第3話 プロポーズ
部屋を出て、案内されたのは玄関近くの応接間だった。
この応接間のほうが二階へ上がる階段より玄関側に配置されていることや、玄関から続く廊下が一直線に奥へと続いていたことから、この場は家族以外の親交の薄い人も訪れるパブリックな場として用意されているのだろう。自宅内に事務所を構えているとしたら考えられる配慮だ。神城家に近しい人間であれば、廊下の奥にあるであろうリビングなどに案内されていただろうが、まだ僕は認められていないらしい。座らされた場所も上座だし、しっかりお茶とお茶請けまで用意されている。わかりやすく他人扱いだ。
皐月が父親を呼びに行っている間、暖かい緑茶を飲み干さない程度に飲んで唇を潤し、第一声をどうするか考えていた。
結局、考えつくまでにノックの音が響き、その残滓が消えぬ前に彼女の父親が部屋へと入ってきたのだが。
ほぼ条件反射で立ち上がり、その姿を確認する。
デザインを生業としているぐらいだから、柔和そうな線の細い人を想像し、また期待していたのだがそんなことはなく。
皐月の父親は厳格を体現した人物であった。
顔に年齢を感じさせる皺は無いが、その代わりに険しい表情を演出する深いホリが刻まれているし、体格は柔道選手のそれだ。着席を勧められ、座り、テーブル一つ隔ててもなお、広い肩幅と分厚い胸板による威圧感で自然と背筋が伸ばされる。
「君が、皐月の彼氏だね」
「ええ、まあ……」
直入に訊いてくるな……。否定する理由もないので、素直に頷く。
「それで、君は何をしに来たのかな?」
「え?」
「…………」
これは試されているのだろうか。父親の横に座る皐月はこちらをじっと見つめているのみ。つまり、自分で答えろということらしい。
ここでありのままの事実として、「娘さんに呼ばれてお邪魔しました」と言ってしまうのは間違いなのだろうか。もっと違う最適解があるのだろうか。試されているとして、果たしてどのような答を求められているのか。見当をつける必要がある。
整理しよう。
僕は神城家にとって他人だ。
でも、娘の彼氏だ。子どもの恋人と、親との間にどれほどの関係が最低値として存在しているのかはっきりしないが、それ以上でもそれ以下でもなく、娘の彼氏だ。この事実は父親──面倒くさいからお父さんと呼ぶ──も認めてくれている。
お父さんの立場になって考えよう。
娘の彼氏がやって来て、会って何をしに来たのか尋ねる。普通訊くかそんなこと。
訊かない。普通だったら訊かないのだ。ただ、遊びに来た。たったそれだけのことならば、訊かれることは無いのだ。まさか結婚の許可を貰いに来たわけではないのだし。
考えてもわからなくなるばかりだ。
しかし、沈黙を作るわけにもいかない。ここは、
「皐月さんに会いにお邪魔させていただきました。……迷惑なこととは存じていましたが外は危ないので、失礼ながら……」
敬語はこれで正しかっただろうか。
最後のほう歯切れが悪かったのは印象悪くないか。
「皐月とこの世の果てとやらに行きたいそうだな」
「はい」
言いだしたのは皐月さんです、とは言わない。行きたいのは僕も同じだ。それに、皐月と行きたいのは僕だ。お父さんは間違ったことを言っていない。
「この世の果て、というバカげた表現はともかくとしても。いいから行って来い、とはならないことはわかっているのか」
それはもちろんです、と返事をしてまた思案する。これは単純なことではない、と。お父さんからの問いかけには複雑な意図と感情が折り重なっている。
そして恐らく、複雑だと思っているのは僕だけだ。これはひっかけ問題ではない。きっと、単純な経路をたどって紡がれた問いかけ。この問いかけを作るに至った出発点がわかれば、経路を追いかけることも簡単なはずだ。腰かけるソファに背を預けられぬまま。時間だけが数秒刻みで進んでいく。
僕らに時間は無いのだ。
早くここを出て、迫りくる光のドームへと近づかなければ、世界の終わりから僕らを迎えに来てしまう。
それでは意味がない。
どうせ終わるのならば、一緒にいたい人と自ら終わりを臨みたい。黙ってじっとしていても同じ光景を見ることはできるかもしれないが、僕らが居たい場所で、世界の終わりを見たいのだ。永遠を手に入れられない代わりに、望む終わりを求めている僕ら。
僕ら……?
