第18話 エリーゼの休暇

第1章 ローザンヌにて (前編)

 去年からエリーゼは、秋の長期休暇をスイスで過ごすことにしていた。

 “探偵”という自営業なので、休みは本来なら自由自在。けれど、ほとんど休んだことはなかった。それはヨーロッパにいた頃の経験に由来している。ダイスに付いて各地を回っていた頃、そしてアキラと一緒にロンドンにいた頃、いずれも明確な“休日”はなかった。それでもエリーゼに不満はなかった。働くことは、喜びだったから。シュトゥットガルトでスリをしていた頃に比べて、どれだけ充実していたことか!

 ロンドンから東京に移り、探偵社で通訳兼調査員として雇われるようになって、初めて休日と休暇をもらった。最初の頃は、休みの日に何をしていいかわからなかった。そのうち、アキラが日本のどこにいるのか探すのに使うことが多くなった。大阪にいるとわかり、探偵社を退職して、大阪で自分の事務所を持つようになってから、また休みがなくなった。それでも、アキラの近くで仕事ができて、ときどき関わることができるということの方が、休むことよりも励みになったのだ。

 それが去年、少し事情が変わった。アキラが秋に2ヶ月ほど、ロンドンに出張することになった。もちろん、向こうで溜まっている案件を解決するため。スコットランドヤード以外にも、困っている人がたくさんいるのだった。

 エリーゼはそれに同行しなかった。必要ならアキラに呼ばれると思っていたけれど、声がかからなかったから。そして何より、エリーゼがロンドンへ行くと、また襲撃者が来るかもしれないから。それはアキラに迷惑をかけることになる。アキラだって、必要性の高い案件を優先して、一人でも仕事量の管理くらいできるだろう……と思っていた。もちろん、呼ばれないこと自体はとても寂しかったけれど。

 その代わりが、スイスでの休暇。アキラがいないのなら世界中どこにいたって同じだが、スイスはダイスに付いて回っていた頃に、他の国と比べていいことがたくさんあった、という印象がある。それに自然の景色が綺麗だ。目と心が癒やされる。

 去年はチューリッヒで1ヶ月過ごした。スイス最大の都市で、ビジネスや文化の中心でもあり、博物館や美術館がたくさんある。ドイツ語圏でもあるので、過ごしやすかった。

 今年はローザンヌにした。スイスの西端に近くて、フランス語圏だが、大阪へ移住してからドイツ語と日本と英語以外の言語を使わなくなったので(英語は日本語会話の中によく出てくる)、フランス語を思い出そうと考えたから。

 ローザンヌはレマン湖の北岸にある小都市で、スイス連邦の最高裁判所があるので“司法首都”と呼ばれている。また、国際オリンピック委員会や、いくつかの国際スポーツ団体の本部がある。リゾート地としても世界的に名が通っている。

 同じレマン湖岸なら、西のジュネーヴの方が大きくて、チューリッヒに次ぐスイス第2位の都市なのだが、かつてローザンヌでダイスと共に、とある大きめの事案に関わった、という経験から、エリーゼはローザンヌの方に親しみを感じているのだった。

 そしてそれはローザンヌの人たちとも同じだったようで――もちろん町の人全員ではないと思うけれども――エリーゼが旧市街地のエコノミーな三つ星ホテルを予約したにもかかわらず、湖岸の五つ星ホテル、ボー・ミラージュ・パレスに同じ料金で泊まれることになったのだった! もちろん、ホテルの厚意で。

 エリーゼ自身はその“とある事案”に大きく関わったとは思っていなくて、もしかしたらダイスが裏で手を回してくれたのではないか、とも考えたけれど、とりあえず高級ホテルでの休暇を楽しむことにした。いい部屋と、レストランでのおいしい料理を楽しみ、市街地を観光したり、公園を散策したり、バイクを借りて西端のジュネーブや東端のモントルーへ遊びに行ったり……

 モントルーでは、近くのシヨン城も見に行った。グレートブリテン王国の詩人ジョージ・ゴードン・バイロンの叙事詩『シヨンの囚人ザ・プリズナー・オヴ・シヨン』に登場するその城は、湖の中にまるで浮かぶように建ち、多くの観光客を集めている。詩の中の“囚人”とは、16世紀に城の地下牢に幽閉されたジュネーヴの宗教改革者フランソワーズ・ボニヴァルのことで、その牢を実際に見ることもできる。

 エリーゼは事前にその詩(英語)を読んで、城に入ってから歴史に思いを馳せてみた。もし自分が牢に閉じ込められたら、誰か助けに来てくれるだろうか。それはもしかしたらアキラではないだろうか……などと考えてみたり。しかし、それはアキラに迷惑をかけることでもあり、捕まらないようちゃんと注意しなければならない、などと自分を戒めてみたり。

 そういう空想に浸るだけでも休暇というのは楽しいものだけれど、時には厄介なこともある。シヨン城の中を見ているうちに、若い男に声をかけられた。イングランドのロンドンから来たというその男は、エリーゼよりも少し年上くらい。

