第2章 監視する男と女 (後編)
その後しばらく尊は、頼田に会わなかった。作業服の男性だけを、ときどき見かける。しかし彼は尊に気付くと、すぐにどこかへ行ってしまうので、話しかけることもできない。
それに警察官を見ることもなかった。何よりいいのは“悪い人”を見かけなくなったことだ。もしかしたら警察官に見つかって注意されて、来るのをやめたのかもしれない。野鳥園の平和が保たれることになる!
ただその代わりに、変な女性を見かけるようになった。いや、見かけたといっても3回だけ。しかしたとえ1回でも、ものすごく印象に残る姿なのだ。
まず、女性なのにとても背が高い。尊の小学校の、女性教師の誰よりも高いはずだ。尊の父と同じ、170センチくらいあるかもしれない。近くで目にしたら「大女」と言ってしまいそうになるだろう。
そしてスーツを着ている。しかも白の! その下のシャツはストライプ柄で、ネクタイは赤。そして白い帽子を被っているのだ。印象に残らないわけがない。
それに白いズボンを穿いているので、尊は最初、男だと思った。背が高い上に、髪が短かったこともある。けれど、よく見たら胸がある。しかもとても大きい。
肌も白いから、外国人かもしれないとも思った。ほとんどの外国人は、男も女も日本人より背が高いのを、尊は知っている。ところがその人は黄色いサングラスをかけているので、目元がよくわからないのである。口元に、常に笑みを浮かべているのがわかるだけ。
けれどとにかく、サングラスをかけているのだから、いい人ではないだろうと尊は思っていた。あの“悪い人”の仲間かもしれない。きっとそうに違いない。
そしてたぶん外国人。女の外国人で、スタイルがいいとなれば、それはきっとスパイだ。尊はそう信じた。なぜなら尊の父がときどきテレビで見ているスパイ映画で、登場する“女スパイ”はみんなそういうタイプなのである。
彼女はおそらく“悪い人”に頼まれて、彼の代わりに尊のことを監視しているのだろう。そのうち近付いてきて、優しい言葉をかけて――あるいは困っている外国人のふりをして――尊を騙そうとするかもしれない。映画の中の美人スパイは大人の男性を騙して情報を奪ったり殺したりするけれど、子供が相手ならきっと誘拐しようとするだろう。絶対に油断しないぞ、と尊は心に決めた。
“悪い人”を見かけて以来、尊は防犯ブザーを常に持っているけれど、野鳥園のように人が少ないところでは、役に立たないこともある、と知っている。捕まったらブザーをどこかへ捨てられるだろう。それから目隠しされて口を塞がれて、園から出て車に連れ込まれたら、誰にも気付かれないかもしれないのだ。
ただ、こういうことをいろいろ考えるせいで、野鳥の声を聞くことに集中できなくなってしまった。周りの、人の気配に常に注意しなければいけないから。とてもつまらないことになったと思う。
それに頼田が言っていた「鳥を飼っている場所」も気になる。もしそこへ行けたら、“悪い人”も女スパイも気にせず、思う存分鳥の声が聞けるのに!
その場所を調べることはできないだろうか。尊はこの前、頼田が帰るときに、彼が乗ってきた車をよく観察しておいた。ナンバープレートの文字や番号はちゃんと憶えた。それから車の色と形を憶えた。形は、学校に行って、車が好きな友達に説明して、メーカーと車種を教えてもらった。尊が車に興味を持つなんて、とその友人はとても驚いていたけれど、理由は聞かれなかった。たぶんもう気にしていないに違いない。
ただ、これだけの情報で探せるかというと、よくわからない。頼田の住んでいるところがわかるだけかもしれない。でもそれではあまり意味がない。鳥をたくさん飼っているのなら、自宅ではなくて、静かなところにある大きい建物、という気がするから。
それを生駒の方で探そうにも、広すぎて探しきれないだろう。山奥の一軒家とかだったら、行くだけも大変だ……
じゃあ、他に探してくれる人はいないだろうか?
