第18話 上書き


 

 葵を送り届けた後、僕らはマンションまで帰ってきた。最後に戸締りした癒月がすまし顔で家の鍵を開ける。


「さ、上がって」

「僕の家なんだが……」

「私の家になるかも?」

「させねえよ」


 ……まあでも、癒月にはこんな夜道に迎えに来て貰ったし、片付けもしてくれた。今日は少しくらい目を瞑ってもいいだろう。


 そう思って部屋に入り、寝室のベッドにスマホと財布を投げ出した。後ろからついてきた癒月が、肩に下げていた大きめのトートバッグを床に下ろす。

 僕はベッドに腰掛けて、バッグの中から洗顔剤やら化粧水やらを取り出している親友に尋ねた。


「本当に泊まるのか?」

「泊まるわよ」


 そっけない口調にはどこか有無を言わさぬものが含まれている気がして、しかもそれが気遣いから来るものだからどうにも反対しづらい。

 僕は言おうとしていた言葉を引っ込めて、代わりに他の話に置き換えた。


「……なら、布団がいるな。向こうの押し入れにあったはずだから取ってくるよ」

「ありがとう。あと、申し訳ないけど先にお風呂を借りてもいい? 一日中制服だったから流石に気持ち悪いの」


 そう言ってセーラー服の襟を引っ張るので、なめらかな鎖骨が露わになる。思わず目を逸らしながら答えた。


「……ああ。タオルとか何か必要だったら、脱衣所の上の棚にあるから好きに使ってくれ」


 少し早口で言うと、癒月は悪戯っぽく笑った。


「……覗かないでよ?」

「覗くか!」


 言い捨てて、僕は逃げるように押し入れの方に向かった。






*  *  *






 さあさあという優しいシャワーの音が聴こえてくる中、押し入れに詰まっていた両親用の布団を無心で床にセッティングする。友人とはいえ、とびきりの美少女が壁の向こうで湯浴みをしているのだ。思わず想像しそうになるのを理性で抑え付け、ひたすらシーツを伸ばし続ける。


 と、そこでふと水音が止まった。ほっとしたのも束の間、ドアの向こうからわんわんと反響する声が僕を呼びつける。


「あやとー!」

「なに!」

「ヘアオイルを忘れたから持ってきて!」

「は!?」

「私のカバンの中に入ってる小さな小瓶! すぐに持ってきて!」


 そう言って、癒月はこっちの返事も待たずにガラガラピシャッと引き戸を閉めた。すぐにシャワーの音が再開させる。


「いや! まておい!」


 わざとらしく何かを落とす音が聞こえてくる。あくまでも無視するらしかった。というか、どう考えてもこの状況で癒月が忘れ物をするとは思えない。どうせまた僕をからかうつもりなのだろうが、本当に忘れ物をしただけなら完全にこっちが悪者だ。

 僕はシーツから手を離し、寝室に行儀良く置かれているトートバッグをリビングに持ってきた。


「ヘアオイルか……」


 知識としては、よく行く葵の家に色々と置いてあるので、どんなものか知ってはいる。

 昔、一度風呂上がりに葵に無理やり付けられたことがあるが、アロマの香りがするわ量が多くてベトベトするわで大変だった。正しく使えば髪の保湿とダメージケアの効果で髪がサラサラになるらしいが、正直面倒すぎて使う気にはならない。


 そんな思い出深き? ヘアオイルを探すため、とりあえず癒月のバッグを上から覗き込んでみる。中には歯ブラシなどの洗面用具一式と、何が入っているか分からないシンプルなデザインの白い布袋が二つ。恐らくどちらかかにオイルが入っているのだろう。




 一つ目の袋を何気なく開けてみると、中には下着が入っていた。


 もう一度言う。


 中には、下着が入っていた。


「………っ」


 薄い水色の上の下着を思わずまじまじ見そうになって、慌てて袋ごとバッグに突っ込み返した。と、そこでタイミングを見計らったかのように癒月の声が響く。


「水色の方じゃないわよー!」

「じゃあどっちだよ! …………あ」


 袋はどっちも白だった!


「見たのねっ! この変態!」

「嬉しそうに言うな! てか嵌めたな癒月!?」

「感想は後々! 早く持ってきなさい!」


 そう言って癒月はまたピシャリとドアを閉めた。悔しさに歯を食いしばりながら、僕はもう一個の袋に手を伸ばす。開けてみると、きっちり畳まれたパジャマ一式と小さな茶色い小瓶が顔を出した。それを引っ掴んでどしどし脱衣所に向かい、浴室の前に設けられた洗面台の端にそれを置く。憎らしげにもむちゃくちゃな色気を放つシャワーの音に負けないように言った。


