第23話 未知瑠先輩 下

  先輩は最初は大人しかった。

 うんうん、とどんな些細な事にでも相槌を打ってくれてこちらも話しやすかったのだが、話が昨日の段階に移ると途端に暗雲が立ち込め始める。

 手紙をもらった時の癒月の行動は全て演技だった事を話した所で、先輩は机を爪でカツカツ叩き出した。葵が恋の協力をして欲しいと癒月に頼んだ時は指をバキボキ鳴らし、僕がそれに加担するとなった時には乱暴に席を立った。


「よし綾人くん。私が君を貰ってあげよう」

「何言ってるんですか。ひとまず最後まで聞いてくださいよ」

「……」


 先輩は不服そうに椅子を引き、僕は話を再開した。記憶を整理しつつ、不味そうな部分を省きながら今日までの顛末を話し終える。その間、先輩は頬杖をついてつまらなさそうに聞いていた。



 話し終えた後も、先輩は眉をハの字に歪めながら心底気に入らないとばかりの顔をしていた。


「……じゃあなに、色々あったけど、綾人くんが納得しないからその緑川って人を直接見せちゃえってこと? 元々感情の問題だから、あんまり意味は無いと思うけどなぁ」

「実際はそうでもなかったですよ。緑川はいい奴でも悪い奴でもない、普通の男でした。勝手に期待する女子に寄られすぎてうんざりしてるっていう贅沢な悩みを除けば、ですけど」

「君、ほんとにいい奴だね……普通は好きな人を取られた相手にそんな事思わないし、ましてやその恋を手伝おうなんて論外だよ」


 未知瑠先輩はこめかみに指を当てると、くるくるパーと小さく竜巻を作った。正にその通りだから言い返せないが、少なくとも葵の恋を助ける理由が僕にはある。理屈でも損得勘定でも無く、僕のエゴだとしか言いようのない感情論が。

 残り半分になったペットボトルを掌で弄ぶのをやめ、腹と腰に力を入れた。


「つい一昨日のことですけど……いえ、それよりずっと前からなんですが……心に決めていた事があるんです」

「へえ……それは?」


 未知瑠先輩も佇まいを正し、こちらを覗き込むようにぐっと身を乗り出す。僕は二秒ほど呼吸の間を置いて、心が分厚い城壁で覆われるのを感じながらその言葉を放った。


「何があろうとも、葵が困っていれば絶対に助けなければならない。それは、共に生きてきた者としての義務だから」

「……義務なの?」

「そうです。やらなければならないことです」

「…………」


 先輩はしばらく僕の瞳を貫くように見つめていたが、不意に息を吐いて脱力した。紅茶のボトルに目を落とし、何かを言おうとしたかと思えばすぐに口を閉ざす。

 しばらく黙りこくって液体が変形する様を眺めていた先輩は、不意に僕に問うた。


「ねえ……綾人くんは、自分がものすごく辛い道を歩もうとしてること、気がついてる?」


 僕ははっきりと頷く。


「ええ。こうしている今も、葵のことを思うだけで息が止まりそうになります。……けど」

「けど?」


 先輩の刺すような目を、強く見つめ返した。


「……僕は、償わなくちゃいけないんです。貰ったものを全部返さないといけない。そうでもしないと、先に進めない」

「……そっか。なら、私は止めない」


 未知瑠先輩は小さく頷く。しかし――


「……でもね」

 

 まだ全てに納得した訳ではないようだった。眼光を少しも緩めること無く、年上として、先輩として、その威厳を堂々と発揮するように言う。


「君、癒月ちゃんのことは一体どうするつもりなの?」

「……」

「これだけ君に尽くさせておいて、側に居させておいて、「友達だから」なんて言葉で終わらせるのはあんまりだよ。少しはあの子の気持ちを考えてあげた? 応えることはできるの?」

