第6章 古書の評価 (前編)
その週末、日曜日の午後、古書店の店主が雪美のマンションの部屋を訪ねてきた。中年女性のはずだが、若く見える。そのことは探偵から聞いていたが、「知らないふりをしてください」と言われており、雪美は少し驚いて見せなければならなかった。うまく演技ができたか定かではない。
実際、目録作りを依頼したときには老人が来て、ノートパソコンを持って帰ったのだ。聞けば、そのときには既に店主が替わっており(1年ほど前のことだそうだ)、相談して女性が店番、老人が手伝いとして……という役割にしたと。
「以前、一度だけこちらへ伺ったことがあるんです。代替わりの後、しばらくしてからご挨拶に。充実した蔵書で、とても興奮したのを憶えていますわ」
その女性、
肌が透き通るように白い。年齢が年齢だけに、日射しに気を付けているとしても極端な白さで、書店にこもって滅多に外を出歩かないのかと思わせる。
細い黒縁の眼鏡をかけ、鼻筋がすっと通り、形のよい唇に軽い笑みが浮かんでいる。巷間に流布する“文学少女”そのもののイメージ。いや、中年女性を少女にたとえるのはおかしいのだが、あの老人の息子の嫁としては年が合わないのではないかと思われるほど若々しかった。ただ、活力のある感じではなく、頼りなげで儚げな印象が強い。
その容姿に見合う、白いシンプルなデザインの長袖ブラウスに、踝まである紺のロングスカートという落ち着いた服装で、緩く編んだ長い髪を腰の上まで垂らしていた。ブラウスの胸が大きく盛り上がっていて、あの外国人探偵と張り合えるのではと思うほど。胸以外が華奢な造りなので、なおさら目立つ。
挨拶の後に差し出した名刺には、なぜか“
「“遊び”というのは、本の見返しと扉の間にある白紙のことです。本名の遊子の“遊”も、その意味で両親が付けてくれたのです。本の一部になるくらい、本好きになってほしいという願いだったそうで、その思惑どおり本の仕事に携わることができて、嬉しい限りですわ。特に古書が好きで」
「はあ」
両親は本の関係の仕事ではないらしい。そうすると、古書店の店主あるいはその息子と結婚することが、彼女の望みだったのだろうか。
そのあと、遊子は雑談を始めた。普段の仕事やよく読む本という自分のことから、雪美の夫・宗二が
おとなしそうな印象だったが、本の話をする時には饒舌になるタイプだろうか。
小一時間も話したあとで、遊子は「申し訳ありません、つい長々とおしゃべりを」と弁解してから、ノートパソコンを返してきた。
それと目録。紙で数枚かと思いきや、数十ページを簡易製本して薄い冊子になっていた。まさか全部を査定したのだろうか、と雪美は訝った。特に価値の高いものだけと思っていたが……
「
「はあ、そうですか」
やはり全部ということらしい。
「図書館というよりは、もはやコレクションと言うべきでしょう。もし処分なさるのでしたら私の方で買い取らせていただきたいものがたくさんございました。それらは印を付けてあります。ですが、本の状態を見てからでないと正しい査定ができないものが何点か、いえ何十点かございまいたので、よろしければこれからお見せいただけないかと……」
「はあ、では今ここに書かれている値段は……」
雪美は目録の最初の何ページかをパラパラと見てみたが、数十万円から数百万円の査定が付いているものがいくつもある。全部合わせれば、このマンションの標準的な住戸が一戸買えるのではないか。
「それは全て、状態が“良い”という場合の評価ですわ」
古書の状態定義は日本全国で通用する用語がある。“ほぼ新同品”“非常に良い”“良い”“可”“読めればよい”の5段階。
新同品とは「新品同様」のことで、明らかに未開封のものでも古書としてはこれに当たる。
それ以外は本の劣化具合、つまり、焼け、色
「見て」ということなので、見る人によって評価が若干変わることもあるが、値段にして数パーセントにしかならないことがほとんど。有名なものなら評価額が定まっていることもあるらしい。
「つまり状態が悪ければここに書かれた評価が落ちることもあると……」
「ええ、ですが以前あの書架へ入れていただいたとき、どの本も良い状態だったのを憶えています。おそらく購入時点で“良い”以上の品しかお買いにならなかったのでしょう。私どもの店でお買い上げになったときもそうでしたから。それに保存環境も万全でしたし、劣化については心配しておりませんの。むしろ評価が上がるのではないかと期待していますわ」
遊子は黒目勝ちな瞳を輝かせながら言う。まるで査定してもらう側のようだ。あるいはこれからする評価で、状態の良い本に巡り会えることを期待しているのか。