「お美しいレディー、休暇ヴァケーションの旅行中ですか? 僕はエドワード・ハードマンといいます。あなたのお名前は?」

「ジェーン・スミスよ。もちろん偽名だけど」

「どこにお泊まりですか。僕はジュネーヴです」

「決まっていないわ。湖の上にヨットを浮かべてそこに寝泊まりしているの」

「いつまで休暇ですか。あと2週間? 3週間?」

「私が仕事をしたいと思うまでが休暇よ」

「次にどこへ行く予定ですか? ヌーシャテル? ベルン? それとも国境を越えてフランス?」

「まだ他へ行きたいと思わないし、いつどこへ行きたくなるかもわからないわ」

 フランス語圏の観光地で、明らかにゲルマン系に見えるエリーゼに対して、英語で遠慮なく話しかけてくるだけでもイングランド人というのは大胆なものだが、エリーゼはそういう手合いでも笑顔でさらりとかわす技術を身につけているつもりだった。

 ところが、うっかりしてローザンヌのホテルまで付いて来られてしまった。バイクの後を、車で追いかけてきたのである。そして男はその日のうちに、宿泊先をジュネーヴからローザンヌに移したらしい。毎日顔を見せるようになった。

 もちろんホテルのスタッフには、その男をシャットアウトするように頼んだし、出掛けるときに付いて来ても、無視するようにしている。そもそも、なぜ目を付けられたのか、エリーゼにはよくわからなかった。去年のチューリッヒでも、街で男から声をかけられることはあったが、彼ほどしつこくはなかった。

 それとも、ローザンヌのような小さな町では、エリーゼの容姿は目立ってしまうのだろうか? 数年前までロンドンにいたときは、近隣でエリーゼの容姿が評判になったこともある(もちろんいい意味で)が、エリーゼ自身は自慢するほどでもないと思っていた。自分自身とアキラのために、できる限り、常に美しくあろうとは思っていたけれど。

 その男の容姿は、エリーゼにとってはどうでもいいことだった。おそらくは、イングランド人の男性の平均的なレベルから、少し上くらいだろう。しかしエリーゼにはアキラこそが至高であり、究極であり、それに次ぐ地位など存在しない。

 では、アキラにとってエリーゼはどういう存在だろう? アキラは一度だけエリーゼに「美しい顔」と言ってくれたことがある。しかしそれは女性に対する儀礼的な比喩であり、「紳士あるいは騎士が護るべき対象」という意味として捉えるべきだろう。

 アキラは“美”という概念を理解するけれども、それを評価することはしない、とエリーゼは思っている。だから彼のパートナーとなるには、美貌ではなく能力を磨かねばならない。アキラの仕事を助けるための能力。そしてアキラが必要と思ってくれる能力。それがどのようなものか、アキラに訊いたことはないけれど、エリーゼ自身が理想とするレベルには、まだ及んでいないと考える。

 それとも、アキラは仕事以外のパートナーを求めるだろうか? 異性としてのパートナー。その女性に“美”が必須と考えるだろうか? 彼は日系人なので、それは日本的な美だろうか?

 エリーゼは日本にいる間に、日本の美にいくらか触れたことがあるけれど、その真髄はまだ掴み切れていないと感じている。茶道、華道、書道、そして日本画。いずれもそれが“日本の美”とは理解するけれど、“どうあれば美なのか”はまだわからない。華やかなだけではない美とは、いかに難解であることか。

 美しいと感じる女性の依頼人や事件関係者も、たくさんいた。共通しているのは容姿だけでなく、所作も美しいこと。それもまた日本独特のものであって、エリーゼが真似るのは難しい。真似るべきでないのかもしれない。それは日本的容姿と強く結び付いているものと感じられるから。そしてアキラが望んでいるかわからないから。

 最も難しいのは、アキラを理解することだろう!

 アキラはエリーゼを導く“光”であって、どんなに追いかけても決して追いつけない。それでもその一端を知り、理解することが、彼に近付く唯一の手立てなのだ。彼を理解しない者を、彼が望むことはないだろう。仕事のパートナーであろうと、異性としてのパートナーであろうと。

 エリーゼはアキラのことを、どれだけ理解することができるだろうか。そしてどれだけ理解すれば、アキラはエリーゼをパートナーと認めてくれるだろうか?


 休暇の始まりから1週間ほど経った、ある日の夕方。

 エリーゼが観光から帰って来ると――その日もエドワード・ハードマンに付きまとわれたのだが――、ロビーでホテルの支配人が出迎えてくれた。そしてご機嫌伺いの挨拶の後で「マダム・ミュラーに内々のお願いがございまして」と言う。

「何でしょう。そろそろ他のホテルへ移った方がいいかしら?」

「とんでもない。何かご不満がございましたか?」

「あら、ごめんなさい。冗談なんです。ここはとてもいいところですわ。全てに満足しています」

「ありがとうございます。実はマダムにご相談があるという紳士ムッシューがおられまして。イングランドアングルテールの方です」

「どのような相談でしょう?」

 まさかエドワード・ハードマンではないかとエリーゼは訝ったが、支配人が「ムッシュー・フィリップ・マルーンという方で」と言ったので、安心した。ただ、それが偽名である場合も考えておかねばならない。

「イングランド貴族のダーム・フローラ・カーマイケルが先日来、行方不明になっているのご存じでしょうか?」

「いいえ、全く」

「ムッシューはダーム・フローラと親しくされている方で、彼女がフランスかこのスイスにいる可能性が高いというので、探しておられるのです。しかし手掛かりが掴めないので、ぜひともあなたにご相談したいと」

「人捜しですか」

 エリーゼの頭に、過去の“とある事案”が思い浮かんだ。それも、ダイスが行方不明の女性――フランスの有名な富豪令嬢――を見つける手掛かりを発見したのである。彼の優れた“センシング能力”をフルに使って。


(続く)

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