第2章 アルプスの山の上

 翌朝、グレイソン氏が車をレンタルし、エリーゼは同乗してロイカーバートへ向かうことになった。

 ローザンヌからロイカーバートまでは、直線距離で80キロメートルほどだが、まずレマン湖に沿って40キロメートル足らずで東端の町ヴィルヌーヴへ至り、そこから真南のマルティニーの町まで真南へ30キロメートルあまり。東に進路を変えてロイクまで50キロメートル。そこからアルプスの山道を10キロメートル以上登っていく、という遠回りの行程だ。

 ちなみにロイカーバートの標高は1400メートル。最も近いアルプスの高峰はダウベンホルンで、標高2942メートルだから、半分ほどの高さ。ケーブルカーで山の上へ行くことができる。

 レマン湖を右に見て走る間、エリーゼは後ろに注意していた。見たことのある車が追いかけてきている。エドワード・ハードマンだ。グレイソン氏にエリーゼを取られたとでも思っているのだろうか。運転席のグレイソン氏は、全く気付いていない様子。レディー・フローラのことで頭がいっぱいなのだろう。そして今日のことを昨夜からずっと考え通しで、睡眠が足りていないように見える。

 事故を起こさなければいいけれど、とエリーゼは少し心配した。エリーゼが持っているのはバイクの免許証だけで、運転を替わることができないのだ。ロンドン在住時に取ったが、車の方は仕事が忙しすぎて時間がなかった。ちなみにアキラは何の免許証も持っていない。運転をすると、手の感覚に影響を及ぼすと考えているからだろう。

 ヴィルヌーヴからは、ローヌ川に沿って走る。氷河が削ったU字型のローヌ谷の底を流れている。マルティニーで東へ折れてもすぐそばにある。100キロメートル以上先の、ローヌ氷河がその源流だ。

 シオンでは、町中にそびえる二つの岩山を仰ぎ見る。ヴァレー山とトゥールビヨン山。どちらも山頂付近に建物があり、ヴァレーには今も使われている教会堂バシリカ、トゥールビヨンには廃城。

 ロイクの町に入るあたりから、ドイツ語圏になる。つづら折れの山道を登っていく。グレイソン氏の運転が少々危なっかしい。しかし事故を起こすことはなく、ロイカーバートに到着。アルプスらしい、山頂に岩の層を露出させた、尖った山に囲まれている。すり鉢のように、氷河に削り取られた地形だ。

 ローザンヌからは遠いように思えたのに、わずか2時間で着いてしまった。

「さて、どのようにして探せばいいですか」

 グレイソン氏が訊いてくるが、エリーゼは「バーデン・バーデンと同じでいいですよ」と答える。

「そもそもここにはそんなにたくさんのホテルはありませんから」

「なるほど」

 三つ星以上のホテルでも20軒ほど、四つ星なら二つか三つではないか。グレイソン氏が車を運転して、手近なところから回っていく。五つ目のル・ブリストルで、彼がフロント係に尋ねている間に、エリーゼはベルボーイに訊いてみた。教授か博士の肩書きの付いた人物が、ここに泊まっていますか?

「シュレディンガー教授でしょうか? 先日、チェックアウトされましたよ、助手の方々と一緒に。もう少しお泊まりになる予定だったのを、早められて。お知り合いでしたか?」

 若くて、まだ20歳にもならないように見える初々しいベルボーイは、エリーゼの顔を眩しそうに見ながら答えた。この近くの出身で、働き始めたばかりなのだろう。

「そうよ。でも、残念ね、一足違いだったわ。追いかけたいけれど、どこへ行ったか知ってる?」

「さあ、それは存じないです。フロント係も承っていないでしょう」

「手紙を転送する手続きも取らなかったのかしら」

「ええ、やりとりは全て電子メールだから不要だと」

「じゃあ、30歳くらいの高貴な身なりの女性が、教授と話をしているのを見かけたことは? その女性も私と知り合いで、イングランドの女優なのよ。付き人が一人いたはず」

「ああ、おられました。フラウ・カーマイケルですね。教授と一緒にチェックアウトされましたよ」

「付き人の女性も一緒に?」

「ええ、そうです。いや、待ってください。付き人だけが、別のところへ行くと言っていたように思います。僕ははっきりとは聞いていないのですが、ロビーでしばらく話し合いをして、彼女が……フラウ・デヴリンが少々感情的になっていたようで」

「フラウ・デヴリンの行き先はわかるかしら?」

「申し訳ありませんが、それもわかりません」

「しかたないわね。でもそういう揉め事は聞き流すように、あなたも教育されているはずだし。わかったわ、ありがとう。いいホテルマンになれるよう、頑張ってね」

「ありがとうございます。フラウ……その、あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」

 エリーゼはそれには答えず、愛想のいい笑顔だけを見せて、ベルボーイのそばを離れた。フロントでの押し問答を終えたグレイソン氏が、不機嫌な顔で戻ってくる。

「ここでもやはり教えてもらえませんでしたよ。彼女の好みそうな、感じのいいホテルなんですがね。しかたない、次へ行きましょう」

「いいえ、もう少し調べましょう。レディー・フローラはここに泊まっていましたが、数日前にチェックアウトしたようです、ある人物と一緒に。別のところへ行きましたが、メイドは引き離されたようですね」

「何ですって、どういうことです!?」

 グレイソン氏が大声を出しそうになったので、エリーゼはそれを抑えさせ、ロビーの片隅へ行って、ベルボーイから聞いたことを話した。グレイソン氏は驚きの表情を持って聞いている。

