第4章 聞き取り (後編)
吹田市の千里ニュータウンの、とある病院、とある昼下がりのこと。
探偵の待つ談話室に、その病院の薬剤師である大江
彼女は昼休みを同僚と交替する際、こう言われたはずである。「エリーゼっていう外国人の探偵が会いたいって」。
外国人でしかも探偵であることに、有香理はある程度の心の準備をして来たに違いないが、探偵の姿には明らかに驚いたようだった。おそらく、予想外だったので。ラベンダー色のブラウスに紺のベスト、同じ色のスラックス。とにかく目立つ格好。談話室の中で、ひときわ「浮いている」と言っていいだろう。実際、他の利用者から注目を浴びている。
探偵はそれには全く気付かないかのように、窓際の席に座り、長い足を組んで本を読みながら待っていた。
とにかく探す手間もなく有香理はエリーゼの横に立ち、「エリーゼさんですか?」と呼びかけた。エリーゼは本を閉じて、椅子から跳ね上がるように立ち、その勢いで右手を胸に当てて、軽く礼をした。
「お休み中のところおそれいります。仰せのとおり私がエリーゼ・ミュラーでございます。職業は探偵です」
外国人として「心の準備」をしていたのに、流暢な日本語を話したので、有香理はさぞかし面食らったに違いない。表情に表れている。とにかく有香理は表情が豊かだった。
探偵は有香理の動揺など全く気にせず、椅子を勧めた。向かい合って座る。エリーゼは外国人がよくやるような、型にはまった笑顔で有香理を見ていた。しかし何も話し出さないので、有香理の方から話しかける。
「探偵さんが私に何のご用ですか?」
言ってから有香理は、テーブルの上に鉢植えが置かれていることに気付いたようだ。薄紫の花が四つ咲いている。エリーゼが着ているブラウスとよく似た色。有香理はそれが桔梗だということを、知っているかどうか。
もちろん談話室に元から置いてあった鉢ではない。だからエリーゼが持ち込んだことには気付いただろう。だがエリーゼは、花には見向きもしないで言った。
「お話をする前に一つ伺いたいのですが、大江様のことを有香理様とお呼びしても構いませんか?」
「下の名前で呼ぶっていうことですか? ええ、構いませんけど、“様”を付けて呼ばれるのはちょっと」
「それは気にしないでくださればよろしいのです。病院ではお客様の名前に“様”を付けて呼ぶのでしょう? それと同じことですよ」
「じゃあ、私も探偵さんのことをエリーゼ様と呼べばいいですか?」
「お好きになさってください。エリちゃんでも構いませんですよ。さて今日伺ったのは、有香理様のお友だちの
「鳥毛君。ああ、この前、大怪我をしたって。でもあれって警察が調べてるんじゃないんですか?」
「警察の捜査に不満のある方がいらっしゃるのですよ。その方の依頼で私が調べているのです」
「そうですか。でもよく私のことがわかりましたね。鳥毛君と別れたのなんて、もう2年くらい前なのに」
「でも鳥毛様から土曜日に電話がかかってきたのでしょう? それで警察からもジジョーチョーシュされたはずです」
「そうですけど、それって警察から聞いたんですか? それとも鳥毛君?」
「誰から聞いたかが、それほど重要でしょうか?」
「気になるじゃないですか」
「依頼者に関する秘密は守らねばならないので、お気になさらないようお願いしますです」
「そうですか。それじゃしかたないですね」
「ご理解いただきありがとうございます。さて鳥毛様のことを聞く前に、有香理様ご自身のことを少し伺いましょう。お仕事を教えてください」
「この病院で薬剤師をやっています」
大学の薬学部を出てからの経歴を、有香理はかいつまんで話した。
「有香理様が鳥毛様とお付き合いを始めたきっかけは?」
「高校の同級生なんですけど、そのときは付き合ってなくて、卒業して何年か後の同窓会で再会して、食事とかに誘われてるうちに、何となく」
時期を思い出してと言われ、「大学を出て仕事を始めた次の年だったから、四年くらい前」と有香理は答えた。
「そうすると彼の方が熱心だったのですね」
「ええ、そう」
「彼のマンションの部屋へ行ったことがありますね?」
「はい、もちろん」
「そこでお泊まりになったことは?」
「あります」
「同棲していたことは?」
「それはありません。泊まったら翌日は家に帰りました」
「部屋の鍵を預かったことはありますか?」
「鍵ですか。ないですね」
「彼の部屋で暴力を受けたことは?」
「それ、警察から聞いたか、それとも鳥毛君か……は教えてもらえないんですよね」
「残念ですが、教えられませんです」
「暴力を受けたこと、あります」
「警察に被害届は?」
「出しませんよ、そんなの。ただの喧嘩なんですから」
「でも一度ではないのでしょう?」
「そうですね。外では優しいんですけど、彼の部屋か私の部屋に行ったら、たいてい喧嘩になりました。でも、最初の頃は違いましたよ。別れる直前だけです」
「それが別れる原因でしたか?」
「もちろん、そうです」
