第15話 過去③ 上
短い一週間が過ぎて、月曜日。
その日から、遂に葵は学校に来なくなった。
「ねえ、葵ちゃんは?」
「さあ? また休んでるんじゃない?」
「あー、またかぁ」
最初の内こそ、こんな小学生らしい残酷な会話が飛び交っていたが、三日もすれば止んでしまった。葵が学校に来ていないという事は、クラスの中では常識になっていった。
葵と断絶して、二ヶ月と二週間。僕はいつも通り担任からプリントを受け取っていた。幸い担任は不登校に理解のある人で、葵の件については何も言わなかった。ただ、僕に対してだけは毎回「頼むよ」とだけ言っていた。
今日も今日とて、葵の家の前に立つ。インターフォンを押す時はおばさん--葵のお母さんに追い返されないか心配だったが、今日も何とか入れてもらえた。しかし、その様子は以前とは一変していて、僕は半ば拉致される勢いで濱里家に迎えられる。リビングに通されると突然、土下座するかのような勢いでおばさんに頭を下げられた。
「お願い。一度でも良いから、葵と話をして。お願いよ」
よく見ると、おばさんの目は真っ赤だった。先程まで泣いていたのだろうか。とりあえずお母さんを近くのソファーに座らせて背中をさする。
「何があったんですか。まずは深呼吸して、落ち着いて話してください」
おばさんは何度も息を吸って吐いていたが、しばらくすると背中から強張りが抜ける。両手で顔を覆って、最後に大きくため息をついた。
「……ごめんね」
「いえ……」
何を言うべきか迷っていると、おばさんがこちらを向いて僕を見つめた。困惑して見つめ返していると、また彼女の目尻が湿っていくので、慌てて話を切り出す。
「あ、あの、葵と話して欲しいって……」
「……あ。そう、そうよね。ええ」
「ゆっくりで良いので」
これは不味いことになっていそうだと思っていた僕だったが、切れ切れに、途中泣きながらも語られた内容を聞いて衝撃を受けていた。
葵の二日前からの引きこもり。加えて、毎日夕飯と水以外一切何も口にしないという。何度もおばさんは呼びかけたようだが、曖昧な返事しか返ってこなかったそうだ。
「もう……あの人もドアを無理やり開けるしかないって……」
「あの人……お父さんですか?」
「……そうよ」
「そうですか……」
葵のお父さんは、控えめに言って優しい。とにかく葵に甘くて、僕の父と同じく家を空けることが多かった。そんな人が、娘の部屋のドアをこじ開けようとしている。それだけ不味い状況なのだろう。
それを受けて、僕は既にやる事を決めていた。
「おばさん。僕は一度家に帰るので……」
「待って! 葵がっ!」
片方が冷静さを忘れていると、もう片方は冷静になる、というのはこう言う状態を言うのだろう。
僕はまたおばさんを落ち着かせ、何をしようとしているのかちゃんと説明した。
「そう……わかった。準備しておくわ。絢斗くんは一度戻るって言ってたけど……ちゃんと帰ってくるのよね?」
「さっきも言いましたけど、ただの準備です。絶対に帰ってきますから」
僕はそう念押しして徒歩十秒の自宅に戻り、色々と引っ張り出してまた濱里家に戻ってきた。おばさんは今度は拉致ろうとはしなかったが、少なくとも落ち着きは無かった。台所を駆け回っていたからだ。
「おばさん。あとどのくらいですか」
「十分くらいよ」
おばさんに頼んだのは二人分の食事だ。成功するかは完全に葵の気まぐれだが、僕かおばさんのどちらか二人が葵の部屋に入れてもらい、一緒に食事を取ろうと思っている。引きこもっている人とのコミュニケーションの取り方がどんなものかは分からないが、僕だったらお腹が空いている状態で話したいとは思わない。
もう一つある。これも完全な僕の思い込みだが、葵の様子が別の意味でおかしくなったのは、僕と話さなくなった時からなのだ。だから、どうにかして二ヶ月半考え続けた僕の考えをぶつけてみる。聞いてもらえなくても、受け入れてもらえなくても良い。葵が出てきてくれるなら、僕は何だってするつもりだ。
と、そのつもりでやってきたのだが……
「帰って」
「葵。言いたい事が……」
「帰って!!」
「はい……」
無理だった。僕と、あとおばさんも。
だが、希望は残っていた。どんな時にも。僕が持ってきた手紙と二、三冊の本は食事と共に受け取って貰えたのだ。
葵の部屋がある二階から降りて、リビングで作戦会議を開く。
「とりあえず、最低目標は達成しました」
「そうね。食事だけでも嬉しかった」
ソファーに座って会議を開いている僕達だったが、突然おばさんは不思議そうに頬に手を当てた。
「でも、絢斗くんってこんなに策士……いえ、落ち着いた子……あ、ごめんさいね」
「大丈夫です。僕は今もクソガキのままですから」
「く、クソガキ……そ、そうなのね」
「はい」
自信を持って答えた。僕は今でも、多分これからも「クソ」がつくガキだ。自分中心にしか物事を考えられず、予測できる事態を予測できない。良く言えば考えない葦。悪く言えば無能。この二ヶ月半の間で、僕の中での自己評価は隼並みに急降下していた。代わりと言ってはなんだが、少しは慎重に物事を考えるようになっている。
