第5話「好きよ」
チャイムが鳴って、四限の現代文の授業が終わった。これから昼休みということで、教室全体が一気に弛緩する。
僕はといえば、一切書き込んでいない現文のノートを引き出しにしまい、カバンから財布とスマホを取り出した。昼ご飯を購買で買わなければならないのだ。
教室を出て一階の食堂の方に行くと、授業が終わってすぐだからなのか、購買は空いていた。
そこで卵サンドイッチとピザパンを買い、ついでに野菜ジュースも買う。普段めちゃくちゃな食生活をしているので、取れるところでビタミンは取っておいた方が良いのだ。
財布をポケットにしまいながら、特別棟の方に向かう。幸か不幸か、僕たちが所属している部の部室はそっちにある。歩くのは面倒くさいが、この社会の縮図の中で安らぎの地があるのはありがたいことだ。
王の字を横にした配置で建てられている校舎を二つ通り過ぎ、一番端の古ぼけた校舎にやってきた。
趣を出すため、とかいう理由で木造で作られたこの棟は、冬は隙間風が入り込んで大変寒い。中に入って階段を登る。教室から食堂、そしてこの特別棟までのルートは、上がったり下がったりで最初は足が疲れていたのだが、一年たった今ではすっかり慣れてしまった。
古びた校舎の四階。そこで僕たちの部活--文芸研究部は活動している。たった三人だけの小さな部活だが、運動系の部活にも、文化系の部活にも入るのが億劫だった僕を拾ってくれた、恩人のような存在だ。
「文研部」と書かれた貼り紙が貼ってある扉の前に立つ。中から人の気配はしないが、多分彼女は来ている。建て付けが悪くなって軋む扉を開け、中に入った。
何度も来ているのだが、いまだにこの部屋は不思議な空間だと思う。ヴィンテージな木造の内装や、天井からぶら下がる洒落た白熱灯が素晴らしいというだけではない。この部屋自体に不思議な魅力があるのだ。あえて言語化するというのならば、窓から差し込む柔らかい日光や、それを浴びて舞う金色の埃、絶妙な配置で積み上げられた本などが調和して作り出される秘密の部屋、といったところか。
その部屋の窓際。温かな日差しが差し込み、まるで春が祝福しているかのような場所に、一人の少女が座っている。
文庫本を読んでいるだけでも様になる彼女は、もちろん我らが知るところの輝夜癒月だ。癒月は読書に夢中のようで、入ってきた僕に気が付いた様子はない。……ふりをしているだけか。
声をかけたいが、読書の邪魔をするのは憚られる。そう思い、僕は彼女のすぐ隣の椅子を引いて腰掛けた。やっぱり気が付いていたらしい癒月が顔を上げ、「やっと来たわね」と不満そうに言うので、こちらも不満そうな顔を作ってやった。
「購買からここは結構距離があるんだ。行って帰ってくるのは大変なんだよ」
癒月は眉をひそめて言う。
「そんな不健康な食事に無駄なエネルギーを使う必要性を感じないわ」
「そこまで言うなら、解決策を提示してくれよ?」
「私があなたのお弁当を作ってくる」
「却下」
即答されてムカついたようで、癒月はブスッとした顔で僕を睨んだ。そんな顔されても無理なものは無理である。一週間に二度も夕飯を作りに来てもらってるのに、それに加えて昼ごはんまで作ってもらうなんて。人件費に迷惑料を足して払ってもいいレベルだ。悪く思うな。
話題を変える意味も兼ねて、購買で買ってきたパン達を机に置く。
癒月はそれを見てフンと鼻を鳴らした後、相変わらず見事な手作り弁当を出してきた。卵焼きにタコさんウィンナー、唐揚げなどが見えるが、テンプレートなものは大体網羅していそうだ。
「どう? 私の方が美味しそうでしょう?」
「当たり前だろ。何回僕が君の料理を食べたと思ってる」
「……それもそうね」
癒月が一人で納得して弁当を食べるのを横目で見ながら、僕も卵パンの袋を破き、かぶりつく。添加物たっぷりの加工食品だが、これはこれで癖になる旨さがあるのだ。
夢中になって食べていると、横から何かが差し入れられた。
「食べる?」
見てみると、弁当箱の蓋の上にアスパラのベーコン巻きが二つほど。ピンクと緑の対色がなんとも食欲をそそる。
「食べないの? なら……」
「いえいただきます」
