第16話 過去③ 下

 それからまた三日が経った。僕は相変わらず食事と本を運んでいる。葵が「これからもよろしく」と言っているということは、僕が来ることを拒んでいないということだと好意的に解釈した。

 トレーをドアの前に置き、本を回収する。あの日以降、メモのようなものは残っていなかった。


 新しい本を置こうとしゃがむと、ドアからコンコン、という音がする。

 なんだろうと思って耳を近づけてみると、ドアの向こうからくぐもった女の子の声がした。


「絢斗……?」

「うお、葵か。……なんだ?」

「ううん……ただ、絢斗なのかな、って」

「……そうだよ。僕だよ」

「そ、そっか……」


 お互い、口を聞かなくなって三ヶ月が経とうとしている。葵の声を忘れかけていたが、ようやく思い出した。結構可愛い声だが、同時に聴いていて落ち着く声だ。


「……なんか、久しぶりだな」

「……そうだね」

「………」

「………」


 そこで僕は、葵が大きく息を吸っていることに気がついた。深呼吸をしているのだろう。葵にとっては、人と話すというのが久しぶりなのだ。

 僕がじっと待っていると、葵はゆっくりと話し出した。


「あのさ……本がさ……」

「本? 何か欲しい本があるのか?」

「ちが……そうじゃなくて、本のか、感想を……」

「……ああ。もちろんいいよ」


 恐らく、身近な話題を出しにくいのだろう。そう考えると本を用意しておいたのは正解だったのかもしれない。


「それでさ……」

「うん」

「最初は、このペンギン・ハイウェイっていう本なんだけど……」

「ああ。森見登美彦の」

「うん。それでね……」


 葵がどこが良かったか、どこに感動させられたのかを辿々しく述べて行く。僕もこの本は大好きだったので、葵の話に色々共感したり、共感しなかったりする所があった。そこを返答に混ぜて、葵が喋り易い雰囲気を作っていく。コミュニケーションの基本は、会話が相手との来賓用のキャッチボールだと認識すること。つまり、相手が答え易い質問や相槌を打っていくことだと何かの本に書いてあった。


 しばらく葵とドア越しに話していると、あっという間に時間は過ぎていた。持ってきていた夕食はすっかり冷め切っている。


「……なあ、葵」

「なに?」


 思い切って言ってみた。


「ここで、一緒にご飯食べてもいい?」

「え……」


 葵は明らかに戸惑っている。僕は理由も付け加えて説得しようとした。


「ほら、まだ夕飯食べてないだろ? それに、本の感想もまだ言い終わってないし。あと、葵と一緒に食べたい……じゃだめか?」

「………」


 葵はしばらく黙り込んでいた。僕はそれを拒絶とみなし、腰を上げる。


「……嫌なら大丈夫。また明日ちゃんと来るから。だから--」

「待って。食べる。一緒に食べる」

「……そっか。ありがとう。おばさんにお願いしてくるよ」


 トレーを持って階段を降りようとしたのだが、またしても呼び止められた。


「どうした?」

「ば、晩御飯……そこにあるんでしょ? ちゃんと食べるから、温めてってママに頼んで」

「え、でも」

「いいの。食べるの」

「……分かった。ちゃんと頼んどくよ、おばさ……ママにな」


 ドン! と音がしたので慌てて階下に逃げた。



 おばさんに葵と会話したことを話すと、またしても泣きそうなほど喜んでいた。


「絢斗くん……本当にありがとうね」

「いえ、僕じゃなくて葵ですよ……あと、毎回抱きしめるのやめてもらってもいいですか?」

「いいじゃない。葵を抱きしめられないんだから」

「子供を抱き枕扱いしないでください……」


 しばらくすると、おばさんはようやく手を離してくれた。僕は置いてあったトレーを持って、おばさんに渡す。途端おばさんは心配そうな顔をした。


「食べなかったの?」

「いえ、どうやら話に夢中だったみたいで。食べるのも忘れてたようです」

「あらあら。じゃあ、絢斗くんの分も作る?」

「はい。……あ、でも一人分でお願いします。葵に、どうしてもそのご飯が食べたいから温め直してくれと頼まれました」

「…………」


 おばさんはじっとそのトレーを見た後、ぽろと涙を流した。正真正銘の嬉し泣きだった。

 おばさんはしばらくハンカチで目元を拭っていたが、突然またしても僕を抱きしめる。


「ちょ、おばさん……」

「もう。本当に感謝しても仕切れないわ……こんな事、普通に暮らしていてもあり得ないことよ」

「いえ、ですからお礼なら葵に……」


 反論しようとすると、腕の力を強められた。ぐえと声が漏れる。


「違うのよ。その成果を出したのは、紛れもなく絢斗くんよ。だから大人しくしてなさい」

「し、しますから……だから、ぎぶ。ぎぶぎぶ」

「え? ……ああ。ごめんなさいね」

「力の加減を知ってください……」


 久しぶりに、空気が美味しいとしみじみ感じた瞬間だった。



 おばさんはすぐに葵と同じメニューで晩御飯を作ってくれた。親には既に連絡してあるので、そこは心配ない。

 三十分ほど待つと、温かなご飯がよそわれた鳥の唐揚げがトレーに乗って運ばれてきた。お礼を言って受け取り、先に葵の分を持って上がる。自分の分をとって戻ると、もう既にトレーは消えていた。


「あー……葵?」


 ノックしながら問いかけるが、返事は聞こえない。


「……葵?」


 しばらく待っていると、ギイと何かが軋む音がした。そして、驚くべき事にゆっくりとドアが開いていく。唖然としながら見ていると、ドアは半開きで固定された。部屋には電気は付いておらず、ここからは暗闇しか見えない。奥から聞き慣れた声がした。


「……入って」

「あ、うん」


 味噌汁をこぼさないように慎重に入ると、ふわりと甘い匂いに包まれる。葵の部屋の匂いだ。

 薄暗い部屋の中は、廊下の明かりと、遮光カーテンから漏れてくる月光で辛うじて見ることができるくらいだ。その中で、パジャマ姿の葵がぼんやりと佇んでいた。


「……そこに置いて」

「分かった」


 ちゃぶ台の上にトレーを置いて、葵の対面に胡座をかく。葵も同じように緩んだ姿勢で座った。


「…………」

「…………」


 無言の時間を切り裂いたのは、葵の箸を取る軽い音だった。


「……食べよう」

「ああ、うん。いただきます」

「いただきます」


 そうして僕らは夕食を食べ始めた。

 最初は無言でなんともいえない雰囲気だったが、ポツポツと会話が生まれ始めるとそれも消える。お互い食べ終わる頃にはある程度緊張は解けていた。





× × × ×






「じゃあ、また明日来ます。夕飯おいしかったです。ご馳走様でした」

「はい。またね、絢斗くん」

「はい」


 扉が閉まるのをみて、ふぅとため息が出た。



 あの後、僕らは辺り感触のない会話をしながら夕飯を食べ終わった。なんとも言えない雰囲気が漂う中、葵はベッドに、僕は座布団に座っている。葵はそこで口を開いた。


「……あの、さ」

「ん?」


 しかし、それで葵は俯いてしまう。急かさないように、焦らせないように僕はじっと辛抱する。

 何度か躊躇いがちに口を開け閉めした後、葵は窓の隙間風のようなか細い声で言った。


「その……アヤトは……怒ってる?」


 僕はじっと葵を見つめて、表情に浮かぶ怯えからそれが本心からの問いだと言うことを理解した。だけれども、どうして葵がそんなことを言うのか分からない。


「……なんで、僕が怒ってるなんて思うの?」


 聞くと、葵はビクリと肩を振るわせる。まるで試験材料にされる事を知ったモルモットのようだったが、返事はしてくれるみたいだった。


「その……」

「うん」

「私がさ……」

「葵が?」

「もう話しかけるなとか、大っ嫌いとか言ったから……」

「…………」


 僕の頭の中で、二ヶ月半前のあの事が蘇る。そして今の葵の状態をそれと重ねて、まさか、と思う。


「葵」


 俯いていた葵が顔を上げた。最近ようやく素直に可愛いと思えるようになった彼女の顔には、不安と怯えの影がありありと映っている。

 怖がらせないように。ガラス細工を取り扱うように。少なくともそんな気持ちでゆっくりと僕は言った。しかし。


「……ぁ」


 葵はそれだけ言って、捕食者に睨まれた小鹿のように縮こまってしまう。何故だと僕は考えるものの、答えはすぐに出た。葵と僕には二ヶ月半の隔たりがあるのだ。


 その長い過程でどれほど僕が過去の行いを悔い改めていたとしても、葵には知る由もない。つまり今の葵にとって僕は、これまでの自己中クソ野郎と何の変わりもない勘違い男なのだ。


 また大ポカをやらかしてしまう所だった。先にやる事があるだろうに。


「葵」


 もう一度そう言って、崩していた足を改め、姿勢を正して両膝をくっつけた。俗に言う正座の姿勢だ。詳しくは調べていないので分からないが、まずは謝罪を示し、それを葵が受け取ってくれなければ、そもそも僕は会話のステージにすら立っていない。