引き気味のおばさんを置いてソファから立ち上がった。持ってきたトートバッグを肩にかけて、頭を下げる。
「じゃあ、これで失礼します。明日また来ますので」
「あ、待って、絢斗くん」
「はい、なんです--」
言いかけて頭を上げると、暖かいものに抱きしめらた。すぐにおばさんだと分かったが、訳が分からない。
「あ、あの……」
「ありがとう」
しかし、その言葉は一瞬にして僕の心の温度を奪った。頭から液体水素をぶっかけられたみたいに、芯の部分が凍っていく。
--僕にはその言葉をかけられる資格はない。
--そもそも、僕がこの騒動の元凶だ。
--だから、僕は糾弾されるべきで、罰を受けるべきなんだ。
そんな言葉が、頭の中を高速で飛び交う。自己評価が低過ぎた僕は、その下の黒々とした奈落まであと少しの所で踏みとどまっていた。
おばさんの肩をぽんぽんと叩いて、拘束を解く。彼女は言うことを言って満足したようで、僕の強張りには気がついていなかったらしい。破顔して笑っている。
「絢斗くんのお陰で、葵は私達と会話してくれたわ。声だけでも良かったの。本当にありがとう」
「いえ、そんな事は……」
そう言いかけると、おばさんは僕の肩をがっしと掴む。葵そっくりの目で、今度は真剣に僕を見つめながら言った。
「なにが葵との間であったかは知らないけど、絢斗くんだけが悪いと思わないことよ。あなたが自分を責め続けていることくらいわかるし、葵だってきっとそう。それを分かって、私は絢斗くんにお礼を言っているのよ」
「…………」
反論できなかった。というか、言葉が出なかった。完全に心を読まれていたのだ。
呆然としている僕を、おばさんは今度は違う意味で抱きしめる。保護者として。頼れる大人として。先の取り乱しぶりなど見る影も無い。
「……だから、今は子供らしく抱きしめられてなさい。小学生にしてはあなた、少し異常よ?」
「最近までは普通でしたよ……」
「そう。……まあ、葵みたいな子を持つと色々と分かるのよ。ほら、あの子歳の割に大人びてるでしょう? 絢斗くんがあの子に悪戯しても、あなたを叱るだけに済ませるくらいには」
「ですね。今だったら葵が姉みたいに見えます」
「それは別に良いけど、ちゃんと女の子としても見てあげてね? 絢斗くんもだと思うけど、あの子もお年頃だから」
「…………」
「……あらら。これはまだ早かったか」
おばさんは僕を放すと、ぽんぽんと頭を撫でた。流石にこの年で抱きしめられているのは恥ずかしいので、僕もパッと離れる。カラカラとおばさんは笑って僕を玄関まで送り出してくれた。
「……じゃあ、今度こそ。また明日来ます」
「はい、またいらっしゃい。待ってるわ」
家に帰ると、自分の部屋の窓からは見慣れた景色が覗く。そこにはブルーのカーテンがかかっていて、今までのように電気はついていなかった。
× × × ×
次の日から、僕は毎日プリントを届けると共に葵の家に上がるようになった。毎日おばさんが作る少し早い夕飯を持って上がり、葵に話しかけてドアの前に置く。そばにぽつんと積み重ねてある本は、葵がしっかりとそれを読んでいる証拠だ。新しい本を置いて、古い方を回収する。それから葵に話しかけて反応があれば帰り、反応がなくても帰る。
その日も新しい本を持ってきていたのだが、チャイムを鳴らした途端、おばさんに引き摺り込まれた。
「絢斗くん絢斗くんっ! こっち来て!」
「な、なんですか……」
おばさんに連れられて行くと、そこには目を覆いたくなるような光景が広がっていた。
「ほら! 葵がお風呂に入ったのよ! これも絢斗くんのお陰ね!」
「………」
……まあ、わかると思う。単刀直入に言うと、パンツとかブラジャーとか、そんなものが使われた当時のまま残っていた。意外に成長しているらしい。
手で一応視界を隠しながらおばさんに文句を垂れる。
「あのですね、葵は未知の生き物でもなんでも無いんです。男に見せたら多分葵も嫌ですよ」
「え、別に絢斗くんだからいいんじゃない?」
「いや、そこはダメって言ってください……」
刺激が強過ぎます。ええ。
僕はリビングに戻り、おばさんが戻ってくるまで姿勢を正して座っていた。
またそれから三日ほど経った。流石の僕も葵の部屋に行くのに慣れた頃で、今日もトレーに乗った夕飯を持って階段を上がっている。部屋の前に着くと、いつものように本が積み上げられていたのだが、その天辺にメモ用紙のようなものが乗っかっていた。そこにはこう書いてあった。
『絢斗、いつも本をありがとう。これからもよろしくお願いします。あと、ママにご飯おいしかったって言っておいてください。』
「まだママって呼んでるのか……」
思わず思った事が口に出たが、ドアがドン! と叫んだのでそそくさと退散した。言伝をおばさんに伝えると泣いて喜んでいた。
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