第19話 猫?
「なかなかにグッときたわよ? さっきのあれ」
ソファーで寝っ転がりながら本を読んでいると、マグカップに熱湯をとぽとぽ注いでいた癒月が機嫌良さそうに言った。僕はページに栞を挟んでソファーに置き、そのにこにこ顔に噛みついてみる。
「変態だな。もしかして見られて興奮するタイプか?」
「そうだったらどうするの? 襲ってみる?」
まだ濡れている髪を撫でつけて挑発するように癒月は笑う。バスタオルから着替えさせた紫苑色のパジャマと相まって凄絶な色気を発しているが、流石にもう動揺はしない。
「そういうのは肌色に慣れてから言ってみろ」
「……仕方ないじゃない。あんなに……いえ、なんでもないわ」
癒月はほんのり頬を染めて顔を背けた。というのも、さっき僕が風呂から上がった時から変に挙動不審になっているのだ。しっかりパジャマの前は閉じてるし、男の肌くらい中学のプールで嫌というほど見ただろうに……と、実際に言ってみたのだが曖昧にぼかされた。よく分からん。
癒月はマグカップ二つを持って僕の隣にやってきて、こぶし二つ分くらいの距離をとって座った。ついでに片方のマグカップを差し出してくる。
「ほら、どうぞ」
「なんか投げやりな気がするけどありがとう」
やり返されたのが気に食わなかったのか? なんて思っていると、癒月はぺしっと僕の腕を軽く叩いて、向こうのテーブルをあごでしゃくる。
「そこのドライヤーを持ってきなさい。労働には対価が必要よ」
「ココア入れるのが労働ですか……」
「早く」
渋々取りに行くと、癒月は何故か立って待っていた。ソファーを指差しているので大人しく従者のように腰掛ける。瞬間、癒月が猫のように膝に飛び乗ってきた。
「……重いんだけど」
目の前の良い匂いのするカーテンにボソッと告げると、ギュッと太ももの肉をつねられた。
「いたいいたいいたい」
「生意気なこと言うからよ」
「事実を言っただけ——ごめんなさ痛い!!」
「謝るときは「ごめんなさい」よ?」
「ごめんなさい癒月様」
「態度で示しなさい」
「何なりとお申し付けを……」
癒月はふふんと勝ち誇り、ドライヤーを持った僕の右手を掴んで持ち上げる。それから左手も持ち上げて、自分の頭にとすんと乗せた。側から見ればドライヤーを構えた男が「この女がどうなっても良いのか!?」と言っているようにも見える。
「……で、どうすれば?」
聞くと、癒月はもぞもぞと膝の上で体を動かしながら答える。くすぐったい。
「髪を乾かしなさい。乱暴にしたら罰を追加するから」
「えぇ……」
この長い髪をダメージ与えないように乾かすとか、もう何かのミッションだろこれ。
「ぶつくさ言わないの。私は毎日してるのよ?」
「わかりましたよ……ていっても、優しくできる自信はないぞ?」
「そういうのはベッドの上で言って欲しいわね」
「また下ネタに走る……」
「勝手にそう思い込んでるだけでしょ……あ、ここが良いわね」
さっきからもぞもぞ動いていたのはピッタリ収まる位置を探すためだったらしい。
満足したのか、膝小僧をぽんぽん叩いて早く始めろと急かしてくるので、仕方なくドライヤーのスイッチをオンにした。モーターの音と共に熱風が飛び出してくる。
「……まずは根本からで合ってるか?」
「そう。その後はわかる?」
「一応は」
「……ムカつくわね」
「なんでだよ!?」
癒月はむすっと黙っているので、とりあえずドライヤーを小刻みに揺らしながら、いつも以上に慎重に乾かしていく。髪はタンパク質の塊だから、あまり一箇所に当てすぎると熱ですぐに傷んでしまうのだ。
しばらく乾かしていると、ころっと機嫌を直した癒月がふんふん頷いて指示してくる。
「……そうそう。ある程度乾いたら次は下。優しくね」
「はいはい」
