第3章 二つの湖の間 (後編)

「ブレット探偵社がどうして私の護衛をするのです? 誰がそんなことを依頼したのですか」

「それは言えませんよ。依頼人の情報は漏らせません」

 エリーゼの質問に、ハードマン氏はいつもの笑顔を少し歪めながら言った。しかし腕の痛さを我慢しているようにも見える。

「では、それは訊きません。しかしあなたはもしかして、ミズ・デヴリンの行方を知っているのでは?」

「ここでは答えられません」

「ひとまず病院に行きましょう」

 エリーゼはスマートフォンで病院を探すと共に、グレイソン氏に電話をかけたが、応答がない。留守番電話サービスに切り替わってしまった。エリーゼは心配になった。もしかしたら、彼も襲われたのではないだろうか? 逃げ切れなかったのだろうか。手分けをするべきではなかったか……

 病院へ行き、ハードマン氏の治療を待っている間にも、エリーゼはグレイソン氏に何度も電話をかけた。やはり通じず、途中からは「電源が切られている」というメッセージが返ってくるようになった。困った、とエリーゼは思った。依頼人を危機に陥れてしまったのか。何という失態。絶対にしてはならないことだ。

「さて、どうやって私を信用させてくれますか?」

 包帯で腕を首から吊って、診察室から出て来たハードマン氏に、エリーゼは尋ねた。とりあえず、こちらを先に片付けねばならない。

 そもそも、エリーゼがスイスに来ていることを知っているのは、二人しかいない。しかも日本に。在日ドイツ総領事館に勤めるイレーネ・鷲見スミ・クラムと砂辺利津子だ。その二人とロンドンの探偵事務所は、どう考えても繋がらない。

「どうって、委任状を持ってるわけでもないですから、信用してくださいと言うしか……」

「ではミズ・ジェイミー・ブレットと直接話をさせてください。電話で結構ですよ」

「僕がかければいいんですか?」

「あなたはあなたでかけて、私が話をしたがっていると伝えてください。私は別の方法でかけます」

 エリーゼは自分のスマートフォンを取り出し、ロンドンのに電話をかけた。

「ハロー、ノートン警部、お久しぶりです」

「ハロー、エリーゼ。ロンドンへ帰ってくる気になったのかい」

 スコットランドヤードのノートン警部は、突然のエリーゼからの電話にも、気さくに答えてくれた。

「今は無理ですね。そのうち帰りますよ。ところで一つ教えて欲しいことがあります。探偵のミズ・ジェイミー・ブレットに連絡を取りたいので、彼女の電話番号を」

「オフィスはリージェント・ストリートだが、今はいないよ。出張中オン・ア・トリップだそうだ。携帯電話でいいかね?」

「構いませんとも」

 電話番号をメモし、切る前に「もう一つだけ」とエリーゼは言った。

「アキラはロンドンにいますか?」

「もちろん、いるよ。だから君も来るのかと思ったんだ」

「そうでしたか」

 この件にアキラが絡んでいることをエリーゼは少しだけ期待していたのだが、どうやら外れていたようだ。ともかく電話を切り、さて次はジェイミー・ブレット嬢にかけるのだが。

「あなたの方から電話しましたか」とハードマン氏に訊く。

「しましたよ。なるほど、あなたが別に入手した番号でかけて、同一人物か確かめようというんですね」

「そういうことです」

 エリーゼは自分のスマートフォンでかけた。

「ハロー、こちらはエリーゼ・ミュラーです」

「ハロー、こちらはジェイミー・ブレット、ロンドンの探偵です。ただいまスイスに出張中。私のアシスタントがヘマをやらかしたようで、申し訳ありませんわね」

 完璧な発音のキングズ・イングリッシュが返ってきた。見たことはないが、相手の高慢な顔が思い浮かぶようで、エリーゼは密かに微笑んだ。わざと、ドイツ訛りをきつくした英語で答える。

「いいえぇ、私のせいで怪我をさせてしまったようで、申し訳ないことです」

「ご安心ください。彼の仕事のうちですから、あなたに治療費を請求することはありませんわ」

「ところでどういう経緯で私を護衛しているのですか」

「私に依頼された件に関わるからです。早い話が、あなたに動かれるとこちらの仕事の邪魔になるので、排除したいところを強引にせず、うまくあしらおうという意図だったのですわ」

「なるほど、それで警告ですか。しかし私も依頼で動いているのだから、やめるわけにはいきませんよ」

「しかしそれもこちらが依頼を受けた経緯を話せばわかってくださるでしょう。ハードマンに説明させます」

 ブレット嬢はエリーゼの返事も聞かずに電話を切った。ハードマン氏がヘマをしたことで、気分を害しているのかもしれない。しかしエリーゼは笑顔を保ったまま、ハードマン氏に「お話しいただけるそうですね」と促す。