「喧嘩とおっしゃいましたが、彼の暴力に対して、暴力で対抗したことはありますか?」
「ないです。いつも彼の方から一方的です」
「了解です。では次に、土曜日にどこへお出掛けになったか、教えてくださいますか。警察に話されたとおりで結構ですよ」
「梅田です。デパートに行って服を見てたんですけど、結局買わずに、本屋へ行って立ち読みしてました」
「何も買わなかったのですか?」
「はい、何も」
「どこかでお友だちに会いましたか?」
「誰にも会いませんでした」
「誰かに電話をかけましたか?」
「誰にも」
エリーゼは少し考えてから「本屋でどんな本を読みましたか」と聞いてきた。
「園芸書を何冊か」
「おや、では、お花を育てるのがお好きなのですか」
園芸という言葉までエリーゼが知っているのに、有香理はまた驚いたらしい。「演芸」と間違えると思ったのだろうか。
「ええ、好きです。マンションのベランダで、プランターで育ててます」
「どんな花でしょう?」
「ゼラニウムとか、パンジーとか、マリーゴールドとか」
「これは何の花かご存知ですか?」
エリーゼはテーブルの上に置いていた鉢を、有香理の前に動かした。
「知ってます。桔梗ですよね」
「そのとおりでございます。育てたことはありますか?」
「いえ、ないです」
「それほど難しくないので、育ててみてはいかがですか」
「そうですか。じゃあ、また来年にでも」
「さて、お願いがあるのですが、この花をちぎってくださいますか」
「花をちぎる? どうしてです?」
「ちょっとした性格診断です」
もちろん有香理は躊躇した。探偵が、何を考えてるかよくわからないからだろう。
「花を育ててると、ちぎるとか可哀想で、やりたくないんですよ」
「ご安心ください。これは切り花を土に挿してあるだけなのですよ。ちぎっていただくために作ってきたのです」
「そうなんですか。それでもやりたくないけどなー」
有香理は少し考えてから、白衣のポケットからハサミを取り出して、上から2番目の花の、付け根のところに刃を当てた。それから1回大きく息を吸って、止めてながら指に力を込め、切り落とした。花は牡丹のようにポトリと落ちて、テーブルの上に少しばかり花粉をこぼした。
「これじゃいけませんか」
言いながら有香理はエリーゼを見た。エリーゼは最初からの笑顔を全く崩していない。
「ちぎるよりも切り落とす方が可哀想でないということですか?」
「ハサミを持つと、少し非情になれるんです」
「薬剤師の方は皆さんそうなのですか」
「いえ、私だけだと思いますけど」
エリーゼは、少し考える風に間を置いてから、言った。
「申し訳ありませんが、手でちぎってくださいますか」
「やっぱりそうですか。手袋していいですか?」
「どうぞご自由に」
有香理はポケットからプラスチック手袋を取り出して両手にはめると、左手で茎を持ち、右手で上から2番目の花(さっきまで3番目だった)の花びらを持って、引っ張った。
なかなかちぎれないが、少しずつ力を入れていくと、付け根からもげるようにして花が取れた。手袋の人差し指に、少し花粉が付いている。
「この花はどうすればいいですか」
エリーゼに聞くと、白いハンカチを出してきて「この上に置いてください」と言った。有香理が言われたとおりにすると、エリーゼは花をハンカチで包み、ポケットから出してきたポリエチレン袋に入れ、さらにそれを椅子の背に掛けていたボディーバッグの中にしまった。
「これでどんな性格だとわかるんです?」
「有香理様はとてもお優しくて、じゅうぶんに心の準備をしてからでないと、乱暴なことができない、ということです」
「そうなんですかね」
「おや、ご自分では違うと思ってらっしゃるのですか?」
「時と場合に依りますよ」
「それはほとんどの人がそうでしょう。とっさのときには、いつもはしないような非常手段を採ったりするものです」
「そうかもしれませんね。それで、この性格診断は事件と関係があるんですか?」
「もちろんです」
「何がわかるんです?」
「今はお答えできません。他にも調べなければならないことがあります。いずれもう一度来て、お話しすることになるでしょう」
「そのとき病院じゃなくて、私の自宅にしてくれませんか?」
「そうですね。お昼休みはゆっくりなさりたいでしょうから、次はご自宅へ伺うことにしましょう」
しかしエリーゼは住所を聞かなかった。有香理は訝しそうにエリーゼを見ているが、何も言わなかった。そもそもこの病院からして、誰が教えたのだろうと思っているのに違いない。
「貴重な時間を割いていただき、ありがとうございました。それではこれにて失礼いたしますです」
エリーゼは立ち上がって、また胸に右手を当てて挨拶すると、桔梗の鉢を持ってさっさと談話室を出た。
見送っていた有香理が、どのような気持ちになっているかは、察しようもない。
(続く)
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