第2章 部屋の図面
“鑑識”を名乗る人物は、時間どおりマンションに現れた。
だが雪美は、それが“鑑識”本人であるとは気付かなかった。若く、ラフな服装をしているので、助手か何かだろうと思っていた。
依頼を電話でしたので、受付と話をしただけで、本人を見ていないのだ。
“鑑識”渡利亮は、おそらく20代半ばだろう。短い髪に細い顔。薄い色のサングラスをかけ、その奥の目つきが鋭かった。そして表情に乏しい。
身長は170センチを超えるくらいか。痩せていて、グレーのボタンダウンシャツに、カーキのチノパンという出で立ち。
雪美は渡利を応接間に通した。マンションの最上階とその下の階を合わせたメゾネットで、部屋が十以上もあるが、普段は雪美の他に女性の使用人が一人いるだけ。一人では管理が行き届かないからだが、今日はその使用人は出掛けてもらっている。
「依頼は建築図面と実物の比較とのことでしたが」
ソファーに腰を下ろすなり、渡利は言った。まだお茶も出していない。
「そうです」
「マンション全体ですか」
「いいえ、この住戸だけです。ただ、ここと上の階を合わせて、部屋が十ほどありますが……」
依頼料は広さや間取りに応じて変わると、電話の受付をした女性から雪美は聞いていた。「一戸建て4LDKで千円が目安」であるらしい。であればこのメゾネットなら、2千円か3千円だろう。出張料込みで4千円以下。
名の通った一級建築士に頼むと、もっと取られることがわかっている。少なくとも万単位。実際、何人かに頼んだ。しかし「たぶん図面どおり」という頼りない結果に終わっている。彼は果たしてどうか。
「図面を見せてください」
渡利は世間話もせず――建築士はたいてい「いいお部屋ですね」などとお世辞を言うのだが――仕事を始めようとしている。雪美はソファーの横に置いていた、筒状に丸めた図面を2葉、渡利に差し出した。もちろん、29階と30階の図面だ。
原紙ではなく、コピー。そしてその原図を引いたのは雪美の亡夫である一級建築士・坂森宗二。坂森建設の社長だった。
図面は会社の人に頼んで、コピーしてもらった。このマンションには“欠陥”あるいは“違法箇所”があるという噂があり、後で問題になるかもしれないので、間取りを調べたい、という理由で
渡利は滑らかな手つきで29階の図面を広げると、それを見つめた。描かれているのはこの住戸だけではなく、29階の全て。ここは東南の一角。もちろん、一番いい位置を占めている。
そしてメゾネットになっているのも、この住戸だけ。
ずっと図面を見ていた渡利が、少し顔を上げた。今いる応接間を観察しているようだ。南に面した三つの部屋の内の一つ。図面と比較しているのかもしれない。しかししばらくしてまた図面に目を落とした。
「入ってはいけない部屋はありますか」
下を見たまま渡利が聞いてきた。
「いいえ、ありません。全ての部屋を調べていただきたいのです」
もちろん、他の建築士にもそのように頼んだ。ただ何人かは、夫婦の寝室に入るのを遠慮した。もっとも、入って調べた人でも、図との違いは発見できなかったが。
その他にある部屋は、家族それぞれの私室が4室。即ち、雪美、夫、二人の娘(結婚して家を出た)の部屋。他に、夫の仕事部屋、いくつかの客間、ダイニングキッチン、それと図書室。
「では見てきます」
言いながら渡利は立った。
「ご案内しますわ」
雪美も言いながら立ったのだが、渡利は「必要ありません」と言った。
「図面があるので案内は不要です。まずは29階」
「ということは、上の階へ行く前に、ここへ戻ってこられるのですね?」
「はい」
渡利が見ていた図面は29階だけで、30階は広げてもいなかった。まずは順番に29階を見て回り、次に30階の図面を見て……ということだろうと、雪美は思った。
しかし部屋を出て行こうとする渡利が、29階の図面を置いていったのに気付いたときは、いささか驚いた。
図面と比較するはずなのに、図面を持っていかない?
まさか、図面を全部憶えたというのだろうか。わずか数分で。
そもそも、図面と実物を比較するには“測る”ことが必須だと雪美は考えていた。メジャーを使って部屋の中の長さをあちこち測り、図面に書かれている数字と照らし合わせる。それが“比較する”ことであるはず。
実際、以前に呼んだ建築士は、皆そうしていた。
なのに渡利はメジャーも持たず、部屋の中をざっと見ているだけなのだった。それで本当に比較ができるのだろうか?
