第1章 野鳥園の少年 (後編)
その日も尊は野鳥園に来た。日射しが強くなったので、大きな麦わら帽子を被って。去年、
いつものように、展望塔で園内を眺め、鳥たちの声を聞く。気温が高いと、鳥はあまり活動をしない。やはり暑いのは鳥も苦手のようだ。陸鳥は木陰でおとなしく鳴いている。水鳥だけが、機嫌よく海に浮いている。双眼鏡で覗くと、ときどき潜っている。魚を食べているのかもしれない。
今日は悪い人はいない。いい人だけがやって来た。黒い自動車に乗ってきて、園の横の駐車場に停める。音が静かだから、電気自動車かハイブリッド車だろう。ちゃんと環境のことを考えてくれているのだ。
尊が展望塔にいると、その人は塔に来ない。塔と言っても通天閣のように高くはなくて、せいぜい2階建てのベランダくらいの高さ。屋根もあるし窓もあり、おそらくは鳥たちから塔の中にいる人が見えないような、マジックミラーのようになっているはず。
とにかく、その人は棟に入ってこなかった。しかし今日は別の男性と一緒だった。頬のこけた中年で、電気工事の作業服のような、薄緑色のつなぎを着ている。
二人は塔の脇から園内を見渡し、あちこち指を差して――主に森の方を――何か話し合っていた。話の内容は聞こえないが、作業服の人は研究の助手か何かだろう、と尊は思った。
作業員は去ったが、スーツはまだ塔の脇に立っていた。鳥たちの生態を観察しているように見えた。それで尊はちょっと勇気を出して、彼に話しかけてみることにした。塔を出て、後ろから近付く。足音を立てなかったつもりだが、彼は察知したか、振り返って尊を見た。
「こんにちは」
「やあ、君か。こんにちは。よくここに来ているね」
彼は少し驚いたようだったが、すぐににこやかな笑みを浮かべた。尊は自分の自己紹介――名前と小学校名――を言い、相手の名前を尋ねた。
「何のお仕事をしてるんですか。野鳥の研究ですか?」
尊はできるだけ丁寧な言葉遣いで聞いた。目上の人と話すときにそうしなさいというのは、ちゃんと学校で教わっている。
「研究というわけじゃないな。調査だよ。この野鳥園の、どこにどんな鳥が来ているかをね」
頼田の答えでは、研究と調査の何が違うのか、尊にはわからなかった。研究者ではなく、調査員だと言いたかったのかもしれない、と想像してみる。鳥の分布を調べるだけで、生態を研究しているのではないと。
「何のために調査するんですか?」
「それは……うん、実は、ここと同じような海辺の干潟を、他のところにも作る計画があってね。そのために、広さや干潟の配置や木の植え方なんかを、参考にしようとしているんだ」
なるほどそれなら確かに研究員ではなく、調査員というのだろう。尊は納得した。
「他のところってどこですか?」
「それはまだ言えないんだよ。計画段階だからね」
「じゃあ、建設会社の人なんですか?」
「それも違うな。その会社から依頼されて、調査をする仕事なんだ」
家を作るのは一つの会社だが、公園を作るにはいろんな会社が仕事を分担しているのだ、と頼田は言った。そういうことを尊は、社会科の授業で習ったかもしれない。
尊は学校の勉強は、好きでも嫌いでもない。理科だけははっきりと得意だが、その他は別に苦手というわけでもない。ただ、授業をちゃんと聞いていれば、テストではそれなりの点が取れていた。
放課後、なるべくすぐに野鳥園に来られるよう、宿題は休み時間に済ませている。そのせいで尊の母親は、担任教師との面談の時に「この学校ではどうして宿題を出さないんですか?」などと質問したらしい。担任は「彼は学校でやっているようです」と問題にもしなかったのだが、母親は後で尊に「宿題は家でしなさい」と注意してきた。どこでやろうが同じなのに、どうしてそんな理不尽なことを言うのだろうと尊は思ったくらいだ。
とにかく、鳥の研究をするにも、一つの会社だけではできないのかな、と尊はこのとき感じた。それなら理科だけでなく、社会科や、他の教科も一生懸命取り組むべきかもしれない。そうしないと会社のつながりがわからないだろう。
それから頼田は尊に、最近聞いた鳥の鳴き声を憶えているか、尋ねてきた。尊はこの一ヶ月ほどのことを答えた。もちろん、日時と場所を合わせて。頼田はメモを取りながら「よく憶えているねえ」と感心している。尊はちょっと得意になった。鳥のことで褒められたのは初めてだったのだ。
