第3章 二つの湖の間 (前編)
ホッケンホルン山の下を長いトンネルで抜けると、ベルン州。
インターラーケンはベルン州の小さな町で、プリエンツ湖とトゥーン湖を結ぶアーレ川に沿っている。川の長さは5キロメートルほどだから、町の規模も小さい。名前は「湖の間」を意味するラテン語 "inter lacūs" から。12世紀建てられた修道院を起源とする。
アルプス山脈の数ある山のうち、“オーバーラント三山”と呼ばれるアイガー、メンヒ、ユングフラウへ登る際の拠点としても知られている。インターラーケン東駅からベルナーオーバーラント鉄道とヴェンゲルンアルプ鉄道、さらにユングフラウ鉄道に乗り継げば、海抜3454メートルのヨーロッパ最高地点駅、ユングフラウヨッホ駅まで行くことができる。
山登りはしなかったが、エリーゼは一度だけここを訪れたことがある。もちろんダイスと一緒に。そのとき、近くに城跡がいくつかあるのを知った。西隣の町ウンターゼーエンにヴァイセナウ城。南隣の町ヴィルダースヴィルにウンスプネン城やローテンフルー城。いずれも廃城で、崩れそうな石垣や塔の一部しか残っていないけれど、見晴らしのいい場所に建っている。ヴァイセナウ城はトゥーン湖が見晴らせるし、他の二つは崖の上から谷底を覗くことができる。
いまだに人が住んでいたり、綺麗に保存されたりしている城もいいが、こうした廃城もなかなか趣がある、とエリーゼは思っている。休暇のうちの2、3日をここで過ごして、回ってみたい気がする。
しかし今はそんな暇はなくて、レディー・フローラのメイド、メアリー・デヴリンを探さなければならない。ロイカーバートのホテルで得た情報では、アーレ川沿いのホステル・アルプロッジにいるということだった。
ホテルに着いたのは昼過ぎ。4階建てだがこぢんまりした、新しい感じの建物だ。レディー・フローラには似つかわしくないが、そのメイドならこんなものだろう。フロントへ行って尋ねると、「お泊まりですが、先ほどお出掛けになりました」と若いフロント係が言う。
「どこへ行ったかわかりますか?」
「存じません」
「何時頃戻ってくる予定か聞いていますか?」
「存じません」
「すぐ会いたいのですが、連絡することはできますか?」
「少々お待ちを」
フロント係が電話をかける。デヴリン嬢の携帯電話だろう。エリーゼはこっそりと番号を盗み見て憶えた。しかしフロント係は「お出になりません」と言う。
「おそらく電源を切っておられるのでしょう」
「レディー・フローラから緊急の用件があったときはどうするんです?」
「伺っておりません。メッセージとしてフロントに留め置くだけです」
「手紙も?」
「さようです」
少し考えてから、エリーゼは別の質問をすることにした。
「フラウ・デヴリンは一人で出掛けましたか? それとも誰か連れがいますか」
「男性のお客様がお越しになって、彼女を呼び出されました。そして一緒にお出掛けになりました」
それはエリーゼが想像したことの一つだった。
「その男性の名前は?」
「申し訳ありませんが、お教えできません」
「顔つきや特徴も」
「それも同様に」
フロント係は済まなさそうな笑顔を見せる。やはりプライベートに関することを聞き出すのは難しい。小さなホテルなのでドアボーイやベルマンはおらず、ロイカーバートと同じ手は使えない。
「来る約束があったのかしら」
「どうでしょうか。存じませんが、おそらくはございましたでしょう。ご当人方の間で。フラウのお部屋へ電話したときに、意外という感じではございませんでしたから」
「出掛けるときにも、連れて行かれるのではなく、一緒に行く感じだったのね」
「そのようでございました」
こうして当たり障りのないことは教えてくれるけれど、それが真実であるかは疑わしい。フロント係は人を見る目があるが、見たままを教えてくれるとは限らないのである。もちろん客のプライバシーを守るために。
客からよほど嫌な仕打ちをされた場合なら、愚痴として漏らしてくれることもあるが、デヴリン嬢がそういう客であるはずがない。
「ミズ・デヴリンを連れ出した男性に、心当たりはありますか?」
フロント係への聞き取りを終えた後で、エリーゼはグレイソン氏に尋ねた。グレイソン氏が頭を捻る。
「メイドの知り合いというと、家族か恋人くらいしか思い当たりませんが」
「もちろん、そうでしょう。おそらくは恋人です」
「どうしてそう思います?」
「レディー・フローラと引き離されるのを納得するには、それくらいの条件が必要でしょう?」
「つまり、恋人を呼び寄せてやるから大人しく待っていろと」
「そうです」
「ちょっと待ってください。恋人の存在は知っていますが、名前まではさすがに知らない……」
グレイソン氏はジャケットの右ポケットから電話を取り出してかけた。カーマイケル家の使用人にでも聞くつもりか。すぐにわかったらしく、電話を切って「ヴィンセント、ジュリアス・ヴィンセントです」。
「わかるのは名前だけですか。写真は?」
「ないそうです。黒く長い
「それでも全くないよりはましですね。では探しましょうか。手分けをして」
「何を手掛かりにしますか。ミズ・デヴリンとミスター・ヴィンセントの容姿だけですか」
「それに英語を話すことです。他の国の人が話す英語より特徴があるでしょうから」
「なるほど。私と同じような英語……」
「そういうことです」
ホテルは町のちょうど真ん中辺りにあるので、手分けする範囲を東と西に分ける。グレイソン氏に西を任せ、エリーゼは東へ行くことにした。