繋がった、ような気がした。望みを抱いているのは僕らだけじゃない。そのはずだ。
「皐月さんって普段どんな人なんですか?」
僕からの逆質問。
単純な興味もあるが、狙いは答え合わせ。
「君の方が知っているのではないか?」
「そんなことは……無いと思います……」
ギシっと向かい側で椅子が軋む。
お父さんが背を預けたのだ。
「恥ずかしい話、私はもうほとんど皐月と会話をしていない。君も知っているだろう?」
「…………」
知っている。家族らしい会話は二人の間に発生していないのだと。
「特に去年から夏休みなどになると家にも帰ってこない。どうやら姉の家に行っているようだが」
知っている。皐月が、彼女のお姉さんの家に行ってなどいないことも知っている。去年の夏に僕らが出会ってから、長期休みの度に僕の家に籠城するからだ。当然、男の家に上がり込んでいるとは言えないので、両親には就職して自立した姉の家に行っていることにしていたらしいが……素直に騙せているあたり、案外チョロいのかも。
……前言撤回。クマも殺せそうな眼光で睨まれた。バレている。
「そのことについてはひとまず置いておこう。どうだ、皐月はよく喋るほうか?」
「御喋り、とは違いますが、無口な方でもないと思います」
ヘッドフォンをして音楽を聴いている時や、読書している時以外は比較的会話をする方だ。会話の始まりは僕からのときもあるし、彼女から話題を提供してくることもある。ただ、一ターンはそんなに長くなく、短く端的に言葉を交わす。
「そうか……。私は無口な方だと思っていたよ。母親に対しては私ほどではないらしいが、とにかく皐月は自分の事を話してくれなくてな」
それは、あなたが皐月の夢を認めないから。認めてくれないと知った彼女は、その行為が無駄だと判断して口を閉ざし気味になったのだろう。
「何か言いたげだな。言いたいこともわかるが、親としての言い分もある。
──だがな、皐月と話がしたくないわけじゃないんだ。わかるか?」
「……わかります」
予想は当たった。望みを抱いているのは僕らだけじゃない。目の前にいる、皐月のことを理解してくれない人間だって同じだ。
誰だってこの日に望みを抱いている。
最後だから。明日が無いから。後悔を残したくないから。
僕らが世界の果てを二人で見に行きたいように。目の前の父親──と母親──は最後の日に娘と話がしたいのだ。
僕が望んでいるのは、ただ皐月と世界の果てを見に行くだけ。本当にそうなのか。もっと、別の側面があるのではないか。
だからこうして彼女の父親と対面しているのではないのか。
幸せは誰かの不幸の上に成り立っている。
これは言いすぎかもしれない。
だけど、少なくとも僕が皐月を連れ出せば、皐月の両親は娘と一生会話することができなくなってしまう。
電話だって、いつまで電波が通じているかもわからない。
だから僕は認めてもらわなければならない。
皐月をここから連れ出すことを、目の前の不器用な父親に許可してもらう必要がある。
それは、皐月の望みでもある。
あなたたち家族よりも僕といることが皐月にとって幸いだと。
「もし、君が皐月と一緒にいたいと言うのならば、この家を使ってもらっても構わん。
──君とも話したいことがあるしな」
ここに来て、初めて厳格な表情が薄らいだ。口の端を上げた笑みだ。
その笑い方が皐月そっくりで、おかしくなってしまう。
いくら嫌っていても親子なのだ。
冷え切った関係でも、温かい血が通っている。
それを否定できないからこうやって向かい合っているのだ。だいたい、父と娘は今、僕の向かい側で隣あって座っている。
普通、プロポーズの時って皐月はこちら側に座るモノじゃない?
二人して僕の敵。
味方などいやしない。
モノの見方も違うのに。
すり合わせてくれる橋渡し役がいないから。
自分自身の思いを自分自身で言語化もしなければならない。
ここで感情的になって、叫ぶように告げてもいい。
どうせ世界に先は無いのだ。
遠慮などしても、それは無意味かもしれない。
だけど、皐月は言った。僕が、彼女の家族に認められてほしい、と。
僕の敵は彼女の父親。でも、彼女は味方じゃない。
今日時計は役目を終える。その前に果たしたい目的の一つ。
と、言うかここでいくら逡巡を繰り返しても意味がない。
それでこそ時間の浪費だ。
答えはもう出ているのだから、これ以上を求めても決着から遠のくだけの矛盾だ。
それじゃあ口を開こうか。
古今東西、いい雰囲気をぶち壊してきた母親のノックよりもありふれた言葉。
本当に結婚するわけじゃないが、それと同義。いや、もう一生会えなくするかもしれないから、それ以上の重みが積もった言葉を。
「お父さん、」
深呼吸をして。
「僕が皐月さんを幸せにします」
なんの根拠もないが、自身でも驚くほど自信に満ちた声。
「お父さんが皐月さんを大事にされていることはわかっています。それに、今ここで皐月さんを連れ出すことがどう言うことかも。すみません」
すみません、だなんて微塵も思っていない。
「それでも、僕は皐月さんの望みを、皐月さんと一緒に叶えたい」
ここで皐月の名前を出すことが反則級なのはわかっている。
それでも、僕が望むことはこれで間違いないし、皐月の願いでもある。
これはそう言ったアピールだ。
僕たちがどれだけ通じ合っていて、一緒にいたいと願っているか。恥ずかしげもなく掲げるアピール。
「ですから、どうか、皐月さんとの時間を僕にください」
劇的、という状況を演出するにはあまりにも言葉足らずだ。
僕の彼女は無口で、できるだけ口を開かないで意志を伝えようとするタイプ。図らずも、今の僕は彼女と似たタイプになっている。
人と人は、お互いの穴を埋めるために一緒になる。
もしかしたら、皐月にはない社交的な一面を見せることができたら案外素直に認めてくれたかもしれない。
そう、上手くはいかない。
上手くいかないからこそ、僕と皐月は一緒にいる。
似た者同士だからこそ、ここにいる。
この世の果てを見に行く。そんなバカげた望みに共感できる僕らだからこそ。一緒にいたいと願っている。
火は炎を産むし、水は流れを作り川となる。手に収まるほどに小さかった感情は、いつの間にか身を浸せるほどに大きくなった。
それが全てだろう。他に何もいらない。何もいらないから、この世の果てを見に行かせてくれ。大事な家族を引き離すことになっても、邪魔されたくない、僕たちの最後の願いなのだから。
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