第2話 確かめに来て

 不満と不安でアナーキー寸前の公共交通機関を何とか乗り継いで、ついに皐月の家の前に辿り着いた。

 大きな一軒家だ。門には【神城】と彫られた表札と、【カミシロデザイン】という──正直捻りのない──社名が書かれた看板が並んでいる。

 付き合い始めて半年になるけれど、ついぞ自宅まで呼ばれたのは今日が初めてになる。彼女と彼女の家族との関係を聞く限り、当たり前ではあるのだが。

 だからこそ不思議になる。なぜ、あと一日、正確にはあと十時間で世界が終わるというこんな日に僕を呼んだのだろうか。秩序が崩壊しつつある街を一人で歩きたくない気持ちはわかるし、僕も歩いてほしいとは思わない。だからこそ、ここへ来た。だが、本当にそれだけだろうか。

 実は今、家に皐月以外いないとか?

 いや、それは考えにくい。確か、彼女の両親の職場は在宅だった。仕事で家を空けることはほぼないはず。僕の両親みたいに旅行でも行っていれば話は別だが……。

 インターフォンの前で、押すかどうかを含めて悩んでいると、静かにドアが開いた。

「そんなところで何してるの?」

「自分が呼んだんだろ」

「チャイムも鳴らさずに何してるのかってこと。気味悪がられるから早く入って」

 どうやら彼女は、ご近所に僕の姿を見られたくないらしい。

 玄関に招かれ、靴を脱ぐのが速いかいなか、すぐさま二階への階段を登らされては一室に押し込まれた。

「ちょっと待ってて」

 スピード感に戸惑っている僕をそのままに彼女は部屋を出ていく。

「待っててと言われても……」

 どれぐらい待てばいいのか。とりあえず立っているのもバカらしいので、勧められてもいないベッドに腰掛けた。ここへ来るだけでひどく疲れた。この程度の甘えは許してもらおう。

 スマートフォンを取り出して、着信履歴を見る。南極大陸から滅亡のドームが広がり始めてニ時間後、そこから僕が皐月の着信で目覚めるまで、約一時間の間に両親からの着信が百を超える回数着ていた。メールは一通だけ。短く。『元気で長生きしてね』。世界が等しく滅亡に向かっていると思えば、なんて意味のない言葉だろうか。もっと言うべきことがあるはずだろう。こんな短い一言なんかじゃなく、もっと、長くて、もっと、大事な、大事にできるような言葉が。

 言葉なんかじゃない。僕たちに必要だったのは言葉なんかじゃない。きっとそれは会話だ。会話をするべきだった。何を話せばよかったのかわからないが、とにかく言葉を交わすべきだった。それができていたならば、心臓は泥に似た後悔を手に入れることもなかったのに。

 心臓は後悔を血液に乗せて全身へ運んでいく。一番血液を欲している頭に泥の後悔が蓄積して、支えきれなくなった上半身をベッドへ委ねる。

 普段、彼女が使っているであろう枕があった。

 薄いピンク色の地味目な枕。

 手を伸ばして、引き寄せる。

 それを頭とベッドの間に挟まず、何となく抱えてみる。彼女の体と似ても似つかない抱き心地と大きさだが、匂いだけはそっくりだった。

 部屋にあるのは机と、ベッド。本棚には、半分のスペースに小説や書籍類。もう半分のスペースには薄いプラスチックの背が並べられている。

 彼女の血と肉のほとんどを構成するCDたちだ。サブスクリプションを使いだした今も、CDは買い続けているらしいからたまげたものである。本当に心から好きなのだろう。それこそ、そこに並べられている音楽や、それらをこの世に産み出したミュージシャンがいなければ彼女は空っぽの人生を歩んでいたかもしれない。

 音楽家の道を志し、両親に反対されたとき、皐月はいったいどうしたのだろう。今は知っている。大学に通いながら一人で詩を書き、曲を書き、五体をフルに使って演奏して、飯が食える音楽家になろうとしている。

 だが、それは半分両親に隠れながらの活動だ。バレてはいるだろうが、恐らく黙認されているだけ。今は眼を瞑ってくれている。就活の時などどうするのだろうか。世界が終わるのにそんなことを考えてしまう。まだずっと続くと思っていたい。未来の話。

 抱えた枕を顔に押し付けて考える。花の香──花の種類はわからないがとにかく花の香──がする。彼女がいつも使っているシャンプーと同じ匂いだ。

 気になっているのは過去の話。酒で口が軽くなった皐月が教えてくれた、一度両親に夢を打ち明け、反対され、そこから微妙な距離を得ることになったのだと。その時、その瞬間の皐月は果たしてどんな顔をしていたのだろう。クールで、言葉数も少ない彼女は両親に対し、どんな姿を見せたのだろうか。彼女を形作るモノ全てが詰まった部屋にいながらも想像できない姿だ。