「そういうことでしたら、どうぞ……その間に、古書に詳しい別の方にこの査定を見ていただこうと思いますが、よろしいですか?」
「あら、ええ、もちろん。相見積もりをお取りになりたくなるのは当然のことでしょう。どなたですか? 古書店の方ではなく、コレクターでらっしゃるんですか。ええ、もちろんそういう方も価値がおわかりになるでしょう。それでは失礼して……」
言う前から遊子は腰を浮かせ、早く書架を見たくてたまらない、という感じだった。
「バッグはどうぞそこへ置いたままに」
「ああ、そうですね」
遊子が持って来たのは小さな肩掛けバッグと冊子だけ。冊子は本屋の店名が入った黒いレジ袋に入れてきて、袋は冊子を取り出した後で小さくたたんでバッグに入れていた。
そのバッグを遊子が肩から外すしてソファーに置くと、雪美は先に立って案内した。
廊下へ出て、図書室のドアを開け、「どうぞ」と促す。遊子は「失礼いたします」とまるで立派な寺院か聖堂の中に入るときのように頭を下げた。白磁のようだった頬に赤みが差し、明らかに興奮の色が見て取れる。
図書室のドアを閉め、雪美は階段を上がった。遊子には黙っていたが、上の客間の一つに天川弁護士と探偵、それに咲洲で唯一の骨董屋の店主が来ている。
店主はふくよかで髭を生やした中年男性。骨董屋には時々古書が持ち込まれるので、彼も査定のポイントを知っていることから、探偵の勧めで来てもらったのだった。
ただし、既に査定済みの別のリストがあり、それと比較する際の第三者的な立場としてなので、気楽な顔をしている。
「これをいただきました」
雪美が冊子を天川に渡すと、天川は分厚さに「これはえらい
早速それを骨董屋の店主に見てもらう。「同じ並べ方なので見やすいですなあ」と店主。もちろん既存の査定リストも、ノートパソコンの蔵書データから作られたからに違いない。しかし高評価のものまで、並びは完全に一致している、と店主は言った。
「ただ何点か、評価が大きく違うものがありますな」
「ほう、どっちが高いんですか」と天川が訊く。
「既存のリストの方です。一桁違うのもあります。それに比べると一二三夜古書堂さんのほうは評価が辛いんですかなあ」
「状態によっては評価が上がるとおっしゃっていましたが……」
雪美の言葉に、3人が同時に視線を向けてきた。ちょっとたじろぐ。しかし5段階評価を説明し、“良い”が“非常に良い”になると査定が上がる、と説明する。
「一桁も変わるもんですかな?」
「変わりますよ、それは。骨董でも美品と良品ではだいぶ違いますし……」
「変わらないと思いますね」
天川と店主のやりとりに探偵が割り込み、今度は視線が探偵に集まる。探偵は帽子を手でもてあそびながら、自信ありげな笑みを浮かべている。
「“非常に良い”に見えても、それは“良い”や、と主張するということ?」と天川。
「それやったら他で売ります、ということになってしまうだけですなあ」と店主。
「いや、売らんことにはなってるんですけどな。図書館へ寄贈するという遺言で」
「そうでしたか。それやったら値段はどうでもよろしいんやないですか」
「問題はそこではないと思いますね。ところで雪美様、美人古書店主様は見るのにどれくらいかかるとおっしゃっていましたか」
探偵が言うと、視線が雪美の方へ戻ってきた。ただし、探偵と天川だけ。骨董店主は再びリストの比較に戻っている。
「時間は聞いてませんが……」
「何冊くらい見るつもりなのでしょうね。コットーのおじ様、1万円以上する本はどれくらいありますか?」
「100冊以上やな」
「ホップラ! さすがにそれを全部見るはずはありませんね。では10万円以上は」
「うーん、40冊くらいか。ずば抜けて高いのが10冊。これだけで1千万円超えとる」
「そういえば何十点かとおっしゃっていたと思いますわ」
さっきの遊子の言葉を思い出しながら、雪美は言った。
「では1時間くらい待ちましょうか。私の友人が待ちくたびれなければいいですがねえ」
「誰かと待ち合わせしてるんかいな」
「アハン、独り言です。気にしないでください」
「ほんまかいな。エリちゃんはときどき隠し事をするからなあ。まあたいがい悪い結果にはならへんのやけど」
天川の軽口に、探偵は意味ありげな笑みを浮かべただけで、何も答えなかった。
ひとまず雪美は応接間に戻って遊子を待つことにするが、後の対応を相談して、天川と骨董店主も一緒に行くことになった。探偵だけが、そのまま客間で待機する。
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