「これからもいろいろ教えてくれると助かるよ」
「じゃあ、憶えておきます。ところでさっきいた人は、何をしに来たんですか?」
「さっき?」
薄緑色の作業服を来た男性のことを尊が言うと、頼田は「ああ、彼か」。
「彼は、ここの地図を作る作業員だよ。ときどき来て、測量をしているんだ。その地図の中に、鳥の分布を書き込むんだよ」
「地図は最初からあるんじゃないんですか? 大阪市が作った……」
「ここは、今はどこも管理していないからね。それに、時間が経てば少しずつ変わってくるから。干潟の形も、植生もずっと同じじゃないんだよ」
なるほど、と尊は思った。植生――木の生え方はそんなに大きく変わることはないだろうが、干潟の方は外の海と繋がっているので、砂の出入りがあるだろう。実際、尊はずっとここを見ていて、干潟の形が去年から少し変わったように思っていたのだ。
「その地図って、作ったら見せてもらえませんか?」
「うーん、それは難しいね。お金をもらってしている仕事だから、無関係な人には見せられないんだよ」
そういうものか、と尊は思った。趣味で作っているのならインターネットで無料で公開してくれるかもしれないが、お金がかかっているのなら、それは商品ということになってしまうのだろう。
ただ、尊が見るところ、頼田は時間はかけているけれどもそれほどお金をかけていないようだ。それとも、時間をかけることがお金をかけることなのだろうか。それを人件費というのかもしれない。
「他にもこういう仕事をしている人がいるんですか?」
「どういうことかな?」
尊は“悪い人”のことを頼田に話してみた。もちろん、その人が悪人であると断定したわけではない。サングラスをかけていて、こういう服を着ていて、年齢は何才くらいで……と説明すると、頼田は「ああ、あの男か」と言った。少し不機嫌そうな表情になった。
「確かにたまに見かけるね。しかし、同じ仕事かどうかは知らないな」
「すごく怖い目で鳥たちを見てるんです」
「そうなのかい。挨拶をしたこともないのでね」
「いつも一人で来ていて、他の人を連れて来たりはしないんです。……警察に言った方がいいですか?」
「警察? どうして警察に」
頼田は今度は驚きの表情を見せた。
「だって、野鳥を観察するだけじゃなくて、捕まえようとしてるかもしれないから……」
「捕まえようと……確かに、それは悪いことだがね」
頼田は苦々しい表情になって、腕を組んだ。そして尊から視線を逸らす。変なことを言ったかな、と尊は後悔した。
「しかし、捕まえているところを見たわけではないんだね?」
「はい、ないです」
「では警察には言うべきじゃないね。もちろん言わなくても警察は、ときどき巡回には来ているだろうよ。私も何度か質問をされたことがあるからね」
「僕はないですけど」
「そりゃ、君は子供だから。それに網を持っているわけでもないし」
捕まえそうなら注意するということか。頼田は続けて、「警察の見回りが多いと、仕事がやりにくくなるんだよ」と言った。
「どうしてですか」
「身分証を見せたり、目的を説明したりしないといけなくてね。警官は、同じ人が見に来るんじゃないんだよ。しょっちゅう人が変わっていてね。もう7、8人は説明したんじゃないかな。煩わしくてかなわない」
あの“悪い人”も、警官に何度も質問されたのだろうか。何という名前で、何のためにここへ来ているのか、警官から聞くことはできないか……と尊は考えた。それより、どうして尊自身は警官と会わないのか、不思議でならない。
「じゃあ、警察には言いません」
「そうしてくれ。ああ、その代わり、その男を、いつどこで見かけたか、教えてくれるかな。注意しておくから」
「わかりました」
頼田も怪しいと感じたのに違いない、と尊は思った。それで、憶えている限り、“悪い人”のいた場所と日時を頼田に説明した。そういうことを憶えるのは、実は尊は得意なのである。ただし、そのとき聞いた鳥の鳴き声を結びついている、というちょっと変わった記憶なのだが……
(続く)
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