そういう職業があることは、尊も知っている。人探しといえば、探偵。もちろん人だけではなくて、建物だって探してくれるだろう。人を探してから、その人について行けばいいのだから。
そしてこの咲洲の中に、探偵事務所があるという噂を聞いたことがある。残念ながら、尊のクラスの友達で、その場所を知っている人はいなかった。けれど、「『探偵のことを知ってる人』を知っている」という子を見つけることができた。
きっかけは、昼休みに「ケイドロ」という遊びをやったときのこと。体育の時間に「昔の遊び」の一つとして先生が教えてくれたもので、鬼ごっこの団体戦のようなゲーム。探偵チームと泥棒チームに分かれて、泥棒チームはいろんな場所に隠れ、探偵チームが泥棒チームを全員捕まえれば役割交代。地方によっては「探偵」とも呼ばれるらしい。
それを男子生徒だけでときどきやる。尊が探偵チームになったとき、「本当の探偵は泥棒を捕まえることなんてしない」と誰かが言い出し(もちろんゲームのルールとは関係なしに)、じゃあ何をしているのか、どこにいるのか、などと話しているうちに、別の誰かが「『探偵のことを……』」と言ったという次第。
その「別の誰か」は隣のクラスの子で(つまり誰かの以前のクラスメート)、尊は名前を知っているだけだったけれど、何度か遊んでいるうちに、つい先日、首尾よく聞き出すことができたのだった。
さらにその『知ってる人』から探偵事務所の場所を聞き出すのにもちょっと苦労したのだけど、それはさておいて、その日の放課後、尊は家に帰ってから、珍しく野鳥園には行かず、探偵事務所を訪ねることにした。
それは住宅地ではなく、咲洲東側の工場地帯にあるとのこと。住宅地は子供たちの遊び場になっているので、もしそこにあれば一度くらいは看板を見たことがあるはず。しかし、工場地帯では噂にすらならない、というのがようやく理解できた。工場地帯は大型車がたくさん走っているので、なるべく近付かないようにと、親にも学校にも言われているのだ。
道行く車に気を付けながら、目的の地番を探し出す。看板に「探偵」という漢字が書かれていることを考えて、わざわざ調べてきたのだけれど、なぜか見つからない。しかしどう見ても閉鎖されたとしか考えられない白い建物が、その地番なのだった。探偵はもう引っ越したのだろうか。
しかし正面玄関と思われるガラス戸のところへ行くと、貼り紙があって、「探偵事務所は裏へ」となっている。そして建物の裏手へ行くと、非常階段があった。登ると、白い鉄の扉に「湾岸探偵事務所」の文字。ようやく探し当てた。
緊張しながらノックをすると、中で声と足音がしたようなのだが、誰も出てこない。気のせいか、留守かと思って尊が帰りかけると(もう一度ノックをする勇気がなかった)、中で何かこすれるような音がして、扉がゆっくりと開いた。
そしてケーキ屋の店員のような顔の(単に顔つきからふわっと軽い印象を持っただけである)年齢不詳の女性が出てきて「はい?」と疑問形で聞いてきた。その顔で、尊は尋ねる気になった。
「あの、ここ探偵事務所ですか?」
「そうですよ」
「おばさんが探偵ですか?」
「おばさんと違います、お姉さんです」
そう言われても尊にとっては「おばさん」に見えるのだからしかたない。年齢はきっと倍以上なのだ。しかしこういうときは相手の機嫌を損ねないようにしないといけない。
「じゃあ、お姉さんが探偵ですか?」
「えーっと……違います。探偵さんは今、お留守です」
“お姉さん”は表情だけでなく、しゃべり方もふわっとしていた。確かに、探偵とは思えない。本物の探偵は頭がよくて、はきはきしゃべるはずなのだから。
「じゃあ、お姉さんはここで何をしてるんですか?」
「えーっと、留守番です」
「探偵はお仕事中ですか? いつ帰ってくるんですか?」
「ようわかりません。帰ってくるときは電話があるんです」
「じゃあ、明日来たら会えますか?」
「さあ……何か依頼してようとしてます?」
さあ、とはどういうことだろうか? 探偵が事務所に帰ってこないことなんてあるのだろうか。尊にはよくわからない。しかし「依頼できるかどうか知りたいんですけど」と言っておく。
「あなたの依頼? それともお父さんかお母さんの?」
あなた、と言われるとは思っていなかった。この手の人なら普通は「僕」と呼びかけてくるはずなのに。
「僕の依頼です」
「それは……ちょっと無理やわ。ここの探偵さんは、未成年の依頼は受け付けはらへんねん。よっぽど深い事情があればやってくれはるかもしらへんけど。例えば行方不明になったお父さんかお母さんを探すとか」
「それ以外の人は探してくれないんですか?」
「んーと、おじいちゃんとかおばあちゃんなら」
「それ以外は?」
「うーん、まあ無理やと思うわ」
それからその人は、なぜか部屋の中をちらりと見て、それから尊の方へ顔を戻して「無理やと思うわ」ともう一度言った。中に誰かいるのだろうか。
「そうですか。他の探偵もそうなんですか?」
「それは頼めばやってくれるかもしらへんけど、人探しはすごいお金かかるんよ。何万円もするけど、払える?」
依頼料が必要とは思っていたけど、そんなにかかるのかと尊はがっかりした。とても払えない。
「無理です。すいません」
「人を探すんやったら警察に頼むこともできるけど?」
「警察って悪い人を捕まえるだけじゃないんですか?」
「行方不明者を探すのは警察もやるんよ」
尊が探したい相手は行方不明というわけではないから、やっぱり無理だ。それにあまり警察に関わりたくないようだし。
「じゃあ、諦めます」
「あら、そうなん。ふーん」
それからその人は尊のことをじろじろと見てくる。探偵に依頼があるなんて、変な子、とでも思ったのか。相手が扉を閉めてから帰ろうと尊は思っていたが、観察されるのは嫌なので、頭を下げて「さよなら」と言ってから、階段を駆け下りた。
「鳥を飼っている場所」を探すのに、別の方法を考えなければならない。
(続く)
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