「持ってきたぞ。洗面台に置いておくから……お願いだからもう何も頼むな」


 向こうもここまで近いと一々シャワーを止める気はないようで、流水の音の中くぐもった返事が聞こえてくる。


「それは残念。あと二つくらいお願いしようと思ってたのに」

「……絶対に聞かないからな」

「裸の美少女のお願いよ?」


 同時に白く曇った擦りガラスの向こうでぼやけたシルエットが動き、何やらポーズをとった。とりあえず顔ごと九十度真横を向く。


「……自分で美少女言うな」

「事実を言ってるだけだけど……もしかして、私って可愛くない?」

「見た目はともかく、その意地悪い性格はな」

「言っておくけど、直せと言われても無理よ? 絢斗をからかうのは私の生き甲斐だもの」


 そこで癒月はシャワーを止めた。ことりとシャワーヘッドを置く音がして、ぱしゃりと水滴が優しく跳ねる。


「……でも、もし絢斗がもっと可愛げを出せって言ってきたなら、努力ぐらいはするかもね」

「……ダメだな。可愛げのある癒月なんて、それこそ獅子の皮を被った狐だ」

「逆じゃなくて?」

「逆じゃなくて」


 少しの沈黙の後、またぱしゃっと音がする。


「……まあ、しばらくはこのままでいてあげましょう」

「それがいい」

「その方が好みらしいから」

「うるさいな」


 癒月はくすくすどこか嬉しそうに笑って、またシャワーを浴び出した。僕はリビングに戻り、途中で止まっていたベッドメイキングならぬ布団メイキングを再開する。シーツを四隅に伸ばしたところで、先程の癒月の言葉が蘇った。


『努力ぐらいはするかもね』


「……冗談じゃねえ」


 中学の時を思い出して思わず胸糞が悪くなる。勢いで吐き捨てるように言ってしまった。






* * *







 布団の南に枕を置いて、上から薄い掛け布団を被せるように掛ける。最後に舞った埃を追い出すため窓を開ければ布団メイキングは完成だ。初めてにしては我ながら上出来だと思う。


 完成した寝床をいっとき眺めた後、そろそろ癒月が上がってきそうな気がしたのでコップに水を注いでおく。予想通り、すぐにがらがらと浴室の扉が開き、濡れた髪を拭きながら癒月が歩いてきた。タオル一枚で。


「っ!」


 火照って少し赤みを帯びた白い肌。タオルの下から覗くきゅっと締まったつるつるの細い脚。そこから滑らかな曲線を描き、谷間が見えるほど露出した胸もと。


 頭がオーバーヒートしそうだった。


「ゆ、癒月っ! 服! ふくっ!」

「? ……あらぁ? どうしてそんなに赤くなってるの?」


 ニヤニヤと笑いながら癒月は近づいてくる。キッチンには逃げ場は無い。こっちはパンクしそうなのに!


「バカ! いいからさっさと服を着ろ!」


 鎖骨を滑り落ちる水滴が艶かしい。

 癒月が意地悪い笑みを浮かべてタオルを引っ張ると、柔らかい何かがふにゅりと形を変えて視界を襲う。


「せっかく下着を持ってきてもらおうと思ったのに、絢斗ったらもう頼まれてくれないんだもの。仕方ないんじゃない?」

「いや、ちが、僕は」

「パジャマだって、おんなじバッグに入ってたわ。気が利かないのね。……といっても、私としてはありがたいんだけど」

「あ、あのな」

「それに、絢斗はこのままの私がいいんでしょう? さっき言ってくれたこと、結構嬉しかったから、今日は特別にサービスよ」


 癒月はそう言って、固まっている僕に引っ付くように抱きついてきた。柔らかい何かが吸い付くように形を変え、ふき残りの水滴が昏い谷に落ちていく。僕は完全にショートしていた。


「…………」

「…………」


 何もいえない沈黙が続く中、もう柔らかいという感想しか持てない僕を癒月は見上げる。


「その……」


 蜂蜜色の瞳が不安そうに揺らめき、抱きしめる力が強くなる。それで僕はようやく現世に戻ってきた。頭が回転を始める。


 癒月は潤んだ瞳で、囁くように聞いてきた。


「……こ、これで、上書きされた?」

「……な、何が?」


 ピクリとも動けない中で聞き返すと、癒月は恥ずかしそうに俯く。


「葵さんの……膝枕……」

「……………」


 ……え、見てたの? というかまさかそれで? もしかしなくても嫉妬ですか?


 とは流石に聞けないので、とりあえず最小限の力で癒月の拘束を外し、ぽんぽんと頭を撫でておく。癒月の耳は真っ赤になっていて、無理をしているのは明らかだったからだ。


「……あのな」


 癒月が持っていた小さなタオルを奪い、頭に置いてわしゃわしゃと動かす。赤くなった顔が隠れているのを確認した後、話すべきことをまとめ、なるべく落ち着いた声で続けた。


「葵は幼馴染だ。膝枕くらい珍しく無い……とも言い切れないが、少なくとも今までに何度か経験はある」


 こくり、と癒月は頷いた。

 僕は荒っぽい拭き方を止め、撫でるような拭き方に変えて話を続ける。


「……だけど君は、今は僕の親友だ。そういうことはした事がないし、これからどうなるかは分からないけど、君が僕の友人であり続ける間はそういうことをするつもりは無い」


 少し遅れて、また癒月は頷く。タオルから覗く耳はまだ赤いままだが、残念そうな雰囲気が伝わってきた。


 だけど、まだ続きがある。


「……つまりだ。普段そんなことをしない女の子、それもとびきりの美少女に突然タオル一枚で抱きつかれたら、どうなると思う?」


 はっと癒月が頭を上げるので、こちらの顔を見せないようにそっとタオルで視界を隠す。艶やかな髪を撫でながら笑い混じりに言ってやった。


「上書きどころか、記憶が飛びそうになったわこのやろう」






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