第4話 翌日
次の日の朝。僕はけたたましいアラームに叩き起こされた。眠い目を擦りながら確認すると、時刻は七時。そろそろ準備を始めなければ学校に遅刻してしまう時間だ。昨日の疲れが残る体を鞭打って、洗面所で顔を洗い始める。
冷水でさっぱりと目を覚ました後は、トーストとコーヒーだけの簡単な朝食を食べて歯を磨き、制服に着替えた。ルーティーン化した動作には一切の無駄がない。
「行ってきます」
ドアの鍵を回し、カバンを背負い直して出発する。一人暮らしを始めてから既に一年と少し。戸締りくらいなら当たり前にできるようになっている。
カバンに鍵をしまい、代わりにポケットからスマホを取り出した。メッセージアプリを起動して、一言だけメッセージを送る。
『準備できた』
数秒で既読マークが付き、返信が送られてくる。相手はもちろん癒月。一つ上の階に住んでいるのだ。
『了解。下で待ってて』
それにスタンプ一つで返事をして、エレベーターに乗って一階まで降りる。エントランスで待つことにしよう。このマンションは設備が整っている上、家賃も安いのだから素晴らしい。
スマホをいじりながら、エントランスのソファーに座って待つこと五分。制服に身を包んだ癒月がやってきた。
「おはよう綾人」
「おはよ、癒月」
お互い短い挨拶をして、適当に雑談しながらマンションを出た。
桜は散り、おおかたが葉桜になってしまった並木通。梢の間からシャワーのように降り注ぐ日光を浴びながら、僕たちは通学路を並んで歩いている。
途中、運悪く赤信号に捕まってしまった。乗用車やトラック、そして学生達が行き交う交差点は僕にとってあまり現実的でなく、まるで透明なレンズを一枚挟んでいるかのように、なんとなくぼんやりしている。
頭では昨日の出来事が、まるで映画のコマの切り抜きのように何度も繰り返されていた。そのせいか、癒月が僕の脇を小突くまで、信号が青になったことに気がつかなかった。
学校近くまで来ると、ぼちぼち同じ制服を着ている学生が目立つようになってくる。それでも登校時間のピークより少し早めに来ているので、数はそう多くない。僕は無意識に前を歩く女子生徒の後ろ姿を確認し、安堵するというようなことを繰り返していた。
ショートカットの、幼馴染の後ろ姿に似た背格好をしている女子を見つめていることしばし。突然癒月が話を振ってくる。
「いつもより多いわね。人が」
「……そう?」
そういえばそうかもしれない、と他人事のように思った。四月だし、新入生がいるのだろうか。
古びた交番の前を通り過ぎ、学校へと続く坂道に差し掛かる。なだらかなアスファルトの上には、踏み鳴らされた花びら達が汚く散っていた。薄汚れたピンクの絨毯を歩きながら、やはり昨日のことを考える。
次に気がつくと、僕は下駄箱にいた。どうやらオート操縦でここまでやって来たらしい。癒月が上履きに履き替えているのを見て、慌てて靴を脱ぐ。
靴を履き替えている間、こめかみ辺りに癒月の視線を感じていたが、知らぬふりをした。並んで階段を登り、教室の前にたどり着く。
「じゃあ、また昼休みに。話があるから、少し早めにきて」
「え? ああ」
なんでもないように言った後、癒月は二つ先の教室に入っていく。ドアが閉まるまでその後ろ姿を見つめていた僕だったが、気を取り直して目の前のドアを開けた。
談笑していたクラスメイト達の視線が一瞬こちらに集まり、すぐに何事もなかったかのように元に戻る。いつもの反応。僕のクラスでの存在感などこんなものだ。
窓際の席にカバンを置き、椅子をひいて腰掛ける。芝居がかったような声が聞こえた。
「おお、那珂川じゃないか」
声の出どころに目をやると、少しボサついた茶髪の男子生徒が。椅子の背もたれを跨ぐように座り、ゆったりとこちらを観察するように眺めている。
「おはよう、糸島」
僕が挨拶を返すと、糸島--糸島直哉は肩をすくめて笑った。
「今日もかぐや姫と登校か? 男としては羨ましい限りだな」
「たしかに癒月は美人だけど、そんなに羨ましいことじゃないと思うよ」
「んなこたない。……ほら、あそこ。教室の端っこを見てみろよ。アレを見てまだそんな口がきけるか?」
僕がそちらに目をやると、こちらを睨みつけている双眼と目が合った。
無造作感を出したような髪型に、少しだけ制服を着崩した小洒落た格好。確か名前は水城? だったような気がする。
向こうも僕と目が合ったことに気がついたようで、少し驚いたように目を見開いた後、スッと視線を外した。
糸島がおどけたように言う。
「おお、こわ。陰で嫉妬に塗れる相手とは敵対したくはないな」
「されてる奴の前で言うセリフじゃないけどな」
そう言って僕はため息をつく。あの水城とかいう奴も少しは気にした方がいいが、一番用心しなければならないのはこの男だろう。
糸島は噂好きな上、人の反応を見て喜ぶフシがある。人間観察が趣味のような奴とは、深い関係にならない方がお互いのためだ。
「それはいいとして那珂川」
「別に良くはないが、なんだ糸島」
「……お前、濱里さんと何かあったのか?」
思わず息を呑みそうになった。どうしてこの男はこんなに人の変化に機敏なのか。
「……なんでそんなことを聞く?」
焦りを表情に出さないように最大限の注意を払いながら、僕は訝しむように聞く。
すると、糸島はさっきとは逆の端っこ--教室の前の方に目をやった。
つられて目を走らせると、先程まではいなかったはずの、談笑する葵が。かなりこちらを気にしていたようで、一瞬だけ目線が絡み合う。糸島はあの葵の様子を見て何か感じたのだろう。
僕は昨日の出来事が蘇ってくる前に、即座に葵から目線を逸らした。そのまま自然に糸島の方を向き、肩をすくめてみせる。
「……ちょっとな。昨日ケンカしたんだよ」
「なるほど。大変だな」
糸島はそれで納得してくれたようで、それ以降葵についての話題は出さなかった。立ち入っていい微妙なラインを見分けるのが上手い男だ。だからこそ油断はできないのだが。
その後も、糸島の面白そうで面白くない冗談や、仕入れ元がわからない噂を聞き流しながら座っていると、授業の予鈴が鳴った。
糸島が前を向いた隙に入り口の方を見てみるが、隣のクラスの葵はもういない。代わりに担任教師が入ってきたので、前を向いてホームルームが始まるのを待つ。
今日の時間割は文系尽くしだったので、ちょっとばかり集中していなくても大丈夫そうだ。昼休みになるまでには感情を整理しておこう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます