第1章 ローザンヌにて (後編)

「あなたが休暇中のところにこのような話を持ち込んで、大変ご迷惑と思われるでしょうが……」

「私の力がぜひとも必要という人を放っておくわけにはいきませんよ。どちらにいらっしゃるのです?」

 恐縮する支配人にエリーゼが訊くと、支配人は「すぐにお呼びします」と言い、エリーゼをレストランの個室へ案内した。ウェイトレスがコーヒーを運んできて、しばらくすると、ブラウンのツイード・ジャケットにダークグレイのベスト、カーキのスラックスという、リゾート地にしては堅苦しい身なりの男性がやって来た。

 血色のいい顔で口髭を生やしているのに童顔に見え、しかし30歳前後であろうとエリーゼは推定した。そして身のこなしに、どことなく優雅さが感じられる。もちろん、エドワード・ハードマンではない。

「初めまして、ミズ・ミュラー。フィリップ・マルーンです。休暇中に面倒なことをお願いしてしまい、誠に恐縮です。しかし、ロンドンでのあなたの名声を聞き及んでいますので、ぜひとも相談したいのです。何しろあなたは、あのミスター・ワタリの唯一無二のパートナーとのことですので」

 マルーン氏はエリーゼに握手を求めながら挨拶したが、その言葉はエリーゼを少し驚かせた。「ミスター・ワタリの唯一無二のパートナー」? そんなのは、当時一度も聞いたことがなかった。

 そもそも、エリーゼとアキラの調査事務所には、名前すらなかった。“ブルームズベリーの調査員リサーチャー”という通称を頼りにして、依頼人がやって来る。しかも調査員リサーチャーという単数名詞から、それがアキラ一人を指すことは明白だ。

 アキラがいなくなってからは“休業中”のはずで、エリーゼの名前が知られるなど、あり得ないことではないか。現にここローザンヌでも、“海鷲エーグル・ド・メールの助手”、つまりダイスのお手伝いとして記憶されている。もちろん、それだけでもすごいことなのだけれど。

「どうぞおかけください、ミスター・マルーン。レディー・フローラ・カーマイケルのことは、今ざっと調べました。しかし失踪したという報道はないようですね」

 エリーゼは調べ物に使っていたスマートフォンをテーブルに置きながら、言った。

「もちろん、それをプレスに知られないように、カーマイケル家が手を打っているのです。しかし彼女と連絡が取れないのは間違いないのです。カーマイケル家の誰も、そして彼女の最も親しい友人たちも、連絡ができないのです」

「それはいつ頃からですか?」

「1週間ほど前からです」

「あなたはどうしてそれを知りましたか? つまり、あなたとレディー・フローラの関係を教えてください」

「私も、彼女の親しい友人の一人なのです。つまりそれらの代表として彼女を捜しに……」

 エリーゼは手を突き出し、人差し指を立てて、左右に振った。マルーン氏が黙り込む。

「嘘がお上手ではないようですね、ミスター・マルーン。あなたのお国の高名な探偵の言葉にもありますが、『私は事件の片側に謎があることには慣れていますけれど、両側にあるのは難しすぎます』。どうぞあなたの本当の名前を告げてください。それともあなたが言いにくければ、私の方から明らかにしましょうか?」

 エリーゼが言うと、マルーン氏は最初驚いた顔をし、次に怒ったような表情になり、ついには落胆の様子を見せた。そしてため息をつきながら言った。

「どうも、あなたに隠しごとをしたまま依頼をするのは、やはり間違っていたようです。僕の本名はフィリップ・グレイソンといいます。レディー・フローラにずっと以前から結婚を申し込んでいるのです」

「ありがとうございます。しかしあなたを一目見て気付かなかった私の迂闊さについて、お許しください。たとえロンドンを離れて数年経ったとしても、将来、第12代エセックス伯爵を襲名する予定のお方のお顔を、忘れるべきではありませんでした」

 マルーン氏改めグレイソン氏の話を聞いているうちに、エリーゼは思い出したのだった。調査事務所には、貴族から依頼が入ることもある。それがなぜか、ほとんどの依頼主は、代理人を立てようとするのだ。しかしアキラはそれをことごとく見抜き、エリーゼが言ったように「事件の片側に謎が……」と、本当の依頼人を明らかにさせるのだった。

 アキラはイングランドだけでなく連合王国の全ての貴族とその係累、歴史を記憶していた。エリーゼもできる限り憶えた。そしてフィリップ・グレイソンとレディー・フローラについての報道も、見たことがあった。ロンドンを去る直前だったはず。

 グレイソン氏は気を取り直したようで、少し威厳のある表情に戻って話し始めた。

「こちらこそ、おそらくイングランドの事情などお忘れだろうから偽名でも通るだろうと、安易な考えを持ってしまいました。余計なゴシップの種になることを恐れたのです。しかしあなたが秘密を漏らずはずがないというのを考慮すべきでした。それはともかく、レディー・フローラを捜したいのです」

