第3話 癒月
かれこれ一時間泣き続けた僕は、涙を枯らし、感情を枯らし、心を落ち着けた。
ずっと慰め続けてくれていた癒月には感謝しかない。彼女の琥珀色の瞳を見つめ、礼をいう。
「ほんとにありがとな、癒月」
「別に良いわよ。その代わり、私が失恋した時には……ね?」
「………努力するよ」
これで運動もできるときているのだから、最早僕に勝てる要素は学力しかない。
それも最近では怪しいが。
『かぐや姫』
それが彼女につけられた二つ名である。どんな相手に愛を囁かれようとも靡かず、迫ろうものなら無理難題を突きつけられる所からきているらしい。輝夜、という名字も関係しているようだが。
……まあ、これだけ揃っている美少女だし、迫られて抵抗できる男はいないだろう。そこそこ長い期間一緒にいる僕でも最近慣れてきたくらいなのだ。
一人で納得していると、癒月はにこりと笑った。いたずらっぽい笑みだ。
「まあ、私が失恋するなんてこと、あったらの話だけどね?
「…………」
ちょっと自信家なのが玉に傷なんだよなぁ、なんて思いながら、逃げるように周囲を見回す。屋上はすっかり暗くなっていて……え、暗くなってる?
慌てて腕時計を確認すると、短針は六の数字を既に過ぎていた。
「まずい、下校時刻過ぎてる……」
僕がそう言うと、癒月はスカートについた埃をぱんぱんと払って立ち上がった。そのまま置いてあった鞄を手に取り、首だけこちらに向けて言う。
「それなら早く帰りましょ。お腹も空いたしね」
そのまま非常階段に向かってつかつかとと歩き出したので、慌ててそれを追いかけた。
二人並んで階段を降り、校門から出て歩く。ここから僕の家までは十五分。癒月の家も同じ距離だ。
薄暗い闇の中、目に入る明かりが電灯のみとなった通学路。歩き慣れた道を黙って進んでいると、隣を歩く癒月が藪から棒におかしな事を言った。
「今日、家にお邪魔するから」
「家? 僕の?」
「当たり前でしょう。他に誰がいるのよ……」
「……すまん」
謝ると、ぷいっとそっぽを向かれた。
「……別に。ただ、心配してあげているのにそんな態度をとるのか、と思っただけよ」
「ああ……そうか、ごめん。そうだよな……」
言葉足らずなのは否めないが、どうやら癒月は僕の家の手伝いをしてくれるらしい。確かに今日は家事をする気力も残っていないので、正直かなり助かる。
癒月はまだ不機嫌そうだったが、僕が礼を言うと機嫌を直してくれた。切り替えが早い所は彼女の美点だ。
「…………」
「………」
空いた微妙な間を埋めるかのように、癒月が聞いてくる。
「……そういえば、ちゃんと部屋は片付いてる? 前に来た時はすごく散らかってたけど……」
「あー………」
思わず目を逸らす。流石に前回より酷くなっているとは言えなかった。
「なるほど。前より酷くなっているのね」
「いやなんで分かる。というか、僕の生活に癒月が関与してくるのは--」
「友人として、人として最低限の事ができないあなたを説教するのはそんなに不自然?」
「……いえ、滅相もございません。僕が悪かったです」
「前もそんな事を言ってたわよね……反省の欠片も見られないのはどうしてかしら……」
いやぁ、一度着いた癖は中々抜けなくて僕も困ってるんですよ……なんてふざけたことを思っていると、こめかみに刺すような視線を感じたので、それからずっと黙っていた。
× × × × ×
家のマンションに辿り着き、三階の自分の部屋の鍵を開けた時には七時を回っていた。
誰もいない部屋の明かりをつけて中に入ると、足の踏み場もないほどに散らかった1LDKが目に入る。
後から入ってきた癒月は、その惨状を目の当たりにして顔を青ざめさせた。呆れを通り越して恐怖の領域に入っているらしい。
「これは……酷いわね……」
「悪かったな」
自分でも相当汚いとは思っているが、流石に衛生管理だけはしっかりしている……はずだ。ここに散らかっているのは衣服と読もうと買った本くらいだ……と思う。