「驚きましたね。どうしてそんなことが聞き出せたんです?」

「彼が新人で、おそらく仕事熱心で、私がドイツ人で、女性で、もしかしたら私の容姿が少しばかり手助けしてくれたかもしれませんが、話しやすい雰囲気を作っただけです」

「経験を積んだスタッフから聞き取るのが一番だとばかり思っていましたよ」

「そういう人は頑なにお客の秘密を守るものです。特に女性客のことを訊きに来た場合は。プライバシーを守るためですから、しかたありません」

「こちらはちゃんと身分まで提示しているのに」

「イングランドでのあなたの名声は、ここでは通じませんからね。さてそれより、困ったのは、レディー・フローラと一緒なのがシュレディンガー教授だということです」

「誰ですか、それは」

「もちろんあなたはご存じないと思っていましたが、非常に危険な詐欺師です。ドイツとオーストリアを仕事場にしていたのですが、スイスまで手を伸ばしたようですね」

 医師、あるいは生物学の教授の肩書きを使い、世界的に有意義な研究をしているという話をして、投資をしてくれる人を募るのがパターン。金持ちで、科学に興味はあるが、知識は伴っていない人が対象となる。教授は特に、そういう女性を見つけるのがうまい。

 これらはエリーゼがダイスに付いてヨーロッパを回っている間に知ったことだ。今回はレディー・フローラがアキラに興味を持っているのをどこからか聞きつけて、誘ったのだろう。

「そうするとあなたはその教授の容姿も知っているのですね?」

「一応、知っているのですが、彼は相手によって姿を変えることもあるのです。騙す対象が、最も信用しやすいタイプに。レディー・フローラはどういうタイプを信用しますか?」

「そう……沈着冷静で、寡黙で、威厳があるタイプですね。10歳くらい年上なら申し分ないんじゃないでしょうか」

「年齢のことだけを除けば、アキラにも当てはまりそうですね。ああ、それとも、彼の師である海鷲ゼーアドラーをイメージさせるようにしたかもしれません。彼の容姿は、教授には知られていないはずですが」

「なるほど、そういうことですか。しかし、どうやって行き先を探すのです?」

「教授はホテルに行き先を告げていないでしょうが、メイドは告げたかもしれません。レディー・フローラへの手紙は、メイドが受け取るように手配したでしょうから」

 そこで今度はエリーゼがフロントに訊きに行く。もちろん身分を明かし、ダイスの名声も借りた。レディー・フローラはダイスにも興味を持っていたようで――もちろん教授が話したのに違いない――どうにかメイドの行き先を聞き出すことができた。インターラーケン。ここから山を越えて北側にある小都市だ。ただし山を越えていく道はなくて、いったん下山して東側を回り込む必要がある。

「ではさっそく行きましょう。メイドはレディー・フローラの行き先を知っているかもしれない」

「ちょっと待ってください、教授の仲間のことをもう少し訊いておきます」

 焦るグレイソン氏を抑えて、エリーゼはホテルマンに訊き回った。彼と一緒にいたのは5人。一人は助手、他の4人は訓練生トレイニーと呼ばれていた。いずれもドイツ人のようだったが、英語とフランス語も流暢に話す。そして、視覚、聴覚、嗅覚、触覚などの特殊技能を持っていると称していた。ただし、手品のようにしか見えなかったものもある……

「例えば触覚が優れているという訓練生トレイニーは、トランプの裏側を触って、スートと数字を当てるというのですよ。しかしそれは手品用のトランプを使えば簡単にできますよね。そもそも、それが何の役に立つかさっぱりわからない……」

 話をしてくれたホテルマンの一人が、おかしそうに言った。しかし同じことはアキラやダイスなら間違いなくできるはずで、あながちインチキとも言えない。教授の仲間がやっていたことだから、おそらくインチキだろう、と思われるだけだ。もちろん、レディー・フローラを騙すために。

「さて、これで教授の手口はだいたいわかりました。インターラーケンに行って、メイドのミズ・デヴリンを捜しましょう」

 しかしエリーゼとグレイソン氏が車のところに戻ると、不審な男が立っていた。エドワード・ハードマンだった。やはりここまで追いかけてきたのだ。曖昧な笑顔を浮かべながら、話しかけてくる。

「ミズ・ミュラー、ぜひお話ししたいことがあるんです」

「申し訳ありませんが、私たち、急いでいますので」

「非常に重要なことなんです」

 ハードマン氏は助手席側のドアを塞ぐように立っていて、エリーゼは乗ることができない。しかしエリーゼは笑顔で言った。

「ミスター・グレイソン、構いませんから、車を動かしてください」

 しかしハードマン氏はあくまで食い下がる。

「ミズ・ミュラー、あなた方はレディー・Fの行方を捜しているのでしょう? 悪いことは言いません。それはお辞めになった方がいいですよ」

「ミスター・グレイソン……」

 グレイソン氏が運転席に乗り込み、車を少し前に出す。ハードマン氏はまだ邪魔をしようとする。

「ミズ・ミュラー、もう一度警告しますが……」

 ハードマン氏は言いかけたが、エリーゼが彼を押しのけ、車のドアに手をかけると、渋々という感じで身を引いた。しかしドアを開けて乗り込もうとするエリーゼに、続きを言う。

「レディー・Fの行方を捜すのはお辞めになった方がいいですよ」

 エリーゼはドアを閉めた。グレイソン氏が車を出す。ハードマン氏は追いかけてこなかった。急坂を下りながら、グレイソン氏が訊いてくる。

「あれはいったいどういう人物です?」

「全く知らない人なんです。でももしかしたら、教授の仲間かも」

 エリーゼがローザンヌにいることを知って、見張っていたのだろうか? 女性を口説く軽い男のふりをして。

 インターラーケンに行って、メイドに会えるのか、エリーゼは少し不安になってきた。


(続く)

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