「どうぞ、現在の状況を教えてください」

「彼女は1ヶ月前からお付きのメイドと共にフランスとスイスを周遊しています。彼女はとても気ままな人ですが、僕は彼女のするに任せるのがいいと思っていて、この旅行から帰ってきたら、もう一度プロポーズをするつもりでした。ところがふとした折にカーマイケル家に連絡を取ったところ、彼女の行方がわからなくなっているのを知ったのです。もちろん、他に彼女が親しくしている人たちにも当たりましたが、誰も知りません。しかし僕は1週間前に手紙をもらいました。ここローザンヌからです。それには少しばかり奇妙なことが書いてあったので、調べれば何かわかるかと思って、ここへやって来たのです」

「奇妙なこととは何でしょうか?」

「あなたとミスター・ワタリに関係があるのです。あの特別な感覚センシングのことですよ。彼女の姉のレディー・スーザンが、あなたたちに調査を依頼したことがあるでしょう? それで彼女はその特殊技能に興味を持って、あなた方に会いたいと言っていたことがあるのです」

「レディー・スーザンのことはもちろん憶えていますが、レディー・フローラがアキラに興味を」

 センシングができるのはアキラだけで、エリーゼができないことを、グレイソン氏は知らないようだ。もちろん、調査事務所はアキラの名声だけで知られているので、依頼をしたことがない人にとっては些細なことだろう。

「今回、ある人物が、感覚センシングの技術者を養成するための施設を作るという話を持ちかけてきたらしくて、彼女はそれに協力するつもりだと。手紙はこれです」

 エリーゼは手紙を受け取って広げた。この時代においても手書きの手紙を送るというのは、貴族のたしなみなのだろうか。もはやほとんどの人が読めないような、特徴のある美しい筆記体で書かれたその手紙の中には、なるほどグレイソン氏が言ったようなことが書かれていた。アキラだけでなく、ダイスの名前もある。

 もちろん、そのような事実があるはずもない。エリーゼはここしばらくアキラと離れて仕事をしているけれど、このような話があれば、必ず耳に入ると思っているのだから。そもそも感覚センシングは生まれながらの特別な能力であって、養成して伸ばすには限りがあるだろう。アキラのレヴェルまで到達するはずがない。

「なるほど、それで、この施設のことを調べてみたのですか?」

「ええ、もちろん。しかしミスター・ワタリに尋ねようにもロンドンの事務所は休業中だし、連絡先はわからないし……」

「ここへ来たのはいつです? まさか昨日や今日ではないのでしょう」

「4日前です。それで、他のことを調べていました。手紙の後ろの方に、よい温泉バスを紹介されたと書かれているでしょう?」

「なるほど、ここにありますね」

 "pretty bath"というのがそれだろう。そこが仮の施設ということになっているようだ。

「スイスの近くでよい温泉バスといえばドイツのバーデン・バーデンでしょうから、そこへ行ってみたのです」

「なるほど、確かに有名ですね」

 ドイツ南部のバーデン・ヴュルテンベルク州の都市。“バーデン大公国のバーデンという町”という意味で名前が付けられた。そもそも"badenバーデン"という言葉がドイツ語で“入浴”を意味しているくらいで、ヨーロッパで最も名の知られた温泉地だろう。

 エリーゼは、かつてそこのカジノで仕事をしたことを思い出した。客の持ち物をスリ盗る。防犯カメラの死角を見つけるのが目的で、盗ったものはもちろん後で返した。しかし人生で初めての“賃金のもらえる仕事”だった。確かに、ダイスの仕事先の一つではある。

「しかし何もわかりませんでした」

「そこで何を調べたのです?」

「ホテルを回って、彼女が泊まっているか訊くのですよ。偽名を使っていても、有名人ですから、ホテルのスタッフは必ず気付くはずです」

「有名なホテルほど、スタッフの口は堅いですよ。もっとも、訊く相手にもよりますけれどね。しかし、彼女の行き先はそこではないでしょう」

「他に温泉で有名な都市でしょうか。ハンガリーのブダペストとか、ベルギーのスパとか、チェコのカルロヴィ・ヴァリとか……そうだ、この湖の対岸の、エヴィアンにも温泉があったのでは。先にそちらへ行くべきでしたか……」

「いいえ、違います。スイスの国内ですよ」

「スイスに温泉地などあるのですか」

「はい。しかもレディー・フローラはそれを手紙の中に書いています」

「まさか!」

 驚くグレイソン氏に、エリーゼは手紙を見せながら言った。

「"pretty bath"とありますね。"pretty"に相当するドイツ語に"leukロイク"という単語があります。そして"bath"は"badバート"。"leuk"を形容詞に変えて二つの単語をつなげた"Leukerbadロイカーバート"というのが、スイスの有名な温泉地の一つです」

「そんなところが……」

 驚きのあまり口を開けたままのグレイソン氏に、エリーゼはスマートフォンで地図を表示して見せた。ロイカーバートは、レマン湖から東に50キロメートルほど離れた、アルプス山中の小さな町である。


(続く)

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