第3章 萩づくし (前編)

 大阪臨海警察署というのは、概ね平穏なところである。地域課、交通課、警備課、刑事課、生活安全課。いずれも大阪市下の所轄署で、事件の取扱件数が最も少ない。

 もちろん、それは2025年の大阪万博開催前まで、と言われている。その年の4月から、会場である夢洲ゆめしまが管轄に加わるから。万博の施設だけではなく、ホテルや駅、商業施設もオープンするし、会期後には「大阪市スーパーシティ構想」に基づき、街作りが始まる。人口も増えるに違いない。

 ただし現在の管轄である咲洲さきしまでも空き地が目立つ状態であり、それより沖の夢洲に、それほど住宅需要があるだろうか、という疑念もある。教育機関や研究機関が主になるかもしれない。

 しかしその先の将来には、カジノがオープンする計画がある! そのときにはギャンブルに興じる人だけでなく、やりとりされるお金を狙う犯罪者が続々と集まってくるかもしれない。ある意味で、心配な将来像と言える。

 それでも現在のところは、平穏無事。その日、生活安全課の板東ふみ巡査、自称「臨海署のヒロイン」は、いつものように資料作りに勤しんでいた。

 生活安全課が作る資料はいろいろあって、防犯教室やDV防止啓発、サイバー犯罪関連や少年犯罪関連など。臨海署管内での事件は少ないのだが、他のところで発生した事例を反映させる必要があるのだった。

「よう、バン。元気にしてるか」

 不意に後ろから声をかけられた。振り返らなくても、ふみは声で誰かわかっていた。「臨海署の女帝」こと森村杏巡査部長。

 もちろん、署内のはそんな称号で呼ばない。男性の一部、特に彼女を苦手とする中高年の刑事が陰で使っているのだ。

 実際のところ、女帝というほどの権力はないし、偉ぶっているわけでもない。捜査能力(あるいは推理力)で彼女に負けた人が、悔しがっているだけ。

 ただし、言葉遣いは粗野で、署内どころか一般人に対しても同じなので、それを耳にした市民がクレームを入れてくることも、まれにある。

 しかし総じて人気は高い。基本的に世話好きなのだ。現に今日も……

「はい、森下チョウ、お疲れです! 元気にしてます」

 ふみは椅子をくるりと回転させ、杏の方に身体を向けると、立ち上がって笑顔で敬礼した。そしてさりげなく、彼女の手の辺りを見る。予想どおり、お土産の紙袋を携えていた。

 白地に、和服を着た女の人、ピンクの花、そして黄色い月が描かれている。

 仙台銘菓・萩の月!

「ずいぶん人が少ないな。出払ってるのか」

 言いながら杏が辺りを見回す。

「そうですね。特に事件があるとは思わないんですけど、どういうわけか人が少なくて」

 ふみも周りを見る。さっきまで気付いていなかったが、杏の言うとおり、人が少ないようだ。半分くらい、机が空いている。

 他の課が忙しいときなど、応援に行くことはしばしばあるのだが、そういう召集がかかったわけでもないはず。単に、偶然と思われる。

「仙台に行ってこられたんですか?」

「そうだ。2011年の震災の復興支援だ」

「ボランティアで何かしたんですか」

「いや、単にあちこちで金を使ってきた。泊まったり、飲み食いしたり、買い物したり」

「そーいうのも支援なんですかね」

「当然だろう。月給に等しい金額を3日で落としてきたんだ」

「3日で(ウン十万円)! それはなかなか豪勢な旅行ですね。え、一人で行ったんですか?」

「当然だろう。連れがいると気を使うからよくない。まあ夜に飲むときは相手が欲しくなるんだが」

「そうでしたか」

 しかし、ふみは生活安全課のある男性刑事(杏と同い年)が昨日まで3日間、休暇を取ったのを知っている。そして彼は「山形へ遊びに行った」と言って、朝にお土産を配っていたはずである。柚餅子ゆべし

 さらに、ふみの記憶が確かならば、仙台市と山形市は隣接しており、車でも鉄道でも1時間ちょっとという距離のはず。もちろん、京都~大津(10㎞)や、大阪~神戸(30㎞)よりは遠いけれども。

 ただし、杏とその男性刑事は恋人どうしではない。どちらに訊いても否認する。男性刑事の方は完全否認だが、杏の方は偽証という説が主流である。

 要するに、杏の方が男性刑事に(一方的に)好意を抱いているのだが、男性刑事は乗り気でない、ということだ。

 これで杏が不美人で男性刑事がイケメン、というのなら納得できるのだが、実際はその真逆。つまり、杏は臨海署どころか大阪府内の女性刑事で並ぶ者がないほどの美人(ただし30歳以上限定)で、男性刑事の方は猿に似たブサメンなのである。

 故にこの二人の関係(というか杏の男性嗜好)は「臨海署の七不思議」の一つと言われている。もっとも、他に不思議なことは一つもない。

 そんなことはさておき。

「お土産ありがとうございます! ちょうど3時ですし、一緒におやつの時間にしましょうよ」

「うむ、そのつもりで来たんだがな」

 言いながら、杏はまた周りの机をちらちら見ている。お目当ての男性刑事がいないのだろう。その横の、彼の愛弟子とも言うべき女性刑事はいるのだが。

「ちょうど不二恵ちゃんもいますし」

「うむ、そうだな」

 おやつとなったら彼女に声をかけないわけにはいかない。ふみは杏と共に田名瀬不二恵の席へ行った。

 もちろん彼女のことだから、耳ざとく杏の声を聞きつけ、お土産という言葉まで聞こえているに違いない。その上で、知らんふりして待つところが演技派である。

「よう、田名瀬。元気にしてるか」

「うわ、杏ちゃん来てくれた。お土産や! やったあ、みんなで食べよ」

 不二恵は巡査であり、杏は巡査部長。本来なら不二恵は敬語を使わないといけないのだが、ほとんど友達のノリで話しかけている。しかしそれが許されるのが不二恵の人柄であろう。

「フジコちゃん、今日のおやつは?」

 ふみが訊く。ついでにいつものネタも仕込んで。

「フジコやないです。不二恵です。今日はおはぎと月見団子のセット」

 不二恵は机に置いていたプラパックを見せてきた。おはぎは粒餡と黄粉きなこが一つずつ、そして月見団子は……

「え、これ月見団子?」

「そやで。てっても、私もこれが月見団子とは思ってへんかったんやけど」

 その団子は丸くもなく、串に刺さってもおらず、小振りの寿司飯のような俵型で、上にこしあんがこんもりと載せられているのだった。それが六つも入っている。

 おはぎ2個と合わせて、おやつには多すぎるのでは、というのはさておき。

「それは大阪独特の月見団子だな」

「え、そうなんです? さすが杏ちゃん、博識やわ」

「衣かつぎという料理を知っているか。里芋の小芋を皮のまま蒸して、塩をかけるか味噌を塗って食べるのだが、その味噌塗りの方を模したものだ」

「へー。衣かつぎていうんも知りませんわ」

 話をしている間に、杏は不二恵の隣のデスクの椅子に座った。もちろん男性刑事の席である。

 ふみは近くの空き席の椅子を持ってきて座った。

「杏ちゃんのは『萩の月』ですか。これ、美味しいけどめっちゃ高いんですよねえ。ごちそうさまです」

 言いながら不二恵は紙袋の中から箱を取り出し、蓋を開けて中身を1個ずつ、ふみと杏に配ってくれた。そして自分も一つ取り、更に机の上にもう1個載せた。

 一方、杏は箱から2個取り出し、、男性刑事の机の上に置いた。ふみも不二恵も、もちろんそれを見て見ぬふりをする。

「そういえばこれ、チョコ味もありませんでしたっけ」

「うむ、『萩の調しらべ』だな。あれは大震災以後、生産中止になった。一時期、数量限定で販売していたんだが」

「何と! 生産中止やったんですか。それは知らなんだ。ところで、バンちゃんのおやつは」

 不二恵が真顔でふみを見て訊く。「なかったらおはぎも団子も分けたらへんで」という感じ。

 もっとも、おはぎは二つしかないので3人で分けるのは難しそう。せいぜい月見団子を2個くらいか。

「今日はないけど、今度買ってくるから。来月、萩と津和野に行くし」

「萩なら“夏みかん丸漬”、津和野なら“源氏巻”だな」杏が言う。

「源氏巻はカステラでこしあんを巻いた和菓子ですよね。夏みかん丸漬は知らんわ」と不二恵。

「夏みかんは萩の名産品だ。中身をくりぬき、皮を糖蜜で漬けて、中に羊羹を流し込んで冷やす」

「聞いただけで美味しそうやわー。ほんならバンちゃん、それを一人1個」

「課内全員に1個ずつはさすがにお金がかかりすぎと思うから、女子に1個ずつで、課は別のにするわ」

 それからふみは課内のコーヒーサーバーから自分と杏のコーヒーを持って来た(1杯30円)。そしてまず『萩の月』をいただく。

「ところで田名瀬、なぜおはぎなんだ」

 一口で萩の月を食べ、味わう間もなくコーヒーで喉に流し込んだ杏が訊く。

「え? えーと、昨日、エ……え、駅前で偶然見かけて」

「コスモスクエアにも住之江公園にも、駅前に和菓子屋なんかないはずだが」

「ちょっと寄り道したんです」

「なぜ月見団子も一緒に買ってきた? 中秋の名月はもっと先だろう」

「それは……店で見たとき、美味しそうやったから」

「萩と月、か。『一つ家に 遊女も寝たり 萩と月』」

「何でしたっけ、それ」

「あ、知ってます。榎本其角」

 ふみが言うと、杏は不二恵のプラパックに手を伸ばし、月見団子を1個摘まんで口に入れた。

「そうだ。常識だな」

 もぐもぐと噛みながらそんなことを言う。ちょっと行儀が悪い。

「常識とまでは言いませんけど」

「私も聞いたことあるんやけど。テレビドラマか映画か」

「『獄門島』だ」

「あっ、それですわ。石坂浩二のやつ見たことあります」

「ずいぶん古いものを見たんだな。それにあれは、犯人が原作と違っている」

「そうでしたっけ。よう憶えてませんわ」

「私も原作の方が好きですね」

「そうだろう。そもそもあの長いストーリーを2時間にできるわけがない」

「で、杏ちゃんのお土産が『萩の月』ですか。すごい偶然ですね」

「萩土産の“夏みかん丸漬”もあれば面白かったな。あれは黄色くてまん丸だから、月にそっくりだ」

「じゃあ、私が買ってきたときに、もう1回おはぎと月見団子と『萩の月』を持って集まりますか」

「『萩の月』はそんなに保たない。それより田名瀬、なぜおはぎと月見団子なんだ」

「そやから昨日偶然」

「エリだな」

「はい」

 あっさりと不二恵は白状した。昨日、エリーゼの事務所へ遊びに行き、雑談の中で「萩と月」という言葉が出たのだろう。そしておはぎと月見団子を連想し、おやつとして買ってきたのに違いない。それはふみもうすうす感づいていた。

 だが、なぜエリーゼのところで「萩と月」などという言葉が出たのだろうか。もちろんそれは、依頼に関係しているには違いないのだが……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る