第3章 少年の冒険 (後編)
翌日の日曜日からずっと、尊は女スパイのことを気にしなければならなかった。「あいつはやっぱり僕のことを見張っているんだ」。どう考えてもそうなってしまう。
しかし野鳥園には行きたい。付いて来てくれる人はいないので、一人で。それで、一番逃げやすい中央展望塔だけを利用することにした。外の道路から近くて、すぐ横に物流センターもある。昼間しか営業していないけれど、レストランもある。ただ、日曜日はどこも休みなのが困る……
それで、夕方は早めに帰ることにする。日が傾いてきて気温が下がると、鳥たちはなぜか動きが活発になって、よく鳴く。それはもう、合唱のように。そういうときが尊にとって一番楽しいのだが、5時を過ぎると物流センターが閉まって車通りも少なくなるし、助けを呼べなくなる。我慢しなければならない。
日曜日は何事もなく過ぎた。母から「帰りが早いわね」と言われて、理由を言えなくて困ったくらいだ
平日も、学校の後で野鳥園に行くけれど、早めに帰る。もうすぐ夏休みだが、女スパイは休み中も見張るつもりだろうか。
毎日が長く感じられたけれど(家に早く帰ってもすることがないせいだ)ようやく週末になった。女スパイは一度も見ず。“悪い人”も、警察官も来なかった。
そしてこの週末は、久しぶりに頼田が来るような気が、尊はした。ただし根拠はない。2週間も空いたから、というくらい。
学校へ行く日よりも早起きして、朝食も早く食べて、野鳥園に行く。朝のうちはまだ気温が低いけれど、すぐに暑くなるだろう。もちろん水筒も持っている。
中央展望台の近くまで行くと、駐車場に見慣れない車が停まっていた。荷台に大きな銀色の箱を付けた小型のトラック。引っ越しセンターの車のような感じだが、ロゴはない。後ろの両開きの扉が、細く開いていた。
あの作業員が何か運んできたのかな、と尊は思ったが、測量にそんな大きな荷物が必要だろうか。よくわからないまま、園に入って中央展望台の方へ。しかしその近くに、あの作業員と、もう一人、茶色のスーツの男がいて、何か話し合っていた。スーツの男は頼田ではなかった。もちろん、女スパイでもない。
作業員のすぐ横には、薄汚れた布袋が置いてある。測量の道具だろうか。尊が展望台に入らず、二人の様子を見ていると、作業服の男が「知りませんよ、そんなのは……」と不機嫌に言ったのが聞こえた。
「しかし、見えないように設置したと……」
「だから、夜中のうちにそれが……」
会話は断片的にしか聞こえない。スーツの男の方が、偉そうな感じ。尊は聞くともなしに聞いていたが、それは二人の近くを通らないと展望台に入れないので、行きにくいから、というだけだ。
やがて作業員の方が尊に気付いたらしく、スーツの男を誘って、展望台に入ってしまった。そこの方が、尊に聞かれずに話ができるとでも思ったのだろう。しかし尊にとっては場所を取られたわけで、北か南の観察所へ行くしかない。
久しぶりに陸鳥の声を聞きたくなったので、北の方へ向かう。もちろん、「さえずりの丘」「はばたきの丘」に寄り道するつもりで。1時間くらいなら大丈夫だろうし、その頃には展望塔も空いているはず。
まず、さえずりの丘の方に登る。木々の上の方から、たくさんの鳥の声が降ってくる。飛び交う姿も見られる。地面に降りている鳥も! 餌を探しているのだろうか。
もちろん尊は、それらの鳥を驚かさないように、ゆっくりと行動するのだが、見回っているうちに、ある立ち木の下の茂みの中で鳥の羽ばたく音がした。見守っていると、黄緑色の羽毛が上下している。メジロだろう。
ときどき「チー」という声が聞こえる。鳴き声がきれいなので、昔はよく飼われていたそうだ。しかしもちろん捕獲することはできない。
大阪では、禁止になる(平成24年4月1日)以前から飼育登録をしているメジロに限り、飼うことができる。しかし寿命は普通なら5、6年。長くても10年だから、もう飼われているメジロはいないだろう。
メジロを近くで見る機会はめったにないので、尊はそっと近付いてみた。1メートル。50センチ。可愛らしい姿が、はっきり見えた。メジロの方も、尊に気付いたようだ。なのに、逃げるかと思ったら、逃げない。飛び立とうとしているのに、飛べないようだ。怪我をしているのだろうか?