インターラーケンは山登りの拠点ではあるが、そこ自体は観光資源に乏しい町だ。先ほど挙げたような城跡も、全て隣の町にある。小さな美術館が一つ、子供向けのアミューズメントパークが一つあるくらい。湖沿いにはキャンプ地があり、バックパッカーがたくさんやってくるが、そんなところにデブリン嬢たちは用がないだろう。
エリーゼはインターラーケン東駅へ行った。ベルナーオーバーラント鉄道以外に、ツェントラル鉄道とBLS鉄道が乗り入れていて、ベルンやバーゼルの他、ドイツ方面へ行く国際列車も来る。相互乗り入れはないが、小さな町に似つかわしくない一大ジャンクションだ。デヴリン嬢とヴィンセント氏は車に乗っていないはずで、移動するとしたら鉄道だろう。ここではどこへ行くにも東駅が起点となるはず。
駅のチケット売り場でエリーゼは二人のことを尋ねた。それらしい人物がベルン行きのチケットを買ったことがわかった。しかしベルンへ行って探すのは難しそうだ。戻ってくるまで待つか、とエリーゼが考えていると、見知らぬ男に声をかけられた。ゲルマン系の顔つき。
「フラウ・デヴリンを探しているのか?」
スイス・ドイツ語ではなく、中部ドイツ語に近い。エリーゼが話す方言によく似ていた。
「あなたには関係ないことですよ」
もちろんエリーゼは油断しない。こちらから訊きもしないのに、都合のいいことを教えてくれることはないはずと思っているから。ましてやイングランド人を探そうとしているのに、ドイツ語を話す人を前にしては……
「ところが俺はフラウ・デヴリンを知っているんだ。正確には彼女の連れであるヘル・ヴィンセントを」
「そうですか。どういうご関係ですか?」
「もちろん友人だよ」
「どういう方面の友人ですか?」
「俺は昔、ロンドンに住んでいたことがあって……」
「ロンドンのどこですか?」
「ピカデリーサーカスの辺りだ」
「あそこは外国人が集まる場所ですが、外国人が住むところではありませんよ」
「いや、お前が知らないだけで、今は……」
「私はロンドンに住んでいますから、よく知っています」
「いや、今は違うだろう?」
「どうしてそれを知っているのです? 私が名乗りもしないのに」
「
後ろから英語で声をかけられた。エリーゼは振り向くことなく、素早く横へ飛んだ。後ろから誰か近付いているのは察知していたが、避けた後で見ると、そいつは長い棒で地面を叩いたところだった。エリーゼの背中に打ち下ろそうとしていたようだ。顔はやはりゲルマン系。先に声をかけてきた男の仲間か。
先の男が、エリーゼの腕を掴もうとする。避けても、棒の男が殴りかかってくる。かろうじてかわしていたら、別の一人が駆け込んできて、棒の男に殴りかかる。冴えない容貌ながらなかなか勇敢で、男の手から棒を叩き落とすことに成功した。
エリーゼはもう一人――先の男――を相手にしなければならないが、捕まりそうなのを避けることしかできない。格闘は習わなかったのだ。ダイスは「ひたすら避けて、逃げて、警察を頼れ」としか言わなかった。
そのうちに"POLICE"と書かれた青いシャツの男たちが駆けつけて、エリーゼを襲った男たちは逃げた。助けに入った冴えない顔の男は、ずっと向こうの方にいるが、右腕を怪我したようで、左手で押さえている。
「フラウ、怪我はありませんでしたか。やっ、あなたはもしかして」
駆けつけた二人の警官のうち、年配の方が、エリーゼの顔をまじまじと見て言う。
「フラウ・リースヒェン・ミュラー!? そうだ、間違いない。あの“
「いつ会いましたか?」
「3年前ですよ。ほら、鉄橋爆破予告事件のときに」
「あのとき警備をしていたんですか? でも私は特に何もしていないのに」
インターラーケン町内にはアーレ川を渡る鉄橋が三つあるが、そのうちのどこかに爆弾を仕掛けたというテロ予告が警察に入ったことがあった。たまたま滞在していたダイスとエリーゼが急遽狩り出された。ダイスは鉄橋を歩いて渡るだけで、線路側からも船からも見えない位置に仕掛けられた爆弾を発見したのだった。エリーゼはその位置を憶えて、警察の爆弾処理班に伝えただけだ。
「あなたが全く怖がることなく鉄橋の上を走り回っていたことに感心したんですよ」
「どんな場所でも走ることだけは得意ですからね。でも憶えていてくれてありがとうございます」
襲われた経緯を話す。ついでにデヴリン嬢とヴィンセント氏のことも訊いてみたが、さすがにわからないようだ。
それから、エリーゼに加勢してくれた男のところへ。同じように警官二人に囲まれて、病院へ行けと言われているが、頑なに断っている。その男を、エリーゼは知っていた。エドワード・ハードマン氏。
「まさかあなたに助けられるとは思っていませんでしたよ。しかし、素直にお礼を言います」
警官が立ち去った後で、エリーゼは言った。男は右腕を押さえたままだが、本当に病院へ行かなくていいのだろうか。
「いやはや、僕も曖昧に警告しただけなので、いけなかったんです。もっとはっきり言っておけば」
「こうなることを予想していたのですか?」
エリーゼはもちろん驚いた。単に興味本位で付いて来たとしか思っていなかったし、ロイカーバートからは帰ったと思っていたから。
「確信はなかったですが、こういう事態からあなたを護衛することが僕の仕事だったんです」
「仕事?」
「そう。もはやはっきりと言わないといけませんね。しかし、まだ見習いで、名刺を持っていなくて。僕はロンドンのブレット探偵社から来たんです」
その名前を、エリーゼは噂程度だが、知っていた。エリーゼと同い年くらいの、ジェイミー・ブレットという若い女性探偵が名声を得ているはず。
(続く)
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