第6章 古書の評価 (後編)

 図書室から遊子が出てきたのは、入ってからちょうど1時間経った頃だった。入る前ときと同様に頬を上気させ、「素晴らしい蔵書なので夢中になってしまって」と興奮気味に言いながら、ソファーに座った。ロングスカートがふわりと翻る。

「そちらのお二方は……」

 応接間に人が増えていたことに、座ってから初めて気が付いたかのように、遊子が言った。天川は遺産の管理を依頼している弁護士、骨董店主は「本のコレクター」と雪美は紹介した。もちろん打ち合わせどおり。

「それで評価の方は……」

「高評価のものを改めて拝見しましたが、特に変更はありません。どうぞそのままお納めください」

「例えば萩原朔太郎の『月に吠える』ですが」

 骨董店主が言って、咳払いをする。もちろん打ち合わせどおり。

「はい、とても高価なお品ですね」と遊子が笑顔で応じる。

「初版でしたらもう少し高いのが相場ではないですかなあ」

「初版……無削除版のことでしょうか?」

「ええ、それです」

「それは滅多にありませんから、そこには削除版の評価額としています。先ほど書架で拝見したところ、削除版でした」

「ほう、そうでしたか」

 1917年2月15日に刊行された『月に吠える』初版には55編の詩が収録されていた。500部刷られ、うち約200部が寄贈、約300部が書店で販売された。

 21日に内務省から通知があり、『愛憐』という題の詩が「風俗壊乱に当たる」とされ、削除しなければ発売禁止ということになった。

 しかたなく『愛憐』とそれに続く『恋を恋する人』を削除し、代わりに断り書きを付けて刊行することになった。

 ただし回収が間に合わず無削除のまま何冊かが流通しており、“初版無削除版”は稀覯本となっているのである。

 その価値ははっきりと定まっているわけではないが(もちろん状態により異同があるため)「およそ高級車1台分」とされている。

「ですが削除版でも所望する方はたくさんいらっしゃるでしょう。私どもの評価額はそこに記したとおりですので、どうぞご検討なさってください」

「実は『月に吠える』もそうですが、あなたが高い評価をしてくださった本は、ほとんど寄贈することになっておりまして」

 今度は天川が言って、咳払いをする。もちろん打ち合わせどおり。

「まあ、そうでしたか。もちろんそれも結構なことでしょう。寄贈される方が羨ましいくらいですわ。個人ですか、それとも図書館ですかしら?」

「今はお教えすることはできませんが、そのうち発表することがあるかもしれません」

「承知しました。どなたにしても、細心の注意を持って保管していただければ。古書は末永く未来に残すべき遺産と思いますので」

 遊子は笑顔で言ったが、それはいかにも儚げで、彼女の命は古書よりも圧倒的に短いだろうと思わせるような雰囲気があった。

 そのあとも、いくつかの稀覯本の価値についてやりとりしたが、遊子は評価額を変えなかった。いずれも“ごく少数のもの”ではなく“それより少し多いもの”ということだった。

「どうもありがとうございました」

「いいえ、お宅にいる間のほとんどの時間を図書室で過ごしてしまい、大変失礼しました。それではこれで……」

 遊子は悠揚と立ち上がると、下腹の前で両手を重ね、深く丁寧にお辞儀をした。雪美と男二人も立ち上がって礼を返す。雪美は「お忘れ物はございませんか」と言いながら玄関まで遊子を送っていった。

「ええ、私が持って来たのはあの冊子とこのバッグだけですもの。それでは失礼いたします」

 玄関で靴を履いてから遊子はまた深く頭を下げた。雪美はドアの外まで見送る。ドアを開けたまま、遊子がエレベーターに乗るまで見届けるつもりだった。なぜだか知らないが、探偵からそうして欲しいと言われたから。

 エレベーターが到着し、ドアが開いて、こちらを向いた遊子が軽く会釈してから乗ろうとしたとき、エレベーターの中から唐突に女性が現れた。遊子は慌てて避けようとしているが、女性は開いたドアの前に立ちはだかった。

 綺麗な黒いストレートヘアをポニーテールにまとめ、前髪を目の上で真っ直ぐに切り揃えている。赤いアンダーリムの眼鏡をかけ、鼻が高く、唇の結び方にある種の冷たさを感じさせるものの、美人であることは間違いない。

 濃紺のパンツスーツを着こなし、白い開襟シャツが胸元から覗く。一分の隙もなく、全身で有能さを醸し出している。同じ美人でも儚げな遊子とは正反対に、活気にあふれていた。その姿を見て雪美は、天川事務所の弁護士が来たのかと思ったくらいだった。

「難波・一二三夜ひふみや古書堂店主、篠山遊子さんだな?」

 女性が、遊子を見据えながら威厳に満ちた声で言った。女性にしては少し低めだが、アルトのオペラ歌手が務まりそうなよく通る美声だ。

「……はい、そうですが」

 遊子は気圧けおされたのか、答えるのが一瞬遅れた。二人が、向日葵と月見草のような好対照を為している。向日葵がスーツの内ポケットからパスケースのようなものを取り出して、月見草に見せた。

「大阪臨海署刑事課、森村杏巡査部長だ。少し話を聞きたい」

「森村チョウ、もう少し前に出てください。私が降りられません!」

 森村と名乗った女性の後ろから、少し高い声が聞こえてきた。どうやらもう一人エレベーターに乗っていたようだ。先ほどからずっとドアが開いたままなのは、降りようとしていたからだろう。