その事を弁明すると、何故か癒月は深いため息をついた。
「それで良いと思っている時点で、終わっているのよね……」
「…………」
返す言葉もない。いやそれよりも、これをまずどうにかしなければ……
結果として、ひとまず僕が床に落ちているものを退かしている間に、癒月が料理を作ってくれることになった。そのうち家中を掃除しなければならないが、それは今日でなくてもできる。
トントンと包丁の音が鳴る中、床に積まれた本をどけ、散乱している衣服を畳む。
それにしても量が多い。多分ここにある分だけで小さな本棚一つは埋まるんじゃなかろうか。
置き場所を見つけては本を積むという動作を何度も繰り返し、食卓も拭いて色々と準備ができたところで、キッチンから食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきた。
樹液に誘われるカナブンの如くキッチンへと向かってみると、皿に盛り付けられたおいしそうなパスタが。
その奥には、制服にエプロンという何とも家庭的な恰好をした癒月が鍋を見つめている。すぐに僕に気づき、ジロリとした目を向けてきた。
「やっぱり来た……片付けは終わったの?」
「終わったから来たんだよ。というか、晩ご飯できたんだろ? あっちまで運んどくよ」
「そう、ならいいわ。……あ、お味噌汁とサラダもあるからそれもお願い」
「了解」
熱々のパスタの皿を取り、あらかじめひいておいたランチョンマットの上に乗せていく。味噌汁とサラダも同じようにその横に置き、引き出しからフォークと箸を取り出した所で、癒月がエプロンを脱ぎながら歩いてきた。
「ちゃんとテーブルは布巾で拭いたの……って、綾人あなた、意外に几帳面な所もあるのね」
「いや、食事する場所は普通拭くし、ランチョンマットも誰だってひくだろ……」
「まぁ、そうね。最低限の常識も備わってないと思っていたから……」
「おいこら」
確かに片付けが出来なかったり、一人暮らしのくせに自炊しなかったりはするが、やらないだけだ。やればできる子なのだ。多分。
その後は、癒月が積み上げられた本に対して危ないやら多いやらぶつぶつ文句を言ったり、ぐちゃぐちゃに一纏めにされた洗濯物を見てため息をつかれたりと、色々トラブルはあったもののなんとか宥め、今は食事が載せられたテーブルに向かい合って座っている。
「それじゃあ、いただきます……」
「どうぞ、めしあがれ」
久しぶりだった食前の挨拶をぎこちなく済ませると、早速僕は皿に盛られたパスタを食べ始める。
フォークで巻き上げて一口頬張ると、途端濃厚なクリームソースの味が口一杯に広がった。カルボナーラだろうか。
「……うまい」
本当にうまい。思わず声が漏れてしまう程には。
「そう? 有り合わせの材料で作ったから、そんなに出来は良くないと思うけれど……」
「いや、最近食べた冷凍食品の三倍はうまい。自信を持っていいと思う」
「それ褒めてるの? 例えがよく分からないわね……」
首を傾げる癒月は放っておき、もくもくとパスタを食べ続ける。途中で胡椒やバジルをかけたりすると、ふわりと風味が変わってこれまた美味い。
気がつくと、僕の皿はあっという間に空になっていた。
「癒月、おかわりある?」
「ごめんなさい、二人分しか作ってないの。麺があまり残ってなかったから」
「あ、いや、ごめん。最近スーパーとか言ってなかったからな……」
癒月は呆れたような……いや、呆れた顔をした。
「あなた、普段どうやって生活してるの? スーパーにもしばらく行ってないって……」
「いつもならカップ麺か、切らしてるときには外食だな。牛丼屋とか」
「なんて不健康な」
「いいんだよ。長生きの秘訣は、自分の好きなものを食べることだっておばあちゃんが言ってたし」
「はぁ……もういいわ。後で矯正すればいいんだし」
何かを呟いた癒月は、残り一口だったパスタを飲み込むと、いそいそと皿を重ね始める。流石に片づけまで全部してもらうわけにはいかないので、代わりを引き受けた。