ぬばたまの髪を優しく一房掴み、これまた揺らしながら上から下へと熱風を当てていく。というかここ、めちゃくちゃ時間かかるだろうな……
ぶおんぶおんと気を張りながらドライヤーをかけていると、癒月が乾いた髪をいじりながら何となしに呟く。
「こうやって髪を乾かしてもらうのも、もしかしたらはじめてかもしれないわね……」
ここからでは見えないが、なんとなく彼女が時折見せる寂しそうな横顔を思い出した。掌に思わず力が入りそうになるが、髪を傷つけたらいけないと鋼の意思で押し留める。
「……いなかった訳じゃないだろ? 乾かしてくれる人」
言ってすぐに後悔した。そんな単純なことを話しているわけでは無いのだ。
癒月はごく僅かに、頭に触れていないと分からないほどに俯いて続ける。
「いたけど、ね。今のあなたみたいに、暖かい手で乾かしてくれる人がいたかどうかは怪しかったわ」
「あくまでも仕事ってことか」
「そうね」
それっきりで一度会話は途切れた。僕はドライヤーの設定をCOOLに切り替えて、あらかた乾いた髪を冷ましながら仕上げていく。
最後に前髪を乾かす時、左手を頭の上に乗せてみると、彼女は自然と後ろに体を傾けた。そのままぽすりと胸に収まる。そのことについて癒月は何も言わず、僕も何も言わなかった。
しばらく撫でるように前髪を乾かしていると、癒月がまた呟くように言う。
「……絢斗」
「ん?」
わざと軽い感じに返すと、癒月は寄りかかったまま上を向く。揺らめく琥珀の瞳と目が合った。
「ごめんね、こんなことさせて。昔のことなんか思い出させて。今日は絢斗を休ませないといけないのに」
「…………」
ドライヤーの電源を切って傍に置く。太古の昔に宝石となったようなその瞳をじっと見つめ返し—————両の人差し指で脇腹を突っついた。
「辛気臭い」
「はにゃっ!?」
身を捩って飛び退る癒月。びっくりして力が抜けたのか、ぺたんと床にへたり込んで真っ赤になっている。
「くすぐられて興奮するタイプの変態……?」
ちょっと挑発してみると、耳まで赤くして噛み付いてきた。
「興奮してないわよ!」
「でも顔は真っ赤」
「うるさいわね!」
「否定しないんだ。癒月ちゃんかっわいぃ」
「〜〜っ! もう!」
癒月は癇癪を起こした駄々っ子のように床を叩く。さっきから口角が上がりそうになるのを必死に抑えていたのが、その反応で遂に我慢できなくなった。ぶはっと吹き出したは良いものの、次の瞬間張り手のような衝撃がやってきて視界が塞がれる。慌てて引っ剥がしてみるとうちに置いてあるクッションが。そして前方には次を投げる体制に入った癒月がいた。
「ちょっとタンマ——ぶへっ」
ど真ん中のストレート。向こうは国際戦時法を無視してくるつもりらしい。
「……ってえな」
またまたひっぺがすと、癒月はにやり、と笑いながら最後のクッションを振りかぶってきた。
「ごめんなさいは?」
「ごめんなさい」
「もう二度と?」
「……するかも? あ、いえ! もうしません!」
ジョークを混ぜたつもりだったのだが、向こうはガチで殺る気だった。
「………もししたら?」
「えーと……」
言葉に詰まる僕に、癒月はにっこりと笑いかける。因みに目は全く笑っていない。
「そう言う時は、「なんでも言うことを聞きます」でしょう?」
「なんでも言うことを聞きます」
「よろしい」
それで癒月はクッションを下ろしてくれた。ほっと胸を撫で下ろしていると、彼女がこちらをじっと見ているのに気がつく。
「……なんでしょうか」
びくびく蛇に睨まれた蛙のように怯えていると、癒月はふいっと顔を逸らして言った。
「……別に」
「そ、そうか」
「…………」
「…………猫?」
つい思った事を口に出すと、最後のクッションで思いっきりぶん殴られた。
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