速攻で引っ込めようとした癒月の手をがっちり掴み、指で摘んでひょいと口に入れる。うん、うまい。そして--
「お行儀悪い」
……おっしゃる通り。
「悪かった。次からは箸を持ってくるよ」
「そんな手間いらないのに」
「じゃあなに、その箸で『あーん』でもしてくれるのか?」
「あら、もしかしてして欲しかったの? 今からでもやってあげるわよ?」
「冗談だ」
全く緊張しないこともないが、間接キス如きで騒いでいたら毎日がもたない。それくらい癒月は僕の生活に入り込んでいる。こちらが男性であちらが女性、ということもちろん意識しているが、初恋を拗らせていた僕としては、癒月を恋愛対象として見たことはほとんどない。
その後、追加で差し入れられたウィンナーを貰い、ピザパンを平らげた後、ドロリとした野菜ジュースを飲んだ。紙パックが音を立てて空になったところで、こちらの方から話を切り出す。
「そういえば、話があるって言ってなかったか?」
「…………」
癒月はしばらく口を動かして咀嚼した後、カバンから水筒を取り出した。持ってきていたらしい紙コップを二つ取り出し、中身を注ぐ。
「紅茶よ」
片方のコップを差し出してきたので、ありがたく礼を言って受け取った。魔法瓶に入れてあったのか、湯気は立てていないもののまだ暖かい。お互い無言で紅茶を啜る時間が続く。
「その……」
コップの中身が半分ほどになったところで、癒月が沈黙を裂いた。一応、僕は彼女が言いたいことはわかっているつもりなので、黙って続きを促す。
「その、今はいつも通りに見えるけれど……大丈夫? 朝、少し様子がおかしかったから」
「……ああ、多分大丈夫だ」
しかしながら、彼女に見抜かれないとは流石に思っていない。実際に癒月は厳しい表情をした。
「……あのね、普通ああいうことがあった後って、人は弱るものなのよ」
「自分の心の状態くらい分かってるよ。それも踏まえて言ってるんだ」
「分かってないでしょう」
「分かってるさ」
「嘘」
「本当だって」
「ふーん……そう。理由は知らないけど、そう言う態度をとるのね」
癒月はそう呟いた後、箸でミートボールを突く。かなり力を込めていたのか、ボールは真っ二つに割れていた。背筋をゾクリと寒いものが流れ落ち、思わず姿勢を正す。
「……ねえ」
「……なにかな?」
割れたミートボールを摘み上げ、断面をしげしげと眺めながら癒月は言う。
「一つ提案があるのだけど」
「……聞こう」
癒月はしばらくもったいぶった後、肉塊をこちらに差し出した。
「突然思いついたのだけど……今日、あなたの家の掃除をしようと思うの。もちろん、ベッドの下の収納の中もね」
あ、これバレてるわ。
「……遠慮しとく」
「ダメよ。前にも言ったでしょう。あなたの生活はわたしが矯正するって」
「聞き覚えがないな。残念ながら」
「あら残念。あれだけ愛情のこもった言葉をかけてあげたのに聞いてなかったの?」
「ああ、まったく聞いてなかったよ。耳垢でも詰まってたのかな?」
「それなら私に言えば良いのに。耳掃除くらいしてあげるわよ。膝枕のサービス付きでね」
「遠慮しとく。脳髄を突き刺されそうだ」
「ふふふふふ」
「はははは」
「……………」
「……………」
至近距離で乾いた笑いを放ち合い、そこから突如としての沈黙。こうなった癒月とお話をするのはとてつもなく面倒だし、僕としては恐怖しかないが、あちらはさぞお楽しみらしい。
「ねえ綾人」
「なんだ、癒月」
癒月は、あたかも今日の晩御飯のおかずについて話すかのように、ごく自然とそれを言った。
「好きよ」
「…………」
思わず引き攣りそうになる顔を抑え、自然な笑顔でにこやかに返す。
「そうだな、僕も癒月が好きだよ。友達としてね」
「そう、残念。今がチャンスだと思ったのだけど」
「チャンスの意味を辞書で引いたほうがいいと思うぞ」
そう。こうなった癒月は本当にめんどくさい。過去の話を持ち出してきては、やれ責任を取れだの、やれ傷物にされただのと宣ってくる。一日経ったばかりの傷心中の僕に、今みたいに突然あんな事を言うのだけはよしてほしいものだ。
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