第2章 監視する男と女 (前編)

 尊が頼田と話をしてから1週間ほど経った。その間、頼田は野鳥園に来なかったが、尊はもちろん毎日来ていた。そして頼田が来ない代わりに、薄緑色の作業服の男性を、尊は2、3度見かけた。中央展望塔から北観察所へ移動中、緑地部を通っているときだ。

 緑地部には8の字を描く道と、その上下の「まる」の左右の端どうしをつなぐ道が作られていて、中央展望塔から北観察所へはその左側(西側)を通る。木がたくさん植えられた並木道だ。そして二つの「まる」の中には「さえずりの丘」と「はばたきの丘」という築山が作られている。

 もちろんその丘へ登ることもできる。尊が陸鳥の声を聞くためにそこへ寄り道すると、作業服の男性は双眼鏡で木のてっぺんの方を見上げていた。

 尊は声をかけなかったが、彼は尊が来たのに気付いて双眼鏡を覗くのをやめ、ぶつぶつと何か呟きながらどこかへ行ってしまう。挨拶をすることもない。尊が来たのが、何かの作業の邪魔になったのかもしれない。

 しかし怒られたり睨まれたりするわけではない。その点は、あの“悪い人”よりもいくぶんましだ。ただし“悪い人”は睨むだけで怒ったりはしないのだが……

 彼が何の作業をしているか話してくれたら、尊は手伝えることあるかもしれないと思っていた。しかしどうやら邪魔になると思われているようだ。頼田が尊のことを、彼に話していないのかもしれない。頼田に相談してみたかったが、来ないのではどうしようもない。

 その日も作業服の男性に無視された後、尊が北観察所へ行くと、見慣れない男がいた。ひょろりと背が高く、顔が長く顎がしゃくれていて、猿によく似ている。背の高いチンパンジーだ。ただ、その風貌のため、この自然の中に溶け込んでいると言うか何と言うか。ワイシャツにグレーのスラックスという姿が不自然に思えるくらい……

「おや、子供が来よった。珍しい。こんにちは」

 男は観察所の中に作られた四阿あずまやのベンチに座っていたが、自分の方から挨拶してきた。やけに親しげだ。しかも全身から「怪しくありませんよ」という雰囲気を醸し出しているのを、尊は感じた。まるでお笑い芸人のように。

「こんにちは」と尊も挨拶を返す。ただ、四阿あずまやには近寄らず、観察のために白壁に作られた窓(お城の塀に作られた覗き穴を想像させる)の方へ行こうとした。ところが男の方から尊に近付いてくる。

「一人で来たんかいな」

「そうです」

「おっちゃん、怪しいもんちゃうで。警察官や。ちょっとだけ話させてくれるか」

 男は言いながらワイシャツの胸ポケットから定期入れのようなものを取り出してきて開いた。もちろん警察手帳。尊は本物を初めて見た! そのせいで、本当の本物なのかどうかがよくわからない。しかしこの前、頼田が警官とよく会うと聞いたのに、尊は会ったことがないので、なぜだろうかと考えたばかりだ。妙なことがあるものだ。

「何ですか?」

 尊は立ち止まって、男が近付いてくるのを待った。男は尊のすぐ近くに来るまで、手帳を開いたままだった。顔写真と名前がよく見えるように、と言うことだろう。ただかなり遠くの時点で、尊はその写真が男と同じ顔であり、名前が「門木聡一郎」と書かれているのを読み取った。ただし、読み方はよくわからない。「○○き○○いちろう」だろうが、門は「もん」か「かど」か。聡は学校では習っていない。

「かどきそういちろう。そこの臨海署の、生活安全課という部署なんや」

「生活安全課?」

「防犯とか、環境問題の事件を調べる部署でな」

 防犯はともかく、警察が環境問題を調べているとは尊は知らなかった。公園のパトロールもするのだろうか。そういうのは、制服を着た警察官がするものと思っていた。

「ここで何か環境問題があるんですか? ……あっ、誰かがゴミを捨ててるとか?」

「うん、そういうのも調べる。他には、公園の中を荒らしてる奴がおらんかとか、浮浪者が住んでへんかとか」

「ふうん」

 しかしやはり制服の警察官がすることのような気がする。あるいはNGOの人が定期的に見回りをしているのではないのだろうか。尊はなぜかそういう人にも会わないのだけれど。

 門木はようやく警察手帳をポケットに戻した。それから尊に名前と学校、学年を聞いてきたので、答える。

「ここにはよう来んのかな」

「はい」

「一人で? それとも友達と?」

「いつもだいたい一人です」

「今日はたまたま一人というわけでもないんやな」

「はい」

「月に何度くらい来る?」

「だいたい毎日」

「毎日?」

 門木はメモもせずに尊の答えを聞いていたが、そこだけ驚きの声で――しかもわかりやすい驚きの表情で――聞き返した。やはりお笑い芸人の演技のよう。

「はい、だいたい毎日です。先々週の、雨が降った日は来ませんでしたけど」

「毎日、何をしに来んの」

「鳥の声を聞きに」

「ほう、それは風雅な趣味やなあ。いろんな鳥の声を聞き分けたりするんか」

「はい」

 尊はいくつかの鳥の例を話した。門木は興味深そうな表情で聞いているが、どれくらい理解しているかは定かでない。そういう場合、尊は張り合いがなく感じてしまう。やはり頼田のようによく知っている人でなければ……

