第16話 少年と野鳥の謎
第1章 野鳥園の少年 (前編)
大阪湾に浮かぶ
森と池のある公園や、コンクリートの護岸を持つ川もそうだけれども、もう一つ、もっと自然に近く、たくさんの野生生物が棲めるように作られたスペースがある。
南港野鳥園。
元々、咲洲は全ての領域が埋め立てられる予定だった。しかし造成途中の湿地に渡り鳥が飛来し、このまま埋め立てが進むとその居場所がなくなってしまうと危惧されたことから、NGO団体が市に要望し、島の北西部が人工干潟として残されることになったのだ。1983年。日本で最初の事例だった。
面積は19.3ヘクタール。そのうち湿地部12.8ヘクタール、緑地部が6.5ヘクタール。年間に飛来する鳥は、
湿地部は北池、西池、南池の三つの水場があり、島外と導水管で繋がっていて、魚や干潟の生物が棲んでいる。緑地部には野鳥だけではなく、小動物や昆虫が棲息している。
中央に展望塔、南北に観察所が置かれていて、鳥や動物たちの様子を見ることができる。もちろん、捕獲することは許されない。
元は大阪市の施設だったが、残念ながら平成25年度をもって廃止された。管理事務所が閉鎖され、職員やレンジャー(案内人)は常駐しなくなった。しかし臨港緑地としては存続し、NPO団体が管理している。
365日、24時間、自然を観察することができる、“人工的な自然”なのだった。
咲洲にある南港小学校の6年生。学校が終わると、ほとんど毎日来る。大雨が降るか、大風が吹かない限り。友達と遊ぶこともなく、塾へ行くこともなく。
尊はここで鳥の声を聞くのが好きなのだ。
初めて来たのは小学校低学年の時。学校から見学に来た。その後は、友達と遊びに来ることもあった。しかし4年生になってからはほとんど一人で来ている。その頃は週に2、3度だったが、だんだん増えてきて、今では毎日のように。
鳥の声を聞くのがなぜ楽しいのか、尊自身にもよくわからない。とにかく好きだというだけ。しかし、いくつもの鳥の声を聞き分けることができるのはわかっていた。
今ごろの季節なら、ウグイス、オオルリ、メジロ、コマドリ、ヒバリ、チドリ、キビタキ、クロツグミ、ホオジロ……
夕方に聞いた鳥たちの声を憶えて、家に帰ったらパソコンで鳴き声を調べて、「これがいた」「これもいた」と確認し、別の鳥の鳴き声も憶えて、また次の日に聞きに行く。その繰り返しで、数十種類は憶えただろうか。
春、夏、秋、冬と季節が巡って、「去年も聞いた」というのを思い出したときなど、どれほど嬉しいことか。
自分の耳がいい、つまり聴力が優れているということは、尊は小さい頃から気付いていた。例えば、尊の家族はマンションに住んでいるが、夜に父が帰ってくるのは、エレベーターから降りる足音で気付く。家のドアとエレベーターは、30メートル以上も離れているのに。
あるいは、教室の一番後ろの席に座っているのに、授業中に先生が腕に着けている時計の秒針の音が聞こえるとか。
そうなると「いろいろな音が聞こえすぎて、うるさいんじゃないの?」と聞かれることがあるが、「聞きたくない音は、聞かないようにしている」と尊は答える。実際に、無意識のうちにそうしているのだった。
音の感覚もいい。絶対音感はあるかないかわからないけれど、相対音感は間違いなくいい。一度聞いたメロディーは頭の中で正確に再現できる。だからもう一度同じようなメロディーを聞いて、違いがあれば指摘することができる。残念ながら、ピアノなどで再現することはできない。
声についても同じ。人だけではなく、動物の声も、一度聞いて憶えたら、忘れない。その中で一番好きなのがやはり鳥の声なのだった。もし、鳥の声を研究する仕事があるのなら、将来はそれをしたいと尊は思っていた。
しかし、野鳥を飼うことができないのは、知っていた。それは父から教えてもらった。鳥を捕まえて飼いたいと、相談したとき。鳥獣保護法という法律があって、決められた種類の鳥だけを、捕まえたり飼ったりすることができるのだと。
怪我した鳥を保護して世話をするのも制限があって、怪我が治ったらすぐに放さないといけないらしい。もちろん、世話をしている間に情が移ってしまって、放すのに躊躇するようになるのはわかっているので、尊は飼いたくても飼えなかった。だからただ鳴き声を聞いて、ときどき双眼鏡で木に止まっているところや、空を飛んでいるところを見るだけで満足していた。――今のところは。
尊は何度も野鳥園に来ているので、同じように、何度か来ている人の姿を憶えている。それは2種類あると、尊は思っていた。いい人と、悪い人。
いい人の代表は、紺のスーツを着た人。中年の男性。三十歳くらいだろうか。尊の父が会社へ行くときと同じような姿をしている。季節によって、ネクタイを外していたり、上着を脱いでいたり、コートを羽織っていたりするけれど、概ねきちんとした身なりだ。
その人も尊のことを憶えているらしくて、尊が「こんにちは」と言うと、挨拶を返してくれることが多い。挨拶だけでなく、何度か話したことがあるのだが、野鳥園の管理をするボランティアの人ではないようだ。しかし鳥の名前をたくさん知っていて、「今日は○○は来ているかい」などと尊に聞いてくることもある。
もしかしたら、尊の憧れの職業である鳥の研究者かもしれなくて、機会があればもう少し話してみたいと思っていた。しかし仕事中なら邪魔をしてはいけないと尊は考え(何しろ話をしていると鳥の声が聞けないのだ!)、遠慮しているのだった。
悪い人の代表は、紫色のサングラスをかけた人。若い男。いい人よりも、もう少し若い。けれど、身なりはよくない。たいていはポロシャツにジーンズ、寒い季節はブルゾンを羽織って、厳しい表情で園内を睨んでいる。もし鳥たちが、人間の視線にも敏感なら、気付いて飛んで行ってしまいそうなほどだ!
もちろん、サングラスをかけているから、その下の目つきは、尊にはよくわからない。しかし表情が冷たいのだから、視線だって冷たいだろう。
そもそも「色眼鏡をかけている人には気を付けてよ」と祖母から言われたことがある。目を隠すのは、心に何かやましいことがあるからだと。信用してはいけないらしい。
だから尊は、その男が来たのに気付いたら、他のところ――そこが展望塔なら南か北の観察所――へ逃げることにしていた。そして双眼鏡で、男の様子を観察してやる。
男は微動だにすることなくその場に立って、園内を見つめるだけ。何を見ているのか、聞いているのかは、もちろんわからない。もしかしたら鳥を捕まえるために、生態を調べているのではと、尊は思ったことがある。そんなそぶりは、まだ一度も見たことがないけれど。
ただ、尊が長く観察していると、視線をこちらへ向けることがある。尊の方へ顔を向けるというだけではなく、視線を合わせてくるのだ。もちろん、尊はすぐに男を観察するのをやめる。怖いから。なぜ尊が見ていることに気付くのだろう?
そして、鳥たちはあの視線に気付かないのか、と尊は心配してしまう。人間が見ても怖いのだから、鳥だって怖いに違いなくて……それなのに、あの男のせいで鳥たちが逃げた、と思えるようなことは、一度もないのだった。
いったい何者なのか。何の仕事をしているのか。いい人同様、気になるけれど、尊はその男に一度だって声をかけたことがなかった。近付くことすら恐れていた。
(続く)
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