捕獲してはいけなくても、怪我している野鳥を保護することはできる。治ったら放すという条件で。でもそれはしないようにしようと尊は常々思っていたのだが、こんなに近くで見てしまっては、放っておくことなどできない。尊が手を伸ばしてすら、逃げようとしないのだ。
両手の中に収める。しばらくバタバタしていたが、すぐにおとなしくなった。しかしずっと手で持っているわけにはいかないので、被っていた麦わら帽子を脱いで、裏返して、その中に入れた。メジロはおとなしく帽子の底に収まって、尊を見上げて「チィ」と小さく鳴いた。「ありがとう」と言ってくれているような気がする。
さて、怪我を治してやるにしても、どうしたらいいのか。とにかくここではわからない。家に帰って、父のパソコンで調べたら、わかるだろうか。あるいはペットショップか動物病院へ連れて行くか。どちらも咲洲にあるとは思えないので、調べるしかない。
尊が丘を下りて、中央展望塔まで戻ってくると、男たちはいなかった。園を出て駐車場の前を通りがかると、街路樹の枝に、鮮やかな青色の鳥が止まっているのが見えた。
「オオルリ……」
尊は思わず呟いていた。距離にして2メートルほど。こんなに近くでオオルリを見るのも初めてだ。いったん立ち止まり、驚かさないように、と思ってそろそろと歩いたが、やはり飛んでいってしまった。しかし、さっき見かけた小型トラックの荷台に止まったと見えたら、開いた扉から中に入ってしまったではないか。
「ダメだ。中に入ったらどこかに連れて行かれちゃう……」
怪我をしたメジロも心配だが、連れ去られそうなオオルリも心配だ。もちろんこの野鳥園が定住場所と決まったわけではなくて、連れて行かれた先でも生きていけるだろうけれど、トラックの運転手が鳥獣保護法違反で捕まってしまうかもしれない。
駐車場に入り、トラックの後ろへ行って、細く開いていた扉を、もう少し大きく開く。明るくすれば出てくるかと思ったのに、出てこない。代わりに尊の目に入ってきたのは、荷台の中のいくつかの箱だった。いや、網状になって中が見えている……鳥かご?
その箱のせいで、オオルリの姿が見えない。そうなると、尊が中に入って追い出せばいいのではないか。帽子を荷台の中に置き、よじ登る。いくつかの鳥かごを避けて、奥の方へ行こうとしたら、人の話し声と足音が聞こえてきて――もちろん扉の隙間からだ――急に暗くなった。……扉を閉められてしまった?
話し声がしたということは、さっきの二人組だろう。何か言い合っているうちに、中も見ずに、つまり尊に気付かず閉めたのに違いない。慌てて扉の方へ行ったが、閂を掛ける音がして(その間にもずっと声が聞こえていた)、やがて何も聞こえなくなり、しばらくしたらエンジンのかかる音がした。
幸い、荷台の中は真っ暗ではない。前方の上の両脇に明かり取りと換気のためと思われる窓が2箇所あり、目が慣れると中の様子がすっかりわかるようになった。
車が動き始めたので、尊はメジロが入った麦わら帽子を拾い、床の一番明るいところに座った。オオルリはどこへ行ったのだろうか。
いや、それよりも、この車のこと。扉が閉まりそうなときに大声を出すとか、閂を掛けているときに扉を叩くとかすれば気付いてくれたに違いないが、尊の頭のどこかに「これに乗っていれば『鳥を飼っている場所』へ行けるかもしれない」という考えがあったのは事実だ。何しろ、頼田の手伝いをしていた作業服の男の車なのだから。もう一人が誰だか知らないが、頼田の代わりか何かだろう。
では、どれくらいかかるかというと、コスモスクエア駅から新石切駅までは電車で35分かかった。車でもきっと同じくらいで、もう少し山寄りへ行くとしても、1時間はかからないだろう。それくらいならきっと我慢できる。
考えがまとまったのはいいけれど、尊は何だか喉が渇いてきた。水筒を持ってきてよかった。キャップに注いで、一口飲む。横から「チィ」と声がする。メジロが尊を見上げていた。喉が渇いているのだろうか。
キャップにもう少しお茶を注いで、帽子の中に置く。メジロがキャップの中に何度か嘴を突っ込んで、「チィ」と鳴いた。飲んで満足したのだろうか。
そもそもお茶なんて飲ませていいのだろうか。とはいえ、鳥は水たまりなんかの、もう少し汚れた水を飲むことだってあるだろうし……
「ヒー」
オオルリの声だ! 荷台の中で反響して、どこから聞こえたのかわからなかったが、羽ばたきの音がしたかと思うと、明かり取りから床に落ちる光の中に、鮮やかな青色が舞い降りてきた。尊の靴の先から、少し離れたところ。そして尊の方をじっと見ている……ような気がする。
「君のせいで、僕は閉じ込められたんだけどな」
文句を言っても仕方のないことだが、オオルリは「そんなの知らないよ」とでも言うかのように、首を傾げている。そして光の中に留まったままだ。
……もしかして、オオルリも喉が渇いているのだろうか? 尊は帽子の中のキャップを取り出して、足の方へ手を伸ばし、靴の近くに置いた。そして膝を曲げて足を引っ込める。
オオルリはしばらく動かなかったが、やがてチョンチョンと跳ねてきて、キャップの中を何度か
「まだかなあ」
出発してから何分経ったかわからないが、誰に言うともなく、尊は呟いた。電車で石切に行ったときにもすごくかかったような気がしたが、停まる駅と、景色が見えていることで目的地にだんだん近付いているという実感があった。
今回は、ほぼ真っ暗な荷台の中だ。外すら見えない。それでも真の暗闇よりは、いくらかましに違いないが、時間がわからないのが一番不安だった。
帽子の中のメジロが、また「チィ」と鳴いた。「どこへ行くの?」と聞いている気がする。それは残念ながら尊にもわからない。
「怪我を治してあげたいけど、もうちょっと我慢してよ」
きれいな黄緑色の小鳥を眺めながら、尊はそう呟くしかなかった。
(続く)
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