× × × × ×
皿を洗い終わった後、僕は食後の一杯にインスタントココアを淹れた。
本当は紅茶がよかったのだが、癒月が夜にカフェインをとるのを嫌がったので、棚にたまたま入っていたこれになったのだ。
ちびちびとココアをすすりながら座っていると、なんだか体があったかくなってくる。温かい飲み物を飲んでいるので当たり前といえば当たり前なのだが、なんというか、独特の浮遊感を伴うのだ。ひと時の幸せとはこういう感覚なんじゃなかろうか。
そんな言い知れぬ多幸感に浸っていると、癒月がこちらを向く気配がした。横から伝わってくる雰囲気から、なんとなく癒月が言おうとしていることが分かる。
「ねえ、綾人」
「ん?」
「その、聞くタイミングがよく分からなかったんだけど……」
「うん」
一呼吸置いて、癒月は言った。
「今日起こったこと……いえ、どうしてあんな事になっていたのか……教えてくれる?」
「…………」
あのオレンジ色の教室を思い出さなければならないと思うだけで、またきゅっとする痛みを心に感じる。
だが、不思議と僕は冷静だった。既にけじめをつけたと思っていたからだろうか。それとも、ただ心が麻痺しているだけなのか。
いずれにせよ、癒月は僕に聞く権利があるし、僕は癒月に話す義務がある。それに、どうせ明日には学校に行かないといけないのだから、再び起こるであろうショックに対する訓練とでも思っておけばいい。
そう思い、僕は事の一部始終を話し出した。
癒月は終始黙って話を聞いていたが、僕が話し終わると、息を吐いてソファーに沈んだ。彼女が今日ため息をつくのは何回目だろうか。迷惑をかけていることを改めて申し訳なく思う。
マグカップを胸に抱いたままソファーに身を預けていた癒月は、しばらくした後にぽつりと呟いた。
「なんだか、エスパーになった気分」
それが何を意味しているのかはよく分からなかった。だが、今は何も話さないほうが良いということを本能的に感じたので、僕はしばらく黙っていた。
彼女が次に口を開いたのは、それから五分程経ってからだった。ソファーから音もなく立ち上がり、少し明るめの声で言う。
「話してくれてありがとう、綾人」
「え? ああ、うん」
「そろそろ片付けましょうか」
「……そうだな」
立ち上がり、台所で癒月と肩を並べてマグカップを洗い始める。
先ほどの言葉の意味が気になったが、なんとなく聞くのは躊躇われた。それに、僕自身も感情の制御がうまくいっていなかったのもあったのだ。
スポンジで洗剤を泡立てながら、なんとなくを装って尋ねる。
「明日も、部室で昼ごはん食べるよな」
癒月はマグカップについた洗剤をじゃぶじゃぶと水で流しながら答える。
「ええ。いつもの所で」
「悪いな。鍵開けるの面倒だろ」
僕がそう言ったときには、癒月はすでにマグカップを洗い終えていた。布巾で丁寧に水滴をふき取りながら、何でもないように言う。
「別に良いわよ。私がしたくてやってることだから」
そして、同じく洗い終わっていた僕のマグカップにちらりと目をやった。渡せということらしいので、礼を言ってカップを差し出す。
シンクの対面の食器棚に拭き終わった僕のマグカップを戻すと、癒月はこちらを振り返った。
「いま、何時?」
「……九時半、だな。そろそろ帰るか?」
いつもならばとっくに帰っている時間だったので確認程度に聞いたのだが、癒月は迷うようなそぶりを見せる。どうやら心配してくれているらしい。安心させるため、僕は努めて明るい声を出した。
「僕なら大丈夫だ。癒月が色々やってくれたからな」
「でも、今日あなたを一人にするわけには……」
「流石にそんなにヤワじゃないよ。それに、この後は風呂に入ってすぐに寝るつもりだし」
「だけど……」
親友といえど、年頃の女の子が男の家に泊まるのは倫理的に良くない。本人もよく知っているはずなのに、なかなかに強情だ。
「流石に泊まり込むわけにはいかないだろ? それに、癒月の部屋は真上じゃないか。何かあったらすぐに連絡するからさ」