 地面に両手をついて、思い切り頭を下げた。


「ごめんなさい!」

「え、え?」


 何やらおろおろしている雰囲気が伝わってくるが、構わない。どう考えても全部僕が悪いのだ。


「僕のやった事、全部葵を傷つけてたと思う。いや、絶対に傷つけてた」

「ちょ、アヤト!?」

「だからごめん! 謝っても許されないと思うけど、本当に反省して--」

「待った!!」


 顔を上げると、複雑そうな顔の葵が困惑気味に両手を前に突き出している。はてなと首を傾げると、葵はすうと息を吸い込んだ。


「アヤト。何を思ってるのかどうかは知らないけど、多分勘違いしてる」

「……勘違い?」


 いや、僕がやった事のせいで葵を傷つけて、それで……


 そう考えていると、葵が首を横に振った。


「だから、アヤトが言ったことは私は別に気にしてないってこと。だっていつものことだもん」

「……でも、あんなに怒ってたし……」

「あれはお母さんとその日喧嘩して……それで……」


 僕は頭を抱えた。一体どうなってるんだ。


「……じゃあ葵は、僕のことが嫌いになったわけじゃないのか?」


 思い切って一番根本のところを聞いてみたが、葵は何を当たり前のことをと言った様子で答える。


「嫌いなわけないでしょ。幼馴染だよ?」

「そ、そっか……」

「そ、それよりも……」


 葵はおどおどした様子に戻る。僕は先回りして、予想したことを言ってみた。


「えっと……葵が嫌いだったら、今僕はここにいないと思うけど……」


 葵は顔を輝かせた。


「ほんと!?」

「え、うん。何を当たり前のことをって言いたいんだけど」

「よかったぁっ……」


 ぺたんとベッドにへたりこんで、大きく息を吐いている。そんなに心配することだったろうか。けれど、一件落着したなら葵も部屋から出る気になるかもしれない。そんな願望と無意識の自己肯定で僕は尋ねた。


「じ、じゃあ、葵もやっと外に出て来られるんだよね?」


 しかし、葵は首を横に振る。


「……それは、多分無理だよ」

「なんで……」

「無理なものは無理なの。我儘だって思われちゃうかもしれないけど、学校に行くのだけはいやだ」

「………そっか」



 今思い出せば、僕はこの時人生最大の大ポカをやらかしたのだろうと思う。


 その頃ようやく手に入れた理性とやら。その性能を信じきって葵の状況を再認識した結果、僕はとんでもない仮説に行き着いた。即ち、誰かが葵に危害を加えているという仮説に。


 僕はその時自分を信じ切ってしまった。自分の考えで葵の心を解かして、結果円満に仲直りができたのだと。……バカか。それは周りの人達が色々と世話を焼いてくれたから実現できたものなのだ。決して、僕自身の力ではない。

 それでも、僕の心の底の部分はその仮説を疑うことを知らなかった。


「葵、もしかして学校で嫌なこととか、誰かにいじめられたとか、そう言う事があったのか?」

「ち、ちが……そ、そんなことあるわけ…………っ!」


 突然、葵は膝に頭をうずめて泣き出した。何をしていいか分からずオロオロとしている僕は、とりあえず昔やったように葵の頭を撫でる。しかし一層葵は声を大にして泣くので、僕にはどうしようもなかった。

 ……そう。この事は僕にはどうしようもなかったのだ。



 葵をどうにか宥めすかした後、僕は詳しく事情を聞いた。葵は言うのを渋っていたが、あまりにも僕の押しが強かったのだろう。全てを僕に打ち明けた。




 葵曰く、クラスの女子のグループでいじめが発生したという。標的は、最近グループに入ってきた葵。グループの女子の一部は、昔から葵を敵対視していたらしいので、そこに葵が何故入っていったのかというのは疑問が残るが、その時の葵は勇気を出して彼女達に自分をいじめる理由を正したらしい。


 しかし、彼女らはその話になった途端口を固く閉ざす。どんな方向から聞いてみようとしても、「気に入らない」の一言で済まされる始末。それでも引き下がらなかった葵に対する彼女達の行いは、更に憎悪に満ちたものに変わったらしい。

 結果、耐えられなくなった葵は学校から逃げ、今に到るという。



 ……その時の僕が何を思ったのかは、今の僕でも理解しかねる。憎悪だったのか、殺意だったのか。それとも、葵と仲直りをする機会をくれた事への感謝だったのか。


 いずれにしても、僕は行動せざるを得なかった。

 それまで父と一から積み重ねていた理性や客観視の技術は、完全に現実錯誤の道具として使われ、僕自身が感情に任せて暴れ回るに都合の良い理由を作り出した。


 そして、何もかも壊して回った僕に待っていたのは……


 そこまで考えた時、視界が暗転した。

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