第7章 店主の秘密
雪美と天川弁護士、骨董店主はいったん応接間に戻ったが、探偵は「警察へ参りましょう」と既に帽子をかぶって待っていた。つばの角度をさかんに気にしている。そして雪美や天川が何も訊いても「警察でお話しします」と答えるばかり。
しかたなく、雪美と天川は警察へ行くことにした。骨董店主も行きたそうにしていたが、事件と関わりが薄そうなので、天川が丁寧に断った。
臨海署まで徒歩10分。会議室のような部屋で待っていると、しばらくして板東刑事が入ってきた。盗難品である4冊の本を持っている。ただ、雪美はその本が本当に盗まれたものであるか、わかっていない……
「ご安心ください、ちゃんと写真を撮ってあります。そうですね、アマさま」
「そのとおり。これで照合できます。古書は製本するときの断面に特徴が出るらしいですな。製本した後で周りを裁断しないのですよ。だから微妙な不揃いが出る……」
上の断面を“天”、下の断面を“地”、横を“小口”と呼ぶ。昔の製本ではあらかじめ本の大きさに切った紙に印刷し、端を揃えてから背を綴じるのだが、裁断したかのようにきっちり揃うことはない。
現在でも、一部の本(特に文庫)は“天”が不揃いになることがある。糊付け製本時に“しおり紐”を挟む場合、“天”を裁断すると“しおり紐”が切れてしまうので、裁断できないのだ。
ちなみに単行本(上製本)の場合、本文の背を綴じてから3面を裁断し(化粧断ちという)、表紙・背表紙と糊付けする、という手順になっている。“しおり紐”は背表紙を付けるときに挟み込む。手数がかかるので価格も高くなるというわけ。
とにかく、古書の断面は一冊ずつ特徴が出る。指紋のように、とまではいかないが、古くなると綴じが緩むので、それが見分けられる元になる。ましてや比較する対象は数冊とない代物だ。
写真と見比べた結果、4冊ともマンションの図書室にあったものと同一であることがわかった。
「とするとこれは、図書室の中でも特に価値が高い本だったのですね?」
「そうです。例の、2階の床下から発見された本のうちの4冊です。盗まれないように、ご主人が隠しておられたのですよ」
雪美の疑問に天川が答えてくれたが、雪美には今一つピンと来なかった。
「もちろん、発覚しないための工夫があるのですよ。彼女はそれに慣れているのです」
探偵が得意気な笑顔で言った。事の真相を自分の口から話したくてうずうずしているという感じだ。
「まあ、難波まで行っていろいろ調べてくれたんはエリちゃんやし、あんたから話してもらおか」
「アマさま、ありがとうございます。では篠山遊子様の経歴からお話ししましょう。といっても、実はよくわかっていないのです。ただ彼女は、
「ちょっと待って、エリちゃん。前の店主と結婚? 前の店主はご老人やろ。彼女はその息子と結婚したはずで、息子が店主をやってた頃があったんかいな」
「いいえ、彼女はご老人のご長男と結婚したのではありません。ご老人と結婚したのですよ。ただそれではセケンテーがよくないので、ご長男の奥様ということにしてあるのです」
「はあっ!? まさかそんな……」
天川が驚いて大声を張り上げたが、驚いたのは雪美も同じだった。
「残念ながら戸籍までは調べていませんが、難波のたくさんの古書店主が同じことを言っていたので、間違いないはずです。証言を得るために合計2万円以上も本を買わなければなりませんでしたが」
「目的は……まさか店の本を手に入れるため?」
「はい。一二三夜古書堂は特に価値の高い古書をたくさん扱っているそうで、それが狙いだったのでしょう。彼女は5年前にアルバイトとしてお店の手伝いを始めました。ちょうど店主の前の奥様が亡くなった頃です。最初は主に留守番でしたが、そのうち老人と相談してインターネットで通販を始め、売り上げを大きく伸ばしたそうです。結婚したのは2年ほど前ですが、去年店主を替わるまでの1年間で、それまでの何十年分にも相当するほどの儲けを出したようです」
「ふーむ、それで老人の信用を得ていよいよ店主に」
「そういうことでしょう。さらに彼女は昔の仕事を活かして“セドリ”を始めました。他の店で安く売っている貴重な本を買ってきて、高い値段を付けて売るのです。しかもときどき、買うのではなく盗んでくることもあったようだと」
「にわかには信じられん話やな。あの気弱そうな顔で」
「老人もそれで騙されたのですよ。彼だけではなく、他にもたくさんの古書店主が騙されたようなのですね。しかしあの美貌にあの身体ですから、しかたないことです」
「男はいくつになっても女の色香には弱いからなあ」
「おおいにドージョーしますですよ。彼女は元々、東京や神奈川で本の売り買いをしていたようですが、その辺りのほとんどの古書店主に正体を知られてしまったので、大阪へ来たようなのですね」
「エリちゃんは向こうにも知り合いの刑事がおるから、調べてもらったんやな」
「はい。今回は2、3日しかありませんでしたので、調べは不十分ですが、よくないことをする女性だということがわかればいいのです。さて、ここからは私の想像ですが、彼女は以前、マンションのあの図書室へ入って、こっそり本を盗んだのではないでしょうか」
「今回と同じような手口で」
「はい。しかも工夫があるとさっき申し上げました。それがこれです」
エリーゼはいつも持っているボディーバッグから本を取り出してきた。天川も雪美もまた驚いたが、それは盗難品とそっくりだった!