「それは……」


 耳に痛すぎるその問いに、実は三年前から答えを出す事ができていない。ずっと先延ばしにしようとして、とうとうこんな所まで来てしまった。


「まだ、わかりません」


 僕がそう言うと、未知瑠先輩は「そう」とだけ返して表情を緩めた。


「まあ、君も大概傷ついているようだし、あんまり虐めるのはやめておいてあげよう」

「……こんな時、ありがとうって言えばいいんでしょうか」

「んな訳ないでしょ」


 先輩はピシャと僕にチョップを落とした。微妙に痛い。


「一応聞くけど、なんで癒月ちゃんがずっと君に付きっきりだったか分かる?」

「え……変な気を起こさせないようにするためじゃないですか?」


 「惜しい」と先輩は言った。


「それもある。けど、一番は綾人くんを慰めるためでしょ。多分あの子は自分なりに考えて、君が少しでも葵って子のことを忘れられるようにしてたんだよ。いくら仲が良くても、一人暮らしの女子高生が恋人でもない男の家に泊まりに行くなんてありえないでしょ?」

「…………」


 ……やばい。普通にそんな事考えてなかった。というか、そうだとしたら今までの毒舌とかよく分からん悪戯とか、それは全部僕の気を逸らすためだったってこと? なにそれ滅茶苦茶いい奴じゃん。どうして僕みたいなつまらん奴にふらふら寄ってきてるのかが分からんが。


「こんな時、どんな顔をすればいいか分からないの……って顔してるよ、綾人くん」

「僕は神の魂なんて入ってませんよ……というか、先輩いいんですか」

「何が?」

「仕事するとか言ってたじゃないですか。ここに来る前」


 なぜか先輩は目を逸らした。


「あ、あぁー、あれね。あれはアレだよ。ほら、色々点検してたの」

「え、何の? まさか電灯の点検とは言わないでしょうね」

「私がチビだと言いたいのなら面と向かってハッキリ言ってもらおうか。あ?」

「お人形みたいで可愛らしいですよね、先輩って」

「言葉を変えても無駄だっ! あと「らしい」ってなんだ! 素直にかわいいって言え!」

「モルモットみたいに可愛いですね」

「そういうことじゃねぇよっ!」

「日本語って便利ですよね……」

「どうやら死にたいようだな!?」


 バキボキ拳を鳴らしながら先輩は席を立った。さっきまであんな憂鬱そうに話を聞いていたのに……

 勢いよく殴りかかってくる先輩を片手でいなしながら、大声で暖簾の向こう側に叫ぶ。


「おばちゃん! ちょっと欲しいものがあるんですけど!」

「……はいはい、今行きますよ」

「チッ! ずるいよ綾人くん!」

「何がですか? 僕は先輩にお礼をしたいだけですよ?」

「はぁ?」


 怒気を抜いた先輩を尻目におばちゃんの所まで行き、冷蔵コーナーのミニシュークリームとプリンを三百円で買った。結構な出費だが、話を聞いてもらったお礼くらいにはなるはずだ。


「それ……くれるの?」


 ごくりと喉を鳴らして聞いてくるので、軽く頷いておく。「やたっ!」みたいな声が聞こえたが、威厳ある生徒会長はそんな子供みたいな声は出さない。


「内輪の話を聞いてもらったお礼です。またお願いするかもしれませんから少し多めに」

「い、意外に図々しいね綾人くん……」


 そうは言っているが、お菓子の入った袋を受け取った瞬間、にやぁっと我慢しきれなかったように笑みが溢れている。僕は邪魔しないように「じゃあ」と立ち去ろうとしたが、先輩はぐいっと袖を引っ掴んだ。


「待って。ほんとに大丈夫?」

「何がですか?」

「いや、なんとなく」

「何となくで聞かないでくださいよ。大丈夫です」

「ならよし。さらばだ、ミニシュープリンの英雄よ」 


 そう言うと先輩は袖を離した。


「お達者で、チロル先輩」

「あ、それ言っちゃダメなやつー」

「はいはい」


 色々もごもご言ってくる先輩を流しながら食堂な外に出る。横開きのドアを閉める時におばちゃんと目が合ったが、なんとも可愛らしいウインクをされた。

 

 そのせいで聞き逃してしまったのかもしれない。


「少し横道に逸れたけど……まあいっか」


 甘い菓子に囲まれて幸せそうに笑う、生徒会長のその声を。


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