「ん? ああ、すまんな」

「えーと、同じく臨海署生活安全課、板東ふみ巡査です」

 後ろから出て来た細身の女性が、同じくパスケース、いや身分証を見せている。そちらも同じように髪が長くポニーテールにしていて、森村を一回り小さくしたような感じ。ただし眼鏡はかけておらず、年少に見える。森村が三十代前半、板東が二十代後半か。

 何が起こっているのか雪美にはわからなかったが、気になったので、玄関を出てエレベーターの前まで行ってみた。ことによると、自分の何か釈明をした方がよいのだろうか、と思いながら。何しろ遊子はさっきまで客として来ていたのだ。

「どういうことでしょうか?」

 遊子は意外に落ち着いた表情で言った。気弱そうに見えたのに、突然現れた刑事に驚いている様子はない。

「簡単な話だ。所持品検査と身体検査をさせてもらいたい」

「お断りすることはできませんか」

「では理由を示そうか。バン、電話」

「もうつながってます。もしもし?」

 板東が手の上に置いたスマートフォンに呼びかけている。『グーテンターク、ふみ様ですね?』と声がした。探偵だ。

「えーっと、さん、通報内容をもう一度繰り返してくれますか」

『私は今、坂森マンション30階の坂森雪美様のお宅にいるのですが、図書室に入ったら貴重な本がなくなっていることを発見したのです。そのうち1冊はハギワラ・サクタローの「月に吠える」です』

「はい、盗難ですね。私たちもちょうど30階に来たところです。それで犯人の特徴は」

『私の前に図書室に入った人だと思います。篠山遊子様とおっしゃる、難波・一二三夜ひふみや古書堂の店主です。女性です』

「はい、私たちの前にいらっしゃいます」

「というわけだ、篠山さん。準現行犯として逮捕することもできるのだが、その前に念のため所持品検査と身体検査をさせてもらいたい。まずバッグをこちらへ渡してもらおうか。バン、身体検査は任せた」

 一連の会話を聞いていて、雪美は息が止まりそうなほど驚いた。本が盗まれていた!

 しかし、遊子は手ぶらで図書室に入り、手ぶらで出てきたはず。どうやって盗み出したのか。

 それに雪美が上の階へ行って天川たちと会っていることは、知らなかったはず。その間、ほんの数分。図書室から抜け出してきて本をバッグに……というのではリスクが大きすぎる。

 しかも肩掛けバッグは小さくて、本を数冊も入れればパンパンになりそう。来たときと帰るときで、大きさが変わった様子もないのに……

 バッグを受け取った森村は、口を開けて中を覗いただけで、引っかき回そうともしない。そこにはないと最初から思っていたのだろう。

 一方、板東は「腕を大きく広げて、足を少し開いて」と遊子に指示し、服の上から身体を触っている。手は下におりていき、スカートの上からふくらはぎの辺りを触ったときに「あー、これ何ですか」。明らかに、細い足ではない、四角い“何か”の形が見えた。

「スカートを少し持ち上げてもらおうか。膝まででいい」

 森村が言うと、遊子は皮肉っぽい笑みを浮かべながら(横から見ていて彼女らしくないと雪美は思ったくらいだった)スカートの膝の辺りを摘まんで、持ち上げた。ふくらはぎが見え、紺のロングソックスの後ろが大きく膨らんでいた。板東はソックスを少しずらして、中の物を取り出した。

「えーと、本が2冊。あ、反対側もか。こっちも2冊。古書ですね。1冊は確かに萩原朔太郎の『月に吠える』です」

「それは私の店の商品ですわ。坂森さんに買っていただこうと思って持ってきたんです」

 遊子はスカートを下げ、雪美を見て元のような儚げな笑みを浮かべて言った。

「商品にしてはおかしなところに入れているものだな」

 森村が冷徹に言い返す。

「バッグに入れておいて奪われたら困りますから」

「肩掛けバッグなのにか?」

「紐を切られたことがありますの」

「店の商品であるという証拠は」

「ご覧のとおり、透明なセロファン紙で包んで、書店の値札を付けています」

「バン、確認しろ」

「あ、はい。あ、値札付いてますね。確かに一二三夜古書堂のです」

「というわけだが、エリ、盗まれたことを示す証拠はあるか」

 森村がスマートフォンに向かって言った。いつの間にか彼女の手に渡っている。

『遊子様がいらっしゃる前に私が読んでいたのですが、32ページと33ページの間に私の髪の毛が挟まっているのではないかと思うのですよ』

「バン、包みを開けて確認しろ」

「はい、ちょっと待ってください」

 板東がセロファンに貼られたテープを剥がし、包みを開けて中を取り出す。

「33ページ……うわ、『殺人事件』ってすごいタイトルですね。はい、本のページの合わせ目に茶色の短い髪が1本。えーっと、毛根鞘もうこんしょうはないけど、科捜研でミトコンドリアDNAくらいは照合できるはずですよね?」

「そのとおり。篠山さん、セロファンで包まれた本の中に、あなたの店へ行ったこともない外国人の髪の毛が挟まってる、というのはいかにもおかしなことだ。盗んだ後で包んだのは明白だな。これを証拠として、署までご同行願おうか。言ったとおり準現行犯なので、手錠をかけることもできるが?」

「肌が弱いので遠慮したいですわ」

「坂森雪美さん」

「あ、はい!?」

 森村から突然名前を呼ばれて、雪美は声が裏返りそうになった。

「本は被害品としていったん預かるので、後で署まで取りに来てもらいたい。稀覯本と聞いてるので、取り扱いには十分に気を付けるつもりだ」

「はあ……」

 3人の女性は、エレベーターに乗って行ってしまった。ふと振り返ると、玄関のドアが開いて、天川と骨董店主が覗いていた。二人とも狐につままれたような顔をしているが、たぶん雪美自身も同じだったろう。

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