それらは図書室から持ち出してきたらしい。なぜ同じような本が……
「……つまり、こっちは一段価値が低いというか……」
遊子の言っていたことから雪美が想像して呟くと、探偵は「ヤー、エクサクト!」と嬉しそうに言った。
「持って来た本とすり替えてしまうのですよ。なぜ同じ本があるかわかっているかというと、彼女が売ったからだと思うのです」
「つまりこういうことか。価値の高い本と低い本と、2冊持っている。高い本を高い値段で売る。後でその人の家に行って、隙を見て低い本とすり替えてしまう……」
「そしてどこかからまた価値の低い本を仕入れて、同じことをするのです」
「何ともあくどい商売やな! 亡くなった坂森社長はそれに気付いたけど、証拠がないから彼女を表立って告発することはせんかった。いや、彼女がそういうことをしたと思ってなかったかもしれん……」
「誰がしたことにせよ、対策は必要です。それであの“2階の床下”です」
そう言って探偵は板東を見た。雪美も彼女に目を遣る。金曜日、彼女が“本物の図面”を入手したことを報せてくれた。本物には“2階の床”はなく、“1階の高いところ”の本を取るには梯子を使うようになっていたらしい。
それでは不便だというので、“2階の床”が作られた。マンション竣工時の完了検査のあと、急造で。図面は巧妙に入れ替えられた。
それだけではなく、約1年前にも図面は入れ替えられた。“2階の床下”に“隠し収納庫”を追加されたものと。
雪美が手配した工務店の技士により、土曜日のうちに“隠し収納庫”が開けられ、中から数十冊の稀覯本と、査定したリスト、そして寄贈予定先が書かれた“別紙”が見つかったのだった。
そして今日。雪美は知らなかったのだが、天川と探偵の相談により、見つかった稀覯本の中から『月に吠える』を含む何冊かが、図書室の中に並べられた。しかし天川は「実物を見せて欲しいと言われたときのため」と思っていたのに、探偵は「古書店主が盗もうとするかもしれないので、その囮として」という考えだったのだ!
探偵から今さらのように得々と説明されて、雪美は驚くやら呆れるやら。それというのも稀覯本に「およそ高級車1台分」というような高価なものがあると知らなかったせいだ。高くてもせいぜい数十万円かと。
一緒に話を聞いていた天川が、腕を組んで感心したように言った。
「社長が亡くなったら、奥さんが古書の見積もりを古書店に依頼するやろう。中には、査定ときにこっそり本をすり替えてしまうような輩がおるかもしれん。それで稀覯本だけあそこへ隠しとったというわけやな。灰田はそれを知っとったけど、秘密にしとるうちに彼まで事故で亡くなってしもうて……」
「アマさま、本当に事故だったのでしょうか。それに坂森社長も事故だったのでしょうか」
「エリちゃん、そらどういう意味や?」
「暗号です。わざわざ“殺人事件”という題の詩を選んだことです。もし事故に見えても、殺人かもしれないと疑ってほしい、という意味かもしれないではありませんか」
「あっ!」
天川はまた驚き、探偵を凝視した後で、板東を見た。雪美も彼女を見た。おそらく探偵も見たのだろう。3人の注目を再び浴びて、板東は口ごもりながら言った。
「えーと、私、生活安全課で、事故か殺人かは刑事課に言っていただかないと……」
「わかっておりますとも、ふみ様。しかも事故現場は難波の会社の近くだったはず。駅の南なら浪速署の管轄ですか。アン様を通じて再捜査を依頼することはできますでしょうか?」
「森下チョウに訊いてみます」
「私を呼んだか、バン」
「ほわっ! 森下チョウ!」
音もなく唐突に会議室に現れた森下刑事に、板東は驚いて飛び上がりそうになっている。横から探偵が笑みを浮かべながら「アン様、取り調べは終わりましたですか」と尋ねた。
「ああ、準現行犯の件はとっくに終わった。ただ余罪の追及は難しいな。古書は自分の持ち物であるという印を付けると価値が下がる。その値段すら、あってないようなものだ。それに盗まれようが値段をごまかされようが、届けがないことには話にならん」
「それに彼女は疑われないような資質を持っておられますから」
「全くだ。色白で長い髪で巨乳で本が好きそうなおとなしい女というだけで、どうして男は皆、騙されるのか」
「森下君、私を見て言わんといてくれるかな。騙されたんは私やないで」
「これは失礼しました、天川先生。そんなつもりではなかったのですが、ただこの場にいる男性はあなただけなので、自然に目が」
「まあ私も絶対騙されへんという自信はないんやけど。しかし何やな、エリちゃん」
天川は居心地が悪くなったのか、探偵の方へ話しかけた。
「何でございますか」
「最初は暗号を解いてもらうだけと思っとったのに、思わぬ大事件が隠されとったんやなあ」
「事件というのはそういうものですよ。『犯罪の陰に女あり』です。これはフランス語の"
言いながら探偵は立ち上がり、帽子の角度を気にしている。
「日本語は知っとるけど、フランス語は知らんな。もう帰るんか?」
「本をたくさん買ってきたので、読もうと思うのですよ」
「マンガとちゃうんかいな」
「ホップラ! ふみ様、アマさまに密告したのですか?」
「密告って……見たまま言っただけで」
「フーム、しかし名作ですから、別に恥ずかしいこともないのですがね。よろしいです、何を買ったか、皆様に告白することにしましょう」
帽子を格好よくかぶり終え、みんなの視線を浴びていることを確認してから、探偵は言った。
「テヅカ・オサムの『ブラック・ジャック』全25巻です。後の版では削除されたり、描き換えられたりした話が、連載当時のまま載っている貴重品なのですよ」
(第15話 終わり)
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