「もちろんです。要するに、僕らとあなたたちは同じ人物を探しているんですよ。レディー・フローラ・カーマイケルです」

「それくらいはミズ・ブレットとの話から簡単に想像できます。依頼人が違うということですね」

「そういうことですが、言えませんよ」

「彼女の妹のレディー・スーザンですか?」

「言えませんと言ってるのに」

「とにかくこれまでにどうなっていたのか話してください」

「まずフランスへ行って、レディー・フローラの足取りを追って」

 ローザンヌではなく、もっと前からの経路をたどったようだ。もちろん、フランスからスイスへ入り、ジュネーヴへも行ったし、ローザンヌにも寄った。そこからある手掛かりを頼りにロイカーバートへたどり着く。ちょうどその頃、エリーゼがローザンヌに滞在しているという情報が入った。

「その情報はどこから?」

「言えません」

「ある手掛かりとは何ですか?」

「言えません」

「しかしどうして私のところへ来たのです?」

「もちろん話します。推論の過程はすっ飛ばしますが、あなたがこの件に絡まないようにしたいと考えて」

 監視役としてハードマン氏がエリーゼに張り付くことになった。ただ普通に監視をするとバレるかもしれないので、ガールハントを装ったと。

「装ったという感じではありませんでしたね。あなたのではないですか」

「とんでもない。僕は元来、気が弱くて、依頼人が女性だというだけでも緊張するくらいで」

「私が適当にあしらって、あまり話をしなかったからバレなかったと言いたいのですか」

「そういうことです。ただ、諦めが悪いと思わせればいい、というくらいで」

 しかし、危惧していた事態は起きた。レディー・フローラの婚約者候補であるフィリップ・グレイソン氏がやってきて、エリーゼにレディー捜しを依頼したのだ。

「ただ、手掛かりは何もないだろうから、なかなか動かないだろうと高をくくっていたんですよ。ところがすぐさまロイカーバートに向かったので、もうびっくりしてしまって」

「あれは手紙の中にヒントが書かれていたのですよ」

「ロイカーバートへ行くと?」

「いいえ、ヒントだけです」

「それをあなたが解いたんですか」

「私も探偵ですから」

「こちらの依頼人がレディーから受け取った手紙には何のヒントも書いてなかったのに」

「ではどうやって探したのです?」

「それは手紙に付いていた……いや、詳しくは言えないんですが、とにかくフランスからスイスにかけての城と城跡を探していたんです。そこが現在の落ち着き先のはずなので」

「城と城跡? どうしてです?」

「ですからそれは詳しく言えないんですって。とにかくそのうちに、メイドが恋人のヴィンセントと連絡を取ったのがロンドンの方でわかったんです。発信場所がロイカーバートで、落ち合い先がインターラーケンでした。カーマイケル家と関係者には警察が張り付いているので、教えてもらったんです」

「そしてミスター・ヴィンセントが着いたのが今日?」

「そうです。ただ、メイドには見張りが付いていると考えていました。ヴィンセント以外の人物が彼女と接触すると、つまりあなたのことですが、見張りがシュレディンガー教授に知らせて、レディー・フローラを連れて他の場所へ移動する可能性があったんです。それは困るので、ヴィンセントに言ってメイドと共に外出するよう仕向けたんです」

「そういう意図があったのなら、早く教えてくれればよかったのに」

「そうしたらあなたは事件から手を引きましたか?」

「そんなわけないでしょう。一度受けた依頼を放り出すわけにはいきません」

「僕らと目的は同じだから、依頼は僕らが引き継ぐと言っても……」

「あなた方の活動に私を参加させろ、と要求したでしょうね」

「それはこちらの想像どおりでした。しかしあなたの参加は避けようということだったんですよ」

「どうしてです?」

「これは危険な仕事だからです。相手は多人数ですし」

「なら、私が加勢する方がいいじゃないですか」

「その他にも理由があって」

「ミズ・ブレットが私のことを気に入らないんですか」

「そういうことにしておきます。とにかくあなたの性格を考慮すると……」

「ミズ・ブレットがどうして私の性格を知っているのです?」

「いろいろな人に聞いた結果です」

 スコットランドヤードの刑事たちだろうか。しかし彼らはエリーゼのことを「アキラのアシスタント」と思っているはずで、さほど優秀とは考えていないだろう。特に日本での活動など、知るはずもない。

 しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。

「さて、こうして話を聞かせてくれたからには、私を参加させてもらえるのでしょうね。ミズ・ブレットとご挨拶も済ませたことですし」

「いや、あなたはあなたの依頼人を探してください。連絡が取れないんじゃないですか?」

「そうですが、あなたも手伝ってもらいますよ」

「どうして僕が」

「その腕の傷では、車を運転できないでしょう? ミズ・ブレットのところへどうやって戻るつもりですか」

 ハードマン氏が悲しそうな顔になった。しかしあれがシュレディンガー教授の仲間なら、腕の打撲だけで済んだのはまだ幸運ではないかとエリーゼは思った。

 とにかく、警察へ行く。もちろんグレイソン氏を探すため。エリーゼがああして襲われたからには、彼もまた襲われたのではないか? あるいは彼らの口車に乗せられて、どこかへ連れて行かれたか?

 警察には先ほどの警官と同じくエリーゼのことを憶えている警官がいて、親切に調べてくれたが、何もわからなかった。


(続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る