「そこまで言うなら……でも、ほんとに何かあったらすぐに連絡してよ?」
かなり不満そうな顔だったが、しぶしぶといった体で従ってくれた。
玄関まで向かうので、見送るために後をついて行く。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日な」
そう言ってドアを閉めるとき、僕は癒月に改めてお礼の言葉を言った。
「今日はありがとう、癒月。ほんとに助かったよ」
何に対してのありがとうとか、どんな風に助かったとか、そういうのは言わなかった。
言わなくても通じると思ったし、わざわざ口に出して言うのも恥ずかしかった。
癒月はしっかり言葉の意味をくみ取ってくれたようで、ほほえみながら頷くと、そのまま廊下へと消えていった。
ドアが閉まった後、誰もいなくなった玄関で立ち尽くす。
輝夜癒月。中学時代からの、葵を除けば一番付き合いが長い女友達。
もし彼女がいなかったら、僕は今頃どうなっていたか分からない。もしかしたら心が故障してしまったかもしれないし、何か取り返しのつかない、周りの人を悲しませるだけのことをしてしまったかもしれない。
こんな優しい友達がいるだけで、僕はもうめいっぱい幸せなのだ。
--そう。僕は今、幸せだ。幸せだからこそ、これ以上期待するのは止めなければならない。
葵が僕を好きになってくれるかもしれないとか、もう一度チャンスがあるかもしれないとか。
そんなご都合主義全開な展開が起こるはずがないのだ。僕は僕、葵は葵で別々の道を行く。当たり前の事だろう。
「……よし」
気合を入れるように呟き、ハンガーにひっかけてあった春物の白いパーカーを手に取った。ジッパーを胸のあたりまでキュッと上げ、制服の校章だけ隠す。
洗面所の棚の奥に隠しておいた黒くて小さな箱を取り出し、ドアに鍵をかけたことを確認したあと、僕は夜の街に飛び出した。
街灯で照らされた夜道は、昼間では味わえない背徳感と独特の香りを漂わせていて、僕の感覚を鋭敏にさせる。にも関わらず、空気は冷たく澄んでいて、呼吸する肺の隅々まで心地よく沁み渡った。
近くの国道を渡り、裏道を抜け、河川敷へ向かう。冷えた空気にかすかな湿り気が混じってきたことで、水辺に近づいていることが感覚でわかる。
しばらく歩いていくと、アーチ橋が架かった川が路地から覗いた。
正式名称は知らない。ただ、軽いランニングをする時や、考え事をする時はいつもこの場所をぶらぶらと歩くので、僕にとっては馴染み深い川だった。
急な斜面を駆け下りて、川にほど近い場所で立ち止まる。
対岸には民家の明かりがまばらに光っていて、水面に反射してゆらゆらと輝く様はなかなかに幻想的だ。川の流れも穏やかで、水音も微かにしか聞こえてこない。
その場で何回か深呼吸をして、この夜の空気をいっぱいに吸い込んだ。ポケットから例の黒い箱を取り出し、おもむろに蓋を開ける。
中から出てきたのはネックレスだった。
銀の鎖を基調とし、小指の爪ほどのハートのチャームが可愛らしいネックレス。これを買う資金を集めるため、僕はかなりの時間と労力をバイトに費やした。
誰に送りたかったかというのは……言わずとも知れたことだ。結局は皮算用になってしまったわけなのだが。
ネックレスをつまみあげ、左右に揺らしてみる。
「…………」
振り子のように揺れるチャームは、あたかも僕が今からしようとしていることを理解しているかのように、ギラギラと鈍色に輝いている。
それに対して申し訳ないと思いながらも、チャームを握ったほうの手をきつく握りしめる。骨が浮き出て見えるほど、強くつよく力を込めて。
そして、力任せに川へぶん投げた。
ちらちらと光りながら放物線上に川へ落ちるネックレス。その水飛沫は、黒々とした川の流れに飲み込まれ、僅かにしか見えなかった。
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