屋上は日差しが直に当たり、さらには地面のアスファルトをフライパンのように熱する。当然、雨が降ればわずかに出っ張った屋根の下以外は濡れることになる。快適とは言えないが、だからこそ利用者のいないこの秘密の喫煙所は居心地が良かった。

 毎週月曜の二限。口から発せられる一音一音が全て繋がった状態で発声される教授の声と退屈さに耐えられなくなり、秘密の喫煙所へと逃げ出すのがいつものルーティンになっていた。

 五回目の授業から、逃げ出した先に先客がいることも多くなっていた。いないときは僕より後にやってくることも。

 その当時はお互い離れた位置で、干渉もせず、存在だけを認識していただけ。僕が皐月に抱いていた印象は、風がたなびかせる黒髪が初夏の空を跳ぶ蝶みたいだなと、その程度。紫煙は風に巻かれて消えていくけれど、彼女の髪はずっと残り続けている。頭皮と繋がっているのだから当たり前なのだけれど、それは彼女の意思に反しているようにも見えた。

 そんな蝶も雨になれば跳ぶのを自粛する。

 持ち主は濡れるのを嫌って屋根の下へと逃げてきた。

 蒸し暑い風は彼女から僕に。風下は僕がいる方で。彼女が吐いた煙も僕のほうに。

 喫煙者である僕が他人の吐いた煙に文句など言えるはずなく。甘ったるい匂いが初夏の雨特有の臭いを上書きし、僕の鼻をつまむ。

 女性が吸う煙草の代表格だけれど、すました目つきと雰囲気には似合わなくて、

「────」

 思わず笑ってしまった。

「────」

 睨まれた。

 視線は氷点下の風のように鋭くて、だけど、顔を背けることもできなくて。

 目を反らして誤魔化してみても、通せるか通せないか。

 舌打ちが聞こえた。

 舌を鳴らす舌打ちじゃなくて、本当に〝チッ〟と発音する下手くそなやつ。

 出来ないならしなきゃいいのに。きっと舌打ちと言う感情の表現方法を最近知ったのだろう。僕も小学生のとき、漫画のキャラに憧れて多用していた時期があったからよくわかる。カッコいいとかカッコ悪いかもそうだけれど、何より大人に近づけた気が舌を動かしていた。難しい言葉は意味が分からないけれど、舌打ちなら簡単に感情を表現できる。本当の気持ちなんて自分でも掴めていないのに。

 反抗期ってやつかもしれない。

 仲良くしてくれる友達や良き理解者である大人たちじゃなくて、当時の僕が欲していたのは敵だったのかもしれない。

 今の僕は大人なので、舌打ちされても彼女の敵にはならない。反応しない。無視する。

 相手も一応大人なのでその日はこれ以上のことは起きなかった。

 僕が吸い終わるころにはもう、彼女の姿は消えていた。残り香すら置いていかず。

 代わりと言うように不思議なことが起こった。

 次の日から、大学構内で彼女と顔を合わせる機会が増えたのだ。

 授業を組み直したわけじゃないから、授業と授業、教室間の移動ルートが変わったわけでも無い。もう七月も半ば、テストが目前へと迫っているこの時期だ。彼女のほうもまさか出席する授業を変えたわけではあるまい。お互いに今までと同じ生活習慣のはずなのに、すれ違いと視線のぶつかりが増え、いつもの月曜二限では煙草を吸いながら会話するようになっていた。

 血液型、学年、学部、お互いサークルに入っていないこと。バイト、彼女のバイト先が貸しスタジオであること、僕のバイト先は何の面白みのない居酒屋であること。取っている授業は違うが、暇で抜け出したい授業時間は被っていることなど。実にくだらない、お互いの名前以外の色々を。

 呼び合う時や声をかけるときは苦労したけれど、それでも二人でいるとき居心地はわるくなかった。会話が無くとも、煙草が空白を埋めてくれる。煙を吸って吐く間に次の言葉を見つけておく。そんな感じ。

 紫煙が消える前に聞ける皐月の声を楽しみだした夏の日。

 これが初恋、ではない。

 それは強がりではなく、彼女と出会う前に付き合っていた彼女がいるからであり、会話だけを交わしていたあの頃は、未だ彼女に恋愛感情を抱いていなかったからだ。 

 ちなみに、彼女も僕と付き合うことが初恋ではないらしい。何なら今も付き合っている人がいるのだと。恋をしたことが無い人間ほど信用できないと思っているので、やはり彼女とこのとき出会えてよかったと思う。

 だって今が幸せだから。

 信じられないものより信じられる事実が多い方がいいに決まっている。

 ただ、空に舞う蝶みたいな彼女の黒髪が赤く染まっていたときは目を疑ったし、空の青と髪の赤のハレーションに視神経と脳神経が焼き切れるかと思った。

 何を、どうしてそんな髪色にしたのか。ファッション、特に人の髪色などに強い興味のない僕でも彼女にとって赤い髪が似合っているかどうかはすぐに判断できた。

「似合っていない。君らしい、とは思うけれど」

 つい、言ってしまった。

 こんなこと他人が口を出すべきではないのかもしれない。しかし、それにしたって彼女の髪に赤は相応しくなかった。

 燃えるような情熱を表現した。

 わかりやすい色に頼らなくたって、火傷しても触れていたい温度は会話のなかで触れていられるのだから。

「そう──。……両親には反対されたわ」

 染まったばかりの赤色を撫でながら、彼女は呆れたようにいった。

 あるいは絶望したように。

 このとき、僕は何かを失った。

 失ったものはとても大切なもので。目には見えないけれど目の前にあるもので、手に入れていないくせに大切なことは知っていて。その時初めて手に入れたいと思って。

「私はこの色が好きで、この色でいたいと思って、誰かに見られるためにやったわけじゃないのに。どうして評価されるのかしら。裸でいるわけじゃないんだから、罪を犯しているわけじゃないでしょうに」

 裸でいるわけじゃないから、罪を犯しているわけじゃない。

 髪を赤色にすることは罪じゃないのだから、誰にも文句を言われる筋合いもない。

 釣り合いの取れないことの多い世の中で、この理屈も不平等な論だなと思った。

 こんなことを言ったら世の中からバッシングされそうだが、男が裸になるのと女性が衣服を身に纏わず外に出るのとでは罪の重さが違う。

 後ろのほうから囁かれる甘い言葉に衝き動かされた時点で、見境はない。

 彼女の両親が彼女の髪色に反対する理由もわからなくはない。

 派手な女ほど絡む男は危険度を増すし、同時に勘違いする人間も増えていく。

 娘には幸せであってほしい。夢を応援することができない親の理屈。応援してくれる親もいる世界、どちらの方が素晴らしいかなんて結局は結果論。背中を押された先は崖の下。引き止められ、辿り着いた先は花園。

 数多の可能性を示唆すれば、誰だって到達する理想の彼方にも。

 人生は一度きりだから、全部試すなんて無理だ。そんなこと僕らより二倍も生きている親の知っているに決まっている。

 その経験値から与えられるアドバイスも基本は間違っていないはず。従っていれば、一般的な幸せは手に入る。

 本人がそれを幸せと思えるかは別として。

 例えば目の前の赤髪の女は自分が望むものでしか幸せを感じられない不幸なタイプの人間だ。真剣な顔をして世界の女王になりたいと語るような女だから、望みを果たすのは難しいだろうけど。

 それ以上の会話も無く、その日、彼女は僕よりも先に屋上を出ていった。

 どこに行くのかも教えてくれなかった。

 教える義理があるのかと問われれば、それもまた微妙な話なのだが。

 今いる屋上から見つけられるだろうかと、赤く染まった翅を探したけれど、叶わなかった。もうどこかへ飛んでいってしまったのか。あるいは、屋内に身を仕舞っているのか。

 東屋に降り注ぐ蝉時雨はここまで届いてこなかった。今、彼女はその中にいるのかもわからず、残り香も消えていく。

 雲行きが怪しくなっていて、蝉時雨よりも雨に濡れそうだ。

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