だが雪美は黙って見守ることにした。他の建築士と同じことをしていては、同じ結果になるだろう。だからこそ、違うやり方をしそうな“鑑識”を呼んだのだ。無駄に終わったところで、たかが数千円のこと。
10分ほどで、渡利が戻ってきた。そして30階の図面を広げる。まさか、もう29階を全て見終わったのだろうか。建築士は誰も、一部屋に十数分かけていた。あらゆるところの長さを測って、図面と見比べて。
時には壁を叩いたり床を叩いたり。天井を棒で突いたこともある。雪美ですら最初はそうしたのに。
しかし渡利は一フロアを10分。一部屋1分もかかっていないのではないか。見ただけで寸法がわかるのだろうか。まさか……
渡利はしばらく図面を見つめていたが、やおら立ち上がると、やはり図面を置いたまま部屋を出ようとした。
「あの」雪美はつい声をかけてしまった。
「何でしょうか」
渡利は立ち止まり、振り返った。やけに機械的な動きに見えた。表情だけなく、仕草にも人間味が感じられない……
「上の階へ行くのでしょう。私も付いて行って構いませんか?」
「どこかでじっとしていてもらえるのなら」
じっとする。動き回るなということだろうか。雪美が歩くと、図面との比較に何か影響を与える? 意味がわからない。
しかし渡利は雪美の返事を待たず、部屋を出て行った。雪美はそれを追う。住戸内の真ん中あたりにある階段を上がり、30階へ。
そういえば、と雪美は思った。階段のすぐ横は図書室で、それは29階と30階をぶち抜いた構造だ。中には狭い螺旋階段があるし、どちらの階からも入ることができる。渡利はこの中を見たのだろうか? ここが一番怪しいと雪美は思っているのだが。
しかし渡利は図書室を覗こうともせず、廊下伝いに30階の各部屋を見て回った。下の階もそうだが、図書室の周りを巡るように廊下があり、その外側に各部屋が配置されている。
雪美はじっとしているよう言われたのだが、渡利が廊下の角を曲がると、何をしているか見えなくなる。だから角を曲がるまではじっとしていて、曲がってから早足で追い付くようにした。
それでも渡利は何も言わなかった。各部屋のドアを開け、そこから中を覗き、数十秒経ったらドアを閉めて、隣の部屋へ、というのを繰り返すだけ。北西から時計回りに五つの部屋を回るのに、10分もかからなかった。
「今のところ違いはありません」
東南角の廊下の端で、ずっと様子を窺っていた雪美に、渡利は静かに言った。そのまま階下へ降りるのかと思ったら、図書室に入った。
雪美がいるところからではその中が見えないので、渡利の姿が消えた後で、足音を忍ばせて廊下を進み、ドアを開けて図書室の中を覗いた。灯りは点いていたが、渡利はいなかった。中央の螺旋階段で階下へ降りたらしい。雪美も中に入った。
図書室の中は3階層になっている。つまり上下の階の間が、中2階のようになっているのだ。
部屋は四角く、四面の壁(ドアの部分以外)に本棚があり、上の階と中二階には、回廊のような通路が付いている。その中央に穴が空いていて、螺旋階段で上下できるようになっているのだ。通路も階段も、音が響かないように木製。下の階の床だけが、大理石。
雪美が螺旋階段を見下ろすと、中2階のところに渡利が立っていた。しばらく4面の壁を見回していたが、やがてゆっくりと下に降りていった。雪美もそっと後を追う。
渡利は一足先に図書室を出て、応接間に戻っていた。そして2枚の図面を広げて見ている。
「あの……それで、結果は」
ソファーに座ってから、雪美は訊いた。
「違いは全くありません」
「はあ」
「しかしこの図面が正確でないと思います」
「えっ?」
「これは完了検査の後に描き直されているはず。建設会社に依頼して、俊工時の図面をコピーしてもらってください」
「でも……会社は、それが竣工時のものだと」
設計図面の保存期間は、作成日から15年と定められている。このマンションは竣工してからまだ10年。あと2年で大規模修繕工事があるので、“欠陥”あるいは“違法箇所”があれば、それまでに直さなければならない。
ただ、会社に訊いても「欠陥も違法箇所もない。全て適法」という答え。もちろん夫が社長だった会社のことなので、雪美も信用している。マンションの管理会が噂を気にしているので、調べているのだった。
「しかしそれでは容積率オーバーです。だから考えられるのは、図書室の中2階の床は、当初の図面になかった。それなら容積率に収まる」
「つまり後で改造して、そのせいで違法になっているというのですか? そんな、まさか……」
「信用しないのは構いませんが、出張費は払ってもらえますか。千円です」
どうするか雪美は迷ったが、結局“鑑定料”も払うことにした。そちらは2千円で、合計3千円。
自室へお金を取りに行き、応接間に戻ってくると、渡利は手持ちの紙に計算式を書いていた。容積率を出しているのだろうか。
しかし彼に見せた図面は、29階と30階だけだ。マンションの容積率は、全フロアの延べ床面積に対して計算する。ただし共用部分の床面積は、容積率算定用の値からは除外することになっているはず。一部の図面だけで、それが計算できるはずもないのに……
書き終えると渡利はその紙と、領収書を差し出してきた。領収書の但し書きは「建築図面と実物の差異鑑別」。
雪美が代金を払うと、渡利は「失礼します」と一言だけ言い、部屋を出て行こうとする。慌てて雪美は追いかけ、玄関まで行って、渡利を送り出した。
半日はかかると思っていたのに、たった30分ほどで終わってしまった。この後、探偵に来てもらってもよかったのではないか……
雪美はもう一度図書室へ行き、中2階の床を見上げた。螺旋階段や3階の床のデザインとマッチしていて、後付けにはとても見えない。1年ほど前に改修が入ったことは憶えているが、見かけで変わったところはなかったように思う。それに“改造”の可能性を指摘した建築士は、誰もいなかった。
それを確かめるには、いったいどうすればいいのだろうか。
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