第7話 変輩
あの日から三日が過ぎた。葵と話さない日々は続いているが、それにも順応してきている僕である。今日も癒月と学校に行き、つまらない授業を受け、糸島と駄弁り、また放課後になった。
いつも通りの橙に包まれる部室の中、僕達は穏やかに本を読んでいる。時計の長針が半周ほどした所で、癒月がふと顔を上げた。僕も何となく悟る。
「……来たわね」
「……来たな」
アフリカバイソンの大行進のような地響きが響いてくる。もちろん比喩であるし、やって来ているのは恐らく一人だ。それでもこれだけの存在感。
ガラッ、と部室の前の扉が開き、奴が侵入する。
「たのもー!」
「…………」
「…………」
暗黙の了解で、僕達は無視を決め込むことにした。
「ありゃ? おっかしいなぁ……たのもー!」
「「………」」
侵入者は無視する僕らをムッとした目で見たあと、トコトコと側までやってきた。じっとページに目を落とす両名にキョロキョロと視線を行き来させたあと、そっと癒月の方へ近寄る。
そして、ハムっと耳を噛んだ。
「ひゃん! ちょっ! なにするんですかぁっ!」
「ふぁにって、ふぉいしふぉうふぁっふぁふぁら」
「あんっ……美味しくな--はあんっ! 舐めるなぁっ!」
眼前で繰り広げられる百合百合しい光景に激しいため息が出る。変態の如く癒月の耳に齧り付いている変態のブレザーを掴み、思いっきり引っ張り上げた。
「ぎゃっ……ぐぇっ……」
「カエルみたいな声ですね、未知瑠先輩」
「ガエルじゃない……おろじで……」
ぱっと手を離すと、ボテッとそれ--桜庭未知瑠は地面に落ちた。うぅ、と少し唸りながらこちらを恨めしそうに見上げる。
「何で止めたの」
「癒月が嫌がってたから」
「エロい声が聞けたのに?」
「別にエロくは無かったです」
「だってさ! 輝夜ちゃん!」
先輩は僕をビシッと指さしながら叫んだ。まるで僕が大罪を犯したみたいだな。
「あ、絢斗……その……え、えっちじゃ無かった?」
「君も便乗するな」
ペシっと叩くと、「あうっ」と言って大人しくなった。先輩の方をジロと睨むと、ニヤニヤとこれまたムカつく笑みを浮かべている。
「あり? ありありあり? やっぱりアヤトくん、輝夜ちゃんには優しいね?」
「友達ですから」
「え、その理屈で行くと私は友達じゃないってことになるんだけど……」
「いや、友達じゃないでしょ」
「はっ、じゃあまさか、私はアヤトくんの、あいじんってやつ?」
「ただの部活の先輩。あと生徒会長」
「……センパイちょっと後輩との距離を感じるぜ……」
誰のせいだ。誰の。
「……とにかく、もうすぐ部活も終わりますから帰ってください」
「えぇー、もっと輝夜ちゃんを味わいたいのにぃ……」
そう言ってちらと癒月の方に顔を向ける。悪寒を感じたのか、癒月がそろそろと僕の後ろに隠れ、ひょこっと顔だけ出した。
「やめてください。気持ち悪いだけです」
「悔しい……でも感じちゃう! とかじゃなくて?」
「何かは知りませんが、とりあえず全力で否定しておきます」
「えっとね、囚われのお--むぐぐっ!」
言わせないよ?
「しばらく黙っといてください。変輩」
「もうっ、仕方ない……じゃなくて、今何か変な呼び方しなかった?」
「気のせいですよ、変態」
「いや今言ったから! 絶対変態って言ったから!」
「事実を言って何が悪いんですか」
「……確かに」
いや納得するんかい。
「……とにかく」
僕は出口を指さした。
「もう出ますから、先輩は先に出ててください」
「はぁー……もうしょーがないなぁ。分かりましたよ出ますよじゃま者は退散しますよ」
そう言ってトコトコと教室を出て行った。
「……さて」
後ろを振り向く。癒月はまだ僕の服を掴んだまま、警戒した猫のように出口をキッと睨みつけていた。
「ほら、帰るぞ癒月」
促したが、どうした訳か動こうとしない。
「……癒月?」
顔を覗き込むと、癒月はそっぽを向きながらボソボソと何事か呟いた。
「……腰」
「腰がどうした?」
「抜けたの」
「は?」
「だからっ!」
癒月はキッとこちらを睨みつけた後、みるみる頬を紅潮させながら怒鳴った。
「腰が抜けちゃったの! さっきの先輩ので!」
「…………」
スッと視線を逸らす。そんな事を真っ赤な顔で言われても困るんだが。
「何よ?」
「いや、別に?」
明後日の方向を向いていると、ぐいと服の裾が引っ張られる。目線を戻すと、癒月がふらふらと立ち上がるところだった。
「ちょっ、大丈夫か?」
「……平気よ」
しばらく僕の袖を掴んで微かに息を吐いていた癒月だったが、ふと顔を上げる。必然、そちらを見ていた僕と目が合う。
「…………」
「…………」
少し上気した薄桃色の頬。何かを求めるかのような光を帯びる蜂蜜色の瞳。キュッと引き結ばれた桜色の唇。
「…………」
「…………」
刹那の停滞の後、先に目を逸らしたのは僕だった。やんわりと袖を引いて促す。
「ほら、行くぞ」
「……もう」
いつもならプラスアルファ何か言ってくるはずなのだが、癒月はさっと俯いてカバンの用意をはじめた。いつもとは違う様子に、なんだか調子が狂わされる。
二人並んで廊下に出ると、未知瑠先輩に少し怪訝な顔をされた。
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