 泣きながら怒ったのだろうか。それとも、その時は従順に頷いたのか。

 どちらにしても、音楽を捨てなかったのは確かだし、皐月の両親が大学進学を押し付けなかったら僕は彼女に出会えていない。だから、実は彼女の両親には感謝している。

「準備ができた。来て──って何してるの?」

「良いベッドと枕だなって」

「あなたの家のものよりもずっと、ね」

 ねぇ、と皐月が隣に腰を下ろす。スプリングは軋まない。配慮のできるベッドだ。

「あなたは世界が終わる前に何がしたい?」

「……そうだなぁ。家族はもういないし。いつもの面子は呑気だからこの状況を楽しんでいるから、悲しい顔して会う必要もないし。ここに来れて良かったと思ってるよ」

「微妙に答えになってない」

「そうかも」

 彼女はしたいことを訊いてきたのに、僕は誰と会いたいかを答えた。

「けど、ここに来るまでに、今日が最後だったら誰と会いたいか考えてた」

 いつ車掌が職務放棄してもおかしくない満員電車に身を預けながら、自分が合うべき人を考えていた。

 その時はほとんど成り行きで皐月の家に向かっていたが、他の選択肢は出てこなかった。僕の人生最後に会う人は皐月であり、僕の居るべき最後の場所がこの世の果てであることに不思議と抵抗が無かった。

「私とは悲しい顔して会うつもりで来たの?」

「今、僕はどんな顔してる?」

「マヌケに嬉しそうな顔。──私、したいことがいくつかあるの。欲張りでしょ?」

「いいんじゃないかな?最後だし」

「ありがとう。一つ目は、家族に私を認めて欲しい」

「音楽をすることを?」

「それもだけど、それじゃない。結局、音楽は否定されても私を貫くって決めたんだから」

 歌詞もサウンドも、好きを詰め込めば、否定されても構わないと言うのが彼女の思想だった。正直よくわからないが、それで皐月が満足するのならばいい。──前に僕がちょっと口を出したら不機嫌になってなかったっけ?野暮なツッコミはしまっておこう。

「言い方を変える。否定されたくないことを認めさせたい。これは、音楽以上に大切なこと。否定されても音楽は創れる。認められても同じ。だけど、否定はされたくない。これはもう意地。さっさと抜け出してしまってもいいのだけど、認めてもらえないままっていうのも癪だから。家族に私の選択は間違いばかりではないことを認めて欲しい」

「その選択が僕ってこと?」

「そう、嫌だった?」

「今日は疑問形が多いね」

「不安なのよ」

 言葉で返さず、重ねてきた掌に指を搦めて応える。

 気持ちの応え方は一つだけではないから。

 拳と拳を突き合わせるときも。

 目と目を合わせるときも。

 唇と唇を合わせればいいときも。

 大事なのは身体のどこかに気持ちが宿っているか。

 宿った場所同士を合わせれば、気持ちは通じる。

 通じ合って、分かり合えるかは別として。

 それでも、皐月から気持ちを貰えたなとは思えている。本当は彼女に伝えなきゃいけないのだけれど、伝わっているかなんて、本人にしかわからない。僕ができることは表情や仕草、口から発せられる言葉から察することしかできない。

 言葉でのコミュニケーションを止めた僕らの間に流れた静寂は三十秒。流れを断ち切ったのは部屋の扉を叩くノックだった。

 彼女の家で、部屋で、いい雰囲気になって、それを中断させるのは今昔古今東西、忖度などなく届く脳内まで電流のように身体を震わす、彼女の母親からのノック。

「お父さん待ってるよ。まだかかるの?」

 まだかかる、とは一体今ここで何をしていると思われているのだろうか。いや、変な意味ではなく、皐月は部屋で何をするつもりでいたのだろうか。

 違う。皐月は部屋に入って来た時に言った。「準備ができた。来て」と。だから、ここで何かするつもりはなかった。でも、母親は訊いた。「まだかかるの?」と。母親はここで何かが行われるはずだと、そう考えていた?

 何を?

 皐月の目を見る。 

 目は口程に物を言うが、彼女の目は口を閉ざしている。瞳が僕を写すのみ。教えてくれる気配はない。

「行こう。待たせてるみたいだし」

 先に立ちあがったのは僕だ。

 指を解いて、パーカーのポケットに手を突っ込む。

 元より皐月にはここで何かをするつもりはなかったのだ。だとすれば、この場で彼女に問いただしても仕方がない。

「そうね」

 と、皐月も立ち上がり、ドアの向こうに立っているであろう彼女の母親に、今から向かうから先に父親の元で待ってもらうことを言い伝える。

 母親が返事をし、足音が階段を降りていく音を聞いてから、僕らは部屋のドアノブに手をかけ、部屋を出る。

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