「そういう人、土日になったらようけ来んのやろ。それとも、平日にも来る?」

「来ることもあります」

「何度も来る人もおる?」

「います」

「みんな知り合いかいな」

「そういうわけでもないです」

 話をしたことがない人もいる、と尊は説明した。ただし、サングラスの“悪い人”を名指しはしない。そもそも名前も知らないのだし。

「そうか。ようわかった。もし、危ないことをしてる人がおったり、君が危ない目に遭いそうになったら、警察へ知らせてえな。携帯は……さすがに持ってへんのか、小学生では」

「クラスには持ってる人もいるけど、僕は持ってません」

「湾岸署はこの近くやけど、急ぎやったらそこら辺の物流センターの事務所にでも頼んで電話かけてもらうとか」

 野鳥園のすぐ南側は南港の埠頭があり、コンテナ船が発着するので、多くの物流センターが事務所を構えているのである。

「わかりました」

「ほな、ごゆっくり」

 子供向けとは思えないような挨拶を残して、門木は去っていった。尊はこの前、頼田から聞いたことを思い出した。確かにこういう話を、警官に会うたびに毎回していたら大変だろう。門木は子供が相手とあって物腰が柔らかかったが、大人が相手なら疑り深く聞くのかもしれない。


 それからしばらくして、尊が南観察所へ行こうと中央展望塔の近くを通りがかると、頼田がいた。向こうから先に「やあ」と声をかけてくる。

「こんにちは」

「やっぱり今日も来てたね。私は他に用があったので1週間ぶりになってしまったよ。北の方へ行っていたかな? ちょっと時間があれば、協力して欲しいことがあるんだが」

「何ですか?」

 手伝うことはないかと聞きたかったくらいなのに、相手から切り出してくれたので、尊は喜んだ。

「鳥の声を聞いて、ここへ来たことがあるか教えて欲しいんだ。今ごろの季節の鳥も混じっているが、他の季節の鳥も……」

 頼田はスマートフォンにイヤーフォンを取り付け、耳に入れて聞くようにと尊に渡してきた。尊がそれを耳に付けると、男はスマートフォンを操作していろいろな鳥の声を再生した。聞いたことがある声もあれば、全く知らないものもある。それについて尊が「ある」「ない」を答える。「ある」のときは季節や場所を聞かれた。頼田はそれらを手帳に書き込んでいる。

「ふうむ、君の記憶力はすごいな。私なんか、聞いたことがあってもいつどこでなんて思い出せないし、他で聞いたものとごっちゃになってしまう」

「ところで、これはどこで録音した声なんですか?」

 尊が聞くと、頼田は「ん?」と怪訝な表情を見せた。

「どういう質問かな、それは」

「とても声なので、野外で録音したように思えなくて」

 、は「美しい」の意味ではなく、「邪魔が入ってない」の意味。他の鳥の声も、雑音もなく、まるでマイクに向かって鳴いているかのように、音量が揃っていた。尊にはそう聞こえたのである。

「ああ、そのことか。うん、これは室内で録音したものでね」

「部屋で野鳥を飼ってるんですか?」

「うん、調査用にね。もちろん一時的だし、役所に申請もしているよ」

「いっぱいいるんですか?」

「ああ、いるよ。ちょっとしたペットショップのような状態だな。鳥専門のね。もちろん入れ替えが多い。少しの間しか飼えないからね」

「どこにあるんですか?」

 そういうところがあるのなら、一度は行ってみたいと尊は思った。普通のペットショップに行っても、オウムやインコ、文鳥などの飼い鳥の声しか聞けないのだから。

「それは……生駒の方に」

 生駒というと、ここからは真東の方角だ。奈良県との県境にある山。咲洲内のちょっと高い建物に登れば見ることができる。現に尊の住むマンションからも。

 それに小学校の遠足で登山をしたことがあるので、「見えているけれどもけっこう遠い」ということも知っている。

「連れて行ってくれませんか? 野鳥の声を、近くで聞いてみたいんです」

「それは……ちょっと無理だな。仕事に関係ない人は、入れられないんだよ」

 もちろんそういう答えが返って来ると、尊は思っていた。しかし思いきって聞いてみたのである。しかし「聞きたいのなら、次はなるべくたくさんの声を持ってくるから」と頼田は言ってくれた。ただし次にいつ来られるかはわからないらしい。でも尊が毎日来ればいいだけのことである。


(続く)

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